28.英雄足り得る条件とはU B






  ※    ※    ※


 蹴り飛ばされ、召喚陣の前まで弾き飛ばされた士郎は、腹部を押さえ、喘ぎながら地面を転がった。
「ぅ……っく」
 下腹の辺りを貫いた衝撃は凄まじく、まるで巨大な玄翁を振り下ろされたかのようだった。蹴り飛ばされた瞬間は、内臓が破裂したのではないかと思ったほどだ。
 ――吸血鬼化していなければ、腹に穴が開いていたかもしれないな。
 息を吐き、喘ぎながら考える。
 ――しかしまさか、これだけの力を隠していたとは。
「っ……く。……なるほど」
 これでは力比べをして敵わぬのは当然だ。白騎士は、最初から全力で戦ってなどいなかったのだ。
「士郎……!」
 誰かが呼ぶ声。顔を上げると、少し離れた先に、血の気を失った顔をした凛が居た。
 脇腹を抑え、身体を引き摺るようにして駆け寄ってくる。目がよく見えていないのだろう。すぐ傍まで来てようやく、
「無事みたいね。大丈夫? 凄い音がしたけど」
ほっと顔を綻ばせた。身を屈め、横たわる士郎へと腕を伸ばす。その手を、
「――触れるな!」
士郎の腕が、荒々しく払い退けた。
「え――?」
 凛の顔に驚きの色が奔る。手を払われたからではない。それも一因ではあったが……。
 彼女は見たのだ。顔を上げた士郎の眼窩で輝く朱色の瞳と、口元から覗く鋭利な犬歯を。
「……いや、すまない」
 士郎は気まずそうに顔を背けると、片手で顔を覆った。
「大丈夫だ。一人で立てる」
「え、ええ」
 答える凛の声には力がない。じっと何かを憂うように、士郎の顔を見つめている。士郎はその視線から逃げるように背中を向け、
「……そうだ。遠坂」
思い出したように訪ねた。
「どうして、あのタイミングで白騎士を狙撃した?」
「それは……」
 棘を含んだ声に、凛が僅かに言い淀む。歯切れの悪い返事に、士郎は苛立ったように振り返り、
「解っているのか? もし、この作戦が白騎士に気付かれでもしたら――」
 その目が、胸元で止まる。視線は、凛の腕に抱えられた一丁の銃に注がれていた。
 武具の解析は、士郎が最も得意とする能力の一つ。その正体に気付くまで、三秒とかからなかった。
黒い銃身(ブラック・バレル)だと……!?」
 びくり、と凛の身体が震えた。
「どうして使った!?」
 士郎の手が伸び、凛の肩を強く掴む。逃げるように身を引いた凛の口から、小さく呻き声が漏れる。
「わかっているのか? それを奪われるというのが、どれだけの意味を持つのか……!」
 激しく身体を揺する士郎の太い腕。凛の顔が苦痛に歪む。逃げるように顔を背けると、白くなった唇を震わせ、弱弱しい声で、
「た、試さずにはいられなかったの。リスクがあると解っていても……。目の前の可能性に賭けなければ、私は――」
 凛の顔が、青を通り越して白くなっていく。気付いた士郎は、慌てて手を離した。
「っ、うぅっ」
「……すまない」
 自己嫌悪に沈んだ声。凛は何も答えず、俯き、身体に巻きつけた外套をぎゅっと握り締めた。
 場に静寂が降りる。それは、何とも居心地の悪い静けさだった。士郎は俯く凛の横を通り抜けると、魔法陣の前に屹立する石柱と向かい合う。背後を微かに見やり、
「準備は、出来たんだな?」
 囁くような声で尋ねた。凛が小さく頷く。
「でも――」
「始めてくれ。俺が道しるべになる」
「士郎……!」
 凛が顔を上げた時にはすでに、士郎は外套を翻し、魔法陣の中心へと歩き出していた。
 しばし、呆然とその背中を見送る。やがて強く唇を噛み締めると、殆ど力の入らない腕で宝石剣を構えた。
最後に、もう一度確認する。果たして、これが今取り得る、最良の選択なのかどうか。
 一縷の望みに賭けて巡らせた思考――。しかし、導き出された答えに変わりは無い。それが良いことなのかどうかさえ、判断がつかない。
 それでも――。私は……!
 震える身体を抑え、顔を上げる。冷たい唇を噛み締めると、慎重に呼吸を整え、
「――Anfang(セット)……」
 静かに魔術回路を起動させた。静かな詠唱に合わせて、右手に握った虹色の刀身が、万華鏡の如く七色の光を放ち始める――。



 舞い上がる灰塵に混じって、夥しい量の紙片が宙を舞う。白騎士の腹部を打ち抜いた鋼の刃は、無数の紙片へと姿を変え、渦を巻いて夜闇の中へと吸い込まれていく。
 シエルは巨大な重機械をその手に抱えたまま、手を伸ばせば触れられる距離から、白騎士の巨体を見上げていた。
 外套から溢れだす、大量の灰燼――。不意に、白騎士の身体がよろめく。ぐらり、巨体が大きく傾き、
「……ッ、」
すんでのところで、踏み止まる。口元から漏れ出る荒い息。真紅の双眸が、シエルの顔を見下ろした。
「なっ!?」
 ――なんという魂の質量!
 固く顔を強張らせ、シエルが呻いた。
 強大な概念を叩き込むことによって、魂ごと相手を破壊する転生批判の概念武装――『第七聖典』。
 まさか、その一撃を正面から受けておきながら、まだ形を留めることが出来るとは……!
「ぐ、ぅ……。この、駄犬が!」
 小さく呻いた白騎士の真紅の双眸に、力が宿る。
 『魅了の魔眼』による拘束――。
 しかし、僅かに遅い。第七聖典だけでは滅ぼし切れないと見るや、シエルは素早く身を翻し、大きく背後に跳躍した。カソックの黒が、瞬く間に瓦礫の山に紛れ、見えなくなる。
「――グ……ッ!」
 白騎士は怒りに顔を紅潮させると、呻きながら数回、頭を振った。首を巡らせ、切断された腕の断面、そして外套の下から零れ落ちていく夥しい量の灰を見つめる。
「……ク」  悔しげに口元を歪め、
「ク、クハハハハ!」
顎を逸らし、高らかな哄笑を上げた。身を捩り。喉をひくつかせ、片方しかない手で顔を覆い、
「クク、これだけの数を減らされたのは、ヴァン=フェムの『城落とし』以来だ。さすが聖堂教会。さすがだ。賞賛に値する!」
 一仕切り笑い声を上げると、白騎士はゆっくりと身体を屈め、愛剣『確約なき世界樹の枝ミスティルティン』を斬り落とされた右腕から引きはがした。細剣を指揮棒のように掲げ持ち、
「愉快だ。なんと愉快なことだ。クク、ハハハ。頭がグラグラと煮えたぎりそうだ!」
高らかな哄笑を上げながら、ひきつけを起こしたように笑い声を上げた。白い喉を逸らしながら、苦しそうに身を屈め――ぴたりと静止した。
 無機質な動作で首を巡らせる。
 その視線はシエルが消え去った瓦礫の向こう――。召喚陣の礎として建立された石柱の下、七色の輝きに注がれている。
「知っているぞ。その輝き――」
 掠れた老人のような声が、白騎士の喉から漏れた。紅の瞳が禍々しい輝きを放ち、百メートル近い距離を挟んで凛の姿を写し出す。
「なるほど、あれが宝石剣――。彼の盟主を砕いた魔法の剣だな。ククク、月の王が遅れを取ったのも頷ける。夜を生きる吸血鬼は、虹を知らなくて当然だ」
 言葉を斬り、再び高らかに哄笑を上げると、白騎士は――。今日何度目になるだろう。残された左腕でフルールを半身に構えた。
「――さぁ、来い。力比べと行こうじゃないか。なぁ、魔法使いのお嬢さんメイガス!」

   ※

 百メートル近い距離を挟んでいるのにも関わらず、凛は身体の震えを止める事が出来なかった。
「あれだけのダメージを受けて、この気迫――。さすが、二十七祖は格が違う」
 腕を伸ばし、宝石剣を構える。全身にありったけの力を込め、身体の震えを抑え込む。
 白騎士が誘うようにフルールを半身に構える。どうやらこの間合いのまま迎え撃つつもりらしい。
「真っ向勝負、か」
 ゆらり、と虹色の刀身を揺らす。
 未だ纏わりつく迷いを思考から切り離し、顔を上げた。これが正しい方法なのかどうかは最後まで判らなかったけれど、それでもやっぱり、強く胸を焦がす思いがある。
 ――ゴメンなさい。私、どうしてもアイツが許せない。
 色を無くした瞳に、再び薄暗い炎が灯り、右腕がまるで別の生き物のように跳ね上がった。大量のマナを浴び、七色に煌く刀身。大きく後ろに振りかぶり、起動の呪文を唱える。
「――Eine,Zwei(接続、解放)!」
 同時に、白騎士が動く。半身から流れるように身を撓ませ、
「轟け――!」

RandVerschwinden大  斬  撃――!」
確約なき世界樹の枝ミスティルティン!」

 袈裟懸けに振り下ろされた刀身から、膨大な量の魔力が溢れ出す。魔力の奔流は瞬く間に夜の闇を斬り裂き、大空洞を七色に染め上げた。

 ――――!

 渦巻く虹色の極光は放たれた傍から混ざり合い、白い光となって、射線上に蠢く骸たちを次々と飲み込んでいく。
 そして――。光の渦の中に踊り出る、片腕の騎士のシルエット。
 大樹の枝ほどまでに肥大化した魔剣を捧げ持ち、白騎士は真っ向から虹色の斬撃に挑む。
「オオオオ!」
 半身から繰り出される刺突。
 吹き荒れる風に漆黒の外套が捲れ上がり、裏地の赤が白く塗りつぶされていく。
 確約なき世界樹の枝ミスティルティンが持つ『刀身に触れるあらゆる干渉を遮断する』という特殊効果は、神秘の無効化はおろか、魔術効果の除去(デ  ス  ペ  ル)にまで及ぶ。魔法の一撃を受けても、その刀身が破壊されることは無い。しかし、
「――ヌゥッ、ァアァァアア!」
 それは確約なき世界樹の枝ミスティルティン本体までの話だ。魔剣が持つ魔術効果の除去( デ  ス  ペ  ル )は、それを操る白騎士にまでは及ばない。
「オオオォォ……!」
 じりじりと焼ける身体。外套の下から零れる灰燼。白騎士の体躯が、溢れ出した七色の光に飲み込まれていき、
「――ッ、ハァ!」
真一文字に引き結ばれた口元から、低く鋭い咆哮が放たれた。
「!?」
 宝石剣を振りぬいた凛は見た。
 白騎士を中心とした周囲の空間が、見えない力で捻り上げるように歪んでいく。
 捻じ曲げられた世界の理が、虹色の極光の軌道に干渉する。光は白騎士を避けるように上向きに逸れると、闇夜を引き裂いて岩壁にぶつかり、ただの一撃で大空洞を崩落させた。
 地上に繋がる通路が、見る影も無く崩れ落ちていく。数百年のときをひっそりと経てきた遺跡が、一瞬のうちで瓦礫の山と化す。
「嘘、でしょ」
 開いたままの口元から、諦観にも似た呟きが漏れた。
 ――まさか、宝石剣の一撃を剣で弾くだなんて。それも宝具ではなく、意思の力で。
「なんて、出鱈目な『超抜能力』」
 そう。最も警戒するべきは、あの忌まわしい魔剣でも、おぞましい固有結界でもなかった。
 世界の摂理を歪めるほどの意思の力。
 何者をも塗りつぶす漆黒の魂。それこそが、白騎士の最大の武器だったのだ。
 その強靭な意志を支えるのは、姫君への信仰か。はたまた、何者をも近づけない気高い騎士の誇りか。
 ようやく理解する。
「初めから、勝てるわけが無かったのよ。目的を持たずに漠然と闘う私たちには」
 腕の筋繊維が断裂し、腕から力が抜けていく。
 ――なんて無様。
 もっと早く……。もう少し早く、そのことに気付いてれば。
 私たちは、こんな大きな代償を支払わずに済んだかもしれないのに。
「はは、ははは! これが魔法! これが宝石剣! とてもじゃないが、『月落とし』を止めた威力には程遠いな。お嬢さん!」
 片腕の騎士は喉を逸らし、高らかに声を上げる。ゆっくりと歩を進める白騎士の漆黒の外套から零れ落ちるように、ぼとり、ぼとり、と新たな騎士たちが産み落とされる。
「さぁ、フィナーレだ!」
 夥しい数の死人の軍団を引き連れ、白騎士は吸血伯爵の異名に恥じない重圧で、行進を始める。
「……ッ」
 強く宝石剣を握り締める。
 ――私たちでは、アレには勝てない。
 アレは正真正銘の化け物だ。どこまでも巨大で、荒唐無稽な異形の怪物。私たちは、本当の意味でアレを理解していなかった。ただの人間に過ぎない私たちが、どうこうできる相手ではなかったのだ。
「やっぱり、この方法しかないのね」
 泣き出しそうな声で呟く。小さく息を吸うと、顔を上げ、背後の士郎に打ち合わせ通りの文言を伝えた。
「試験は良好。問題ないわ。これなら、繋げる」
「では、始めよう」
 厳しく、巌のように凝り固まった声が返ってくる。
「正気なの?」
「さぁな。だが、最終的に帳尻が合えばいいだけの話だ」
「……どうして?」
「何がだ?」
「どうして、そんなにはっきりと決められるのよ」
 僅かにもブレない士郎の言葉に、強く拳を握りしめる。
「アンタは、迷わないの……?」
 絞り出すように、縋るように尋ねる。しかし、返って来たのは冷たく、どこか他人行儀な声だった。
「そんなことは、今はどうでもいい話しだ。遠坂は何も考えず、俺が言った通りにすればいい。罪も罰も、俺が背負おう」
 もう遠いものとなった、平穏な日々が脳裏を過ぎる。
『どこで間違ったんでしょう』
 後悔するような、ライダーの声。
「アンタに、全てを擦り付けろっていうの?」
 強く拳を握りしめ、震える声で呟く。
 返事はない。足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
「……馬鹿いわないでよ」
吐き捨てるように言って、
「そんな都合の良いこと……。出来るわけ無いじゃない」
 石柱へと宝石剣を翳す。崩れ落ちそうな身体で、再び起動に必要な呪文を紡いだ。
Eine,Zwei(接続、解放)
 宝石剣の刀身が虹色に輝き、膨大な量のエネルギーが石柱へと注ぎ込まれる。
 ドクン、
 辺りが一瞬、赤黒く明滅し、周囲を強大な力が満たした。石柱を中心として、鼓動を刻む心臓のように、森全体を膨大な量のエネルギーが駆け巡る。
「『悪霊の棲む森(ヒートラ)』を起動させただと?」
 白騎士が苦々しそうに眉を顰めた。冷たい瞳を凛に向け、嘲るように口元を歪める。
「――貴様。それがどういうことか解っているのか」
「ええ」
 落ち着いた声で言って、凛は屹然とした表情で白騎士と向かい合った。その距離、僅か二十メートル。
「『悪霊の棲む森(ヒートラ)』に棲む悪霊とは古代の神。遥か昔、叙事詩『カレワラ』の神に追放された、古い神のこと。生贄を要求し、その対価として人々の願いを叶える、最も古い神のあり方」
 アルトルージュ・ブリュンスタッドは願望機『サンポ』を復元させるため、眠っていたそれを呼び起こし、契約を交わした。攫ってきた人々を生贄として捧げることで得られた大量の魔力を、願望機の動力にするために。
「この森を目覚めさせるということは、再び古い神に生贄を差し出すということ。いま注ぎ込んだのは、さっきの儀式で生贄として捧げられた人々と、同じ分だけの魂の奔流よ」
「そうだ。魔術師(メイガス)。お前は掠め取ったのだ。こことは違う別の世界から、何千という数の人の命を!」
 気圧の変化によって生じた気流が、べたつく凛の髪を勢いよく巻き上げた。

 オォ、

 森全体が嘶きの声を上げる。
 『悪霊の棲む森(ヒ ー ト ラ)』に捧げられた生贄は、すぐさま膨大な量の魔力へと変換される。森全体に張り巡らされた回路(ライン)を伝い、先ほどは森の再奥、アルトルージュ・ブリュンスタッドの元へと辿っていった魔力が、今度は大空洞に屹立する石柱に留まり、周囲を歪ませていく。
 瞬きのような眠りから解き放たれた古代の神は、何よりも忠実に、古に交された盟約を遂げようと猛り狂う――。
「英雄気取りが、遂に人を喰らうようになったか」
吐き捨てるように言って、白騎士は苛立ちを露わに凛を睨み据えた。
「――興が削がれた。戯れも終わりだ」
 氷のような殺気を漂わせながら、挑むようにフルールを構える。一度、言葉を切ると、思い出したように尋ねる。
「最期に問おう。魔法使いよ(メイガス)。お前たちは古い神――血濡れの三日月(クロウ・クル―ワッハ)に何を願う?」
「――ただ、勝利を」
 真っ直ぐな瞳で、凛は視線を返した。白騎士の唇がが、歪に吊り上がる。
「この白騎士を倒してくれ、とでも願うつもりか?」
「まさか。解ってるでしょう? コレに、そこまでの力はない」
 この森に出来るのは、魂を純粋な魔力に変換することくらいのもの。それも、願望機としては効率の悪い、ほぼ等価交換で与えられる仮初の奇跡だ。 今よりもずっと魔術が栄えていた時代。古代の祭祀は、その魔力を用いて数々の奇跡を起こした。
「では、先ほどのように、魔力をそのまま私にぶつけるか?」
「それも無理でしょう。生成された魔力はもう、私に扱える範囲を超えている。数百人の生贄を捧げて運用される魔力なんて、神話の世界の話。現代の魔術師に扱える規模じゃない」
 ならば、どうする。
 低く唸るような声で、白騎士が訪ねた。手元のフルールが、獲物を捕食する肉食獣のように、その身を撓ませる。凛は静かに顔を上げると、
「私たちには、あんたを倒す術はない。それが、私たちが出した結論。――だから、コレを使わせてもらう」
 ゆっくりと左手を持ちあげた。
 手を開き、今にも砕け散りそうなほどにマナを迸らせている石柱へ押し当て、石柱に通っている回路(ライン)に、自身の魔術回路を接続する。飽和状態にあった魔力は、流れ落ちる水のように次々と石柱から零れ、凛の腕を伝い、足元の巨大な魔方陣へと流れ出した。
「……ほう」
 白騎士が僅かに目を見開く。
「面白い芸を使う」
 自然界にあるマナは、人間が持つオドより遥かに膨大。『悪霊の棲む森(ヒートラ)』の回路に自身の魔術回路を繋ぎ、膨大な魔力を身体に流すことは、小さな水路に大河の濁流を注ぎ込むようなものだ。術者の身体を流れる魔力の誘導が僅かでも乱れれば、魔術回路は瞬く間に暴走し、術者を死に至らしめる。
 しかし――。凛は苦も無くそれをやってのける。魔術の家系である遠坂の魔術特性は『転換』。力の蓄積、流動は遠坂の得意とする魔術だ。魔術刻印に刻まれた経験と、綿密に編み上げられた英知が、危ういところで僅かな奇跡を量り取る。
 周囲のマナの組成が変化する。
 空間が歪み、違う世界へと繋がる――。
「何を企んでいる? 魔法使いの弟子」
 警戒の色を強くした白騎士を、凛は正面から見上げる。白く色を失った顔に、不適な笑みが浮かんだ。
「この召喚陣、使わせてもらったわよ。少し、手を加えさせてもらったけどね」
 凛の足元にある召喚陣は、地上に配置した異形の神を召喚する際に描かれたものだ。アルトルージュ一派は、この儀式を成功させるため、捉えた人間を保管しておく場所を造ることにした。それが、あの地上に配置された、『異界の魔物』。
 魔法陣を構築したのは、失踪者のリストに挙がっていた協会の魔術師だろう。時計塔に居た頃、似たような召喚陣を見た憶えがある。
「手を加えただと? まさか――」
 素早く石床を見渡し、白騎士は目を細める。所々書き換わった召喚陣を確認し、
「そうか。貴様らの狙いは」
「そう。私たちも召喚するのよ。貴方を葬れる存在を、この場所に。かつて冬木の町であった、あの戦争のように」
 凛が知る限り、最も強い力を持った存在を呼び出す――。即ち、
 「『英霊』を召喚するつもりか」
 凛が用意した最後のカードが、それだ。
「クク、ハハハ! それは浅知恵というものだ。お嬢さん。座に居るものなど、喚び出してどうする。ここには受肉できる器も、制御する鎖も存在しないのだぞ? 召喚出来ても僅かな瞬き。一時現れ、すぐに消え去るのがオチだ」
 愚かなことを、と白騎士は嗤う。対する凛は僅かに目を細めると、
「ええ、そうね」
僅かな気負いも無く首肯した。
 白騎士の言う通り、この程度の魔力では、英霊を召喚し、ましてや使役することなど不可能だ。そう簡単に英霊を従えることが出来るのなら、どの魔術師も使い魔として英霊を従えているだろう。
 それに、白騎士の言うとおり、仮に英霊をここに召喚し、留めるだけの魔力を確保できたとしても、ここには現界した英霊を受肉させる器も、制御する鎖も存在しない。英霊の召喚など、無謀以外の何者でもないと考えるのは、至極当然の理屈だった。
 しかし、
「――Anfang(セット)
凛は、確信を持って呪文を紡ぐ。
 魔術刻印を制御し、飽和状態になった魔力を召喚陣へと注ぎ込むと、最後に『起動』の魔術式を組み込む。
 自身の血液で描き足された魔法陣に、赤い燐光が浮かび上がる。
「私たちが現界させる必要なんてない。全ては、『世界』がやってくれるもの」
 凛は知っている。この状況において――。いや、この状況だからこそ喚び出すことが出来る、ただ一人の英雄が居ることを。
「『聖杯』は現れる。全てはこの事実だけで十分事足りる。私たちは、ただ呼びかけるだけでいい。――さぁ、士郎!」

「――ああ、最高の御膳立てだ。遠坂」

 士郎は結界の中央に立つと、外套を脱ぎ捨て、天を仰いだ。
 膨大な魔力は、世界を塗り替えるほどの密度で、召喚陣に満ち満ちている。ケミ市民、三万人の魂を引き換えに起動する召喚陣。凄まじい魔力の運用に、石柱が軋みを上げる。
「……何だ」
 手元を見下ろした白騎士の顔色が変わった。
「何が起こっているのだ」
 手元の愛剣を見つめ、戸惑いの声を漏らす。
「今――。確かに」
 確かに、手元の確約なき世界樹の枝(ミスティルティン)が、小さく震えた。
「――チッ」
 不吉な予感に逆立った首元の毛を、強引に撫でつける。鋭く息を吸うと、高々と左腕を降り上げ、配下の僕へと命じた。
「何をしている。行け! 解き放たれたくば、この儀式を止めろ!」
 白騎士の声に、配下の死者たちが動き出す。
 凛を取り囲む死者の輪が、急速に狭まっていく。腐り、今にも崩れ落ちそうな死者の腕。強い腐臭を放つそれが、凛の顔へと伸び、
「!?」
 それを遮るように、宙空を青白い光の線が走った。
 オ、オォ……。
 腕を伸ばした死者の口腔から、風鳴りのような音が漏れる。堪らず引いた腕から、もうもうと立ちのぼる白煙――。
 青白い光は燐光を振りまきながら、瞬く間に石床の上を走り、凛と死者たちの間に不可視の壁を作り上げる。
「チッ、退け!」
 苛立ちに声を荒げ、白騎士が前に進み出る。不可視の壁へと、すかさず『確約なき世界樹の枝(ミスティルティン)』を振り上げた。
 瞬間、
「……ッ!?」
青白い光が石床から迸る。
 地面から立ち昇った燐光の帯は、足元に絡みつくと、瞬く間に白騎士の身体を駆け上がり、その動きを拘束した。
「この結界――!」
 咄嗟に身を捩る。直接肌が触れた部位から、薄く白煙が立ち昇った。
「……っく。そうだったな」
 白騎士の顔が苦々しく歪む。素早く周囲の瓦礫の山を見渡し、
「お前も居たのだったな。代行者」
瓦礫の影から現れた蒼い瞳の女を、強く睨みつけた。女は中空に浮かび上がった幾つもの魔法陣を肩で操りながら、白騎士へと一本の黒鍵を突き付けた。
「邪魔はさせません。彼らが開いた道を、閉ざさせはしない」
「こんな小細工で、この白騎士を止められるとと思うな……!」
 白騎士の眼光が鋭く光り、強大な意思が、空間を歪め始める。強引に捻じ曲げられた結界が軋み、紫電を発した。白煙を上げて爛れ行く白騎士の左腕が、僅かに結界を突き破る。
「させません!」
 間髪居れず、シエルが動いた。その腕が流れるように閃き、放たれた黒鍵が白騎士の両足を地面へと縫いつける。しかし、両足を射抜かれてなお、白騎士は、歩みを止めようとしない。
「ぬぅ……! 無駄な、ことを!」
 具足を揺らし、跡退る凛へとフルールを握った左腕を突き出し――。そして、気付いた。
 ゆっくりと、自身の身体が足元から変質を初めていることに。
「これは……!」
「流石にそこまで消耗しては、防ぎ切れないようですね」
 戸惑いの声を上げる白騎士を、強い意志を秘めた瞳が見上げる。代行者シエルは、指と言う指に黒鍵を構え、
「『土葬式典』。行ったはずです。ここから先は、一歩も行かせないと」
「教会の犬が……!」
 鋭利な犬歯の覗く口元から、低く唸るような声を漏らしながら、白騎士は翻るように宙に左腕を奔らせた。


 
 原初の神『悪霊の棲む森(ヒ ー ト ラ)』が生み出す膨大な魔力は、召喚陣を通ることで、ついに現世に形を成した。
 大空洞の天蓋にぽっかりと空いた大穴。その中空に、ほんの僅かに『孔』が開く。目にも見えないほどに小さなそれは、数ある魔術師達が抱いてやまない叡智の到達点。世界の外側へと繋がる『門』である。
「開いたか。……八年ぶりに見る」
 僅かに目を細め、士郎は押し殺した声で呟いた。魔術を目的を遂げる手段としか考えていない、『魔術使い』である彼にとって、八年の月日を経た今でも、その『孔』に特別な感慨は無い。
 ――皮肉なものだ。
 ぽっかりと穴の空いた天蓋から覗く虚空の月。その下で輝く黒色の『孔』を見つめ呟く。
 数ある魔術師が求めてやまない、この『孔』を、まさか二度も開くことになろうとは。
「まぁ、この程度の『門』では、何も通り抜けることなど出来ないだろうが――」
 孔は小さく、小指の先ほどまでしかない。それも、絶えず世界からの修正を受けているせいで、いつ消えてしまっても可笑しくないほど不安定だ。
「あれだけの人々を犠牲にして、開いた『孔』がこれだけか。ふん、この国の人間が森を捨てたのも道理だ。――こんな燃費の悪い願望機、悪魔との契約にも劣る」  士郎が一歩、前に出る。足元に広がる巨大な召喚陣の中心に立ち、
同調、開始トレース・オン
静かに魔術回路を起動させた。
 お膳立ては全て凛が整えてくれている。
 銃の用意も、弾丸の装填も、照準を合わせるのも、凛が行った。後は、士郎が引き金を引くだけだ。
 召喚陣へと魔術回路を繋ぐ。――この役割は、誰よりも衛宮士郎が相応しい。
 流れる風が頬を撫ぜる。強大な魔力を孕んだその風の音を、遠い昔に聞いたような気がした。
 ゆっくりと瞑っていた目を明け、出現した『孔』へと腕を伸ばす。
 この『孔』を、通り抜けることが出来るものは存在しない。人も、物も、何一つとして世界の外に出ることは出来ない。
 だが、それでも――。
「この声が聞こえるなら、応えてくれ」
 ――それでも、声を届けることは出来るはずだ。
 唱えるのは呪文ではなく、呼びかけの言葉。
 召喚陣が果たす役割は、『英霊の召喚』ではない。ただ、孔を開き、この声を届けることだけに膨大な魔力を消費させる。
「望むものは全てここにある。過去の清算も、失くした栄光も、汚された名誉も。お前が望むものは全てこの場所に揃っている。――その手で掴み取りに来い――!」
 ここは、あくまでも道標に過ぎない。呼びかけに応じるかどうかは、全て本人が決めることだ。
 力の限り強く、出来るだけ遠くに届くように。大きく息を吸い、その名前を呼ぶ。
「■■■■――!」
 限界を超えて運用される召喚陣。溢れ出した真紅の光が全てを――。言葉さえをも飲み込んでいく。
 光は意思も言葉も、その意味さえも滲ませながら、無限の彼方を目指して膨張し続け、そして――。

 びしり、

 音を立てて、崩壊した。
 何も見えない視界の中で、確かに剥がれ落ちてくる天蓋の蔦。寄せた波が引くように、霧散していく濃密なマナ。一瞬の静寂。その場に居た誰もが息を呑んだ。そして、

 ――不意に、何かが落ちて来た衝撃と共に、地面が大きく揺れた。

 オオォォォ……、

 『悪霊の棲む森(ヒ ー ト ラ)』が限界を超えたマナの捻出に耐えきれず、声とも機械音とも判別のつかない金切り声を上げ、その存在を霧散させていく。数千年の時を越えて呼び起こされた原初の神は、長い時を超えてようやく、永遠の眠りにつく。
 後には何も残らない。辺りに満ち満ちていた赤光さえも収束し、天蓋から覗く夜闇へと飲み込まれていく。
「……何が起こった?」
 白騎士はゆっくりと覆っていた手を退けて辺りを見渡した。さっきまで周囲を圧迫していた気配は消え去り、大空洞は不思議なほどの静寂に包まれている。ただ名残のように漂う砂塵だけが、取り残されたように当ても無く辺りを浮遊していた。
 先ほどまで向かい合っていた、代行者や魔術師の姿も見当たらない。ただ、蠢く配下の死者たちの気配が漂うだけだ。
「何だ? これは」
 白騎士の眉間に深い皺が刻まれる。
 彼の鋭敏な知覚は、大空洞の奥、召喚陣の中央に現れた気配へと向けられている。その顔が、奇妙な形に歪んだ。
「――まさか」
 彼の理性はありえない、と告げている。
 英霊は世界に仕える身。神の座に居る彼らを、どうして一介の魔術師風情が喚び出せよう。
 シナリオの結末に変わりは無い。召喚陣は何の用も成さずに消え去り、魔術師たちはただ成す術もなく、亡者たちの生贄と成り果てる――はずだった。
 しかし、
「大丈夫」
確信を以て頷く人影がある。
「彼女は必ず現れる。だって、まだ彼女の『聖杯戦争』は終わっていないはずだもの」
 凛は知っていた。『英霊は使役することが出来ない』。遠い世界の向こうに、その理に縛られぬ『英雄』が居る事を。
 ――風が再び吹き始めた。流れるように渦を巻く、意思を持った強い風が。
 何かが居る。
 確信と共に、白騎士は動いた。
「……ッ、何を喚び出そうと、同じこと……!」
力の限りに腕を振り上げ、自身の愛剣に命じる。
「構わん! 貫け、『確約なき世界樹の枝(ミスティルティン)』!」
 主の命を受け、魔剣の刀身は見る見るうちに成長し巨大な槍と化すと、血肉を求め、一点を目指してその巨大な蔦を迸らせた。
ゴッ、
「!?」
 一点から噴き出した風の渦が、分厚い砂塵を切り裂き、薄暗い闇を斬り裂く。
「……!」
 凛は、確かに見た。吹き荒れる風の渦の中に、目映い黄金の光を。
 強く拳を握り締め、声の限りに叫ぶ。

 ――『聖杯』はこの場所に現れる。ならば、彼の英雄は馳せ参じるだろう。
 彼は世界との契約により、いずれ聖杯を手に入れる運命を持つ者。今再び凛の前へと降り立ったその英雄は、王の名に恥じない威厳を持って、声高に名乗りを上げる。

約束されし( エ ク ス )――」

 自身の象徴とも言える理想の具現。その威名を持って――。

勝利の剣( カ リ バー)――!」

「何故、ここに英霊が……!」
 余りにも膨大な魔力の気配に、白騎士が回避体制に移る。しかし、それは余りにも遅すぎた。
 その一撃は収束した光そのもの。放たれたが最後、彼の英雄が誇る宝具から逃れられる者は存在しない。  光の速さよりも早く動けるものなど、ありはしないのだから。
 奔る極光――。
 続いて、吹き荒れる熱風が周囲の全てを焼き尽くす。辺りに蠢いていた死者の群れが、一瞬のうちに蒸発し、跡形もなく消え去る。

「オオ、ォォォ――……!」

 白騎士の声もまた、果てない光の渦に飲み込まれ――。
 跡には何も……。灰の一欠けらさえ、残らなかった。
 瓦礫降り積もる平原と化した大空洞には、凛と士郎、シエル――。そして、小柄な騎士が残される。
「――」
 砂塵の中から現れる、紺碧の甲冑。煌めく金砂の髪。そして、眩き刀身。月光を弾いて輝くその美しさに、思わず声を忘れる。
 ――軽い既視感。  遥か昔に見た光景と、現在のそれとが重なる。
 冬木の街に現界した、数ある英霊の記憶。その中においてなお、鮮烈に残るその姿は、八年前とちっとも変わりなくて――。
「セイバー!」
 かつて、イングランドの領主として君臨した少女は、人々の願いによって編まれた汚れ無き理想の具現をその手に携え、静かに、独眼のように見下ろす朱色の月を見上げた。








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