7/
「ハル。お前、どこへ行っていた」
 戸口を開くと、怒り心頭の父さんが仁王立ちで立っていた。ただならぬ様子に、僕は思わず身を硬くした。
「あの……。ジロの、家まで」
 父さんの身体が動いたかと思った刹那、視界一杯に閃光が奔った。
 そして、暗転。
 次の瞬間、僕の身体は藁束のように、戸口の外へ吹っ飛んでいた。どうすることも出来ず、砂利道の上に仰向けに倒れ込む。
「嘘を吐け! 山に入ったんだろう!?」
 倒れる僕を見下ろして、父さんは怒鳴った。
 僕はただ呆然と、目を剥いて僕を睨みつける父さんを見上げていた。
「シュウ、その辺にしておやりよ」
 戸口へ降りてきた婆ちゃんが、父さんの震える手を掴んで言った。潤んだ目で父さんを見上げ、次に僕を見て哀れむように目を細めた。
「あれほど、山には行くなと言っておいただろう。言っている意味が解らなかったのか?」
 父さんは早口に、問い詰めるような口調で、そう言った。
「……」
 僕は何も言えず、ただ俯いていた。殴られた顎の辺りを押さえて、零れそうになる涙を堪えていた。
 どうしてわかったんだろう。確かに少し帰りが遅くなったけれど、婆ちゃんにはジロの家に遊びに行くと、伝えていたはずなのに。
「庄屋さんがな」
 動揺する僕を見透かすように、父さんは口を開いた。
「庄屋さんが、お前が天狗森に向かったのを見た者が居る、と言っていたぞ」
「……え?」
 血の気が引いてくのが、わかった。心の底が冷え切って、冷たく怖ろしい何かが胸の奥から込み上げてきた。
 父さんを見上げた。父さんは、厳しい顔で僕を見下ろしていた。そこでようやく僕は、とんでもないことをしてしまったんだということに、気付いた。
「……うっ、」
「ほら、ハル。父ちゃんに謝って」
 傍まで寄ってきた婆ちゃんが、手を引いて僕を立ち上がらせた。僕は擦りむいた手が婆ちゃんに触れないように、ゆっくりと立ち上がった。口の中は錆っぽい鉄の味がした。
「……っ、ごめんなさい」
 ぽつり、と呟くような声で僕は言った。声は涙で震えていた。
「……入れ」
 父さんは短く言うと、土間へと消えていった。婆ちゃんは僕の手を引いて家の中へ連れて行こうとしたけれど、全身が鉛のように重く、僕はその場を動くことが出来なかった。
 カヨが、戸口の向こうから顔を出して、兄ちゃん、大丈夫?と心配そうに尋ねてくる。僕は、うん、と小さく頷いた。
 村の決まりを破ったことが、ばれてしまった。それも、一番知られてはならない、庄屋さんに。
 僕は、恐怖で足がすくんでしまっていた。
  村八分にされるかもしれない、という不安と恐怖が、僕の背中に重くのしかかった。それは、とてもとても、恐ろしいことだった。父さんも、婆ちゃんも、爺 ちゃんも、まだ小さなカヨでさえ、村の人から無視されて、猟師の、あのマタギさんの家みたいになってしまう。想像するだけで申し訳なさで心が震えた。
 婆ちゃんに手を引かれ、小さくなりながら、僕は土間に上がった。爺ちゃんとカヨが、僕に哀れむような視線を向けた。父さんは、ただ黙々と端を動かし、ご飯を食べていた。
 婆ちゃんはいつも僕が座る場所ではなく、自分の隣に僕を座らせた。そして、何も言わずに、芋と人参、そしてインゲン豆の盛られたお碗を差し出した。
 夕食は、なんだか食べた気がしなかった。
 何かを口に含むたびに、口の中に出来た傷に触れて痛んだ。
 みんなは何も言わず、重苦しい空気の中、ただ箸を動かしていた。かちゃかちゃという音だけが、囲炉裏に響いている。
「シュウ。モスケの怪我は……その、大丈夫なのか?腕と胸を斬られた、と言っていたが」
 父さんが箸を置いたのを見計らうように、既に夕飯を食べ終えていた爺ちゃんが尋ねた。
「ああ。大丈夫だ。命に関わるほどじゃない。医者も呼んだし、大丈夫だろう」
「山姥に斬られた、と言っているらしいな」
 いぶかしむような口調で声を潜め、爺ちゃんが尋ねる。途端、父さんの顔が苦々しいものに変わった。
「俺が実際に見たわけじゃないんだが……」
 そう前置きして、父さんはゆっくりと口を開いた。
「山狩りで、東の裾野からジュンサイ沼に入ったところらしいんだが、村の者が山菜を摘んでいる白髪で痩せっぽちの、襤褸切れを身に纏った婆さんに出くわしたらしい。……不気味な婆さんだといぶかしんで、モスケがどこの者だ?と尋ねたらしいんだが、答えない」
 ぴくり、と僕の身体が震えた。
「黙り込んじまうものだから、次にモスケが、この辺で赤い着物を着た童女を見なかったか、と聞いたら、知らぬ、どうしてそんなことを聞く?と応えたもんだ」
 上目遣いに、僕は父さんを見上げる。
「それで、その童女は隠し神だから庄屋さんが連れてくるように言っている、と答えた途端、持っていた鎌で襲い掛かってきたって言うんだ」
「なんと、まぁ」
 婆ちゃんが、口元に手を当てて皺くちゃの目を細めた。
「身体を庇って腕を出したところを、ずばり。それで、喪助もこれは不味い、と、背負っていた鉈で斬り返したんだとよ。その山姥もモスケも胸を斬られて、山姥はそのまま山に逃げて、モスケは村の者に抱かれて命からがら、戻ってきたらしい」
「むう。恐ろしい話だのぅ」
「おっとう。こんなこと、今までにもあったのか?」
 父さんが尋ねる。すると、
「まさか。止めておくれよ。あるわけ無いだろう。そんな恐ろしいこと」
 婆ちゃんが、早口ですぐさまそれを否定した。
「そ、そのお婆さんは大丈夫なの?」
 僕は思わず身を乗り出して、父さんに尋ねた。自分でも意識していない無意識の行動だった。父さんはいきなり大きな声を上げて立ち上がった僕を見て、戸惑うように目を見開いた。ついさっき、父さんに殴られた時の光景が脳裏を過ぎる。ずきり、と顎の辺りが痛んだ。
「お婆さんの傷、どうだったの?」
 殴られてもいい、と思った。それよりも、そのお婆さんの傷が気になった。
「んなもん俺が知るか。ただ、その婆さんは恐ろしく足が速く、風のように山を登っていったと村の者は言ってたな。それだけ身軽に動けるんだ。そう深い傷を負わせられたとも思えん。……ハル。まさかお前、その婆さん知ってるのか?」
 父さんの目が鋭く光る。
「し、知らないよ」
 僕は再び腰を下ろすと、口を噤んで食事を再開した。他のみんなは既に食べ終えているのに、箸が思うように進まず、お椀の中にはまだ半分ほどの量が残っていた。
 父さんは僕をしばらく見つめていたが大きく息をつくと、重い腰を上げて書斎に消えていった。
 僕はその背中を、こっそりと見送った。そっと胸を撫で下ろす。
 その斬られたお婆さんは、きっとサムト婆だ。間違いない。サヤの為にも、ここで僕がサムト婆のことを話すわけにはいかなかった。
 僕は染みるのも構わず、残っていた夕飯を口の中に掻き込んだ
 何が出来るわけでもないのに、ただ気持ちだけが焦っていた。


8/
「どうして里の人たちは、山の人を恐がるの?」
 火の消えた囲炉裏を囲み、僕は爺ちゃんにそう尋ねた。他の家族はもう寝てしまい、囲炉裏の前には僕と爺ちゃんの姿しかない。
「ん?何じゃ、いきなり」
 爺ちゃんは、困ったように眉根を寄せ、僕の顔をまじまじと見つめた。
「そうさなぁ。山の人間は、普通の人間じゃないからだろう。あいつらは昔から、里の者に悪さをしおる。人攫いだって、昔は頻繁に起きておったからな」
「普通の人間じゃない、って……。ただ、山に住んでいるだけでしょ?僕達と何も変わらないじゃない」
 僕が抗議すると、爺ちゃんは真剣な様子で顔を顰め、
「そ れは違うぞ。ハル。山は、とても厳しいところだ。お前の父さんであるシュウのように屈強で知恵の有る者でも、あそこで暮らすのは難しい。そんなところで生 活を営むなど、とてもワシらには無理な話じゃ。山で生活を営むなどということ事態が、そもそも異様なことなんじゃよ。あやつらには、何か人知の及ばぬ何か があるんじゃろう」
「でも……」
「じゃが、」
 口を開いた僕を制するように言って、爺ちゃんは考え込むように口を噤んだ。僕は、静かに爺ちゃんの言葉を待った。
「何 故、恐がるのか、と聞かれると……。困るのぉ。山の民は、力が強い言うて、昔から稲の刈り入れの時は手伝いに来てくれていたこともあったそうだ。悪さを働 くのも、止むにやまれぬ事情あってのことだということも想像できる。そう考えると、同情的な者が居ても、可笑しくないのような気もする。しかし、実際に は、里の者にそんな者はおらん」
「うん」
「だから、里の者が山の民を必要以上に恐れるのは恐らく……彼らのことがわからないからなんじゃろうな」
「わからないから、恐い?」
「ああ。シュウも昔はよく言っておった。わからないから、つまらん迷信など恐れるんだ、とな。だから俺は学者になる、学者になって、村の皆が信じている迷信が、恐れる必要なんてないものなんだということを証明してみせる。そう言って、あいつは家を出て行ったんじゃよ」
「父さんが?」
 僕は、思わず尋ね返してしまった。爺ちゃんの話は、僕にはとても意外に思われた。
 魔除けだの、禁忌だのと口うるさい父さんが、そんな動機で学者を志したという事を、僕は俄かには信じられなかった。
「ああ。あいつには、つまらぬ風習に村のみんなが縛られ、正しいことを行えないこと、そして、風習により苦しむ人が出るのを見過ごすのが、許せなかったんだろう」
 僕は、村八分にされたマタギさん達のことを考えていた。禁猟の掟を破って山に入り、後から山で起きた災害を、すべて一人のせいにされてしまった、あの一家のことを。
 村のみんなは薄情だった。仲の良かった人たちでさえ、困っている彼らを助けようとはしなかった。
 僕はそれがとても恐ろしく思えて、同時に、どうしようもなく腹立たしかった。
 けれど、僕に村の皆を責めることはできない。
 彼らを助けようとしなかったのは、僕も同じだったのだから。積極的か消極的かというだけで、僕もまた、彼らを追い詰めたことに変わりは無い。
「そ れらの風習は、より良く暮らすため、危険な目に遭わないように、とワシらのご先祖様が残して下さった物じゃ。しかし、風習や慣習は変わらず伝えることが出 来るが、時代が変われば人は変わる。風習や慣例が変わらなくとも、それを用いる人が変われば、不幸をもたらすようになることだってあるんじゃよ」
 どこか遠い目をして、爺ちゃんは天井を仰ぎ見た。
「……ワシらはそれに慣れ親しんでしまっているから、可笑しいとも思わない。だが、シュウの奴はどうしても納得できなかったんじゃろうなぁ」
 父さんがそんなことを考えていたなんて。僕はそんなこと、ぜんぜん知らなかった。僕にはそんな話し、してくれたことが無かったから。
 父さんの抱いていた気持ちは、今僕が抱いているものと同じだった。
 そう、僕らは知らないから恐れる。山も、暗闇も、迷信も。そして、わかってしまったとき、どうすることも出来ないと理解しなければならないのが怖いから。もっと恐ろしいものに出会ってしまうのが怖いから、僕たちは、知ることさえ恐れる。
 サヤのことだってそうだ。
 あんな優しい女の子を、隠し神だ、化け物だ、と迫害することに、いったい何の意味があるというのだろう。少し話せば、きっと解り合えるはずなのに。
「ハル。風習や慣例を嫌っていたシュウが、どうしてそういった迷信を信じるようになったのか、解るか?」
「え?」
「お前達を、守るためじゃよ。なまじ、セツさんがあんなことになったからな。お前たちまで神様に取られたら、と思ったら怖くなったんじゃろう」
 そうか。
  父さんは、禁を犯した者と遊んでいた僕の変わりに、母さんが亡くなってしまったと、考えていたのだ。いや、もっと想像するなら、父さんは母さんが死んだの は自分のせいだと、自分に課せられた罰なのだと、そう思ったのかもしれない。マタギさんの家の子達と遊んでやりなさい、と言ったのは父さんだったから。
 それはとても非科学的で論理的な考え方ではない。学者肌の父さんにとって、それは信じるに値しない妄想だったに違いない。
 けれど。
 けれど、万が一にもこれ以上家族が盗られるなんてこと、父さんには耐えられなかった。
 だから、それまで嫌っていた迷信を―――。
「……」
 人は変わる。
  世間と関わり続ける限り、僕らは変わっていく。かつて輝いていた思い出が色あせ、あんなにも大切だった思いは消えていく。そして、逆にこれまでなんでもな いものが、輝いて見える瞬間が、確かに在る。それが良いか悪いかなんてことは、まだ僕には解らない。けれど、父さんがあの事件により変わってしまったこと は、たぶん意味のあることなんだと、僕は思った。
 そこまで考えたとき、木の擦れる、ふすまの開く音が聞こえた。音のした方を見ると、そこには父さんが立っていた。
「おお、もうそんな時間か」
 爺ちゃんが言った。
「ああ。おっとう。ちょっと出かけてくる」
 壁に掛けてある狩衣を身に纏い、父さんは外に出る支度を始めた。どうやら、今から外に出る用事があるらしい。
「出かけるの? 父さん。こんな時間に?」
 僕は尋ねた。
「山狩りだ。庄屋さんが、山姥をひっ捕まえるって張り切っていてな」
 不機嫌そうな口調で、けれどきちんと、父さんは答えてくれた。
 僕は、サヤのことが心配になった。サヤには昼間、彼女に夜は山狩りは無い、と言ってしまっていたから。
 ……いや、きっと大丈夫だ。サヤだって、夜に出歩いたりはしないだろう。山狩りと言っても、道の無いところへは入らない。夜となればなおさらだ。よほど南の麓に近づかない限り、彼女達の家が見つかってしまうとは考えにくい。
「ハル。お前はもう寝ろ」
 草履を縛りながら、背中越しに父さんが言った。今夜は言うことを聞いておいた方が良さそうだ。僕は、素直に頷いた。
「……うん。父さん、先導役、頑張って。足元ぬかるむから気をつけて」
「ああ。――だけどな、今回は俺が先導じゃないんだ」
 自分の部屋へと向かって歩き出していた僕は、その言葉に足を止めた。
「え?今、なんて」
「今回は、庄屋さんが先導するんだと。子供が遊んでいた所を中心に回るから、捜す場所は自分で決める、って聞かなくてな」
 辟易した様子で、父さんは言った。僕の胸に、何かもやもやとした、予感めいたものが沸き起こった。
 どうして今日に限って、そんな……。
「それじゃ山には……。山には、どこから入るの?」
 父さんは、淡々とした口調で言った。
「南の裾野だ」
 背中を、冷たいものが滴り落ちた。


9/
「待って!父さん!」
 家を出た父さんを追いかけ、僕はその着物の裾にしがみついた。父さんは、厳しい目で僕を見つめた。その瞳に一瞬、身体が竦む。しかし、
「僕も一緒に連れて行って」
 その目をしっかりと見返して、僕は言った。
 今、僕がこの村を抜け出すことは出来ない。そして、このことをサヤに伝える術も、僕は持たなかった。こんな夜中じゃ山の奥深くにあるサヤの家を探し出すこともままならない。
「お願いします……!」
 けれど、それでもじっとしていられなかった。僕は父さんの行く手を阻むように立って、必死に頼み込んだ。連れて行ってくれるというまで、何があっても動かないつもりだった。
 父さんは僕の目をじっと見つめていたが、やがて、ため息を吐くと、仕方ない、と言うように、
「山姥に知らせに行く気か?」
 僕の背後から、硬い声が響いた。
「庄屋さん……」
「!?」
 振り返るとそこには、共の者を三人ほど連れ、恐ろしい顔で僕を見下ろす庄屋さんの姿があった。
「まさか、ハルを連れて行く、というんじゃないだろうな。シュウ」
 恫喝するような声で、庄屋さんは言った。父さんは困りきった顔で僕を見下ろし、
「いえ、そういうわけでは……」
と歯切れの悪い口調で言った。
「お願いします、僕も連れて行った下さい!」
 思いっきり頭を下げて、僕は頼み込んだ。相手が誰であろうと、気持ちに変わりは無かった。
「……」
 返事が無い。
 何故だろう、と顔を上げると、そこには、
「ハル!俺が、知らないとでも思ったのか!?」
 顔を真っ赤にして、ぶるぶると震える庄屋さんの姿があった。庄屋さんの手が、僕の胸倉を乱暴に掴む。
「お前が連日山へ入っているのは知ってるんだぞ!? もしかしてお前、山姥にうちの息子を売ったんじゃないだろうな!? どうなんだ、ハル!」
「……!?」
 息が出来ない。僕は手足を必死に動かして、抵抗した。けれど、大人の力で掴まれてはどうすることも出来なかった。庄屋さんの血走った目が、僕の顔のすぐ近くにあった。怖い。僕は庄屋さんのことを、初めてそう思った。
「流石に言いすぎですぜ。庄屋さん」
 横から入った誰かが、胸倉を掴む庄屋さんの腕を取った。
「もういいでしょう。相手は子供です」
 それはゴロウおじさんだった。どこか暢気なその口調とは裏腹に、おじさんはとても怖い顔で、庄屋さんを見下ろしている。
「なんだ、この手は」
 恫喝するように庄屋さんが言った。取り巻きの男たちが、おじさんの周りを囲む。
「いえ、別に」
 手を掴んだまま、おじさんはへりくだるような笑みを浮かべた。村の実力者である庄屋さんには誰も逆らえない。それはおじさんも、そして僕の憧れる父さんでさえも、同じだった。庄屋さんの顔が、不機嫌そうに歪む。不意に、僕の胸倉を掴んでいた手が解けた。
「げほ、げほ、」
 ひゅぅ、という空気を吸い込む音と共に、冷えた夜気が肺の中いっぱいに流れ込んだ。むせる僕を冷たい目で見下ろして、庄屋さんは何も言わずに背を向けた。
「お願いします。僕も一緒に行かせてください!」
 その足に、僕は縋りついた。
「駄目だったら、駄目だ!」
 興奮気味に怒鳴って、太い足が僕を蹴り上げる。鳩尾の辺りを蹴られて、僕は蹲った。
 くそ、
 僕は心の中で毒づいた。何も出来ない自分の無力さが、お金があって、地位が有るだけの大人に何も出来ない自分がどうしようもなく情けなかった。けれど、僕はサヤを守りたい。あの小さなサヤが、村の人たちに迫害されている姿を想像するだけで、死にたくなる。
 何も出来ないくらいなら、死んだほうがマシだとさえ、僕には思えた。あんな思いは、もう二度としたくない。
「とにかく、そいつを家から出すな。いいな!」
 息も満足に吸えず、何も言えなくなった僕へと、嗜虐的な笑みを向けると、庄屋さんは取り巻きを伴って歩き出した。
「……!」
 まだだ。まだ何も終わっていない。
 お願いだ、僕の喉よ、動いてくれ……!
「……ぉ、お願いします!僕も、連れて行って下さい!」
 搾り出すように言った声は、思ったよりも大きく夜の村に響いた。庄屋さんは振り向くと、再び、憤怒に染まった顔を僕に向けた。
 ハル、と僕を窘めるゴロウおじさんの声が、どこか遠くで聞こえた。
 いくら何でも、大人たちにはもう、庄屋さんを止められない。何をされても助けてくれる人はいない。それでも良かった。こうしている間にサヤが見つかる危険が少しでも減るなら、それは僕にとって本望だった。
「この、ガキ……!つけ上がりやがって!」
 庄屋さんは、近くに居た取り巻きの男からまだ火のついていない松明を取り上げると、僕に向かって振り上げた。
 数瞬後に襲ってくるであろう痛みに、歯を食いしばる。
 と、そのとき、
「俺も、一緒にいきたいな」
 どこか暢気な子供の声が、近くで響いた。
「……ジロ?」
 声の主は、友達のジロだった。ジロは、泥まみれの僕を無視して庄屋さんに近づいていった。
「庄屋さん。ゲンが心配なのは僕も同じだよ。だから、一緒にいきたい。一緒に行って、ゲンを連れて帰って来たいんだ」
 僕より三つ年上のジロは、背が高い。庄屋さんに顔を寄せると、真摯な声でそう訴えかけた。
「むぅ」
 庄屋さんの顔が、歪む。ジロはこの辺一体の大地主の息子だ。僕のように簡単に殴るわけにはいかなかった。
「わ、わたしも!」
 家から飛び出してきたヨシも、僕を庇うように前に出た。外の様子に気付いて、ずっと近くで見ていたんだろう。その身体は小さく震えている。
「……!」
 庄屋さんの顔は、倒れてしまうんじゃないかと思うくらいの、鮮やかな朱に染まっていた。
「お願いします!」
 僕が頭を下げると、みんなも同じように頭を下げてくれた。ヨシは、震える身体で僕を庇ってくれている。
ヨシは、まだ本当に小さな子供だった。だからこそ、ここで庄屋さんがヨシを殴れば、きっと周りの大人たちも黙っていない。冷たい沈黙が流れ、そして、先に折れたのは庄屋さんの方だった。
「……好きにしろ。シュウ、お前が決めろ。だが連れて行くというなら、子供達が何かやらかしたときは、お前が責任を取れ。いいな!」
 吐き捨てるように言って、庄屋さんは村の奥へと歩いていった。
「父さん!」」
 僕は、父さんを振り返った。
父さんは、考え込むように頭を掻き、泥まみれの僕を見て目を細め、
「……まあ、なんだ。ハルももう十四だ。来たいと言うなら止めはしない。だが、ついてきてもいいが、邪魔だけはするなよ」
 ふっ、と穏やかな顔で苦笑すると、しぶしぶと言った様子で、僕たちが付いて行くことを認めてくれた。


10/
「ありがとう。ジロ。助かった」
 暗い夜の中に沈んだ田園を歩きながら、僕はそっとジロに耳打ちした。
「気にするな。ゲンが心配なのは、俺も同じだからな」
 ゲンは少しぶっきらぼうに言って、口の端を吊り上げるようにして笑った。
「ハルちゃん。ゴメン。ハルちゃんが山に行ってるって庄屋さんに話しちゃったの、あたしなの」
 今にも泣き出しそうな声で、ヨシが僕の腕を掴む。
「ゴメンね、ハルちゃん。庄屋さんに言うつもりは無かったんだけど、お父さんに話してるの、聞かれちゃって……」
 隣に並んだヨシの目には、今にも零れ出しそうな大粒の涙が湛えられている。僕は、ヨシの手を握り返した。
「いいよ。大丈夫だから、気にしないで」
「けど、驚いたぜ。ハルがあそこまで誰かに食いつくの、俺、初めて見た」
 意地悪く笑うジロの後ろで、ヨシがうんうん、と何度も頷いた。
「そうかな」
 僕は首を傾げた。言われてみれば、そんな気もした。
 大人たちは皆、一様にぴりぴりしていた。手には、鉈や斧、といった物騒なモノを携えている。庄屋さんの取り巻きの中には、猟銃を持っている人も何人かいる。今回の山狩りは、行方不明のゲンを探すというよりも、山姥を捕らえる、という意味合いの方が強いためだろう。
 僕の後ろには、ぴったりと寄り添うように父さんが、ヨシの後ろにはゴロウおじさんが立っている。ジロも含めた僕たち三人のお守りは、村でも腕っ節が信頼されている、二人が勤めるのだ。ジロのお父さんも、それなら、とジロの同行を許すほど、この二人にかける信頼は厚い。
「シュウさん。この道は大丈夫かね?」
 大人たちは、たびたび歩く速度を落としては、父さんにそう尋ねた。その度に、父さんは近くにある危ない場所を示して、あそこに近寄らなければ大丈夫、といった類の助言をしていった。父さんがわからないところは、ゴロウおじさんが細かく指示をした。
 山狩りに参加している男達には、猟師が多かった。当然、みな山にはとても詳しい。それでも、こうして父さんやゴロウおじさんに助言を求めるのは、隠し神といった、僕たちの理解を超えた何かを恐れているからに他ならない。
 父さんは仕事柄、まじないや神様といったことには詳しく、村の人たちからも一目置かれていた。
 山は静かで、微かな虫の鳴き声一つしなかった。大きな石の転がった山道は昨日の雨で濡れていた。転ばないように注意しながら、けれど周りの大人たちに遅れないよう、僕は慎重に斜面を登って行く。
 繋いだヨシの手から、段々と力が抜けていく。彼女にこの道は、かなり辛そうだった。大人と同じように山を登るのは、まだ早かったのかもしれない。
  山の空気は澄みきっていた。木々の間から見上げた空には、半分の月が掛かっている。星はあまり見えない。雲がかかっているせいだろう。梢や葉に阻まれ、月 明かりは僕の足元を照らしてはくれなかった。上ばかり見ていたら、下草が足に絡んだ。後ろにいた父さんが、足元しっかり見て歩け、と僕の頭を軽く小突い た。
 大人たちが掲げた松明が、ぼう、と闇を照らしている。松脂の焼ける臭いが、風の具合によって時折僕の鼻腔を突き抜ける。松明が足元を薄暗く照らしてくれているから歩けるのだと解っていても、どこかべた付いたその空気が、僕は堪らなく不快だった。
 頬を炙る熱い松明の炎も、僕は苦手だ。夜の空気は冷たいのに、松明のある場所に近づくと顔の片方だけがちりちりと焼けるように熱くなる。
 黙々と、ただ黙々と、僕達は歩いていく。
  普通なら、山狩りの時は居なくなった人の名前を呼んだり、太鼓を打ち鳴らしながら歩くものだ。しかし、今日は違った。皆、そわそわと闇の中を見つめなが ら、声を潜め、身を寄せ合うようにして歩いていく。もちろんそれは、庄屋さんの言うところの、山姥に見つからないようにするためだった。
 辺りに、生き物の気配は無い。とても静かだ。父さんは、普段使わない道で熊に遭うのを恐れているようで、縄張りを示す爪跡を、木の幹に探しているようだった。
 山は険しく、そしてあまりにも不気味だった。
 本当に、サヤはこんなところで暮らしているのだろうか?どこから熊が襲ってくるかも解らない、こんな冷たい暗闇の中で。
 ふと、僕の脳裏に、爺ちゃんの言っていた言葉が過ぎった。
 ―――山は、とても厳しいところじゃ。あそこで暮らすのは難しい。あやつらには、何か人知の及ばぬ何かがあるんじゃろう―――。
 それは、サヤは普通の人間ではない、ということ?
 僕は、その想像を振り払うように、何度も首を振った。
 例え想像でも、僕だけはサヤを疑ってはいけないと思った。
 先頭を歩く庄屋さんを見やる。松明を手に進む庄屋さんは、血走った目で皿のように闇の中をじっ、と見つめていた。その姿に、僕は恐怖に震えた。赤い炎に照らされた庄屋さんの顔は、僕の知っているものでは無かった。それこそ山姥のそれのように、僕には思えた。
「もうすぐ沢に出る。足元に気をつけるんだぞ。この暗闇だ。もし落ちればただじゃすまない」
 歩くのが単調な作業になりかけていたころ、厳しい声で父さんが言った。ヨシの小さな手が、ぎゅっ、と僕の手を握り締めた。
 水の流れる音が聞こえてきた。緩やかに流れるこの川は、村のすぐ隣を流れる川の上流になる。僕もこの場所へはサヤと何度か水遊びに訪れたことがあった。
「おい、何か居るぞ」
 緊張感に満ちた囁くような声で、先頭付近を歩く誰かが言った。
「え?」
 ドクン、
 心臓が大きく、鼓動を刻んだ。
「ちょっと……、すいません!」
 大人たちの間を抜けるように前に進み出ると、崖の上から沢を覗き込んだ。
 本当だ。確かに、誰か居る。鹿か、熊か。それとも、もしかして―――。
 僕が身を固くしたその時、雲が流れ、隠れていた月が、川べりを淡く照らし出した。
「……うそ」
 赤い着物に、白い肌。それは、間違いなくサヤだった。川べりにしゃがみこみ、何かやっている。こちらには気付いていないようだ。
「見つけたぞ……!隠し神め……!銃を持ってこい!」
 狂気を含んだ声を聞いて、心臓が跳ね上がった。
「待ってよ、庄屋さん。ただの女の子かもしれないだろ」
 僕は、庄屋さんの腕に飛びついた。しかし庄屋さんは僕を振りほどくと、血走った目を僕に向けた。
「何言ってやがる!あの手に持っているものを見てみろ!」
 僕は、素早くサヤの手元に視線を走らせた。
 川べりに座り込んで、何かを洗っている。あれは、
「あ」
 僕は、小さく息を呑んだ。それは、血に染まった麻布だった。真っ赤に染まった麻布を、サヤは洗っていたのだ。水に溶けた赤い血が、川を帯のようにたなびいていた。
「山姥だ。きっと、山姥の血だ!」
 恐れを含んだ声で、誰かが言った。庄屋さんを止める者は、もはや誰も居なかった。
「どけ、ハル!おい、こいつに邪魔をさせるな!」
「!」
 取り巻きの男たちが、僕を羽交い絞めにして、地面に押さえつけた。腕が軋むように痛い。大人たちの力は僕のそれとは比べ物にならないほど強い。
「ぐぅ、」
「これ以上庄屋さんを怒らせるな。本当にお前ら、村にいられなくなるぞ」
 僕を抑える取り巻きの一人が、そっと耳打ちした。
「うぅ、」
 僕は、自分の無力さを嘆くことしか出来なかった。
 悔しさで、かみ締めた唇から熱い血が流れ落ちた。
「この俺が、仕留めてやる!」
  庄屋さんは近くに居た取り巻きから猟銃を奪い取ると、目の前に広がる草むらを無造作に掻き分け、サヤに銃口を向けた。揺れる銃口を震える手で押さえつけ、 興奮で荒くなった息を静めようともせず、沢に居るサヤに照準を合わせる。サヤは気付かない。真剣な顔で、何度も石に布地をこすり付けている。
「駄目だ! ……っ!?」
 暴れる僕に、僕を押さえつける大人たちの手に、力が篭った。ぶつり、と胸元に下げていたお守りの糸が切れ、地面に落ちた。
「あ……ぎ!?」
 関節がきりきりと軋む。あまりの痛さに、気が遠くなる。強く目を瞑ると世界は溶け、曖昧に滲んでいった。
「うぅ」
 ――僕は、どうすればいいのだろう。
 庄屋さんを止めれば、サヤを助けることが出来るかもしれない。けれど、それは本当に本当に、小さな可能性だ。成功するかどうかもわからない。僕に出来ることなんて、ほとんど有りはしないのだから。
 だけど、ここで僕が庄屋さんに歯向かえば、僕たち家族は村八分にされる。これは確実だ。この状況では、僕達を守ってくれる人は居ないだろう。父さんも、爺ちゃんも、婆ちゃんも、妹のカヨも、砂を舐めるような生活を送ることになる。僕の勝手な行動で。
 駄目だ。そんなこと、僕には出来ない。
 ……なんて、無力なんだ。
 僕は、どうすればいい?薄れいく意識の中、僕は誰かに尋ねた。
 誰でもいい。教えて欲しい。誰か……!
『ハル』
 ふと、誰かが僕の名前を呼んだ気がした。
 母さんだ。
 どういうわけか、僕はその声を瞬時に判断することが出来た。それは、幼い時に僕が聞いた、母さんの声だった。何度も思い出そうと試みて、一度も成功したことの無い、母さんの声だった。
 光一つ届かぬ暗闇の中に、ぼぅ、と滲むように、大人の女性が立っている。その顔は酷く滲んでいて判別さえがつかない。
 ごめん、母さん。僕は母さんのことを確実に忘れていっている。だから例え幻だとしても、僕の知る母さんには顔が無い。今はもう、僕にはその温もりも、細かい全体像さえ思い出すことは出来ないんだ。
 僕は酷い人間だろうか?人は変わっていく。大切な思い出を忘却していく。それはとても悲しくて、残酷なことだ。大切な誰かにはずっと自分のことを覚えて欲しいと、誰しもが思うだろうから。
 だから僕は、変わりたくないと願った。
『ハル』
 今度は、違う声が僕を呼んだ。
 スズだ。またしても、僕はすぐにそう気付くことができた。
 母さんの消えた暗闇の中に、滲むように女の子が立っている。それは、かつて村を追われた友達のスズのだった。
 あの日の姿で現れたスズは、確かに笑っていた。
 ごめん、スズ。僕は君の友達失格だ。君が一番辛いとき、僕は部屋に篭ってただ泣いていた。内気な君が勇気を出して僕に何かを伝えようとしていたそのとき、僕はただ自分のことだけを考えていた。
 情けなくて、死んでしまいたくなった。
 けれど人は変わっていけるから。それまで守れなかった何かを守れるようになる可能性を秘めているから。だから僕は、死ぬのを止めた。死ねばそれこそ本当に、君を傷つけた罪から逃げ出すことになるから。
 変わりたいと、切に願った。
『ハル』
 今度は、父さんの声。
 父さんは、厳しい顔で僕を見つめていた。
 倒れた爺ちゃんのため、自分の夢を捨てて、故郷へと帰ってきた父さん。そして、母さんが亡くなり、誰かを失う恐怖から、それまで信じていなかった迷信を信じることにした。
 誰かを守るために、変わることを選んだのだ。
 そしてきっと、僕達を守るという事は、母さんの意思を守るということでも有る。父さんは、守るために変わることを選んだ。
『ハル』
 今度は、また違う声。それは、サヤの声だった。
 彼女はとても悲しい顔で僕を見ていた。心臓が抉られるような思いだった。サヤに視線を合わせることが出来ない。俯き、僕は自分の無力さが悔しくて震えた。
 僕は、どうすることも出来ないのか……? 変わらないままでいて、過ぎ去った思い出だけを抱えて、生きていくべきなのか? スズの時の様な後悔を、また繰り返すのか?
「そうじゃない、これじゃ駄目なんだ……!」
 歯を食いしばり、薄れていく意識を必死に繋ぎとめる。
 僕は、変わらなくちゃいけない。
 亡くなった母さんのためにも、かつて傷つけてしまった大切だったはずの友達、スズのためにも。
 そして、大切な誰かを守るために自分の信念を、夢を犠牲にしてきた、父さんのためにも。
 僕には出来ることがある。
 もっとも恐れるべき事は、村八分なんかじゃない。サヤが思い出の中だけの存在になってしまうことなのだ。サヤが母さんのように記憶だけの存在となり、段々と霞み、滲んでいってしまうことなのだ。
 ここで彼女を見捨てれば、僕は間違いなく後悔するだろう。
 それなら、死んでしまった方がずっと良い。そう、僕は思ったんじゃなかったのか。
 僕は、変わらなくちゃいけない。
 大切な人を、しっかりと守れるように―――!
「サヤ、逃げて――!!」
 叫んだ瞬間、全ての時間が動き出した。突然の叫び声に、僕を拘束していた男たちの手が弱まる。
 男たちの注意は今まさに撃たれようとしている川べりのサヤにのみ注がれており、僕への警戒が弱まっていたのだ。
「サヤ!」
 駆け出した僕の手を、誰かが掴んだ。僕は、その手を力いっぱい振りほどいて、庄屋さんの構えている銃に、
「ゲンを返せ、この化け物!!」
「止めろ―――!」
 力いっぱい、飛びついた。
 ダン、
 銃声と同時に、森の鳥達が一斉に飛び立った。
 庄屋さんもろとも林の中へ倒れこんだ僕は、急いで川べりに赤い着物姿の女の子を探した。
 そこに、サヤの姿はすでに無かった。
「う、サヤ? 銃は……!?」
 庄屋さんの銃の照準は逸れ、天を付いていた。よかった。サヤには当たらなかったようだ。
「消えた」
 誰かが、呟いた。
「消えた、消えたぞ!確かに消えた!銃声が鳴った瞬間、いなくなっちまった!」
 化け物だ。やっぱり化け物だったんだ。
 口々に、誰かが言い始めた。
「ハル、貴様ああぁ!」
 庄屋さんは僕の手を振り払うと、拳を振り上げて僕の頬を思いっきり殴り飛ばした。頭が激しく揺さぶられ、一瞬遅れて頬が熱くなり、焼けるような激痛が走った。僕の身体は、村のみんなの前まで吹き飛ばされる。さぁ、と人波が、僕から離れるように退いた。
「!?」
「大丈夫か、ハル」
 唯一前に進み出たゴロウおじさんが、僕を抱きとめてくれた。折れた奥歯が、舌の上に零れ落ちた。口元から真っ赤な血が冷たく滴り落ちる。
「化け物に、かどわかされおって……!」
 かちゃり、
 庄屋さんの構える銃口が、僕に向けられた。
「止めろ、庄屋さん。正気か!? ハルは村の子供だぞ!」
 ゴロウおじさんが叫ぶ。けれど庄屋さんの目は血走っており、その顔には狂気がありありと浮かんでいる。言葉が聞こえているかどうかも判らない。
 頭から、血の気が失せていく。どうすることもできず、瞬き一つさえ出来ず、ただ震えながら僕は向けられた銃口を見つめていた。
 どん、
「ひっ……!」
 重い音が響いた。僕は、思わず悲鳴を上げて後ずさった。ゴロウおじさんは、庇うように僕をしっかりと抱きとめた。痛みは、無かった。
「え?」
 撃たれて、いない。
「いい加減にしろ!! 人の子供になにしやがる!」
 怒声が響いた。
 何が起きたのかもわからず、僕は目を開いた。そこには、庄屋さんから銃を取り上げた父さんの姿があった。
「うぅ」
 庄屋さんが、頬を押さえて立ち上がる。そこで初めて僕は、父さんが庄屋さんを殴りつけたのだと、知った。
「貴様、何をしたのか、わかってるのか!?」
 燃えるような瞳で父さんを睨みつけ、庄屋さんが叫んだ。その声はわなわなと震えている。
「隠し神を庇い立てするのか!? ゲンを。ゲンを返せ! 化け物……! ゲンを、ゲンを、ゲンをぉ……!」
 庄屋さんが泣き崩れる。父さんは、庄屋さんを睨みつけたまま、何も言わなかった。周りの大人たちも、僕を抱きかかえたゴロウおじさんも、ヨシも、ジロでさえも、息を呑んだように、僕たちを見つめていた。
「化け物の仲間め、裏切り者め……!! 貴様ら、この村で生きていけると思うなよ!」
 そう言って顔を上げた庄屋さんの目は、激しい恨みと憎しみで震えていた。そんな目を、僕は知らなかった。そこまで激しい瞳の色を、そこまで激しい悲痛な声を、そこまで惨めに大人が泣き崩れる姿を、僕は知らなかった。
 ただ、ぶるぶると震えて、化け物のように恐ろしい大人の姿を見ていることしか出来なかった。
 ――けど、たぶん。
「う……、うぅ、」
 それが、人間の本当の姿なんだ。そう思って、僕は泣いた。


11/
 あの山での出来事の後、僕は自分の部屋に軟禁され、どんな理由があろうと外に出ることを禁止された。
 あの晩、腫れ上がった頬と体中に出来た痣が痛んで、僕は一晩中、布団の中で悶え、のた打ち回った。
 障子の向こうから、ぼぅ、と漏れてくる灯りが、夢とも現実とも判断の付かない曖昧な意識の中で、ゆらゆらと揺れていた。 くらくらと回る世界の中で、ズキズキと痛む身体で、僕はサヤのことばかり考えていた。
 サヤは、無事自分の家に帰り着くことが出来ただろうか?サムト婆の怪我の具合は、良くなったのだろうか?村の人に化け物呼ばわりされ、あまつさえ銃を向けられて、傷ついたりしていないだろうか?
 次々と疑問が浮かんでは消え、僕は何一つ答えを出すことの出来ない自分を呪った。
 父さんは村の寄り合いに呼び出されて出て行ったきり、戻ってこない。爺ちゃんと婆ちゃんが真剣な声で、ぼそぼそと何か相談しているのが、障子越しに聞こえていた。
「……ねえ、スズ。僕、今度は逃げなかったよ」
 暗闇に沈んだ天井を見つめながら、呟く。その声は涙で滲んでいたけれど、ちっとも惨めなものなんかじゃ無かった。

 数日後、僕はサヤを探して山を登った。
 村のみんなはサヤのことを化け物だの神様だの、無責任に言い争っているが、僕はそんなもの全く信じてなどいなかった。
 サヤは人間だ。僕と同じただの人間だ。それは他でもない、この僕が一番よく知っている。滲むような暖かな手。伺うような臆病な眼差し。照れたようにはにかんだ笑顔。
 ずっと昔、あの桜の花が咲いた場所で出会ってから、僕達は幾つもの季節を共に過ごしてきた。日差しを浴びる野原も、紅葉に色づく野山も、深い白に閉ざされた雪原も、僕はサヤと一緒に駆け抜けた。
 彼女は山の子で、僕は里の子だった。大人たちは山の人々をただ無意味に恐がって、迫害し続けた。山姥だ、人攫いだと追い回した。
 だけど、僕は知っている。その畏怖も、軽蔑も、差別も全てただの幻想に過ぎないということを。サヤは僕と同じ人間だ。夜になって辺りが暗くなれば僕の手をぎゅっと握るし、約束をすっぽかした次の日は、不安げな顔で僕の目を見つめ、安心したように笑って、むくれてみせる。
 そのサヤを、そんな子を、隠し神だって?人を攫う、化け物だって?そんなモノ、誰も見たことなんて無いくせに。本当に居るかどうかだって、わからないくせに。
  隠し神は、みんなが恐れていて、憎んでいて、それでいて、心のどこかで敬っている。恐いんだ。みんな、祟りが恐いんだ。けれど、誰も見たことのないそんな モノのために、一人の女の子は里にも下りて来れず、厳しい山の中で生きざるを得なかった。村の人間じゃないというだけで一人、桜の木の下で寂しそうに里を 見下ろしていなければならなかった。
 被害者は、彼女だ。そして、加害者は僕らだった。
 一人の女の子を、迫害するのか。
 サヤを化け物と呼んで、山中を追い回すのか。
 そんなの可笑しい。絶対に、間違っている。
 たとえ、僕が村八分にされて、辛く惨めな生活を送ろうとも。
 家族に辛い思いを強いることになろうとも。
 僕は、それだけは譲れなかった。譲っちゃ、いけなかった。もう、後悔しながら生きるのは嫌だった。

 誰からも忘れ去られた神社の境内には、柔らかな陽光が降り注いでいる。
 誰の姿も無い。かつてあれほど輝いて見えた境内は、彼女がいないだけで、とても寂しく感じられた。
 僕は大きな石を、神社の境内に置いた。
 庄屋さんはあの日以来寝込んでしまったから、山狩りの心配はもう無い。彼女を狙う者は、もういない。
 そうして、僕は日が暮れるまで、境内で彼女を待ち続けた。
 次の日。境内に、サヤの姿は無かった。
 僕は、サヤの家を探して山を彷徨い歩いた。けれど、何故かその場所はどうしても見つからなかった。
 また次の日。大きな桜の木の下で、僕はサヤを待つ。
 太陽が沈み、夜になった。
「……サヤ」
 いつまでも、いつまでも、僕は二人の思い出の場所で、サヤを待ち続けた。
 春が過ぎて、夏が来た。
 夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎて―――。
 けれど結局、サヤは現れなかった。


12/
 大人になるなんて、ずっと先のことだと思っていた。
 桜が散る頃、僕は勉学のため故郷を離れ東京へ行くことになった。
 あの満開の桜の下で、夕日差し込む境内でサヤと誓った、『ずっと、一緒に遊ぼう』という約束は、僕が学者になりたいという夢を抱いている限り果たされないものなのだと、知った。
 満開の桜が咲いた頃、僕は十六歳になった。
 田舎の村では満足な教育は受けられない。
 僕は、かつて父さんがお世話になっていたという教授の手伝いをしながら、勉強を学ぶことにした。
 東京へ旅立つその日、僕はあの桜の木の下へとやってきていた。
 探していた少女は、やっぱり見つからなかった。

 荷物は、小さな鞄一つきり。
 一着の着替えと、父さんから貰った、向こうでお世話になる教授への手紙。数冊の本と筆。そして、ヨシとジロから貰った一通ずつの手紙が、僕の鞄には詰まっているだけだった。
 この町を去る時刻が、刻一刻と近づいてくる。
「あの時……。もう三年前になるか。お前の言っていた女の子だけどな」
 駅のホームで、父さんは言った。
「うん」
 僕は驚いて、父さんの顔を見つめた。
「俺は、やっぱり人間じゃなかったんだと、思うんだ」
 あの日以来、その話に触れようとしなかった父さんは、どういうわけか突然、そう切り出した。僕は驚き、しばらく言葉を失ってしまった。あの日に関する話も、森の中で出会った女の子の話も、そして、父さんの口から空想染みた言葉を聴くのも、僕はその時が初めてだった。

 夜の森に銃声が響いたあの夜から一年ほどたったある日。
 僕は父さんに、僕が村の人たちに秘密にしていたすべてのことを話した。
 サヤという少女に纏わる、全てのことを。
 それが、家族のみんなに迷惑をかけてしまった僕の最低限の義務であるように思えたからだ。僕たち家族はあの日から、半ば村八分のような形となり、辛い生活を余儀なくされた。
 あの日、子供達の責任をすべて見ると言った父さんは、全ての責任を押し付けられ、何度も責め立てられた。相当辛い思いをしたに違いない。村の子供に向けて銃を撃った庄屋さんは、何のお咎めも受けなかったのに。
 幸い、事情を知る人は僕達に同情的で、隠れたところで僕たちの世話をしてくれた。しかしそれでも、家族のみんなが辛い思いをしたことに、変わりは無い。
 責任は、全て僕にあった。だから、事情を話さないのは酷く卑怯なことのように、僕には思えた。
 僕が話し終えた頃、父さんは何も言わず、ただ、
「そうか」
 とだけ言った。
 僕をなじることも、怒ることも、ましてや笑い飛ばすこともせず、真剣な面持ちでそれだけを言った。それは、爺ちゃんも、婆ちゃんも、カヨでさえも、同じだった。
 僕たちがこの話題に触れなくなったのには、庄屋さんのことも理由の一つとしてあったのかもしれない。
 夏の暑い日のことだった。長らく床に着いていた庄屋さんはある日、山に向かって走って行ったきり、二度と帰っては来なかった。気が触れてしまったのだと、村の人は口々に噂した。
 真実の程は、僕にはわからない。けれどあの日から一度も、僕は庄屋さんの姿を見ていない。

「神隠しにあった子供は、どうなると思う?」
 生温い風がホームを吹き抜けた。じっ、と中空をと見つめたまま、父さんは言った。
 僕は返答に窮した。
「……」
 どうなるのだろう。この世では無いどこかに連れ去られ、二度と帰って来れない。それは、"死"と同義であるように僕には思えた。
「この地方にはな、昔から言い伝えがある」
 そう区切って、父さんは目の前に聳え立つ大きな山の頂上辺りに視線を向けた。太陽が燦燦と降り注ぐ、小春日和だった。ところどころ、山には桜色が目立っている。
「神隠しかなんかで、この世では無いどこかへ迷い込んでしまった人を、『マレビト』と言う。この世界には時間が流れているが、その世界には時間と言う概念が無いらしい。だから神隠しにあった子供は、この世ではないどこかを彷徨い歩く。永遠にな」
「なにそれ?日本神話?」
 その話は、父さんの書斎にあった本で読んだことがあった。この世と隣り合わせの、死の世界。時間の流れも消滅も、死さえも無いという、常世という世界の話を。
「う ん。まあ、それでもいいんだが。それとは少し違うな。村の言い伝えで言われているその世界はきっと、死の世界ではなく、そこに辿り着く前の……。この世界 である現世と、あの世である常世の、間にある世界のことを言うのだろう。神隠しとは、本来辿り着けないはずのそこに迷い込んでしまうことなんだと、俺は思 う」
 この世でも、あの世でもない、どこか。
 本来ならば辿り着けないはずの、世界の狭間。
 それは、想像を絶するほどに寂しい世界なのではないのだろうか。
「神 隠しに遭った子供の中には、稀に里に帰って来る者もあったという。だが、帰ってきた子供は往々にして白痴に近い状態であることが多い。どこに行っていたと 尋ねても、解らぬ、と言う。その子供には、すでに村のどこにも居場所は無い。……もしかしたら、向こうの世界に魂を置いてきてしまったのかもしれないな」
 難しい顔でそう言って、
「……まぁ、その辺は向こうの教授に聞きなさい。そういう話には滅法強い人だから、詳しく教えてくれるだろう」
 父さんはにやり、と笑って見せた。父さんの瞳の中に、かつて見た輝きが宿る。僕はその意味に気付いた。
 父さんは、僕の未来を期待してくれているのだ。
 夢半ばで帰ってこなければならなかった自分を僕に重ねて、未来を想像し、希望としてくれているのだ。
「話を戻すと、だ。俺は、お前が山で出会ったというその童女は、神隠しに遭い、向こうに行ってしまった子なんじゃないかと思うんだ」
「……隠し神ってこと?」
「いや、そうじゃない。隠されてしまった、哀れな子供だ」
 どこか遠い目で、父さんは言った。
 本当に、今日はどうしてしまったのだろう。そんな言葉は、父さんらしくない。これまでに見たこともないほどに感傷的な姿に、僕は父さんのことが心配になった。
 声をかけようと口を開くと、機関車が白い蒸気を上げながらホームに滑り込んできた。父さんに促され、僕は機関車の入口に向かった。
 ホームには、僕らの姿しかなかった。機関車に乗り込むと、ホームで見送ってくれる父さんと向かい合う。出発までは、まだ少し時間があった。
「珍しいね。父さんが、そんな話するなんて」
「つまらなかったか?」
「ううん。……確かに、そうかもしれないね。あの子は、凄く悲しそうな目をする子だったから」
「そうか」
 短く、父さんが言った。
「向こうに行っても、元気でな」
 胸に、熱く込み上げるものを感じて、僕は目を伏せた。、
 あの日から、村の人々に冷たい態度をされ続けている家族が、僕は心配だった。原因を作った僕だけが逃げるように東京へ行ってしまう事が、とても酷いことのように思えた。
「……父さん、ゴメン」
「後悔、しているのか?」
 真剣な顔で、父さんが尋ねた。
 僕は黙って首を振った。
「それなら、気にするな。お前は、お前の正しいと思うことやったんだ。胸を張れ。俺の果たせなかった夢を、果たして来い。お前なら絶対に出来る」
 そう言って、父さんは笑った。
「カヨと、爺ちゃんと婆ちゃんにもゴメン、って言っておいて」
「伊能先生に、よろしくな」
 ゆっくりと、汽車は走り出す。甲高い警笛が、故郷との別れを悲しむように鳴り響いた。七年の歳月を過ごしてきた街が、急速に遠ざかっていく。
 僕は、見えなくなるまで手を振り続ける父さんの姿を、ずっと見つめていた。あの村に居た、七年間の出来事が、走馬灯のように脳裏を流れる。その中で、僕の心の多くを占めたのは、やはりあの子との思い出だった。
 汽車が、あの桜の木が見える場所を差し掛かる。僕は、丘の上に咲く、満開の桜の木を見上げた。
「あ」
 木の下に、誰か居る。
 赤い着物を着た、小さな女の子。
 それは、あの日と変わらぬ姿でそこにあった。あの日から僕は一日も欠かさず、あの桜の木の下で彼女を探した。あんなにも求めて止まなかった姿が、今、僕の視界の中に確かにあった。
 満開の桜の下で、舞い散る桜の花びらに囲まれて、彼女は立っていた。
 始めて出会った日に交わした、どこか寂しそうな、悲しそうな視線が、僕を見つめているような気がした。
 精一杯車窓から身体を乗り出して、僕は桜咲き乱れる丘を見上げる。
「サヤ」
 彼女の名前を呼んだ。
 胸が押しつぶされそうだった。今すぐ戻って、彼女を精一杯抱きしめたいという衝動に、僕は駆られた。けど、それは許されなかった。僕は大人にならなければならないから。いつまでもこの村には居られないから。それが、彼女を守る代わりに僕らが負った、責務だ。
 後悔は、無い。
「……ねえ、サヤ。またいつか、会えるかな?」
 その問いに、答えてはくれる者は無かった。
 汽車は、変わらぬ速さで故郷を遠ざかっていく。田園風景を切り取って、鉄のレールの上をどこまでも、どこまでも走っていく。
「いつかきっとまた、あの桜の木の下で――」
 呟く声は高い汽笛の音に紛れて、零れ落ちた一滴の涙と共に、遥か彼方へと消え去った。
 こうして、満開の桜の木は少しずつ遠ざかり。
 そしてやがて、見えなくなった。



End






(>∀<)ノぉねがいします!




後書き。


 最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
 始めましての方も、そうでない方もこんにちは。舶来で御座います。

 本HPでの小説公開一発目、「沙耶」。楽しんでいただけたでしょうか?
 なかなか描ききれなかった部分もあり、まだ気がかりもありますが、思い切って公開に踏み切りました。
  実は、まだご指摘いただいたところを直していないので、これで完成、と言うわけではないのですが、とりあえずこれで正式版、となります。
 今回は短編、となりましたが、近いうちに続きを書ければなぁ。と思っております。その時に、残っていた謎や背景、と言う部分も描いていけたら、と。

 いくらか感想もいただいたのですが、一作目としては、良い評価もいただいたので、非常に満足しております。
 まずは、次の作品を二本ほど書いてから、どうするかを決めたいと思います。

 出来るなら、皆さんの意見もお待ちしております。どうか、忌憚無いご意見をお寄せくださいませ。

 書けば書くほど、小説家ってすげーなー、と感心しきり。
 駄作にしろ何にしろ、きちんとした日本語で原稿用紙300ページくらいのストーリーを設定の矛盾無く書けるだけで凄いです。尊敬します。

 次回作は突如、SFラブコメと決まりました。今日明日の二日で書くつもりです。はい、自分でも正気の沙汰とは思えません。
 その次は、現代学園ミステリー……となる予定です。まだプロット段階ですが。
 では、近いうちにまたお会いできることを願って。


2008.02.13 Written by 舶来








(>∀<)ノぉねがいします!




[PR]Samurai Sounds






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