活気というものの喪失した白亜の回廊を駆けながら、私――遠坂凛は乱れる呼吸を抑えるように、大きく息を吸い込んだ。
 城を包む空気は酷く退廃的で、呼吸のたびに凍えた夜気が肺を犯す。それは常人ならば耐えられないであろう、魔的な大気だった。
 不気味な城だ。この城には生気というものが欠けている。
 煤けた白い回廊。
 草木の絶えた庭園。
 巨木の幹ほどもあろうかという石造りの柱を、一抱えもある鉄色の鎖が縛り上げている。城はまるで、大地に磔にされた罪人のようだった。
 空に浮かぶのは、白い月。地球から観測される月とは比べるもなく巨大な満月だ。普段見ているものに比べると十倍近い大きさである。
 不意に、吸血鬼は満月の時に最も強大な力を発揮するという話を思い出した。古来より吸血鬼狩りを行うときは、必ず満月の夜を避けるのが常識であるという。
 吸血鬼狩りの日取りを間違えただろうか。一瞬、そんな思考が頭を過ぎり、しかしすぐに考え直した。
 そうだった。すっかり忘れていた。 この場所は地理的条件とは無関係に、地球上で最も月から近い土地であるらしい。どういう仕組みになっているかは知らないが、暦によって月が朔望することは無い。
「さすが『真祖の姫』の根城――。こっちの思う通りにはいかせてくれないか」
 駆ける足は、時速四十キロをゆうに超えている。白亜の回廊がもの凄いスピードで背後に流れていく。
 少し前を走る士郎を覗き見る。
 これだけのスピードで走っているのに、息を乱してさえもいない。
 魔術による補助を施している私はともかく、彼は生身で走っているはずなのに。
「どうした、遠坂」
 視線に気付いた士郎が振り返る。
「いえ――別に。よそ見してると転ぶわよ」
 なんだか素直に褒めるのも癪で、私は駆ける足にいっそう力を籠めた。
 朽ち果てた庭園を横切り、使う者の絶えた食堂を駆け抜ける。硬く閉ざされた扉を魔術で開き、あるいは蹴破って目的の玉座へと突き進む。
 どれくらいの距離を走っただろうか。
 不意に、一際大きな扉が目の前に現れた。
「近いわね。気をつけなさい」
「わかっている……。奥に何か居るようだな」
 一歩前に出た士郎が、両開きの扉を蹴り上げる。
 視界が、大きく開けた。
 そこは聖堂のような場所だった。壁には細かいレリーフが刻み込まれている。専門的な知識は無いから細かい年代まではわからないが、相当古い年代のもののようだ。
 それにしても、大きな聖堂だ。小規模の教会なら、丸ごとすっぽりと収まってしまうに違いない。
 聖堂の奥には、いま開けた扉よりも一回り大きな扉が見えている。
 玉座へと続いているのだろう。今まで通ったどの扉よりも大きく、所々に華美な装飾が施されている。
 真祖の姫は、その奥で眠っているはずだ。
「出たな」
 士郎がぼそりと呟いた。
 奥に聳える巨大な扉。その前に一人の男が立っていた。
 最初に目に付いたのは、目元を覆うように巻かれている白い布地。目隠しをするように、白い布地が幾重にも厳重に巻かれている。
 顔つきから見て、恐らく東洋人。体格も東洋人としては平均的で、横に立つ士郎と比べると頭二つ分は小さい。目元の布地を除けば、冬木の町でも見かけそうな特徴の無い男だった。
 多少は魔術耐性の効果が付属された衣類を身につけてはいるようだが、それでもこの『ブリュンスタッド城』の中では、場違いなほど軽装だ。
 殺気の一つも感じられず、さして特徴も無い男。その手には一振りの古ぼけた金属の棒が握られている。
「あいつが、そうなの?」
「だろうな。あの手に握られているのは恐らく……」
 男が小さく手首を振る。手馴れた、ごく自然な動作。
 カシャン、
 金属の棒から、白銀の刃が飛び出す。静寂に包まれた回廊に、金属の擦れる乾いた音が、やけに大きく響いた。
「ナイフ。それじゃあ、やっぱり――」
「話の通りだな。……確かめてみるか」
 私に小さく耳打ちして、士郎は上体を開いた。その手には、いつの間にか一振りの弓矢が握られている。
 黒く鈍い光を返す、カーボン製の複合弓。形状は洋弓そのものであるが、余分な機能を削ぎ落としたシンプルなデザインは、和弓のそれに近い。
「ちょっと、士郎……!」
「大丈夫だ。この距離なら、外したりはしない」
 弓を構えた士郎と男との距離は、大聖堂の端から端まで、悠に六十メートル。確かに、この距離なら士郎が矢を外すことはないだろう。けど、私が言いたいのはそういうことではなくて、
「――まぁ、見てろ」
 士郎は射の姿勢に入ると、数拍の間も待たずに矢を射た。
 シュ、
 弦の振動音を小さく残して、何の魔術効果も付属されていないカーボン製の矢が、一寸の狂いも無く眼帯姿の男に向かって直進する。
 士郎は何気無く矢を射たようだったが、その威力、速さは弾丸のそれに近い。頭部、四肢のいずれかに当たったのなら、その部位はそのまま体幹から引きちぎられ、矢に持っていかれてしまうだろう。
 空気を切り裂く音を遥か後方に残して矢は直進し、
「……!?」
 男に命中する直前、突如消失した。
 消えた? ……いや、違う。
 自分の眼に魔力を込め、一時的に視力を上げる。今まで朧げに見えていた、六十メートル先の光景が鮮明に映る。
「なに、これ」
 男の足元に、今まで無かった物が転がっていた。艶消しの塗装が施された黒色の矢が打ち捨てられている。それは紛れもなく、たった今士郎が射た矢だった。 矢は中心辺りで二つに切断され、まるで初めからそこにあったかのように、地面に転がっている。
 辺りには、何の魔力の残滓も感じられない。
「――っ」
 背筋を悪寒のようなものが走り抜けた。
 男は微動だにしていないというのに、矢が破壊されているという事実。勿論それは驚愕に値する事象である。
 しかし、驚くべきはそこではない。
 一番の問題は、切断されたそれが男の足元に落ちている、その事実である。
「……ふむ」
「間違いないみたい、ね」
 矢は間違いなく男に向かって直進していた。もし単純に、男が手に持つナイフで矢を斬って捨てただけならば、矢は男の後ろにある扉に突き刺さる、もしくは叩きつけられているはずだ。しかし切断された矢は、男の足元に落ちている。
「ああ。噂どおりなら、このくらいのことはやってのけるだろう。間違いない。あれが、敵対した二十七祖を悉く消滅させているという、『殺人貴』」
 士郎の眼が眇められる。その表情は硬く厳しい。鷹の眼を持つ彼の瞳には、私とは違った光景が写っているのかもしれない。
「手加減は不要だ。遠坂、全力で行くぞ。俺が奴の動きを止める。遠坂はその隙を突いて、魔術で仕留めてくれ」
「全力ね……。それはいいけど。動きを止めるってどうするつもり?」
 矢を射るだけでは、今の様子を見る限り男の動きを止めることは不可能だろう。
「言っただろう。全力で行く。出し惜しみはしていられない―――|同調、開始《トレース オ ン》」
 不意に唱えられた、一節にも満たない短い詠唱。次の瞬間、士郎の魔術回路を電気にも似た魔力が駆け巡る。
「出し惜しみはしてられない、か」
 士郎の言う通り、まだ奥に真祖の姫がいるからといって出し惜しみなんてすることは出来ない。
 いま必要なのは、目の前にいる男を倒し、その道を拓くことだけ。何を今更、迷うことがあるのか。
 覚悟は、この地に来ると決めた時に済ませて来たはずだ。
「いいわ、その作戦でいきましょう。頼んだわよ、衛宮くん」
 左腕の魔術刻印に魔力を注ぎ込む。魔力はガソリンとなり、エンジンたる魔術回路を駆動させる。
「――|工程完了《ロールアウト》。|全投影、待機《バレット クリア》」
 士郎が低く呪文を紡ぐ。その文言を聞いて、私は小さく笑ってしまった。
 成程。本当に出し惜しみをする気は無いらしい。それなら私も、パートナーとして応えないと……!
「―――|投影、装填《トリガー オフ》」
 士郎が弓を射る姿勢を作る。しかし、その手に矢は握られていない。弓道で言うところの、素引きと呼ばれる状態。
 そう、矢を番える必要は無い。彼の矢は、幻想の世界より呼び出される、尊い幻想と呼ばれる概念武装。
「―――|投影、重装《トレース フラクタル》」
 六十メートルの距離を挟んだ先にいる男は、敵意も殺意も感じられない目で私たちの様子を眺めている。余程自信があるのだろう。構える素振りさえ見られない。
 相手の持つのはナイフ一本のみ。どれだけ規格外れの能力を持とうとも、この距離ではどうしようも――。
 そこまで考えた時、六十メートルの距離の向こうで男が小さくため息を吐いたように見えた。
「―――|I am the bone of my sword.《我が骨子  は 捻 じれ  狂う。》――偽・螺旋剣《カラドボルグ》=v
 引き絞られた弓から、螺旋状の剣が打ち出される。
 士郎自らの手で改良を加えた剣は、闇を斬り裂く稲妻と化し宙を奔った。
 正射必中。士郎の射た矢は光の速度で、寸分の狂いも無く殺人貴を襲う――!
「……っ!?」
 瞬間、閃光と共に、爆音が耳を切り裂いた。
 一瞬遅れて、熱風が私の髪を高く巻き上げる。凄まじい魔力の氾濫。辺りは火炎と粉塵に包まれる。
 私の目で追えたのは、士郎が矢を射た一瞬、殺人貴がわずかに上体を倒し、構えを取ろうとしたところまでだった。
「全く、本当に……!」
 本当に、容赦が無い。
 |壊れた幻想《ブロークン・ファンタズム》。
 改めて、横にいる士郎の出鱈目さを思い知る。しかし、
「なんだ、あの速さは」
士郎は、目を細め、忌々しそうにつぶやいた。
 そう。噂が真実なら、殺人貴はこの程度の小手調べで倒せる相手であるはずが無かった。
 爆心地に、男の姿が無い。私には消えたようにしか見えなかったが、何かを追う士郎の目は男がまだ健在であることを示していた。
「……」
 索敵に裂いていた意識を断ち、魔術回路の運用に意識の大半を傾ける。私は私の役目をこなすだけ。そう自分に言い聞かせる。
 矢を射終え、通常ならばまだ残身から抜けきらぬ状態から、士郎は二本目の矢を番えた。洗練された、滑らかな動き。精密機械の精度をもって、最短の時間で次の矢を放つ。
 それは、彼が戦場を駆け抜ける中、自ら改良を重ね、編み出した実践向きの弓術。
 それは裏を返せば、次の矢を番える間、背中を預ける相手さえ彼にはいなかったという事実の証明となる。
 三秒とかからず、次の螺旋剣が打ち出される。
 士郎が矢を射た方向から、私は殺人貴の居場所を推測する。
「うそ。この時間で、あそこまで移動したって言うの!?
 思わず驚きが声に出る。士郎が次に射たのは、大聖堂の右隅、さっきまで男が立っていた入り口から、軽く十メートルは離れた場所だった。
 といっても、士郎の壊れた幻想は、聖堂の入り口を全壊とまではいかないものの、殺人貴が立っていた床一面をクレーター状に削り取ってしまうほどの凄まじい威力を誇る。中途半端な回避行動では、衝撃波だけで体中の骨が砕けていただろう。
 まるでミサイルだ。
 完全に回避するには、なんらかの魔術を編み上げ宝具を無効化するか、衝撃波も及ばぬ位置まで逃げるしかない。宝具の威力を無効化するという行為が不可能に近い以上、回避行動を取るというのは最も現実的な選択と言えるだろう。
 ――!
 再び、目も眩むような閃光。そして、鼓膜を重く震わせる轟音。
 先ほどと、ほぼ同等の魔力の奔流が大聖堂を激しく揺さぶる。一撃目で辺り一面を覆っていた炎が、二撃目の生み出した衝撃波で消し飛ぶ。
「……ッ、殺人貴は!?」
「上だ」
 口を動かしつつも、士郎は三本目の矢を番え構えている。矢の切っ先は大聖堂の天蓋に向けられている。
「まさか、壁を駆け上がるとはな」
 士郎の唇が、わずかに吊り上がる。
 弓が引き絞られる。番えられているのは、本日、三つ目の宝具――いや、違う。
 三射目の弓には、投影された螺旋剣の贋作ではなく、何の変哲も無い矢が三本、番えられていた。
 粉塵の中から、殺人貴の身体が飛び出した。なんて出鱈目だ。士郎の言うとおり、壁を駆け上がってきたのだろう。垂直にそそり立つ大聖堂の壁を駆け抜け、そのまま逆さに天蓋に着地。なんて身軽さ。その姿はさながら昆虫のようである。
 しかし、いかに出鱈目とはいっても、自然法則には逆らえない。殺人貴の身体は、一瞬の静止の後、ゆっくりと落下を始める。
「――ッ」
 落下を始めた殺人貴が天井を蹴った瞬間、三本の矢が殺人貴の逃げ道を塞ぐように放たれた。当然、それらは例外無く必殺の威力を持っている。
 そこで初めて、私は士郎の唇が吊り上がった理由を知る。天井に逃げた殺人貴には、逃げ道が無い。
 それは、勝利を確信しての会心の笑み。
 しかし――。
 不意に、胸の内に涌いた疑問の声。
 殺人貴は、果たしてこの程度で勝負が付くような相手だろうか。
 逆さまに落下を続ける殺人貴の腕が、光速で振り下ろされる。それだけで、迫っていた二本の矢は突如その動きを止め、両断されて地に落ちた。そう、これだ。一番初めに殺人貴の足元に落ちていた矢と同じ、正体不明の斬撃。
 ――そして。
 殺人貴は体を捻るようにして、紙一重で三本目の矢を回避した。必殺の矢が、無効化される。思わず見入ってしまうほどの、流れるような動き。
 そして、それとほぼ同じタイミングで――。
「Ein KOrper ist ein KOrper――!」
 ――私は、右手に掴んだ宝石を眼前に放った。
 紡いでいた魔術式を展開し、宝石に封じ込められていた魔力を一気に開放する。
 急激に開放された魔力の奔流に、辺りの空気が悲鳴を上げる。
 魔力の塊が弾丸となって撃ち出され、大聖堂の天井を撃ち砕く。
 ガンドの乱れ打ち。一つ一つに必殺の威力を持った弾丸が、逃げ道を塞がれた殺人貴を襲った。
「かんっぺきッ!」
 思わず拳を握り締める。
 壊れた幻想とまではいかないものの、凄まじい爆音が聖堂に響き渡り、打ち抜かれた天井から低く重い、あるいは派手な音を立てて瓦礫が舞い落ちる。
 ぽっかり空いた穴から、強すぎる月光が降り注ぐ。薄暗い聖堂が月光に白く照らし出される。キラキラと落ちてくる粉塵は、場違いだと思えるほどに綺麗だ。
「……ふむ」
 喜ぶ私とは対照的に、士郎は静かに眉根を寄せた。
「どうやら、まだ喜ぶのは早いみたいだぞ。遠坂」
 何かを考え込むような表情のまま、足を引いて体の向きを変える。聖堂の奥、玉座へと続く扉に正面から向かう形となる。
「ちょっと、どういうことよ? まさか、あれが直撃して生きてるなんて言わないわよね」
 今の攻撃に、一体いくらの資産がつぎ込まれていると思っているのか。これで無駄に終わりました、なんて言われたら、卒倒してしまうぞ。私は。
 そう口で言いながらも、私は士郎が言った言葉を無視することは出来ず、粉塵が収まり始めた天井近くから目を放せないでいた。
「何も無いみたい、ね」
「まぁ、何も無いだろうな」
 粉塵が晴れた後も、そこには何の異常も見当たらない。殺人貴の姿はおろか、影も形も……。
「え?」
 影も形も見当たらない、だって?
 私が使った魔術は必殺の威力を秘めていた。とっておきの宝石を三個も使ったのだ。直撃したのなら、まず助かることは無い。
「嘘」
 しかし、
「どうして、何の痕跡も残ってないのよ」
 それは、人間の身体を何の痕跡も残さないほどに吹き飛ばしてしまうほどの威力だっただろうか。
「遠坂。いつまで余所見してるんだ」
 横から聞こえる、不機嫌そうな士郎の声。
「……それはそうか」
 溜息と共に、玉座へと至る扉の方へと向き直る。
「こんなにコトがうまく行くなんてありえないか。ねぇ、衛宮くん。私って、どうにもここ一番って時にすんなり事が運んだことって無いのよね」
 自分でも荒っぽいとわかる手つきで、埃っぽくなった髪を掻き揚げる。士郎は、そんな私を見てニヤリと笑った。
「ああ、知ってる。けど奇遇だな、遠坂。実は俺もなんだ。産まれてこの方、思い通りにコトが進んだ試しが無い」
 そう、何時だって私達は楽に生きられない。
 破壊の爪跡深く残る、玉座へと至る扉の前には、私たちがこの聖堂へ入った時と何ら変わらぬ様子で、殺気一つ身に纏わぬ一人の男が立っている。
 その手には、惜しみない月光を受け輝く銀のナイフが、死の予感と共に握られていた。



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