2/真祖討伐


 ――正直に言えば、私は迷っていた。
 キュッ、キュッ、と小気味良い音が両手の中から響く。ゆっくりと、慎重な手つきで布巾の中から取り出したティーカップには、一片の曇りも無い。新品のように磨き上げられた、柔らかい乳白色のティーカップ。
 この店を開いた時、セットで揃えたものだ。そのティーセットは今でも、一つとして欠けることなく、戸棚の中に並んでいる。彼女の|主人《マスター》が選び、彼が買い揃えた。
 その時は、確かに揃っていた。
 必要なものは、そこにあった。
「ねぇ、ライダー。誰か来てたの?」
「……ええ、お客が何人か」
 喫茶店と、居住部分を分けるドア。その向こうから突然投げかけられた主人の問いに、ライダーは僅かな動揺も無く答えた。それも当然。いかに物思いにふけようとも、彼女……ライダーと呼ばれる英霊が、人の気配に気づかぬ訳が無い。
「どうかしましたか?」
「いえ、別に……。なんだか姉さんの声がしたような気がして……」
 そのどこか悲しげな声に、ライダーはすべてを話してしまいたくなった。
「気のせいですよ。凛なら帰ってくる前に連絡の一つくらいあるでしょう」
 しかし――。
 思い直す。全てを話したとことろで、主人の心労を増やしてしまうだけなのではないだろうか。ならば、すべて自分の心の中に仕舞い込んでしまったほうが――。
「そうね……。きっと、気のせい」
 少しだけ自虐を含んだ声で主人は力なく笑った。その気配が、ゆっくりと遠ざかっていく。
 ライダーは、ただじっとそれを見送った。
「一体、どこで間違ったのでしょうね。あなたたちは」
 ――私は迷い続ける。果たしてどうすることが、主人と、彼にとって最も良い方法なのか、と。


 ――強い風が吹いている。
 腰まで伸ばした髪が風に巻き上げられ、遠坂凛は微かに眉をひそめた。
「あの戦いから――。聖杯戦争から、もう八年も経つのね……」
 思わず出た言葉には隠しようも無い感慨が混じっていた。それだけで、自分が過ごしてきた年月の重さを思い知らされる。
「遠坂、何か言ったか?」
 横を歩く士郎がこちらに顔を向ける。彼とこうして手を組むのも、八年ぶりだ。その顔に、かつて共に戦場を駆け抜けた弓兵の姿が重なる。なんだか、本当に八年前に戻ってしまったかのような既視感。意識して、あの日に戻りそうになる自分を現在に繋ぎ止める。
「別に。もう八年も経つのか、って、そう思っただけ」
 視線を遥か彼方の空に向けると、闇夜に沈む空は嵐の予感を孕んでいた。
「……もうそんなに経つか。確かに早いな。あっという間に過ぎていった年月だった。八年といえばそこそこの長さがあると思っていたが……」
 乾いた風が、草木もまばらの岩場を駆け下りる。
 普段見慣れた月の三倍はあるだろう、空には巨大な満月が浮かんでいる。星が少ないのは、白く輝く月の光があまりにも強く、星の瞬きを曖昧にしているせいだろう。
「へっぽこ士郎が英雄になるくらいにはね」
「英雄、ね」
 皮肉げに笑う。そんな彼の顔を見るのは初めてで、凛は思わず眉を潜めた。
 夜だというのに、巨大な月明かりのおかげで、辺りはうっすらと明るい。不毛の大地は足場が悪かったが、夜目に慣れればそれ以上の明かりを必要としなかった。
「そういう君だって、今じゃ六人の魔法使いの一人だろ? 俺なんかに比べれば、よっぽど凄いじゃないか」
「別に六人の魔法使い、っていうわけじゃないわ。まだ第六法に至った魔術師はいないもの」
 ふぅ、と大げさに息をつきながら、
「ただ、第二の魔法使いが二人いるだけ。……まぁ、もう一人がいなくなれば、わたしもめでたく魔法使いの一人になれるんだろうけど、大父師はまだまだ健在。実力も天と地ほどの差があるしね」
 どこか疲れた顔で言うと、お手上げね、と投げやりに両手を挙げて見せた。
「ふぅん。複雑なんだな」
 心から感心したような顔で、士郎が頷く。そんな出来の悪い元弟子に、凛は冷たい視線を送った。
「それより、あんたさっきから何? その喋り方は」
「は?」
「君、なんていい方、止めてくれないかしら? ……まさか、わざとやってるわけじゃないわよね? 衛宮くん?」
「……む」
 士郎の顔が一瞬で渋面を作る。そして、顰めていた眉根をさらに顰めた。どうやら、さっきまでの自分の言動を振り返って気づいたらしい。本人に自覚は無いのか。
 それなら、なおさら性質が悪い、と凛は思った。
 つまり、意識しなくても似ていってしまうのだ。外見はもちろん、喋り方でさえも……。凛は願わずにはいられない。少なくとも、この青年の辿り着く未来が、あの英霊の背中より、幸深いものとなることを。
「さぁ、そろそろね」
 道が開ける。すぐ先は岩肌剥き出しの崖になっていた。見下ろした先には、巨大な廃城が佇んでいる。
「覚悟は出来てる? 引き返すなら今のうちよ?」
「……ふん」
 静寂に包まれた城は、囚われの罪人のようだった。城を繋ぎとめるかのように幾重にも張り巡らされた、一抱えはあろうかという太さの鎖。まるで飛び立とうとする城を繋ぎ止めるかのように、幾重にも城に巻き付いている。その姿は一種病的で、凛は痛ましささにそっと心を痛める。
 地図にさえ載っていない地域。この世では無いどこか。人の世から隔離された空間に、その城は在った。
「勿論だ。今更引き返す気なんて無いさ。そういう遠坂はどうなんだ? 今から引き返すと言っても、俺は責めはしないぞ」
 士郎の声に迷いは無い。いつからだろう。この声がこんなにも頼もしく感じるようになったのは。だから凛は、
「やめておくわ。魔術師たるもの、一度した契約を、そう簡単に破棄することは出来ないもの。例えそれが、どんなに無茶苦茶で、勝算の見込めないモノでもね」
なんでもないことのように、引く気は無いことを告げた。
 城は、あらゆる生物を拒むかのように佇んでいる。そこに棲むのは狡猾な悪魔か、年経た魔竜か。
「いえ――。そんな可愛いものじゃないわよね」
 一人呟く。
 ぞっとしない話だ。これからたった二人で、御伽噺に出てくるような、神か魔王クラスの化け物に喧嘩を売りに行くなんて。冗談にしては性質が悪過ぎる。
 堅く口元を引き結ぶ。
 まったく、頭にくる。どうして私はこんな無謀な戦いに身を投げ出してしまったのだろう……。



 そう、話は一週間ほど前。
 冬木市のとある喫茶店で、ヒーロー気取りのバカが世迷いごとを口走ったところにまで遡る。

「――と、いうわけだ」
 一通り話し終えると、士郎は話し疲れたというように、珈琲の注がれたカップを口元に運んだ。
「あんたまさか、本気で言ってるわけじゃないでしょうね?」
 士郎は顔を顰めると、静かに凛の強張った顔を見返した。
「冗談を言ったつもりは無いけどな」
「ああ、そうでしょうとも! あんたに冗談の一つでも言える甲斐性を期待した私がバカだったわ……!」
 本気で言っているんだから、余計に性質が悪い。急激な血圧の上昇に、凛は軽く眩暈を起こしかける。
「む。失礼だな。俺だって冗談の一つくらい……」
 ――じろり、と士郎を睨みつける。
 士郎は何か言いかけたが、凛と目が合うと慌てたように口を噤み、カップを口に運んだ。
「いや、なんでもない。頼むからそんな目で見ないでくれ。生きた心地がしない」
「ええ、ええ、そうでしょうとも! これから死にに行きます、なんて言ってるやつが生きた心地なんてするわけが無いでしょうよ!」
 だん、とカウンターに拳を叩きつける。
 ――前から馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけど、ここまで馬鹿だといっそ気持ちがいい。怒りを通り越して諦めの境地。馬鹿は死ななけりゃ治らない。
「ライダー、あなたからも何か言ってやって」
「……正直、呆れて物も言えません」
 ライダーも同じ心境のようで、士郎を無視してさっさとカップを洗い出した。
 ……とは言っても、彼女はポーカーフェイスだから解り辛いだけで、本当は物凄く怒っている、という可能性も十分に考えられる。最初に士郎がこの街を出て行くと言い出した時、いちばん怒っていたのも彼女だった。
「大体、どういうつもりよ。真祖を倒しに行くって。衛宮くん、正気?」
 そう。衛宮士郎は、真祖の姫を倒しに行くから協力してくれ、なんて話を持ちかけてきたのだ。とてもじゃないが、正気の沙汰とは思えない。
「どういうつもりも何も、今説明しただろう。俗に言う吸血鬼である真祖は吸血衝動に負け、血を吸うようになると――」
「堕ちて、魔王になる。確かに一度堕ちてしまえば、とても手に負えるものではありませんね」
 士郎の言葉を引き取ってライダーが答えた。カップを戸棚に仕舞い、はぁ、と静かに肩を落とす。
「現代に残る真祖というと、『吸血姫』ですか」
「ああ、そうだ。詳しいな。ライダー」
「少々、気色が違うとはいえ、私も吸血鬼の一種ですから」
 どこか自虐気味に言って、ライダーは士郎を冷たい目で流し見た。背筋が振るえるような、冷たい眼差し――。
「真祖の場合、堕ちるだけでも大変な脅威ですが、真祖の姫ともなると、話は大きく変わってきます。なんでも、真祖の姫が堕ちると、『朱い月』が降りる可能性があるのだとか」
「だそうだ。わかったか? 遠坂」
「そんなことはわかってるわよ! 私が聞きたいのは、どうしてあんたが真祖狩りになんて行かなきゃならないのか、っていうこと!」
 掴みかかるようにして迫る。すると士郎は、
「どうやら、真祖の姫の吸血衝動は既に限界らしい。あの『朱い月』が現れることになったら、大変なことになる」
 大真面目な、そして真っ直ぐな瞳で言い切った。そこには、一点の曇りも見出せない。
「……」
 『だから何?』とは聞けなかった。衛宮士郎は、それだけで見逃してはおけない、自分の命さえ賭けることさえ厭わない理由となるのだから。
「そうなったら、どこにいても同じだ。誰かがなんとかしないといけない」
 切実な表情で、士郎は言う。
 普通の人なら、その誰かがどこからか現れ、そのトチ狂った化け物お姫様を倒して、世界を救ってくれることを期待するだろう。
 でも、衛宮士郎は違う。その『誰か』を期待して待つなんてこと、出来る訳がない。自分の命なんて度外視して、誰かの命の為に死地に赴くのだろう。
 とはいっても現実問題、この世界には信念は違えど、士郎の何倍も経験があって、何倍も強くて、何倍も組織力のある勢力がいくつも存在する。真祖の咎落ちなんて、魔術協会か、聖堂教会あたりがとっくに勘付いて手を打っていることだろう。
「まぁ、士郎の言うことも解らないでもないけど……。きっと誰かがもう手を打ってるわよ。そんな世界の破滅に関わる様な一大事、指咥えて黙って見ているはずが無いでしょう。特に|聖堂教会《あいつら》は、吸血鬼に対しては偏執的なんだから」
「いや、これはとあるスジからの最新の情報でな。他の組織も、吸血衝動に限界が近づいていることは知っていても、それが差し迫った脅威となっていることには気付いていないらしい」
「それなら、どっかに情報を流せばいいじゃない。別に士郎が出て行く理由にはならないでしょう?」
「どうやって流すつもりだ? 匿名の情報はもちろん、俺の名前で出した情報じゃ、どの組織も動くとは到底思えない。――遠坂の名前でも貸してくれるのか?」
「う」
 凛は言葉に詰まった。
 士郎はどこかの組織と一時的に手を組むことはあっても、組織に所属したり、贔屓をしたりすることは無い。その時に自分が正しいと思う組織と手を組むのだ。昨日まで正しいと思っていた組織でも、状況が変われば敵に回るということも珍しくない。
 それは、どの組織からも等しく恨みを買う行為だ。そんな事ばかりしている士郎の言葉など、まともに取り合う機関はないだろう。――それは、士郎が世間で英雄として称されない所以でもある。
「遠慮しておくわ。私もそんな眉唾話には巻き込まれたくないもの」
 かく言う私も、どこの組織にも関わり合いになるのはゴメンだ。
 恩を買うのはもちろん、売るのも面倒だし、何よりそんな眉唾な情報を流して、もし勘違いでした、なんてことになれば自分の身だって危ない。真祖の姫に手を出すということは、それだけ高いリスクを伴うことなのだ。
「勿論、真っ向から喧嘩を売るのもお断り。そんなの命がいくつあっても足りはしないわ。行くならどうぞ、ご勝手に。一人で行って頂戴。衛宮くんも知ってるでしょう? 私、無駄なことは嫌いなの」
「別に俺だって、無駄に死にに行くつもりなんか無いさ。そもそも勝算が無いなら、遠坂に声をかけたりはしない」
 そう言って、士郎は落ち着き払った様子でカップを口元に運んだ。そこにどれほどの勝算があるのかは知らないが、何か考えがあるのは本当らしい。
「士郎。一応、私からも一つ」
 コト、
 磨いていたカップをカウンターに置いて、ライダーは士郎の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「どんな考えがあるのかは知りませんが、あなたは間違いなく死ぬ。これは火を見るより明らかです」
「――!」
 ぞくり、背筋に冷たいものが降りる。
 『死ぬ』。
 それは、普段からしばしば耳にする言葉だ。普遍的な単語でしかない。常に死を覚悟していていなければならない魔術師である凛とて、昔はよく軽々しく『死』という言葉を口にしていた。
 だが、ライダー……。いや、英霊メデューサの口から発せられると、それは鋭利な刃物となる。言葉の重みが、常人が使うのとは格段に違う。
「真祖の姫の力を侮ってはいけません。彼女は同族である堕ちた真祖を狩り出していた、正当な真祖の王族です。……ましてや、吸血衝動が限界を迎えているのなら、衝動を抑える為に力を裂く必要も無くなっているはず。そうなったときのソレは、朱い月の降臨を度外視しても、私達の想像を遥かに超えています」
 ライダーの視線は睨むほどに強くなっていく。『魔眼殺し』である眼鏡越しにも、その重圧を感じずにはいられない。
 ライダーは自分の感情をあまり外に出したりはしない。今だって、視線は強いものになっているが、表情は少しだって崩れてはいない。冷たい美貌を湛えている。
 けれど本当は、彼女は今、士郎を石化させてでも引き止めたいはずだ。それは決して彼女自身のためではなくて、彼女の主である――。
「忠告ありがとう、ライダー。でもな、やっぱりこれは誰かがやらなければならないコトだから」
 その重圧を受けてなお、士郎はライダーの瞳を真っ直ぐに見返した。
「ふん。言っても無駄みたいね。あなたはどうするの? ライダー。朱い月が堕ちるのなら、ここに居ても危険は及ぶと思うけど」
 私がお手上げ、と両手を挙げて見せる。ライダーは根負けしたように士郎から視線を逸らした。そしてそのまま、くるり、と後ろを向く。
 さすがのライダーも、士郎の強情振りには打つ手が見つからない。だいたい、打つ手があるのなら当の昔に打っている。
「私はサクラのサーヴァントです。彼女の身に危険が及ぶなら、それを阻止するのみ。……サクラを置いてヨーロッパまで出向くつもりはありません」
「そう言うと思ったわ。それなら、桜」
「言うまでもないとは思いますが、死にに行くのが明らかな戦いに、サクラを連れて行くなどと言いだすつもりじゃ無いでしょうね?」
 ライダーの視線が突き刺さる。
 とたん、身体が石膏で塗り固められたかのように重くなる。心臓の脈動でさえ、本来の鼓動を刻めない。
 ――うわ。士郎のやつ、こんな視線を受けて平然としてたの? 気を抜いたら石化しちゃいそうじゃない……!
「それが、桜の命令でもか?」
 カップを口に運びながら、士郎が呟いた。
「サクラがそれを望むのなら、従うだけですが……。それなら、士郎からサクラに直接話をして貰わなければいけませんね」
 ライダーの視線が逸れる。その眼差しが、『あなたたちに、それが出来ればの話ですが』と言外に語っていた。
 魔眼の重圧が消え去る。背筋にはじっとりとした嫌な汗をかいていた。
 ――しかし、私もまだまだだ。少しは成長したかと思っていたけれど、一級品の魔眼の前では成す術も無い。
「ライダー、もしかして怒ってる?」
 今更と思いつつも、確認を取ってみる。
「いえ、別に。そもそも、今回の件に関しては、凛は被害者でしょう。貴方を怒る理由がありません」
 涼しい顔で返された。じゃあ、さっきの凶悪な視線はなんだって言うのか。士郎のとばっちりにしては割が悪い。
「いや、遠坂。ライダーの言うとおりだ。俺は桜を巻き込むつもりは無いよ」
 士郎は相変わらずの涼しい顔で、珈琲を飲み干す。
 ――このとき、今まで眉一つ動かさなかったライダーの表情が、僅かに変化したことを、士郎は気付いていただろうか。
 いや、きっと気付いてなんかいないのだろう。
 ライダーがいったい何に憤り、あの子が何を悲しんでいるのかなんてことは……。



 鎖は冷たく、咎は重く。
 千の縛鎖に繋がれ、純白の姫は眠り続けている。安らかな表情からは、苦悶の色は見て取れない。玉座に四肢を拘束されたその姿は、まるで、磔刑に処された聖女のようだった。
 姫君は救いを求めていない。
 その事実が、表情からは見て取れる。
 救われない。あまりにも救われない磔刑の聖女。
 最も救われないのは、それを強いて居るのが彼女自身であるということ。そして、そうしなければならないほどに追い詰めたモノの正体が、彼女の裡に蟠る欲求であるという不条理な事実。
 吸血衝動――自身ではどうすることもできないその衝動が、あるいは恐怖が、彼女自身に自らを封じることを強要している。
 そこに、彼女の意思など介在しない。彼女に残された選択肢は限りなく少なかった。
 否。それしか、無かった。
「だから、ゴメン」
 玉座の前、純白の姫を見上げながら、一人の青年が囁いた。
 安らかな眠り顔に手を伸ばす。四肢を鋼の鎖によって締痛々しいまでに締め上げられる、思い人に、触れる。
 青年の顔が、悲愴に歪んだ。
 これは一体、何の罰なのか。彼女が一体、どんな罪を犯したというのか。
「ゴメンな、アルクェイド」
 口を吐くのは、謝罪の言葉。
 青年は知っていた。彼女をこうして束縛してるのは、他でもない自分自身であるということを。
 彼女がこうしてまで自らを縛するのは、彼と過ごす時間を長くしようと足掻いた結果に過ぎない。もし青年が居なければ、彼女は自らの生に終止符を打つことを躊躇いはしなかっただろう。
 彼女を連れ出そうと、この城を探し出したはずなのに。彼女だけは救いたいと、あらゆるモノを置き去りにしてきたはずなのに。
 それなのに――自分という存在が、彼女に自らの拘束と延命を強いている。
 救おうとして、しかし束縛しているという矛盾。
 それが、胸を痛いほどに締め付ける。
 物理的に彼女を拘束している鎖を断ち切るのは容易い。しかし、それが意味することを考えれば、鎖を断ち切ることは、月を落とすことよりも難しく思われた。
「俺、イフは嫌いだって言ったけど、最近、もしものことばかり考えてるんだ。可笑しいよな」
 青年が笑いかける。しかし、囚われの姫君は俯いたまま、ただ静かに眠り続けるだけだった。
 ギシ、ギシ、
 囚われの姫がわずかに身体を捩る、ただそれだけで、城中に張り巡らされていた鎖が軋み、城壁は悲鳴を挙げた。
 青年は考える。
 もしも、彼女を追わなかったら。
 もしも、彼女を傷つけなければ。
 もしも――彼女と出会わなかったなら。
 そんなことを考えることは無意味だと、頭は理解していた。しかし、思わずにはいられない。
 もっと良い未来は無かったのか、と。それとも、今ここにある現実が彼らが選びうる最良の未来だったのだろうか? だとしたら、あまりにも酷薄に過ぎる。
 どこで俺は、間違ってしまったのだろう――。
 抜けばの無い思考の海に沈み込みそうになったその時、青年は静寂に沈む廃城に、何者かが侵入して来たことを察した。
「来た、か」
 ゆっくりと大理石の床から立ち上がると、傍らに置いてある一振りのナイフを掴み上げる。
 磨き上げられた鋼。月明かりを弾く、その銀光に魅入られる。
 ――思えば、このナイフを手にした瞬間が、すべての始まりだったのかもしれない。
「行ってくるよ。アルクェイド」
 目元を覆うように当てられた包帯を巻きなおすと、青年――遠野志貴は、ゆっくりと歩き出した。
 巨大な満月は、今日も穏やかな残酷さで玉座を照らしている。


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