沙耶




 ―――明治三十五年、四月。故郷の遠野の風景の中で、あの日の僕はどうしようもなく無力な、十四歳の子供でしかなかった。



1/
 良かった、誰にも見つからずに出てくることが出来た。
 高鳴る鼓動を抑え、僕はあぜ道を全力で駆け抜けた。足にはあまり自信が無いけれど、ただ必死に山を目指した。
 膝の高さまである、名前も知らない草花を掻き分け、山道を登っていく。ついこの間までくるぶしの辺りまでの高さしかなかった草花が、やけに草履に絡んだ。
 そのまま走り続けると、やがて山道の向こうに目印となる大岩が見えてくる。ここまで来れば、目的地はもうすぐそこだ。路傍に立つお地蔵さまのところで、僕は一度立ち止まる。
「……」
 振り返り、眼下に伸びる山道に目を細める。
 木漏れ日が降り注ぐ山道は、うねうねと蛇行しながら、どこまでも続いていた。段々と濃さを増していく木々の緑が、輝いて見える。
「よし、」
 注意深く辺りを見渡して、誰も居ないことを確認すると、僕は慎重な足取りで山道を折れ、獣道に入った。
 この道の先に何があるのか、村の人たちは知らない。
 知っているのは僕と、彼女だけ。そこは二人だけの秘密の場所だ。
 草木は一層茂り、起伏は激しさを増す。林立する広葉樹から漏れる木漏れ日が段々と光量を減らしていく。
 柔らかな地面を踏みしめ、下草を掻き分けて進んでいく。緑の禿げた土の部分を選び、駆ける。ここを通る人は他にいないはずだから、この道を作ったのはこの僕ということになる。
 木々だけの風景が終わりを告げる。太いモミとアカマツの樹の隙間から見える光に向かって、僕は飛び出した。
 一気に、目の前が開ける。
 そこには小奇麗な、ちょっとした空間が広がっていた。
  四方を森と山肌で囲まれた小さな古びた神社。後ろには山肌に添うように注連縄の巻かれた大きな岩が鎮座している。不思議な神社だ。以前、村の人たちに聞い て回ったことがあるけど、この神社を知る者は誰も居なかった。いったい誰が、何のために建てたのだろう。そして何故こうして、皆から忘れ去られてしまった のだろう。
 上がる息を抑え、僕は境内を見渡した。僕はここで、ある人と待ち合わせをしていた。
 探し人はすぐに見つかった。鞠突きをしていた女の子と、目が合う。
「こんにちは。ハル」
 女の子は言った。
「……こんにちは。サヤ」
 乱れた息を整えながら、挨拶を返す。サヤは小さく首を傾げると、はにかむように微笑んだ。
「ごめん。遅くなったね」
 そう言いながら、僕は彼女に笑いかけた。
 サヤは背中までかかる綺麗な黒髪を揺らしながら僕の傍まで駆け寄ると、緊張した面持ちで、僕の顔を見つめた。
「?」
 僕は首を傾げた。
 サヤは僕から目を逸らすと、何かに戸惑うように、何度も世話しなくその大きなとび色の瞳を動かした。何かを言おうと口を開いたかと思えば、すぐに口を噤み黙り込んでしまう。何か言いたいことがあるのかもしれない。
 どうしたの?
 そう尋ねようと、口を開いたそのとき、
「……最近、どうして来てくれなかったの?」
 悲しげな目を向け、囁くような声でサヤが言った。
「ごめんね。けど、事情があって……」
 少し声の調子を落として、僕は伺うようにサヤを見つめた。サヤは深く追求しては来なかった。彼女はとても頭の良い子だ。僕が何か、大切なことを言おうとしていることに気付いたのだろう。そっと僕の着物の袖を掴むと、
「そこ、座ろう?」
 そう言って、神社の境内を指差し、優しく笑った。
 サヤに手を引かれ境内まで歩いていき、二人並んで腰を下ろす。
 僕は、サヤに話さなければならないことがあった。それは僕の村で起きたある事件のことだ。サヤは山から下りてくる事は滅多にないから、里での出来事に疎い。僕がする話が、彼女の村に関する知識全てだといっても良いだろう。
 少し間を置いてから、僕はサヤに向き直った。
「三日前から、ゲンが山に入ったまま姿が見えないんだ。……村総出で山狩りもしたんだけど、見つからなかった」
 静かに口を開いた僕を、サヤは真面目な顔で見つめていた。
  ゲンというのは、村一番の庄屋の息子で、僕より二つ年上の村の子だ。サヤは直接ゲンのことを知らないけれど、僕と仲の良い子の話はよく話題に上がっていた から、サヤも名前は知っている。三日前、ゲンはジロやヨシと一緒に、山で隠れん坊をして遊んでいたらしい。だけど、いつまで経っても見つからない。日暮れ が近づいて、もう帰ろう、と鬼が呼びかけても、返事は返ってこなかった。
 ゲンは夕刻になっても家に帰ってこなかった。
僕が家に着くと、村の寄り合いに呼ばれた父さんが家から出て行くところだった。
「庄屋さんのとこの、ゲンがいなくなった」
 短く、父さんが言った。
 ゲンを捜すため、山狩りがあるらしい。そこで初めて、僕はゲンがいなくなったことを知った。僕はその時サヤと遊んでいたから。
「神隠しにあったんだ、って父さんは言ってた。それで家族のみんなが、僕が山に行くのを凄く心配して……」
「……そうだったの」
 サヤは悲しそうな顔で俯き、足元をじっ、と見つめた。
「そういえば、一昨日の夜は夜中まで太鼓の音がしてた」
「うん。庄屋さん……。ゲンのお父さんが、夜中になっても探すのを止めようとしなかったんだって。ジロもヨシも、家から全然出してもらえなかったって言ってた。山には入っちゃ駄目だって言われてるのに遊んでたから、凄く怒られたんじゃないかな」
「ハルは、山に入って大丈夫なの?」
 上目遣いで僕を見上げ、申し訳なさそうにサヤが小さな口を開いた。
「うん。僕の父さんは山には詳しいからね。村の人も、その息子の僕ならって大目に見てくれてる。家の手伝いだって言えば大丈夫だから」
 本当は、ゲンのこともあるし、当分の間は山に入っちゃ駄目だと父さんにはキツく言われていた。庄屋さんはずっとピリピリしてるから、山で遊んでいるのが見つかると父さんも立場が無い、とも。
 けど僕はサヤを安心させてあげたくて、嘘をついた。こんな嘘ならきっと神様も許してくれるに違いない。僕はそう勝手に思うことにした。
「良かった」
 そこでようやく、サヤは笑ってくれた。はにかむように、優しく笑ってくれた。
 それから僕らは、夕暮れまで境内で遊んだ。地面に絵を書いたり、一緒に薪を拾ったり、しりとりをして遊んだ。何てこと無い普通の遊びばかりだったけど、それはすごく楽しい時間だった。サヤもたくさん笑っていた。
「次はハルの番だよ」
 ビー玉をころころと弾いて、サヤは無邪気な笑顔で僕を見上げた。
  サヤは小柄な女の子だった。出会った頃は、同じくらいの身長だったのに、今では僕の方がずっと大きい。サヤは僕より年下だろうから、背はこれから伸びるの だろう。サヤは自分の年齢がわからないらしい。だから、彼女が年下だというのは僕の勝手な想像だ。けれど、サヤの顔は僕と同じ十四歳の村の子達と比べる と、少し幼く見えた。
「ねぇ、サヤ。今度、村の子みんなで遊ぼうよ。そうすれば、もっと楽しいことが出来るよ」
 境内で顔を突き合わせてビー玉遊びをしていたとき、僕はそうサヤに提案した。
「え?」
 サヤは驚いたような顔で、僕の顔を見つめた。彼女の細い指先が、板張りの上のビー玉に触れる。
 そのビー玉は、僕が持ってきたものだ。五個しかないけど、二人で遊ぶにはそれだけあれば十分事足りる。けれど、村の子みんなで持ち寄れば、たくさんのビー玉で、もっといろいろな遊びをすることが出来る。新しい遊び方をサヤにも教えてあげられる。
 サヤならきっと、村の子達ともすぐに仲良くなれる。何も問題なんてありはしない。そう、僕は思っていた。しかし、
「……いい」
 名案と信じて疑わなかった僕の提案に、サヤは悲しそうな顔で首を振った。
「ハルがいればいい。他の子はいらない」
 口元を引き結び、サヤは真っ直ぐに僕の目を見つめた。その顔は、怒ったようにむくれている。
  頑ななサヤの態度が、僕には不思議だった。どうして、サヤは里と関わることを嫌がるのだろう。サヤという女の子がこの山に居るということを、村のみんなは 知らない。それは、何だか勿体無いことのように僕には思えた。仲良くなれたら、きっと楽しいはずなのに。きっと、もっとサヤは笑ってくれるはずなのに。
「ハルは、みんなと遊びたいの?」
 小さな手が、僕の手を握った。サヤの手は柔らかく、そして暖かかった。
 サヤのとび色の瞳が、じっ、と僕を見つめている。その目は、悲しそうに濡れていた。
 ――僕は馬鹿だ。サヤのそんな顔を見たくて、こんなことを言った訳じゃないのに。
「ううん。僕はサヤと二人でも楽しいよ」
 そう言って、僕はサヤに笑いかけた。それは紛れも無い本心だった。僕たちは、今でも十分に楽しい時間を過ごしている。サヤが今の状況が良いと言うなら、それで十分だと思った。
「私も。―――じゃあ、大きくなっても、遊びに来てくれる?」
 真面目な顔で、サヤは僕の顔をじぃ、っと見つめた。差し込む夕日のせいか、その顔は妙に大人びて見えた。サヤは何も言わず、僕の答えを待っている。
 答えなんて、初めから決まっている。
「―――もちろん。ずっと、ここで一緒に遊ぼう」
 僕がそう言うと、サヤはようやく嬉しそうに笑ってくれた。
「約束だよ?……指切り。ね?」
「うん」
 差し込む夕日が眩しい。僕たちは目を細めあいながら、指切りをした。サヤの大きな瞳に映った僕は、やっぱり楽しそうに笑っていた。
 夕日が遠くの山の尾根にかかった頃、僕たちはさよならをした。また明日、そう約束して分かれる。
 僕は村へ。サヤは山へ。
 僕らは、違う里の子だった。

2/
「ハル。こんな時間までどこへ行っていた」
 家に着くと、恐い顔をした父さんが土間に立っていた。サヤともっと遊んでいたくて、いつもより少し帰りが遅れてしまっていた。しまった。僕は慌てた。用意していた言い訳を思い出す。
「山に、薪を拾いに。ほら、これ」
 そう言って、僕は背中に背負っていた薪を父さんに見せた。サヤと一緒に拾った薪だった。
 父さんは僕の背負った薪を一つ取り出して、手に取ると、ん?と小さく目を細めた。怖かった目が、一瞬の内に丸くなる。感心したように、父さんは言った。
「……良い薪だ。良く見つけたな」
「うん。良い場所、見つかったから」
 背負っていた薪を降ろして、僕は言った。
 サヤは山にとても詳しくて、良い薪がたくさん拾える場所もたくさん知っていた。なんだかサヤが誉められているようで、僕はとても嬉しくなった。
「部屋に篭って本ばかり読んでいたお前がねぇ……。まあ、子供は外で遊ぶもんだ。それは良い」
 一度言葉を切ると、父さんの顔が難しい顔に戻った。
「だけどな、天狗森にはしばらく入っちゃ駄目だって言っただろ?いつも言ってるじゃないか。新参者のうちは、あまり目立つようなことはするな」
 薪を学校の先生が持つ教鞭ように振りながら、父さんは言った。天狗森というのは、村を囲むように聳える山の名前だ。
「……新参者、って、うちがここに越してきてもう四年だよ?いつまで小さくなってなくちゃいけないのさ」
「まぁ、そういうな」
 不満そうな声を上げる僕をなだめるように、父さんは言った。諦めの混じった声だった。
 父さんはとても力が強くて、怒ったら鬼のように恐い。けど理不尽なことでは怒ったりしない、とても冷静な人だ。元々、学者になるのを目指していたらしくて、いろいろな事をよく知っている。
 僕は、そんな父さんを尊敬していた。仕事をしているときの精悍な顔は、本当に憧れる。
「他 の村の人たちはもう何代にも渡って、この地に住んでいるんだ。四年なんて、その前では無いに等しい。俺達はまだまだ新参者なのさ。……そうだな。お前の子 供が大きくなる頃には、少しくらいでかい顔をしてもいいかもしれん。でも、それまでは我慢だ。人は一人では生きていけない。助け合わないと、生活さえまま ならない」
 だから、村の決まりはよく守れ。そう、父さんは言った。
「村八分の恐さは、お前だって知ってるだろう?」
「……うん」
 ずきり、と。
 胸の奥を、鈍い痛みが走った。
 力が強く、立派な父さんでも、村の人間から仲間はずれにされることは恐れていた。
 こんな小さな村では、村八分にされれば生きていくこともままならない。この地を離れなくてはならなくない。そのことは、僕自身十分に理解しているつもりだった。そうなってしまった人が、どうなってしまうのかも。
 前に、禁猟期に山に入った猟師が村八分にされたことがあった。禁猟期とは、その名の通り猟をすることの出来ない期間で、一月から二月の間に設けられる。禁猟期に猟をすると山の神様が怒って良くないことが起こるから猟はしてはならないというのが、村の決まりだった。
 父さんはそんなもの迷信だ、という。僕も、そう思う。けれど村の人は、その後に起こった大水を山の神様が怒ったせいだ、と言って猟師をなじり、村八分にした。
 それからの猟師の家は、それはそれは、悲惨なものだった。
 山で獲った獲物は誰も穀物と交換してくれず、猟師は歩いて三時間も掛かる隣の町まで売りに行かなければならなくなった。
 誰も口を効かず、困ったときも助けてくれない。それは残酷とも言える処遇だった。
 僕の背筋を、怖気にも似た何かが走り抜けた。
「山に入るな、とは言わん。けど、日暮れまでには帰れ。いいな」
「うん」
 村八分は、僕も怖ろしい。
 きっと、ジロもヨシも、僕と口を効いてくれなくなるだろう。父さんも、爺ちゃんも婆ちゃんも、妹のカヨも、きっと辛い思いをすることになる。
 それはとてもとても、恐ろしいことだった。


3/
その晩、ずっと昔の夢を見た。

「ねえハルちゃん。これ、被ってみてや」
 そう言うと、女の子は両手に下げていた花冠を僕の頭に乗せた。それは、あっという間の出来事だった。乗せても良いなんて、僕は言っていないのに。
「スズ。恥ずかしいよ」
 座り込み、てんとう虫を観察していた僕は、思わず頭の花冠に手を伸ばした。
 男の子がこんな花飾りを頭に乗せているなんて、母さんが見たらなんと言うだろうか。……恥ずかしい。火照った顔が熱い。
 本気で嫌がる僕に、けれどスズは笑ってばかりで、僕のことを可愛い、可愛いと言っては歓んだ。
 可愛いと言われて喜ぶ男はいない。僕は逃げるように彼女から視線を逸らした。しばらくしかめっ面をしていたけど、隣でスズが笑っているのが嬉しくて、僕はそっと、視界の隅に映る彼女の横顔を見つめていた。
 色とりどりの花々で埋め尽くされた花園は、柔らかな日差しに包まれていた。母さんが話してくれた天国というのは、このような場所なのかもしれないと、僕はおぼろげながらも考えていた。
 ここのところ、スズはどこか沈みがちなように見えた。
 なんでもスズの父さんが禁猟期に山で猟をしてしまったらしく、スズの父さん……マタギさんは村長さんに呼び出され、こっぴどく叱られてしまったらしい。スズはそれ以来どこか元気が無くて、僕は少し心配だった。
 けれど、こうして花冠を頭に載せた僕を見て、楽しそうに笑うスズは本当に元気一杯で、僕はほっとしていた。
「ハル、どうしたのさ?なんだか嬉しそう」
「そうかな」
 僕は曖昧に誤魔化した。心の中を見透かされたようで、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「けど、スズが元気になってよかった。最近、元気なかったから」
 つい、思っていたことが口に出た。
「……うん」
 スズの顔に影が差す。僕は、しまった、と思わず口を押さえた。
「ねえ、ハル?」
「なに?」
「ハルは、私のこと無視しないよね?ずっと私と遊んでくれるよね?」
 突然、必死な表情で、スズは僕の顔をじっ、と見つめた。とび色の大きな瞳が揺れていた。
「もちろんだよ」
 僕は、即座に返事を返した。
 あの事件以来、村の子供達は、スズを避け、一緒に遊ばなくなった。山の神様を怒らせた罰をスズが受けるとき、一緒に居たら巻き添えを食うぞ、と大人達が村の子供に言い聞かせているのを、僕は知っていた。
 今やスズと遊んでいるのは、僕だけとなってしまった。心の辺りがもやもやとする。僕はスズに悲しい顔をして欲しくなかった。
「父さんが、禁猟期に山に入ると山の神様が怒るなんて村の人が勝手に言ってるだけだって。そんなの迷信だって、言ってた」
「……本当に?」
「うん。父さんは昔、学者を目指していたらしくて、すごく優秀なんだ。だから間違いないよ。きっと」
 僕は、スズを勇気付けるようにそう言った。それは慰めでも何でもなくて、心からそう思っていたことだった。
「シュウおじさんがそう言うなら、そうなのかもしれんね」
「うん」
「ありがとう、ハル。ハルは賢い子だね。きっと、将来偉い学者さんになれるよ」
 そう言って、スズは僕の頭を何度も撫でた。僕より大きな掌で、何度も僕の頭を撫でた。
「や、やめてよ」
「えへへ。ハルは可愛いな。ずっと友達でいようね」
「……うん」
 スズは僕より二つ年上の女の子だ。村の子供達の中でも、ちょっとお姉さんに入る。けれど、あまり自分の言いたいことをはっきりと言わないせいか、苛められることが多い。スズは優しすぎるんだ。だから、しなくてもいいところで損をする。
 だから、僕が一緒にいてスズを守ってあげるんだ。悲しい思いをしないよう助けてあげるんだ。そう、僕は考えていた。
「あれ?誰か来たみたい」
 村の方を見て、スズが言った。僕もそれに倣って視線を向ける。誰かを呼ぶ声が聞こえる。
「ハル!ハルはいるか!?」
 僕の名前を呼んでいる。その声は、何かとても急いでいるように感じられた。
「あ、ゴロウおじさんだ」
 僕は、花冠を降ろすと立ち上がり、ゴロウおじさんに手を振った。この花園に入ると、まだ小さな僕達は花に埋もれて見えなくなってしまう。おじさんはすごく怖い顔で僕の傍まで駆け寄ってくると、酷く狼狽した声で言った。
「――鉄砲水だ」
「え?」
「ハル!鉄砲水だ!お前の母ちゃんが流された!」

 次の日の朝、母さんは下流の沢に引っかかっているところを発見された。
 もう、息はしていなかったらしい。
 らしい、というのは、見つかった母さんの姿を僕は見せてもらえなかったから、父さんや周りの大人に聞いたことだけで判断するしか、僕には術が無かったのだ。
 母さんに再会できたのは、母さんが焼かれ、小さな骨壷に納まってからだった。
 それは酷くあっけないものだった。
 あんな小さな骨壷に収まった白い灰と骨が母さんだなんて、とても信じられなかった。
 夢の中にいるような気持ちで、僕は数日を過ごした。夢なら早く醒めて欲しいと、何度も思った。
 押し殺すような声ですすり泣く家族の姿と、母さんの居ない、朝焼けに染まる囲炉裏だけが、唯一、残酷なほどの現実感を持って僕を責め立てた。

「なあ、ハル。部屋にばかりいないで、外に出て来いよ」
 ジロの声が聞こえる。
「もう二週間だぞ。さすがに身体壊すって……。辛いのは、わかるけど、よ」
 ジロはとても悲しそうな声で、けれど僕を元気付けるようにそう言った。
「ハルちゃん、お外で遊ぼうよ」
 ふすま越しに、悲しげなヨシの声が聞こえる。
 僕は、一人部屋に篭って泣いた。
 世界なんて、無くなってしまえばいいのに。

 ――久しぶりに出た外の世界はとても眩しくて、僕は思わず目を細めた。人はご飯を食べて寝てばかりでは生きていけないのだと、初めて知った。
「隠れん坊する人、この指とーまれ!」
 広場の真ん中で、ゲンが人差し指を立てた。みんながわいわい言いながら、それに群がる。
「行こ」
 ヨシが、僕の手を引いて輪の中に引き入れた。
 それから、僕はみんなで隠れん坊をして遊んだ。みんな、いつもよりどこか優しかった。
 四回ほど鬼が替わり、隠れ場所を探していた時、家の影から注がれている視線に、僕は気付いた。
「あ……」
 目が合うと、スズは驚いた様子で息を呑んだ。おどおどと、伺うような視線で僕を見た。何か言いよどむように口を動かし、
「あの、」
「ハル、無視しろよ。あんな奴」
 いつの間に僕の後ろに来たのだろう。低く強い声で、ゲンが言った。
「そいつの父ちゃんのせいで、ハルの母ちゃんは大水で流されちまった」
 スズを睨みつけ、吐き捨てるようにゲンは言った。ゲンは、いや村の人は、鉄砲水で母さんが流されたのはスズのお父さんが山の神様を怒らせたからだ、と噂していた。
「……」
「ゲンの言うとおりだ、ハル。あんな奴と、もう遊ぶんじゃねぇ」
「ジロ……」
 隣には、ジロとヨシも並んでいた。面倒見の良い、僕達の兄の様な存在であるジロがそんな酷いことを言うのが凄く意外で、僕は思わずその顔を見詰めてしまった。
 ジロは、スズを親の敵を見る様な目で睨みつけていた。
「……」
 ヨシは、何も言わずにただ俯いていた。
 酷く動揺した様子で、スズの瞳が揺れる。上目遣いに僕を見ながら、スズは僕の方へと歩み寄ってきた。ゲンが大きな身体で僕を庇うように、スズを威嚇するように、前に出る。スズは困ったように俯いた。
「ハ、ハル。あのね、あたし」
 ゲン越しに僕を覗き込みながら、スズは精一杯背伸びをして僕を見た。それは気が弱く、いつも小さくなって言いたいことを言えないスズらしからぬ行動だった。
 僕の心の中は、台風のように荒れていた。今スズと話をしたら、酷いことを言ってしまいそうで……。
 僕は、その視線から逃げるようにスズに背を向けた。
「……!」
 スズが傷つくのが、背中越しにもわかった。けれど、今はスズの顔を見たくなかった。否なことから目を逸らして、耳を塞いで、ただ楽しいことにだけ目を向けていたかった。
「ゴメンね」
 しばらくして、スズは涙声でそう呟くと、どこかへと走り去っていった。
 僕は今にも泣いてしまいそうだった。

 それからしばらくして、スズの家が、村を出て行ったことを知らされた。スズは、お別れを言いに来たのかも知れない。
 僕はまた部屋に篭りがちになり、毎日布団の中に閉じこもって、ただ泣いた。
 誰とも会いたくなんて無かった。
「ハル。もうマタギさんのことは、許してやれ」
 ある日、父さんが部屋にやってきて、僕に言った。
「祟りで人は死なん。母さんは鉄砲水で足元を掬われて、溺れて死んじまったんだ」
 そう、どこか力の抜けた声で言った。
 それは、僕だってわかっていた。
 スズの父さんが僕の母さんを殺したわけじゃないなんてこと、初めから解っていた。
 決まりを破ったのは、確かにマタギさんが悪い。けれど、僕は後で父さんから聞かされていた。
 マタギさんは。スズの父さんは、スズの母さんが患っていた病気の薬を買うために、たとえ禁猟期でも山に入って猟をして、お金を稼がなくちゃいけなかったんだって。
「たまるかよ。なあ。神様に母さん取られて溜まるかよ。ハル……!」
 そう言って、父さんは押し殺すような声で泣いた。
 泣く父さんの姿を、僕はその時、初めて見た。
 スズの顔が頭をよぎった。
 僕は、あれほど嫌でたまらなかった村の苛めに加わってしまったのだと、その時、初めて気が付いた。根拠の無い迷信を信じて、スズを村八分にしてしまったことを、心から恥じた。何もせずただ大切な友達を傷つけてしまったことを、心から悔いた。
 『無視してごめん。僕達は、ずっと友達だよ』
 たった一言。
 そう言ってあげることが出来たら良かったのに。

 目を覚ましたとき一番初めに目に入ったのは、頭上高く積み上げられたかび臭い本の山だった。
「あ……。また、父さんの書斎で寝ちゃったんだ……」
 起き抜けの頭を数回振って、僕は散らばる本の山を見回した。舞い上がったほこりが、太陽の光を浴びて輝いている。窓から差し込む太陽は既に高い。もう朝というより昼に近い時間であるようだ。
「……寝坊した」
 眠っていた場所のすぐ横に置いてあった読みかけの学術書を手に取り、しおりを挟んで本の山に積んでおく。装丁には、「古史古伝」と書かれている。読んでいる間に、眠ってしまったらしい。
  僕が暮らすこの村では、本はとても希少だ。字を読める人も、あまり多くない。けど、うちには難しい本がたくさんある。父さんが昔、学者を志していた時に集 めたものらしい。父さんはとても優秀で、昔は伊能……なんとかという有名な学者さんについて、勉強をしていたのだと、亡くなった母さんが言っていた。
 けど、父さんは爺ちゃんが倒れたのを聞いて、途中で里に帰ってきた。爺ちゃんは村でも責任の大きな、大事な仕事をしていたから、跡を継がなくてはいけなかったのだ。父さんは長男だったから、仕方の無いことだった。
  だから、父さんは自分たちのことを新参者というけれど、それは正しくない。父さんは元々この村の出身だし、爺ちゃんも婆ちゃんもその爺ちゃん婆ちゃんも、 ずっと昔からこの綾織村に住んでいる。決して、新参者なんかじゃない。それでも父さんが自分達のことを新参者、と言うのは、僕と妹のカヨ、そして村の外か ら嫁いで来た母さんの為だ。早く村に馴染めるようにと、父さんは「俺達は新参者だから、大きな顔はするな」と母さんに言い聞かせていたのだろう。あるいは それは、一度村を捨てて外に出た、自分への戒めだったのかもしれない。
 そんな父さんにとって、家の一室に設けられた書斎は特別なものだった。自 分の夢の跡を、父さんは捨て切れなかった。だから、他人はおろか家族の誰かが書斎に入ることも、父さんは好まない。けど、僕が字を読めるようになり、将来 学者になりたいと言ったら、快くこの部屋に入ることを許してくれた。
 僕は、父さんが途中で諦めなくちゃいけなかった夢を、叶えてあげたかった。
「おう、ハル。寝坊だな。早く起きなくちゃ偉い学者さんにはなれないぞ」
「あ、おじさん。来てたんだ」
 書斎から出ると、居間で父さんがゴロウおじさんと話をしていた。ゴロウおじさんは隣の家に住む、ヨシの父さんだ。
「今、寄り合いから帰って来たところよ。シュウに話があってな」
 シュウ、というのは父さんの名前だ。
「どうしたの?こんな時間から寄り合いなんて」
 囲炉裏の前に腰掛ながら、おじさんに尋ねる。
「山じいが、天狗山で子供を見たらしい。だからこれから、もう一度山狩りに行って来る。薪割り頼んだぞ」
 不機嫌そうな顔で、父さんが言った。
「え?ゲン、見つかったの?」
「いや。見かけたって言うのは、赤い着物を着た童女らしい。山じいの言うことだ。いつもなら聞き流すんだが、それを聞いた庄屋さんが偉く気にしてなぁ」
「赤い着物を着た、女の子?」
 纏わり付いていた眠気が、一気に吹き飛んだ。
 サヤだ。
 直感的に、僕はそう思った。
「庄屋さんが、その子供は隠し神だ、なんていいだしてな」
「隠し神って?」
「子供や若い女を攫っちまう恐い神様さ。赤い着物着て夜出歩く童女なんて、この村にはいねぇからよ。だからきっとその子が隠し神で、ゲンの坊主を攫っちまったんだ、って」
「なんだよ、それ。そんなの可笑しいよ!」
 突然大声を上げ立ち上がった僕を、二人は驚いたような顔で見上げた。
「なんだ。ハル。お前がそんな大きな声を出すなんて珍しいな。何かあったのか?」
 探るような口調で、おじさんが言った。
「庄屋は、ひっつかまえて跡取りを返してもらうって息巻いてるよ。……まったく。山じいなんて、最近ボケてきてるからまともに相手するなんて、どうかしてると思うんだがなぁ」
「おいおい、滅多なことを言うもんじゃない。庄屋さんに聞かれでもしたら……」
 父さんは、少し慌てた様子でおじさんを咎めた。
「おお、そうだな。怖い怖い」
 おじさんは、ばつが悪そうな顔でぺろっ、と舌を出して笑った。
「最近の庄屋さんの不機嫌さって行ったら無いからな。まあ、あそこは男の子はゲンだけだったから、気持ちはわかるが。……しかし、こっちは種まきで忙しいって言うのに……」
 ぶつぶつと文句を言いながら、おじさんは草履を履くと、土間に下りた。父さんも見送るためにそれに続く。
「それじゃ、そろそろお暇するよ。シュウさん、今度酒でも飲みながら話そうや」
「ああ。そうしよう」
 僕は、顔を洗うために裏口へ向かった。家の裏手には小さな井戸がある。
「あ。それと、ハル」
 歩き出した僕を、おじさんが呼び止めた。肩越しに振り返って、
「うちのヨシが最近遊んでくれない、って寂しがってたぞ」
 付け足すようにそう言って、おじさんは戸口から出て行った。
「あ……うん」
 僕は曖昧に頷いた。
 そういえば、最近ヨシに会った覚えが無い。最後に会ったのは、先月のことだったろうか。昔は毎日のように遊んでいたのに。
「なんだ、ハル。浮かない顔をして。まさか、隠し神が怖いのか?」
 顔を上げると、父さんがからかうような顔で僕を見ていた。
「え……。うん」
 思わず、頷いてしまう。僕が心配しているのは、そんなことではなかったんだけれど。
「ははは。お前もまだガキだな。本ばっかり読んで、人より物を知っていてもその辺の子供と変わりない。……なに、心配するな。いつも言ってるだろう?ちゃんと魔よけの呪いしてから入れば大丈夫だよ」
 からかうように、そして僕の不安を打ち払うように笑って、父さんは僕の背中をぽんぽんと何度か叩いた。僕は、うん、と小さく頷いた。
 そして、父さんは声の調子を幾分か落として、
「それと、お前も聞いたろ、庄屋さんはまだ随分ピリピリしている。しばらくは……わかるな?」
「うん」
 その目は、今日は山に行くなと告げていた。
 けど、僕はどうしてもサヤに会わなければならなかった。村の人が、サヤを見つけるために山狩りを始めるということを伝えなければならなかった。
 父さんが村の寄り合いに出かけたのを見計らって、僕はこっそりと家を抜け出した。


4/
 昨晩の雨でぬかるんだあぜ道に足を捕られ、何度も転びそうになりながら、あの境内に向かって走った。
 山狩りがあることを、サヤに知らせなきゃ。
 天気は快晴。田んぼではたくさんの農夫が田植えに励んでいる。僕は逸る気持ちを抑え、一際大きな民家の角を曲がった。そのまま、村を抜けていく。早くサヤに会いたかった。
  山狩りの間だけ、その少しの間だけ、サヤには森の隠れ家でじっとしていてもらうんだ。そうすれば、大人達はきっとまた前みたいに、山には近づかない、村の 中での静かな生活に戻る。ゲンだって、何食わぬ顔でひょっこり帰ってくるかもしれない。とりあえず、サヤのお婆ちゃんに任せておけば、きっと大丈夫だ。サ ヤのお婆ちゃんは凄く恐い人だ。けど、サヤのことはちゃんと守ってくれる。あの人なら、きっとサヤを里の人から匿ってくれるに違いない。
「ハルちゃん。待って」
 炭焼き小屋を回ったところで、大人の背丈ほどに高く詰まれた薪の影から、女の子の声が僕を呼び止めた。
 振り返ると、そこには眦を上げて僕を見つめる、ひっつめ髪の小さな女の子が立っていた。ヨシだ。
「どこ行くの?」
 責めるように、ヨシは言った。
「おじさんが、今日は外に出ちゃ駄目って言ってたでしょ?ゲンみたいに隠し神に捕られちゃったらどうするの?」
「……」
 上がる息を整えながら、僕は薪山から歩いてくるヨシを見つめた。上手い言い訳が見つからなかった。ヨシは、僕をしばらく見つめていたが、ふいっ、と踵を返して、
「……おじさんに、知らせてくる」
「待って、ヨシ」
 僕はヨシの着物の裾を掴んだ。浅黄色の、木綿の着物だった。たぶん、お姉ちゃんのお下がりだろう。
「薪を取りに行くとこなんだ。父さんにも言ってある」
「うそ」
 素早く、ヨシは言った。
「あたし、知ってるよ。ハルちゃん、昨日も薪取りに言ったんでしょ?ハルちゃんは薪を取ってくるのが上手だって、ヨシも今度いい場所を教えてもらいなさいって、お父さんが言ってた。今日使う分だって、まだ残ってるんでしょ?」
 ヨシは気が急いて上手く回らない口で、一気に捲くし立てた。
「それに、今日行っても薪、湿気ってるよ。昨日の夜、雨降ったから」
「……そうだけど、でも、取れるうちに取っておかないと。これから梅雨に入るから」
「あたし達と遊ぼうよ。ジロが、お家で綾取りしよう、って。ハルちゃん、綾取り得意でしょ?」
 そう言って、ヨシは握り締めていた輪になった赤い紐を、僕に突きつけた。
 反射的に、僕はその紐を手に取る。それは、今にも千切れてしまいそうな細い糸だった。
「どうしてハルちゃん、最近遊んでくれないの?どうして、山に行くなんて言うの?」
 僕を責めるヨシの声に、湿ったものが混じった。はっ、と僕が顔を上げると、そこには目に大粒の水滴をためた、今にも降り出しそうな、くしゃくしゃのヨシの顔があった。
「ハルちゃんも、ゲンみたいに居なくなったらどうするの?」
 そう言って、ヨシは小さな手で、僕の着物の裾を強く握った。日焼けして浅黒くなったその手は、サヤのものより小さかった。
 僕は、そこでようやくヨシが抱える不安と、恐れているものに気付くことが出来た。
 ヨシは、怖いんだ。ゲンが居なくなってしまったことが。あれだけ慣れ親しんだ山が、ゲンを攫っていってしまったことが。
「泣かないで。ヨシ」
 僕はヨシの小さな手に自分の手を合わせた。僕にとって、ヨシは妹のような存在だった。家が隣だったこともあって、家族みたいに思っていた。小さな頃はずっと一緒に遊んでいた。ヨシが僕なしでもみんなと遊ぶようになってのは、いつだろうかと考えて、僕ははたと気付いた。
 それは、二年ほど前。僕がサヤとあの桜の下で出会ったあの頃。
「ゴメンね」
 胸の辺りが苦しくなった。泣いているヨシを置いていくことなんて、僕には出来ない。
「う……。一緒に、遊んでくれる?」
「うん、今日はジロと三人で遊ぼう」
 そう言って僕が笑うと、ヨシはしゃくりあがながら、うん、と小さく一つ頷いた。


5/
「サヤ」
 息を切らし、若葉の茂った木々の間から抜け出す。山の向こうから差し込む、穏やかな赤い夕日に照らし出された神社の境内には、ぽつん、と一人行儀良く座るサヤが居た。
「ゴメン、約束したのに」
「ううん。いいの」
 僕が境内に近づくと、サヤが顔を上げた。その顔には、薄い笑みが浮かんでいる。
「ハルは、来てくれたから」
 そう言って、優しげな笑みを浮かべる。なんだか胸が苦しくなって、僕はサヤの視線から逃げるように目を背けた。
「ハル、具合悪いの?顔赤いよ?」
「夕日のせいじゃないかな。サヤだって、顔赤いよ」
 顔が赤いのは、ここまで走ってきたせいだと、僕はそう自分に言い聞かせた。
「そうかもね」
 サヤはころころと笑って、手を目の前に掲げ、陽の光を手で遮る仕草をした。目を細め、山間に沈んでいく夕日を見つめる。赤い夕日に照らし出されたサヤの手は、やっぱり白かった。
「今日は、どうして遅くなったの?」
「うん。それなんだけど、」
 僕が口を開くと、サヤはぽんぽん、と自分のすぐ隣の床板を叩いた。
「ここ」
 僕はすぐに頷いて、サヤの隣に腰を下ろした。日の光に照らされて、床板はほんのりと暖かい。
「時間もないし、簡単に話すね」
 夕日を見つめながら僕が言うと、サヤはうん、と真面目な顔で頷いた。
 僕は少し早口で、居なくなったゲンを探すため、今日から村のみんなが山狩りを始めるということを話した。そして、庄屋さんが山で見かけた、赤い着物を来た女の子を、隠し神だと言って探しているということも。
  サヤは真剣な顔で、こくこくと頷きながら、静かに僕の話しを聞いていた。村の人が、サヤのことを隠し神だと言って疑ってるなんてこと、言いたくは無かった けれど、僕はありのままを正直に話した。サヤの置かれてる状況を正直に話すことが、サヤにとって、もっとも良いことだと、僕は考えたからだ。それに、村の 人に言われて傷つくくらいなら、僕が自分の口から言ったほうがサヤの傷も和らぐようにも思えた。
 話を聞き終わると、サヤは自分の赤い着物を見下ろしながら悲しそうな顔で、そう、と一言だけ呟いた。
「ゴメンね。サヤ」
「え?」
「サヤは、人を攫うような、そんな酷い神様なんかじゃないって、普通の女の子だって、僕はよく知ってる。けど、僕じゃ村の人たちは説得できないから……」
「ううん。いいの。それより、ありがとう。ハル」
 俯く僕を見上げて、サヤは言った。
「私は大丈夫だから。ハルがちゃんとわかっていてくれるなら、里の人になんて言われても平気だから」
 そう言って笑うサヤの顔は、けれど少し、寂しそうだった。
「……サヤ」
「私達のことは秘密にしておいてね。おばばとも約束したでしょ?私達のことは、誰にも喋らないって」
 僕の目を真っ直ぐに見つめながら、サヤははっきりとした声でそう言った。僕は、すぐに大きく頷いて見せた。悪戯に僕がサヤのことを村の人に話せば、最悪、サヤは天狗森に居られなくなってしまうことを……。そして、サヤがそれをとても恐れていることを、僕は感じていた。
「もし喋ったら、きっとおばばに怒られるよ。怒ったおばばは、凄く怖いんだから」
 真剣な瞳で、サヤは言った。
 僕に身体ごと向き合うと、眉を寄せ、むぅっ、と頬を膨らませてみせる。サヤの白い顔が、すぐ目の前にある。怖い顔を作っているらしいけど、サヤがやるとそれは怖くもなんとも無くて、むしろ可愛いとさえ、僕には思えた。
「うん。わかってる。確かに、怒ったら怖そうだ」
 そう言って、僕は笑った。
 サヤのお婆さん、『サムト婆』に、僕は一度だけ会った事がある。
 去年の初夏の頃、サヤの家に招かれた時のことだった。
 しわくちゃの顔に、ぼさぼさの白髪。枯れ木のように細い身体に、扱けた頬、目は大きて、手には何故か鎌を持っていた。
 僕は初め、山姥が出た、と真剣に思った。
 思わず悲鳴を挙げそうになった。いや、たぶん少し声が漏れていたと思う。それくらい、サヤのお婆さんは怖かった。夜に森の中で会ったら、きっと失神してしまうと思えるくらいに。
 けれど、僕がすんでのところで悲鳴を抑えることができたのは、家に向かうまでの山道で、サヤが、
「おばばは人に怖がられると凄く傷つくから。だから、怖がらないであげてね」
と僕に話してくれていたからだった。
 口から漏れる悲鳴を押し殺して、僕ははじめまして、と頭を下げた。
「おばば。この子がハル」
 後ろに立っていたサヤが、僕を手で示した。自分より年下の女の子に、この子なんて呼ばれるのはちょっとむずかゆかった。
「ほぅ。この子がねぇ……。そうかい、そうかい」
 見かけ通りの皺枯れた声でそう言ったと思うと、おばばの相好が、くしゃ、っと崩れた。土間から降りてくるやいなや、僕の周りをぐるぐると回りながら、値踏みするように僕の身体をねめまわした。
 なんだか、売られていく仔馬のような気分だった。
「なんだい、思ってたより小さいねぇ」
 ころころと鈴を転がすように笑いながら、今度は透き通った声で、おばばが言った。それは、姿かたちとは裏腹に、どこかサヤに似ていた。
「おばば。あまりじろじろ見ないであげて。ハルが困ってるじゃない」
 窘めるように、サヤが言った。お婆さんは、そうか、それは悪かったね、と言って、軽快な足取りで土間に戻っていった。
「ハル。儂はサヤの婆さんで、『サムト婆』と呼ばれておる。お前もそう呼びんしゃい」
 苔の生えた爪を僕に向けて、サムト婆は言った。
「そしてここの場所や、儂や、そこのサヤの事は、誰にも言っちゃいけないよ。いいかい、誰にもだよ。あんたの、おっとうやおっかあにも言っちゃ行けないからね。約束できるかい?」
「うん。約束するよ。誰にも喋らない」
 サヤたちが村の人からあまりよく思われていないことは、僕も知っていた。サヤに悲しい思いをさせたくは無い。僕はすぐに頷いた。
「いい返事だ。……もし、約束を破ったら、あんたを食べちゃうからね」
「え!?」
「お、おばば!」
 サヤが、慌てた様子で僕を庇うように前に出た。
「なんじゃなんじゃ。冗談だよ。……それにしても、サヤは随分とその子がお気に入りのようだねぇ……。そうだ。ハル、お前はサヤから何か、その……物を、貰ったかい?」
 僕の身体をじっ、と見つめて、おばばが言った。それは、何かとても大事なことを確認するような慎重さだった。
「うん。……鈴を」
 僕は首から提げたお守りの中から、小さな鈴を取り出して見せた。煤けた青銅でつくられたそれは、ずんぐりと大きく、重くて、汚れた青色をしていた。
 鈴と言っても外側だけで、中身が入ってないから音は鳴らない。初めて会った年の春の終わりに、サヤから貰ったものだ。
 鈴を取り出した僕を見て、サヤは、あ……、というような顔をした。
「よしよし」
 サムト婆は、満足げに大きく頷いた。サヤは何も言わず俯いていた。
 見かけは怖いけど、優しいお婆さん。それが、サムト婆を見たときの印象だった。それ以来、僕は彼女に一度も会っていない。
「本当に、怒ったら怖いんだよ。おばばは。私やハルには凄く優しいけど、里の人には凄く怖いの」
 境内から身を乗り出して、サヤは、むぅ、と頬を膨らませた。どうやら、まだ僕を怖がらせようと頑張っているらしい。けれどその試みが効を奏すことは無いだろう。
「それじゃ、サムト婆にも言っておいてね。昼間は出来るだけ目立たないところに居てって。夜は山狩りが無いはずだから……ちょっと危ないけど、その時に用事は済ませて」
  夜の山は危険だ。歩き慣れた人でさえ、帰って来れないことがある。特に今は昨日の雨で山道はぬかるんでいるから、余計に危ない。普段から山で暮らすサヤ や、サムト婆……。あるいは、仕事で山に入ることの多い父さんでも無い限り、夜の山に入るというのは危険なことだ。だけどだからこそ、村の人に見つかる危 険性は昼間に比べてずっと低くなる。
「それと、山狩りは明日の朝一番に東の山すそから入ると思う。南の麓ならきっと、平気だから」
 山狩りの時は、天狗山に詳しい父さんが先頭に立って道を決める。だから、僕には山狩りがどこから始まるのか、大体の予想が付いた。
「うん。わかった。ありがとう、ハル」
 どこか安心した様子で胸を撫で下ろしながら、サヤは言った。
「山狩りが終わるまでは、ここには来ないほうがいいね。山狩りが終わったら、この境内に大きな石を置いておくから、夜になったら見に来て。次の日から、またここで遊ぼう」
 僕は、昨日の夜からずっと考えていた案をサヤに話した。それはとても素晴らしい、名案のように僕には思えた。
 サヤは、うん、とどこか不満げに小さく頷いた。
「何か気になる?」
 僕の案に、何か問題があるのだろうか?心配になって僕はサヤの顔を見つめた。
「……ううん。凄く、いいと思う。……けど、ハルとしばらく合えないんだと思ったら、少し寂しいな、って」
 サヤは寂しそうに笑った。
 僕はサヤの手を取ると、帯の下に忍ばせておいた物を、そっとサヤに手渡した。
「はい、これ」
「なに?……紐?」
 サヤの瞳が真ん丸に見開かれた。
 それは、今にも切れそうな、細く、赤い糸だった。ヨシの家で遊んだ後に、懐に入れて持ってきておいたのだ。
「うん。綾取りの糸。サヤは、綾取り、知ってる?」
「……少し」
 少し困ったような顔で、サヤは笑った。あまり得意じゃないのかもしれない。
「サムト婆は、知ってるかな?」
「たぶん、知ってると思う」
 小さく首を傾げながら、サヤが言った。
「じゃあ、次ぎ会う時までに、練習しておいてね。今度遊ぶときは、一緒に綾取りしよう」
「うん。ハル、約束だよ」
 僕に向かって小指を差し出し、サヤは優しくはにかんだ。


6/
 サヤと別れた頃には、太陽は沈み山間に消えていた。薄暗くなった山道をとぼとぼと歩きながら、僕は不意に心寂しさを感じて用心深く辺りを見渡した。誰かが僕を見ているような気がした。
 ほう、とどこかで梟が鳴いた。自然と、歩調が早くなる。
 今日は、あまりにも急いでいたものだから、森に入るときにお呪いをするのを忘れていた。さっき思い出して、一応やっておいたけれど、効果が有るかはわからない。このお呪いは、山に入るときにやるものだから。
 僕は、胸元に下げたお守りを強く握り、無事に家に帰れますように、と強く、神様にお願いした。
 と、掌に何か硬い、丸い塊が触れる。
「……」
 立ち止まり、その異物を取り出す。メッキの剥がれた青銅製のそれは、以前、サヤから貰った鈴だった。
 中身の空っぽの、青銅の球。音の鳴らない鈴。
 元から中身が無かったのか、それとも途中で中身だけ無くなってしまったのか、僕にはわからない。それを手にした瞬間、不思議と胸の裡を占めていた不安が消えていくのを、僕は感じていた。何だか、とても安心する。
 梅干大のそれを掲げて、僕は鈴に施された隙間から中を覗き込んだ。
 真っ暗だ。何も無い。空っぽ。
 これをサヤから貰ったのは、彼女と出会ってから一月ほど経った頃だった。今日が誕生日だと言ったら、サヤがくれたのだ。
「これ、あげる。だからハルちゃん、いつまでもお友達でいてくれる?」
 鳴らない鈴を握った手を僕に真っ直ぐに差し出し、サヤは不安そうな表情で僕を見た。その頃はまだ、僕とサヤの身長は同じくらいだったと思う。
  初めて出会ったとき、サヤは丘の上にある満開の桜の木の下で、ぼう、っと平野に走る線路を見つめていた。父さんの手伝いで山に入ったのはいいものの、道に 迷ってしまった僕は、その見慣れない女の子に声をかけるべきか悩み、立ち尽くしていた。舞い散る桜の花びらの中で、少しだけ大人びた顔で佇む女の子は、こ の世の者とは思えないほどに、美しかった。
「誰?」
 僕の存在に気付くと、女の子は怯えるような仕草で桜の木の背に隠れた。その向こうは急な斜面になっている。僕は女の子がそのまま落ちてしまうのではないかと思い、酷く慌てた。
「ごめん、驚いた?」
 上ずった声が喉から漏れた。
 女の子は何も言わなかった。
「道に迷ったんだ。村は、どっちかわかる?」
「……」
 桜の木の後ろから、女の子は伺うようにこちらを見ている。
 警戒心むき出しの視線を向ける女の子に、僕は困り果ててしまった。気まずい沈黙が流れた。
「どこの村?」
 不意に、幾分和らいだ、鈴を転がしたような声で女の子は言った。
「あ、綾織」
「……それなら、あっち」
 木の後ろから顔と手だけを出して、女の子は一点を指差して見せた。
「あっちから森に入って、十分くらい降りてけば、道に出るから。後は、わかると思う」
 ぼそぼそと早口でそう言って、女の子は僕が動き出すのをじっと待つように息を潜めた。僕を見つめる瞳が訝しげに細められる。
「……行かないの?」
 そう、彼女は言った。まるで子猫のようだ、と僕は思った。
「ねえ、君はどこの村?」
 僕は、彼女に興味が湧いていた。僕と同じ年頃のその女の子と、出来ることなら友達になりたいと思った。
「私は……。どこの村でもない」
 硬い声が、女の子の白い喉から漏れた。
「友達になろうよ。僕は春彦って言うんだ。君は?」
「……サヤ」
 戸惑うような気配の後、小さな声で女の子……。サヤは言った。
「ねえ、サヤ。僕もそっち行っていい?」
「どうして?」
「こんなに離れてたら、声がよく聞こえないでしょ」
 耳に手を当て僕がそう言うと、サヤは小さく頷いた。
「あ……」
 近づいていく僕を、サヤは恐る恐る見守っていた。僕が現れるまでサヤが座っていた場所に腰掛ける。そこからは近くの村の全景が見渡せた。僕はぽんぽん、と自分の隣を数度、叩いて見せた。
「?」
「ここに座りなよ。一緒に汽車、見よう?」
 サヤの瞳が途惑うように揺れる。雪のように舞い散る桜の花びらの中、
「……うん」
 サヤは、はにかむような、色づいた桜のような笑みを浮かべた。
 こうして、僕達は友達になった。サヤは初めは、うん、とか、そう、とかしか言わなかったけれど、僕が村のことを話すと、興味深げに、真剣な顔で聞いてくれた。桜の下で話をしながら、時折蒸気を上げて眼下の景色を横切って行く機関車を、二人して見つめていた。
 どこにいくんだろうね?と僕が聞くと、わからない。けどきっと、すごく遠くだよ、とサヤは答えた。
 サヤはあまり自分のことを話そうとはしなかった。けれど、最初の頃の警戒した様子は夕暮れになり僕たちが別れる時には、ほとんど消えていた。
「それじゃ僕、そろそろ帰るね。サヤは一人で帰れる?」
「……」
 こくり、とサヤは頷いた。
 それじゃ、と僕が言って踵を返すと、サヤの手が僕の着物の裾を掴んだ。それは透き通るほどに白く、美しい、女の子の細腕だった。
「ハ、ハルちゃん!」
 これまで聞いた中で一番大きな声で、サヤは初めて僕の名前を呼んだ。
「なに?」
「あの……! その、また、遊んでくれる?」
 不安げな面持ちで、サヤは言った。僕は嬉しくなって、何度も大きく頷いた。僕ばっかり話していたから、サヤは退屈していたんじゃないかと思っていたから。
「もちろん。友達なんだから当たり前だよ。――それじゃ、明日もここで遊ぼうか」
「あ――う、うん」
 サヤは目を丸くすると、何度も大きく頷いた。凄く真剣な表情だった。
「じゃ、明日のお昼過ぎに、ここで」
 桜の木の下に戻り、彼女に向かって右手の小指を差し出す。
「?」
 サヤは不思議そうな顔で、僕の顔を見つめた。
「どうしたの? ほら、指きり。……もしかして、指きり知らない?」
「ううん!」
 胸の前で両手をぶんぶん振りながら、サヤは言った。躊躇うような一瞬の間が僕たちの間に下り、
「はい、」
 やがて、おずおずとサヤは僕の小指に自分の小指を絡めた。心なしかその顔は赤く染まっているように、僕には思えた。
「どうしたの?顔、赤くなってるよ」
「ゆ、夕日のせいじゃないかな?」
 サヤは真っ赤な顔で俯き、そう言った。
「じゃ、行くよ――」
『ゆーびきーりげんまーん』
 こうして僕達は、夕日差し込む桜の舞い散る丘で一つの約束を交わした。そしてこの先ずっと、この約束が繰り返し交わされていくのだと、僕は信じて疑わなかった。
 桜の花びらが、風に運ばれて高く、高く、上っていく。

 そうして、僕とサヤは一番の友達になった。








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