■エリュシオンの園D

 扉を開いた途端、咽返るほどの粘ついた空気にたじろいだ。
 バクバクと鼓動を刻む心臓。痛いほどに打ちつけるその音を聞きながら、通り慣れた玄関ポーチを潜る。部屋中にぶら下がるタペストリーは、そのどれもが赤黒い色に染まっており、ひたひたと滴を垂らしている。濃密な匂いは、さながら霧のように剥き出しの肌に絡む。
 真っ黒な絶望が、ひたひたと足下から這い上がってくる。進む足は重しを付けられたように鈍く、寒くも無いのにガチガチと歯が音を立てる。
 それでも――確かめずには、居られなかった。
 玄関ポーチを過ぎ、応接間に入る。息を潜めてゆっくりと足を進めると、背の低い椅子と机の間に、細く小さな褐色の腕が落ちているのをみつけた。
 脂汗の浮かんだダリウスの顔が、紙屑のようにくしゃりと歪む。
 生々しい質感で横たわるそれ。何かを掴むような形で硬直した小さな指と、赤い宝石の嵌められた金属の腕輪……。
 競り上がってきた吐き気に、ダリウスは口元を抑え、ふらふらと近くの壁にもたれかかった。まるで胃が喉から出てくるような猛烈な吐き気だった。はっ、はっ、と犬のように呼吸を繰り返しながら、喘ぐようにぐるりと眼球を動かすと、血の涙を流しながら苦悶に顔を歪ませる、彼の守護天使の姿が目に入る。
 ――悪夢だ。
 うわ言のように呟くと、汚れた口元を拭い、半ば脅迫的な衝動に追い立てられるように奥へと進んだ。
 真っ白になった意識の所々に、家具の合間に散乱したそれら《・・・》が映り込む。あれは右足、こっちは股から腹まで。赤く染まったブラウスの下から覗いているのは、綺麗なピンク色の腸か。猫のしっぽのように揺れていた愛らしい髪の毛は、べっとりと壁に張り付いている。
 灼熱する感情に、次第に理性が磨り潰されていく。眉間を中心に顔面が凝縮され、押し潰されていくような感覚。喉は先ほどから、絞殺された獣のような声を垂れ流し続けている。
 脳裏には、いつしか中東の地で見た、地雷を踏んでバラバラになった異教徒の子供たちの姿が蘇っていた。
 戦場となった村から逃げ出した彼らは、不幸にも地雷を無数に設置された森へ逃げ込み、そして誰一人として助からなかった。埋葬のため、飛び散った部品を数えていた同僚が呟く。「ここで爆発したのは二人だな。兄弟だったのか、友人だったのか。よく似た手が繋がったままだったよ」
「……レイラ、ライラ」
 ダリウスはじっとりと濡れるカーペットにしゃがみ込むと、横たわる二本の腕にそっと手を伸ばした。しっかりと繋がれた、血塗れの腕……未だ温もりの残るそれを額に押し当てると、寝室から微かな物音が聞こえた。
 ダリウスはふらふらと立ち上がると、寝室へと歩み寄る。ひきつったように強ばる腕で、血濡れのドアノブを掴む。
 息を殺し、気配を殺し、思考さえも殺してゆっくりと踏み込み――自分のベットの上で四つん這いになっている、二人の男を見つけた。
 審問法廷で見たことがある、『山狗の仔』の一味だった。そして、男たちの下に横たわるのは、絶望に顔を歪め、既に事切れた○○○○が――。


 ……そこで一度、記憶は途切れる。気がついた時、ダリウスは呆けた顔で湿ったボロ切れを見下ろしていた。
 ドスッ、
 多分に水気を含んだ真っ赤なボロ切れへと、腕の一部と化した銀剣が振り下ろされる。何度も何度も刃を突き立てられた血袋は、原型も留めぬほどに切り裂かれ、液体のように絨毯に広がっていた。真っ黒な眼窩の奥から、どろりと液状と化した眼球が、恨めしそうにこちらを見上げている。
 虚ろだったダリウスの表情が、火に触れたように歪む。
 振り上げた拳で眼窩を叩き潰すと、ゆっくりとその巨躯を起こした。後に残された汚れた血袋……かつてヒトの姿をしていたソレは、面影も見出せぬほどに損傷し、冷たい床に張り付いている。関節だった箇所には、楔のように十本の銀剣が突き立てられ、それはさながら昆虫の標本を思わせた。
 潰れた害虫を見るような目で一瞥すると、ダリウスは弛緩した表情で辺りを見渡した。周囲は既に炎の海に覆われていて、熱気は肌を焼くように近くまで押し寄せている。
 ――何ということだ。
 獣のように荒い呼吸を繰り返す口元から、白い泡をぶくぶくと吐き出し、ダリウスは呻いた。
 今このとき、彼を狂気から呼び戻したのは、酸欠により生命の危機を感じた彼自身の脳だったのだ。ダリウスは悲鳴のように叫ぶ。愚かなことを! 正気を取り戻させることに、如何ほどの意味がある。俺の魂は塵芥となって、幽界の狭間に消えた。正気を取り戻せば生きたまま地獄の業火に焼き殺されるだけだ。生への執着を果たすならば、あのまま狂人と化してしまっていた方が、まだしばらく生き永らえることが出来たものを!
 獣のような雄叫びを張り上げ、出鱈目に拳を周囲の壁に打ち付ける。酸素不足を訴える肉体を無視して、肺の中の空気を全て吐き切る。
 このまま炎に包まれて死にたかった。目の前には彼が使役してきた紅蓮の炎が高く高く燃え上がっている。彼の天使の炎に焼かれて死ぬのなら、それは何より正しいことだと思えた。
 彼女たちを無残な死へと追いやったのは俺だ。汚れなき魂を獣畜生の前に差し出したのは、他でもないこの俺なのだ。こんな目に合うくらいなら、彼女たちはあの日あの場所で、瓦礫に押しつぶされて死んでいた方がマシだった! あの貞淑な妻が! 愛らしい子供たちが! 無残に殺される理由など何一つとして無かった! あれらは俺が犯して来た罪の代価として殺されたのだ。俺という存在が彼女たちを殺した!
 声の続く限りに叫んで、全身に力を迸らせる。意識が遠のく刹那、酸欠で真っ白になった頭の中で誰かが囁いた。
 ――可笑しいとは思わないか?
「……」
 それは天使の声か、悪魔の声か。
 どちらなのかはともかく、その声は、今まさに潰えて行こうとしていたダリウスの意識を狂気の沼から引き上げた。
 ――可笑しいと思わないか?
 囁く声は続ける。
 遠くの国から連行され、牢に繋がれていたはずの『山狗の仔』らが何故、ダリウスの家を、家族の存在を知っていた? いや。そもそも奴らはどうやって、あの堅固な牢獄を抜け出したのだ。知恵を与え、手引きした者が居たのだ。そうとしか考えられない。
 そう言えば――。
 四肢を切り刻み、肉片に解体していく最中、狗共は何か言っていなかったか?
 俺は命じられてやっただけだ。最も同胞を殺した審問官に俺たちと同じ痛みを与えてやろうと誘われた。待て。話が違う。『山犬の仔』はどんな罪を犯しても、審問官に裁かれることは無い。そう聞いた。聞いたはずなのにどうしてお前は。
「聞いた……? 誰に、聞いた」
 水分を失い、固く収縮し始めていた眼球が、ぎょろりと動いて、崩れ落ちた壁の向こうを睨みつけた。いつの間にか空からは太陽が消え、分厚い雲が天を覆っていた。
 ダリウスは目元にこびりついた乾いた血の痕を僧服の袖で拭うと、血袋を磔にしていた銀剣を掴んだ。ゆっくりと顔を上げ、半ば焼け落ちたベットの上を見降ろす。
 紅蓮の炎に炙られ、じりじりと焼けていく妻だった女。身体を内側から焼かれていくような痛みに、たまらず顔を覆うと、すぐ傍で小さく囁くような声が聞こえた。ダリウスは貼り付いた喉で声を張り上げる。
「誰だ!?」
 短剣を縦横に振り回し、怒鳴り散らす。
「誰でもいい! 出てこいよ。……皆殺しにしてやる!」

 ――主《あるじ》よ。

 背後からはっきりと響いた声に、ダリウスは待ち受けた獲物に襲いかかる肉食獣の面持ちで振り返り――目を剥いた。
 炎に照らし出される真っ黒な闇。そこに浮かんでいるのは、目を剥き、鬼の形相と化した人形《ヒトガタ》だった。
 
 ――我が主《あるじ》、我が愛し子よ! 汝はこの不条理を何とする !?

 炎をまき散らす異形の姿に、ダリウスは反射的に手の中の刃を振り上げかけ……ゼンマイが切れた人形のように動きを止めた。
 変わり果てていても、その感情に富んだ炎の揺らめきのパターンには覚えがある。
「イグニス……なのか?」
 見紛うはずがない。恐ろしい形相で語りかける異形は、火天の異名を持つ彼の守護天使、イグニスに違いなかった。固く石のようになった手から、銀の細剣が滑り落ちる。ここで初めて、ダリウスは罪を嘆く敬虔な信徒のように、跪き頭を抱えた。
「何ということだ……イグニス。お前のその姿……神に背き、異形に身を堕としたか」

 ――我が友よ! 汝はこれほどの仕打ちを受け入れるというのか。これでもまだ、至らぬ神の箱庭に留まるを望むのか!? 

「箱庭に……留まる」

 ――我はこの所業を良しとはせぬ。汝が望むなら、我は天に駆け昇り、天の軍勢に弓引いて、この紅蓮の炎で七天を焼き尽くそう。答えよ。汝はこの身に何を望む? 答えよ! 我が愛し子よ!

 悲鳴のように叫ぶ声に、ダリウスは虚ろな鳶色の瞳を、周囲の闇の中に彷徨わせた。
 初めて聞いた彼の守護天使の声に、その悲愴な呼びかけに、跪き罪を懺悔する信徒のように、喉を震わせる。
「……俺は、罪を映す鏡でありたかった。相応の罰を下す雷でありたかった。人の心など持たない修羅道に生きて、ただ正義を執り行う機械でありたかった。……そうすれば」
 かつて森で拾った、二人の子供は。
 彼が愛した、彼の妻と子供たちは、ずっと笑っていられたかもしれないのに。

 ――いいだろう。その願い、叶えよう。共に堕ちよう。共に挑もう。至らぬ神に、反旗を翻そう!

 天に轟く雷のような声が遠ざかり、吹き上がった炎はついにダリウスを包んだ。ダリウスは自身の肉を焼ける音を聞きながら、震える手で自らの銀の細剣《レリクス》を握りしめ……呆然と、崩れ落ちた屋根の向こうに広がる空――それを遮る、一個の黒点を仰ぎ見る。

 アアアアァァ……!

 赤黒い炎を撒き散らしながら顕現した天使は、深紅の瞳でダリウスを見降ろすと、漆黒の羽根を広げ、産まれたばかりの雛のように長い咆哮を上げた。

   ※

 門をくぐった途端、懐かしい匂いが鼻を掠めて、シャロンは俯けていた顔を上げた。
 それは暫く嗅いだ覚えのない、湿った夜の匂い。忘れもしない、今は無き東洋の大都市……あの路地裏の匂いだった。
「心配せずとも良い。すぐに神がどういう存在なのか解る」
 頭上でメルクリウス枢機卿が囁く声が聞こえる。シャロンは小さく頷くと、寝台の中で小さく身じろぎした。玉座に運ばれるシャロンの硬く閉じた瞼に、彼女の守護天使がそっと触れる。シャロンは小さく笑って、
「心配しなくても大丈夫よ。……少し怖いけれど、きっと大丈夫」
強張った手で、手元の分厚い生地を引き寄せる。すると、小波めくように揺れていた心は不思議と静まっていった。
 玉座が降ろされ、何人かの枢機卿が、薄布を纏ったシャロンの腕にコードのようなものを繋いでいく。「これは?」と尋ねるも、枢機卿たちはご心配なさらずに、と言うだけで答えてはくれない。シャロンはぞわぞわと背筋に怖気が這い登ってくるのを感じた。
「それでは、そろそろ時間のようです。シャロン・ウィルスティーズ教皇聖下」
 作業が終わったのだろう。枢機卿たちを後ろに控えたメルクリウスが、かしこまった声で告げる。
「……貴方たちとは、ここでお別れですね」
「ええ。次に聖下がお目覚めになった時、恐らく私たちはこの世に居ないでしょう。ここでお別れです」
「ええ。ありがとう」
「礼など必要ありませんよ。言うべきはむしろ私たちだ。……罪深き人々の代わりに磔となる哀れな聖女。偽りにまみれた世界の真相は、貴女自身の口から神に問うと良いでしょう」
 ――え?
 冷たいメルクリウスの声に問い返すより早く、意識が深い闇の底に落ちる。上体を起こそうと四肢に力を入れると、たちまち闇の気配がじわじわとシャロンの身体に圧し掛かってきた。
 ――何が起きたの?
 傍らの守護天使に問いかけるも、反応が返って来ない。自由の効かない身体で周囲を窺うも、辺りには寂寞とした闇が広がるばかりで、何の気配も感じられなかった。縋るように伸ばした手は、ことごとく宙を掴む。
 冷たい孤独感が、ゆっくりとシャロンを押し潰していく。
 ――誰か。誰か居ないの!?
 悲鳴のように声を上げた時、傍らで何者かが囁く声が聞こえた。
 途端、周囲は眩い光で満ち溢れる。
 シャロンは、呼吸をするのも忘れて顔を上げた。
 それは、信奉してきた神が、彼女の前に姿を現した瞬間だった。

   ※

 礼拝堂を飛び出したクロエは、大聖堂を目指し、薄暗い回廊をひた走った。
 右手の明かり窓から差し込む、午後の陽光。居並ぶ聖人像。汚れ一つ無い石床。それらを視界の端々に映しながら、『神の目』と呼ばれるその黒瞳で、仔細なく辺りの様子を探り取る。
 日中のこの時間、『この時間軸のクロエ』は執行部の要請によって、ダリウスたち武装審問官部隊と共に、脱走した山狗の仔を追っているはずだが、何かの間違いで出くわさないとも限らない。アナスタシアから注意された訳ではないが、同じ時間軸に同じ人間が存在しているという矛盾が及ぼす影響は、最小限に留めた方が良いだろう。そうでなくとも、顔見知りに会って任務放棄を疑われてはいろいろと面倒だ。
 ただでさえ、無駄に出来る時間は一秒たりとも無いのだから――そう自らに言い聞かせ、中庭に面した角を曲がった時、強張ったクロエの表情が一層険しくなった。
(これは……どうういことだ?)
 吊り上がった目を細め、大聖堂の入り口までを見通し声に出さずに呟く。
 教皇就任式を終えて間も無い午後二時。大聖堂内には未だ多くの人々が留まっているはずだった。しかし、礼拝堂から回廊をここまで駆けてくる途中、クロエの目には誰一人として映らなかった。
(俺は本当に、五時間前の世界に戻ってきたのか?)
 クロエは、ゾクリと背筋が泡立つような不安を覚えた。
 周囲の景色は夕暮れから正午へのそれへと変わっているし、庭園の大時計で時間が戻っていることも確認している。だが、それがクロエが戻りたいと願った場所なのかどうか、確かめる術は、ない。
 焦る気持ちを抑え、『神威《ゲニウス》』によって見通せる範囲を広げる。すると、回廊の外に多くの人が留まっているのが見えた。
 駆けるクロエの足が乱れる。
 不思議な光景だった。
 教皇を送り出した民衆は、大聖堂周辺で今も式典の余韻に浸っているようだが、誰一人としてクロエの立つ回廊へと足を踏み入れようとしない。まるで、この世ならざる意志が人々を操って、クロエの姿が誰の目にも触れないようにしているかのようだった。
「ただ時間を巻き戻した、なんて単純な話で片づけられるものじゃなさそうだな……けど、これなら」
 ――本当に過去を、変えられるかもしれない。
 勢いを得たクロエは人気の絶えた回廊を飛ぶように駆け、大聖堂唯一の入り口であるブロンズ製の門扉を潜った。モザイク柄の石床を蹴り、祭壇の置かれた内陣の背後に回り込む。
 アナスタシアによれば、時間が巻き戻っているのは、ラダマンテュス大聖堂とその周辺に限られるという。巻き戻った過去の世界で起こった出来事は、巻き戻した時間に追いついた時点で世界に再接続され、過去は改竄される。となると、彼女の力が及ぶのはラダマンテュス大聖堂周辺に限られるだろう。想定外《イレギュラー》が起こるとすれば、それは内と外との摩擦から起こる可能性が高い。
(俺が儀式に介入した時点で、過去は本来辿るはずの無かったレールを辿り始める。上手く五時間後の世界に接続できるように、誤差はなるべく少なくするべきだろう。用心に越したことはない)
 守護天使の助けを得ながら、慎重に周囲の探り、ついにクロエは巨大なステンドグラスが嵌め込まれた大聖堂外陣へと辿りついた。目の前には、分厚く巨大な門が待ち構えている。
 聖都エリュシオン随一の聖域――『神の門』。
 黒く光るブロンズの門扉には無数の彫刻が施され、天国と地獄、二つの軍勢が激しい闘争を繰り広げる様が描かれている。
 この奥こそが、教皇と一部の枢機卿にしか立ち入ることを許されない絶対の神域。神の御座。しかし――クロエは、その門を前にして、苦々しい顔で立ち止まる。
「エンメルカル……」
 クロエの声に、扉の前に立つ少年は、ゆっくりと顔を上げた。
 生成り色の司祭服に、青銅色の蛇が巻き付いた、背丈よりも大きな白い杖。少女のように美しい顔には、穏やかな微笑が浮かんでいる。
 クロエは激しく動揺した。クロエはこうした事態にならないように、自身の『神威《ゲニウス》』を駆使して、細心の注意を払ってきたはずだった。しかし、エンメルカルはこうして今、目の前に立っている。捉えられなかったのだ。『神の目』と呼ばれる瞳をもってしても。
 「どうして」とは思わなかった。むしろ「やはり」という思いが先に来る。
 何故なら、彼は『記録審問官』エンメルカル。教皇が神を受け継いでいくの見守る後見人にして、聖域へ繋がる『神の門』の守護者。ピラミッド型を形成する審問官階級で、唯一『例外』とされる位階に就く者。大司教たるクロエを持ってしても、その力は未知数だ。
(どうする。このまま押し通るか? それとも)
 クロエは傍らの守護天使と視線を交わした。
 門番たる彼が、クロエに『神の門』への入室を許すとは思えない。説得は期待するべきではないだろう。
 それに――。
 クロエは苦り切った表情で拳を握りしめる。

 『神の門』に纏わる全ての祭祀を執り行う彼が、『神』の正体を知らずに居るだろうか?

(エンメルカルはどこまで知っているんだ? もし、全てを知っていて、俺にシャロンを送り出させたというのなら……)
 クロエの呼吸に合わせて、天使が眩い火の粉をちらちらと散らす。今にも炎を吹いて襲いかかりかねない空気にしかし、エンメルカルは柔らかく笑って、
「アナスタシアとの話は終わったかい?」
「――……っ」
不可解というには、あまりにも不可解な問いを、口にした。
 頭を埋め尽くしていた怒りさえ忘れて、クロエは少年の顔をまじまじと見つめた。
 アナスタシアの言葉通り、今が五時間前――式典が執り行われた直後だと言うのなら、この少年はまだ、クロエとアナスタシアが礼拝堂で話をしたことを知らないはずだ。
(――やはり、時間は巻き戻っていなかったのか!?)
 戸惑い立ち尽くすクロエに、エンメルカルは困ったように笑って、
「君は、この時間に生きるクロエじゃないね。いつから来たのかは知らないけど、こんなことが出来るものはそう居ない。……アナスタシアの天使クルートーの力で戻って来たんだろう?」
 小首を傾げ尋ねる少年を、クロエは息を飲んで見詰めた。その言葉が意味することに気付いて、ぞわぞわと背筋が粟立って来るのを感じる。
 この少年は、一体何者なんだ? 果たして味方なのか。それとも敵なのか。
(いや、どちらであろうとも)
 クロエは口の中で小さく呟くと、白い僧服の下から一本の金属棒を取り出した。底を押し上げると、かしゃん、と軽い音を立ててギミックが作動し、天秤へと形を変える。
(――どちらであろうとも、この場を譲るつもりはない)
「退いてくれ。エンメルカル。俺はその奥に用があるんだ。お前とは争いたくない」
 言いつつも、敵意は紅炎となって逆巻く。
 純白の翼を広げる光の天使を従え、冷たい瞳で見下ろすクロエを、エンメルカルは透明な視線で見つめ返した。小さく肩をすくめて、
「言葉と行動が伴ってないよ、クロエ。大司教ともあろう審問官が、嘘を吐くのは良くないね」
かつん、と音高く白い杖で床を突く。すると穏やかな表情を浮かべる少年の向こうに、巨大な影がうっすらと姿を現した。
 はっとクロエが身構えると同時に、天使が警戒の雄叫びを上げる。
 ステンドグラスから淡い光が降り注ぐ、薄暗い大聖堂後陣……その最奥にある『神の門』の前に浮かび上がったのは、半透明の巨大な土人形だった。目と鼻と口だけが異様に大きな威容の怪物の姿に、クロエが気圧されたように半歩後退する。
「天使ナブー……」
 記録審問官エンメルカルは、決して歴史の表舞台に出ることの無い審問官。管理教会《アパティア》を守護する為、特殊な守護天使を宿し、何百年もの時間を生き永らえる、条理の外にある存在。彼を守護する天使ナブーは、表向きは天使だと言うことになっているが、大司教にまで上り詰めた今のクロエには解る。
 ――あれは天使などではない。
 もっと強大で、得体の知れない、管理教会《アパティア》が信仰するものとは別種の『神』。クロエと彼の守護天使の力をもってしても、力は五分か。しかもエンメルカルはクロエたちの権能の全てを把握しているのに対して、クロエは彼らの権能がどのようなものかを知らない。
(やるしか無いのか?)
 クロエは苦しげに手の中の天秤を握りしめ――その時、つい、とエンメルカルが身体の向きを変えた。
 そのままスタスタと門の前から退くと、顔だけをクロエに向けて、
「用事があるなら、急いだ方がいいよ。アナスタシアの力も万能じゃない。メルクリウスの配下に見つかるといろいろと面倒だ」
「……通ってもいいのか?」
 クロエは、掠れた声で絞り出すように尋ねる。
「儀式の最中なんだろう?」
 エンメルカルが門の前に立っていたのは、儀式に邪魔が入らないように見張っていたからだろう。そもそもクロエには門の奥へと進む資格はない。訝しむクロエに、しかしエンメルカルは柔らかく目を細めて、
「僕はあくまでも傍観者。君たちが本当に正しいと思って起こした行動なら、邪魔したりしないよ」
 そのまま顔を背けた少年に、クロエはたっぷりと五秒は迷い、
「済まない、エンメルカル」
短く声をかけて、その横を通り過ぎる。じっと無表情に見下ろすナブーの下を潜ると、分厚い門扉に手をかけ、
「エンメルカル。一つだけ聞いてもいいか」
思い出したように振り返る。
「うん?」
「どうして九年前のあの時――俺に声をかけてくれたんだ?」

 九年前――十歳の子供だったクロエは、自分が知っているものより、ずっと優れた文化と、立派に見える大人たちに圧倒されており、やっていけるのかと強い不安を抱えていた。一緒に来た幼馴染は、別の施設に入れられ会えない日が続いていたことも不安を増長させた。
『――君、どうしたの?』
 誰も居ない公園の噴水に腰掛け、涙を堪えていると、そっと小さな手が差し延べられた。
『道に迷ったのかい? 大丈夫。こっちにおいでよ。友達になろう』
 その言葉に、どれほど救われたことか。
 その日から、エンメルカルは気の置けない友人となった。
 そのことが当時のクロエにとって、どれほどの救いとなったことか。
 彼の特殊な存在だと知ったのは、初めて出席した管理教会《アパティア》の重要式典の最中。最前列に並ぶ、大司教や枢機卿。それに肩を並べて、あの優しい少年が立っていた。
 見習いである書記審問官と同じ僧服を着て、ローマ神話の神ヘルメスを象徴する蛇の巻きついた杖を持った少年。
 『記録審問官』と呼ばれる、教会唯一つの位階に就く彼の姿は、九年たった今も、出会った時と同じ少年の姿から全く変わっていない。

「候補生は、毎年何十人とやって来るだろう。どうして、俺に声をかけようと思ったんだ?」
 ずっと気になっていて、けれど聞けずにいた問い。振り返った少年は穏やかに微笑んで、
「君となら、良い友達になれる予感がしたからだよ。君の守護天使は、ひと際強い光を放っていたから」
 クロエは「ありがとう」と呟くと、ブロンズの大扉へと全体重をかけた。扉は音も無く開き、クロエの身体は『神の門』の向こうに吸い込まれるように消える。
 そっと横目でクロエを見送ると、エンメルカルはどこか寂しげにも見える表情で目を細め、
「現在、過去、未来の全てを記録する古き神ナブーは言っている。全ては、人類を正しく物語るための過程の一つである、と。……僕は役者である君たちには直接関われないけれど、物語が幸福のうちに終わることを、心から願っているよ」
 足音が遠ざかっていく。
 扉が完全に閉じた時、そこにエンメルカルと天使ナブーの姿は、もうどこにも見当たらなかった。

   ※

 ……篠突く雨の降る夜だった。
 当直の審問官たちが控える、中央管理棟司令部――その敷地にある小さな警備詰所。軒下から外を窺った審問官の老人は、染み入るような寒さに身体を震わせた。
 昼間はあんなに晴れていたというのに、夜になって急に天気が崩れ、雨が降り出した。天気予報が外れるなんて、何年振りのことだろうか。
 水溜まりで跳ねる雨粒を見るともなしに眺めながら、老人の脳裏には昼間見た就任式の光景が蘇っていた。――人々に送られ、祭壇の向こうに消えていく新しい教皇聖下。就任してすぐに天気が崩れたのは、彼女が親しい者たちとの別れを惜しんでいるからだろうか。
 若い頃は信仰心が先だってか、教皇が『神の門』の向こうに消えていくことに、何の疑問も抱かなかった。しかし、こうして子供や孫が出来ているのが当たり前の年齢になると、送り出す者の辛さ、送り出される者の辛さに意識がいってしまう。
 ――何か、良くないことが起きなければいいのだが。
 老審問官は、胸を騒がす不吉な予感に眉を顰めた。
 夕方に一度、強い『神の意志の力』の流れを本部に居る多くの審問官が感じ取った。公には伝えられていないが、前教皇アナスタシア・セレーネが身罷ったらしい。前回の就任式でもそうだったが、管理教会《アパティア》本部は何故か前教皇の死や葬送に関する話題に触れることをタブー視している。教皇聖下は、神と共に世界を運営する為、俗人としての一生を神に捧げた聖人。老審問官には、それだけの貢献をした人物が密葬に伏されるという現状が、些か薄情なものに感じられるのだった――。
 誰も居ない詰所で、いつの間にかうつらうつらしていると、窓の外に黒い影が横切ったような気がして、老審問官は顔を上げた。
 暗闇を見通すように目を細める。すると、司令部へと続く小道を、見知った男がとぼとぼと歩いているのを見つけた。慌てて立ち上がると、詰所の扉を開け、
「これはこれは。ダリウス・ロンブル司教」
 親しげな調子で声をかける。しかし、すぐに何かに思い当たったようで、勢い良く首を振り、
「いや失礼! 今は司祭でしたな。面目ない。……歳のせいと思ってご容赦願いたい。どうしたのです? こんな時間に」
言って、人の良い顔に笑みを浮かべる。
 ダリウス・ロンブルは、老審問官が神学校で教鞭を振るっていた頃に受け持った生徒の一人だった。血気が盛んだった若い時分は、気に入らないことがあれば悪態を付き、所構わず喧嘩を吹っかけるダリウスのことを戒めたこともあったが、卒業後、ダリウスが大いに出世し、本部で活躍していると聞いた時には、我が子のことのように喜んだものだった。
「冷える夜だ。どうですかな。少し休んでいかれては?」
 老審問官は、ダリウスを詰所に招き入れようと扉を大きく開き、
「突然の雨に濡れた様子です……し」
 言いかけて、絶句する。飴の中に立つダリウスの姿が、まるで血に濡れているように見えたのだ。ダリウスは石畳の向こうで気だるげに振り返ると、ぞっとするほど低い声で、
「放って置いてくれ。……奥に居る奴らに話があるんだ」
 雨粒をひたひたと滴らせて、石畳を進んでいく。
「待ちたまえ、ダリウス司祭……!」  妙な胸騒ぎを覚えて詰所から躍り出ると、ダリウスが通った後に微かに血の匂いを嗅いだような気がした。しょぼつく目を見開き、夜闇の中、彼の背後に浮かぶ天使の姿を見て、言葉を失う。
「ダリウス。その天使は……」
 ダリウスが振り返る。その顔は引き攣り、押さえきれない怒りに鬼のように歪んでいた。
「先生。少しここから離れていてくれないか。……出来れば、あんたを巻き込みたくない」
低く抑えた声はぞっとするほど冷たく、老審問官は皺だらけの顔を引きつらせた。



 管理塔司令部に詰めていた五人の司教審問官たちは、前触れなく消えた照明に揃って顔を上げた。
 上官と思われる男が指揮する声が響いて、暗い室内に次々と小さな明かりが灯る。火の奇跡《エレメンタム》を有する天使が発する火の粉がぱらぱらと影に落ちた。
 混乱は無かった。審問官たちは口々に停電の原因を予想し始める。日常ではなかなか起こりえない事態に浮足立つ若い審問官に、雷でも落ちたんだろう、と上官が冷ややかに言い捨てる。不機嫌そうに椅子から立ち上がると、外の様子を見ようと窓辺に近寄り――外の街路を赤黒い炎が一直線に走り抜けていくのを、見た。
 弛緩していた空気が、変わった。司教審問官たちの顔に緊張が走る。
 "審問法廷”
 流れ出した『神の意志の力』が、一帯を覆った。誰かがこの建物全域に法廷を開いたのだ。しかも、司令部に詰める彼ら、五人の審問官を被告人として。
「どこの大司教だ? こんなふざけた真似をするのは」
 窓辺で驚き立ち尽くしていた上官が、吐き捨てるように言った。通常、同格以下の審問官が法廷を開いた場合、それを受けて立つかどうかを挑まれた審問官は選ぶことが出来る。
 しかし、今回の法廷は問答無用で彼ら司教審問官たちでは覆せない強制力で敷かれていた。つまり、この法廷を開いたのは、司教以上の位にある審問官。こんな真似が出来るのは、眠りについた教皇を除けば、各部門をまとめる四人の大司教しか居ない。
 司教審問官たちは、息をひそめて互いに顔を見合わせる。
 彼らを警戒させているのは、法廷を敷いているのが大司教だから、というだけではない。むしろ規則違反等の処罰を目的に、大司教が部下である司教に対して審問法廷を敷くことはある。
 彼らを警戒させているのは、もっと別の要素――司令部を丸ごと包み込んだ法廷の中に流れる、澱んだ空気だった。息苦しく、不吉な予感、敵意で溢れた空気。咄嗟にそれぞれの部門長でもある大司教たちの顔を思い浮かべるも、彼らには一様に、この不吉な気配を放つ者に心当たりが無かった。
 静まり返った空気を打ち砕くように、「シュトラウスだ」と上官が口を開く。
「窓から中庭を走る炎の境界線を見た。このふざけた法廷を敷いているのはシュトラウス大司教だろう。秘書官に問い合わせろ! 正式に抗議を入れる! ……原理主義に対してこんな真似をして、ただでおくものか」
 五人の司教たちをまとめる男は、管理教会内の一大派閥、原理主義の中でも数本の指に入る実力者だった。男が怒りに染まった顔で呻く。いくら大司教と言えど、こんな勝手な真似を赦せば、派閥全体の沽券に関わる。
「……駄目だ。連絡が取れません。館内の電源系統がやれているらしい」
「シュトラウス大司教なら、夕方からずっと大聖堂に籠もって出てこないと、秘書官のクラディウスが愚痴っていましたよ。……それに、この気配は」
 まるで、天使を宿す審問官とは思えない、濃密な敵意。ただならぬ気配に、審問官たちの顔にも焦りが浮かぶ。
「まさか、乱心したのではあるまいな。あの男……新しい教皇に選ばなかったことの腹いせに」
「私、大司教はシャロン教皇聖下と恋仲だったという噂を聞いたことがありますわ」
「ただの噂でしょう。メルクリウス枢機郷も心配はないと言っておられました」
「その割には、わざわざ異教徒たちを逃がしてまで、随分な念の入れようでしたけどね」
「馬鹿! 口を慎め。誰に聞かれているか」
 立ち上がった男が、口を滑らせた若い男をいさめたその時、かちん、とリノリウムの床に固い金属が触れる音が響いて、審問官たちは揃って口を噤んだ。
 五人の視線は、揃って言いかけて口を噤んだ男に注がれている。
「――どうした? 先を続けろ」
 男の背後から響いた低い声に、四人の審問官たちは揃って息を呑んだ。中でもうっかりと口を滑らせた男は呼吸さえも止めている。首筋に触れる冷ややかな感触。幽かな炎の照り返しを受けて、首元に突きつけられた刃が光を返す。
「答えろ《・・・》。どうして『山狗の仔』たちを解放した」
 押し殺したような響きに、その場に居た全員が、この法廷を開いたのが誰なのか理解した。
「どういうつもりか解りませんが……応じましょう。ロンブル司祭」
 すらりと背の高い男が、落ち着いた声で言って前に出た。自らの守護天使を呼び出し、その手に短い槍の聖遺物《レリクス》を構える。
「彼ら『山狗の仔』たちは、私たち原理主義の説法を聞いて、いたく感動したようでした。彼らは無知なだけで、罪人ではないのです。狼に育てられたヒトの子がヒトを襲ったとして、誰が責められるでしょう。彼らは被害者に過ぎない。神の使いたる天使が罰を下せないことが何よりの証左。だから我々は彼の者たちの戒めを……」
「俺は、絶対に牢から出すな、と言ったはずだ」
 吐き捨てるような声に、饒舌に喋っていた男は気圧されたように口を噤んだ。すると、
「口を慎みたまえ、司祭!」
上官が火が付いたように声を荒げる。
「貴方は、今や私たちより格下の司祭職にある。私たちに命令を下す権利はない! 解ったら、さっさとこのふざけた法廷を解きたまえ! そもそも、貴方は私たちに何の嫌疑をかけてこの法廷を開いたのだ!? 理由によってはただでは済まさんぞ!」
「――」
 ぶるぶると震えながら睨みつける男を、ダリウスは底の見えない昏い瞳で見返した。怒りに顔を真っ赤にした上官の顔が、徐々に青褪めていく。――何だ。俺は、間違ったことなど言っていないはずなのに、この男を前にすると、どういう訳か罪人の心持ちになっていく。
 ダリウスはしばらく睨みつけるように上官の顔を見ていたが、不意に視線を落とすと、何故か得心がいった、というように何度か頷き、
「はっ、確かにそうだな。……それが俺の第一の間違いだったというわけだ」
 よく意味の解らないことを言った。
「嫌疑といったな。そうだな、教えてやる。お前たちには知る権利がある。無能な司教共」
「む、無能だと!?」
「一度しか言わんからよく聞け。貴様達が解放した『山狗の仔』たちが、俺の家に押し入って、俺の妻と二人の子供を殺害した」
「な――」
 上官が小さく呻いたその瞬間、どん、と何かが落ちる音がして、審問官たちは揃って音のした方へと顔を向けた。
 ごろごろと丸い何かが転がり、テーブルの足に当たって、止まる。
 それは生首だった。
 最初に「まさか」と口を滑らせた司教……首元に刃を突きつけられてからは、発作を起こしたようにぶるぶると震えていた男の生首が、冷たい床に転がっていた。
 凍りついたように動かない審問官たちの前で、首を失くした男の身体が一泊遅れて血を吹き上げる。
 血飛沫を一番間近で浴びながら、、ダリウスが乾いた声で呟く。
「――なんだ、早い執行だったな」
 肩の上で、彼の守護天使が小さく羽音を立てるその不気味な羽音に、引き攣ったような悲鳴が上がった。
「どうやら、こいつには心当たりがあったようだな。獣の鎖を外せばどうなるのか、想像するまともな頭がついていたってわけだ。一瞬で天使に首を刎ねられるほどの罪悪感だ。ずっと気がかりで仕方なかったんだろう」
「な、な……」
「お前らはどうだ? 何か俺の家族が殺されたことに思い当たるものは無いか? 獣の手によって育てられたヒトの子とやらを、獣のままヒトの世に放てばどうなるか、考えたことをあるか? ……答えろ《・・・》」
 ぐるりと見渡すように四人になった審問官たちを見渡す。最後に目があった上官の男は、小さく悲鳴を上げて後退り、ガタン、と近くの椅子を倒した。
「……無効だ。こんな法廷は無効だ! 本当に貴方の家族は私たちが解放した『山狗の仔』たちに殺されたのか? 証拠を見せろ!」
「俺が嘘をついていないことは、この法廷を見れば解るだろう」
「虚言が無くとも、勘違いということもある……そうだ。その『山狗の仔』らを証人として連れて来たまえ! 話はそれからだ。――我らが神の名の下に、司教審問官の権限において命じる。『一時閉廷』!」
 一息にまくし立て宣言するも、法廷内に満ちる気配は微塵も揺らがない。
 続けて仲間の審問官達も『一時閉廷』を宣言するが、周囲を覆う気配には何の変化も起こりはしなかった。
(何故だ。ダリウスは今となっては司教の権限しか持たない。何故、私たちの権限で法廷を打ち消せない)
 司教レベルの審問官でさえ覆せない審問法廷。相対する審問官の判断を無視して行う、一方的な即時執行。こんなことが出来るのは、大司教……いや、それ以上の権限が無ければ出来ないはずだ。
「……まさか。ダリウス司祭、貴方の天使は……!」
 悪夢のように男が呟くのと同時に、さっと白い雷が煌めいた。
 司教たちは揃って息を呑む。
 フラッシュに照らされたように闇の中に浮かび上がる、妙に艶めかしい褐色の肌と、漆黒に染まった二枚の翼……。
「堕天使……!」
 誰かが悲鳴のように叫ぶと同時に、それぞれの天使が汲み上げた『神の意志の力』を放った。まず風の奇跡《エレメンタム》を持つ女の天使が近くの水道の蛇口を弾き飛ばした。噴き出した水は別の天使の手ですぐさま束ねられ、ダリウスと異形の天使を飲み込む。
「おい、お前、何をやって」
「構うものか! 天使は堕ちた時点で、その宿主もろとも粛正の対象となる。相手はあの『鬼神』だ。手を抜けば俺たちの首も床を転がるぞ!」
 水流はその場で渦を巻くと、ダリウスの上半身を水球の中に呑みこんだ。こうなれば勝負はあったようなもの。鬼神と呼ばれた男も、息が出来なければ無事ではいられるはずが、
 ばばばばばば、
 低く響いた異音に、水を操る天使が怯えた様な声を出して後ろに隠れる。天使を使役する男は我が目を疑った。
 顔面を覆う不定形の水球の中で、ダリウスが声を上げて笑っていた。
 そして、
 ばばば、ばばばばばっ!
 ダリウスの頭を覆う不定形の水球……その表面が、音を立てて沸騰していた。
 ぐらぐらと煮立つそれは次々と気化していき、徐々に水かさを減らしていく。
「馬鹿な……!」
 その驚きは当然のものだった。沸騰した水に顔面を沈めれば、中に居る人間は大火傷だ。無事でいられるはずが、
「……なんだ。原理主義の中にも気骨のあるやつが居たのだな」
顔から白く上る水蒸気を漂わせながら、ダリウスが火傷一つ負っていない顔で、ニヤリと笑う。
「……っ!」
 四人の司教たちは知らない。
 ダリウスが無数に銃弾の飛び交う戦場で『鬼神』とまで謳われたのは、その身が宿す神威《ゲニウス》による所が大きいのだと。
 ――『金剛』。
 ダリウスが低く口の中だけで呟く。風の天使を宿す女が、腰の後ろに隠していた洋弓銃《レリクス》を撃ち放つも、ダリウスは腕を無造作に払うだけでそれを弾いた。
 ばつん、と軽い音がして、代わりに女の頭が弾け飛ぶ。
 怯える司教たちの背後で、黒翼の天使がぞっとするほど低い声で嘶きを上げる。残った男たちは、揃って顔色を失くした。彼らの脳裏に浮かんでいたのは、管理教会内でまことしやかに囁かれていた、ある一つの噂。
 ――堕天した天使は、管理教会《アパティア》がかけてていた制限から解き放たれ、それまでの階級より遥かに上の天使と比肩するほどの力を発揮する。
 真実か出鱈目か。噂を確かめようにも、大半の審問官にその機会は訪れない。堕天前の階級に関わらず、堕天審問官の粛正は大司教審問官にのみ認められた特務である。
 不吉な堕天使の嘶きに、悲鳴を上げて逃げ出した上官は、途中で胴体を真っ二つにされて崩れ落ちた。
 ゆっくりと歩み寄るダリウスに、残された痩身の男は血だまりの中に跪いた。乞うように手を組み合わせる。
「ち、違うのです。これはメルクリウス枢機卿に命じられて。私たちは」
「そういうのはいいんだよ。結局のところ、俺が聞きたいのは、お前らが俺の家族の死に対して、罪悪感を覚えているかどうか。それだけなんだ。……ほら、答えろよ《・・・・》。審問中だぞ」
 淡々と呟く声に、男の痩身が凍えたように震え始める。青白く色を失った唇から、途切れ途切れに言葉を吐き出そうとして――ぼたり。重たい物が首から落ちて、磨き上げられた床面で小さく跳ねた。
 一人、ずっと陰で震えていた若い男が、金切り声で叫ぶ。
「お助け下さい、神よ!」
「神? なに言ってんだ、お前」
 白銀の刃を手に、ダリウスは男の顔を覗き込む。
「そんなもん、端から居やしねぇよ。……もし仮に居たとしても、俺たちには何の関係も無い」
 吐き捨てるように言って、太い腕を振り下ろした瞬間、煙のように上がった血飛沫が、司令部のモニターを赤く汚した。


 降り注ぐ雨の中、ダリウスは一人、薄暗い路地で空を見上げた。
 十を超える人間の血を浴びた身体は、打ち付ける雨を持ってしても流しきることは出来ない。身体から流れる雨水が、赤い流れとなって、アスファルトの地面に広がっていく。
 今の騒ぎで、ダリウスの堕天は周知のものとなったことだろう。すぐに追手が差し向けられ、十分な審問を経ることなくダリウスは処断される。堕天審問官への対処には大司教が当たるのが通例だ。
 ダリウス・ロンブルの命は、あと数時間も経たない内に消え失せる。
 それでも、残された時間の全てをかけて、この計画に加担した人間を裁いていくつもりだった。
「最期の祭りだ。派手にいかないとな」
 まずは、メルクリウス枢機郷。次にメルクリウスの息のかかった原理主義の枢機卿共。脱走した『山狗の仔』は全て狩り尽くしたからもういい。
 ダリウスは狂ったように笑い声を上げると、肩の上を振り仰ぎ、
「悪いが、もうしばらく付き合って貰うぞ。イグニス。……ん?」
 振り返った肩の上には、血の涙を流し、怒りの咆哮を上げていた守護天使の姿は無かった。ダリウスは呆然と何も無い虚空を見詰め、立ち尽くす。すると、風が頬を撫でるような感触と共に、小さな囁きが耳朶へと流れ込んだ。
 ――し、待っていて。約束を……忘れないで。
「約束? なんだそれは。どうしたんだ? おい!」
 呼びかけるも、返事はない。
 身体ごと振り返るも、背後にいつもあった気配は、今や微塵も感じられ無かった。
「行っちまたか。……何だ。もう終わりかよ」
 ダリウスは憑き物が落ちた様な顔で呟いた。
 天使を失ったダリウスに、もう復讐を遂げる力は無かった。恐らく、下級審問官の警護さえ突破することは出来ないだろう。
「ははっ……ただの、罪人になっちまった」
 真っ赤に染まった手を見下ろし、無理に笑おうとして、失敗する。段々と震え始めた手を見つめ、ダリウスは泣き出しそうな顔で立ち尽くしていたが、不意にふらふらと歩き出した。
「……クロエ」
 冷たい雨が降り注ぐ水溜まりを、革のブーツがばしゃりと跳ねる。
「……裁きを受けるのなら、クロエがいい。あいつだけがきっと、俺のこの苦しみを解ってくれる。……俺はこのままでは鬼になる。全ての罪悪を燃やし尽くす地獄の獄卒となってしまう。だから、その前に」
 ぶつぶつと死人のような顔で呟きながら、ダリウスはクロエを求めて、大聖堂へと向かって歩き出した。

■大罪事変C

 黄昏の中にある『神の門』――教皇と限られた枢機卿以外の立ち入りが禁止された聖域の扉を、青年の血濡れの手が押し開きます。
 回廊の向こうに累々と続く、枢機卿たちの屍。
 青年の心を占めるのは、恐ろしい嫉妬心でした。
「まこと教皇に相応しいのは、この私だ」
 天へと架かる真っ白な空中階段と、それを汚していく赤黒い血滴。笑みを浮かべる青年の手には、一本のナイフが握られていました。玉座の中でまどろむ教皇聖下は、青年の恐ろしい企みに気付いていません。
 青年は遂に、夢にまで見た玉座の前に立ちました。
 目の前には、教皇聖下となった少女が眠っています。
 青年は大きく息を吸うと、規則正しく浮き沈みを繰り返す胸元へと、震える刃を振り下ろし――……

   ※

『神の門』を潜ったクロエは一人、黄昏の中に立っていた。
 鋭く射し込む夕暮れの斜光……眼下に煙る雲海は燃えるように紅く、純白の空中階段がピアノの鍵盤のように、朱に染まった天《ソラ》へ向かってどこまでも伸びている。
 高度はいかほどになるのだろうか。少なくとも、クロエが到達することの出来るどの高度よりも上であることだけは確かだった。地球の丸みさえ、指でなぞることが出来るほどにはっきりと解る。
 それは、まさに神の視点を得たような光景だった。心が穏やかに静まり返り、世界の全てを手に入れたかのような全能感が、空虚な胸を満たす。
 クロエは呆けた顔で、ゆっくりと辺りを見渡した。重たい腕を持ち上げ、雲海の果てで赤く燃える夕日へと伸ばす。
 今だったら、そこに手が届くような気がする――。
 炎のように燃えるその輝きへ触れようとして……揺れる瞳を、僅かに伏せた。そのまま静かに瞑目すると、伸ばしていた右腕を頭上高く掲げ、自らの守護天使の名を呼ぶ。
「来い、ミカエル」
 茜色の空に黄金に輝く光の環が現れ、それはクロエを中心として瞬く間に遠く同心円状に拡がると、ある所で動きを止めた。虚空より響く天使の咆哮と共に、環の中に出来た空間面に、無数の光の矢が出現する。それらは天へと向かって一斉に、驟雨の如く降り注いだ。凄まじいエネルギーが虚空へと炸裂し、黄昏の空に色鮮やかなベリノイズが走る。そして、一瞬の暗転――。
 クロエは、ゆっくりと瞼を開いた。
 目の前に広がっているのは、どこまでも拡がる燃えるような朱色の雲海ではなく、冷ややかな灰色の画一された鋼鉄の壁。先程までの光景は夢のように消え、宙空に浮かんでいたはずのクロエの脚は、鋼製の作業通路を踏み締めている。――そして、
「こんな所で何をして居られるのですか。メルクリウス枢機卿」
高く伸びる螺旋階段の上、のっぺりとした円柱型の躯体から張り出たデッキに、見知った男が立っていた。
「クロエ・シュトラウス……どうしてお前がここに」
 血のように赤い僧服が微かに揺れる。枢機卿団長メルクリウスは、驚きの表情で苦々しく呟くと、表情を一転、苛立ちに歪め、
「エンメルカルめ……。いったい何を考えている」
「枢機卿。お答えください。これが我々の信奉していた神なのですか。これが――」
 クロエは抑えた声で言って、目の前に聳える円柱形の鋼体を見上げた。
 低い作動音を立てて唸りを上げる機体。白い蒸気を吐き出し拍動を刻む動力部。無数に伸びる血管を思わせるチューブ……。全高数十メートルはあろうかという巨大な鋼鉄の塊は、その威容で遥か下方に佇むクロエを見降ろしている。
(――いや。ただの機械ではない。何だ? 見ているだけで圧倒されるような、この威圧感)
 畏怖にも似た感情さえ覚え、クロエは凍り付いたようにその場に立ち尽くした。知らず、喉から唸るような声が漏れる。
「察しがいいな。シュトラウス大司教」
 デッキに立つメルクリウスが小さく笑む。
「そうだ。これが我々が神と呼ぶものの正体だ。人間の英知が粋を極めていた時代。失われた科学技術によって産み落とされた、霊子を媒体とし、無意識の海に接続する量子演算装置――機械仕掛けの神〈Astraea〉《アストレア》」
 誇るように片腕を開いたメルクリウスが、よく通る声でその名を呼ぶと、巨大な鋼鉄の塊は、その呼びかけに応えるように、這い回る鉄管から勢い良く蒸気を吐き出した。
 真っ白な高圧蒸気を撒き散らすその姿は、さながら、招かれざる闖入者に怒りを露わにする暴君。震動がびりびりと足元を伝い、クロエはよろめくように手近な手すりに手を突いた。作業通路に四肢を張ると、色を失くした唇を震わせ、
「俺たちは、こんなものを神と崇めていたっていうのか?」
「こんなもの、だと?」
 メルクリウスが吐き捨てるように口を開く。
「『無意識の海』は人々の意識の総体。無限に拡がる情報の渦。現在過去未来を記録しながら胎動を続ける叡智そのものだ。その定義において、我々が神と呼ぶ存在と何が違う」
「同じなものか。少なくとも俺は――いや、この聖都で学ぶ審問官たちは、誰一人だって、こんなものの為に人生を捧げてきたのではない!」
「愚かな。お前たち一人一人の人生が何だと言うのだ。そんなものの目先を囚われるな、クロエ・シュトラウス。この装置の正しさは、他の誰よりお前自身が知っているだろう?」
「……どういうことだ」
「まだ気付かないのか。貴様が信奉してきた『神』が科学の粋を結集して造られた人工物だというのなら、お前が御大層に肩の上に載せている『神の御使い』とは何だ」
 冷たく嘲笑うようなメルクリウスの声に、クロエは弾かれたように傍らの天使を見上げた。
 彼の守護天使は眩い黄金の光の中から、じっと暖かな光をクロエに投げかけている。「まさか」とクロエの顔が苦しげに歪んだ。
「そうだ。天使とは、この巨大量子演算装置――〈アストレア〉にアクセスするための補助装置。演算処理の結果を伝える一端末に過ぎない。
 第一に、対象となる者の心性から。第二に、対象が属する集団の規律から。第三に、人類全体の意識の総体が持つ価値観から――。それら膨大な情報から罪を規定し、相応の罰を見積もり執行する。それが量子演算装置〈アストレア〉を使用した天使システムの正体だ。審問官など、システムを効率よく運用させる為の一媒体に過ぎない。俺たちはそんなものの為に人生を捧げたのではないだと? はっ、思い上がりも甚だしい。ただのお飾りが何を言っている」
 突き放すような、あるいは嘲笑うようなメルクリウスの声に、クロエは縋るように傍らの守護天使を見詰めた。眩い光を纏った人形《ヒトガタ》の光体は、薄く微笑みを返すだけで、何も答えを返してはくれない。クロエは悔しげに顔を背けた。絞り出すように、 
「俺たちがお飾りだというのなら、シャロンは……教皇とは、一体なんなんだ。何のために存在する」
「ほう、冷静な質問だな。大司教。もっと無様に取り乱すかと思っていたのだが」
 メルクリウスは唇の端を吊り上げると、眼鏡の奥にある爬虫類のように瞳を怜悧に眇め、
「私も専門ではないのでな。本来は奥で作業中の別の枢機卿から説明を聞くのが一番なのだが、今は手を離せない。他人の受け売りで良ければ代わりに私が答えよう。
 機械というものは、押し並べて想定外の出来事に弱いものらしい。それは〈アストレア〉とて例外ではない。世界中のあらゆる情報……大気の組成から、囀り空を飛び回る小鳥の心拍数、風にそよぐ木々が発する微かな木擦れ、踏み荒らされ舞い上がる砂塵の一つさえもを記録し、その挙動を演算し続ける〈アストレア〉は、運用の過程で極々微量のエラーを生じさせる。それ自体は無視しても差し支えの無いものだが、それが無限に蓄積していくと、いつかは一時記憶領域を圧迫し、システムを破綻させてしまう。科学の粋を集めて創造された機械でも除けないエラー……。それを処理するにはどうすれば良いか? 当時の科学者たちはこう考えた。機械に出来ないと言うのなら、人間にやらせれば良い」
「それが、『教皇』だと?」
「そうだ。極々微量なエラーの処理と言えど、その判断が世界に与える影響は大きい。東国の都市で蝶が羽ばたくと、西国で嵐が起こるなどということもあるのだ。処理は、人類にとって都合の良いように行われるのが望ましい。正確性、公平性、論理性……それらパラメーターが最も優れた触媒を用意する為、我々は膨大な労力と費用をかけて、この小島で生体コンピューターの部品となる優秀な子供たちを育てて来た。たかだかゴミ処理機に過ぎない一端末を、『教皇聖下』などと崇めてな」
「……ゴミ処理機、だと?」
「なんだ? その顔は。たかがゴミ処理とて、名誉あることなのだぞ? 人生を捧げることで、何億人という民衆の憂いを取り除くことができるのだか……っ!」
 言い終わらぬうちに吹き付けた突風に、メルクリウスは傍らの手すりに寄り掛かった。
 ぎろりと蛇のような瞳が眼下を見下ろす。歪む陽炎の中に、生成り色の僧服を舞い上がらせるクロエと――憤怒の形相に顔を歪め、紅焔を散らす守護天使の姿を見つける。
「言いたいことはそれだけか、メルクリウス。だったら今すぐ口を噤め」
 低く抑えたクロエの怒声に応じて、咆哮を上げる天使が黄金色の火の粉を飛ばす。
「……ほう。さすがは総大司教。凄まじい量の世界霊魂《アニマ・ムンディ》だ」
「すぐにシャロンをそのふざけた装置から解き放て。さもなければ、お前を跡形も無く消し飛ばす」
 言って、手に捧げ持つ黄金色の天秤を突き出す。
 枢機卿《カーディナル》となる審問官は、就任の際に『神』へと天使を返還するのが決まりとなっている。かつては守護天使を宿していたメルクリウスも、今は『神の意志の力』は扱えない。彼は戦闘面において、どの審問官よりも劣勢であるはずだった。しかし、
「凄まじい力だ。天使を返上した私には敵わないな」
 炎となって迸る、溢れんばかりの『神の意志の力』を前に、メルクリウスは口の端を歪めて笑った。
「私の手には負えそうもない。だから、無力な一市民は神に縋ることにしよう……偉大なる女神〈アストレア〉よ!」
 メルクリウスが鋭く声を張り上げると、クロエが立つ作業通路に『神の意志の力』が流れ込んだ。足元を見降ろしたクロエはぎょっと目を開く。鋼鉄網《グレーチング》の下に見える景色に、真っ黒な穴が空き、周囲の大気を吸い込んでいる。天使から流れ込む情報から理解する。
 あれは力場の渦。光さえも飲み込む収縮を続ける重力場……!
「メルクリウス! 貴様ッ」
 足元の作業通路が崩れ落ち、音も立てずに黒点に吸い込まれ消失する。守護天使の力で引き寄せられる力に抗いながら、クロエが燃える瞳でメルクリウスを睨み上げる。
「は、恐ろしい顔だ。それでよく聖職者を名乗っていられたものだな。……まったく。原理主義の連中も役に立たぬ。だからクロエ・シュトラウスが心変わりを起こさぬよう、罪人を逃がして時間を稼げと命じて置いたものを……」
 口惜しげに呟くと、まぁいい、とメルクリウスは眉間を押さえ首を振って、
「愚かな真似をしたものだ。『神の間』に踏み込むことは第一級の重罪。ここで何をするつもりだったのかは知らないが、余計な気を起こさなければ、華やかな生を送れたものを。自身が教皇に選ばれなかったのが、そんなに不服だったかね?」
「……何を」
「我々とて、真実を言えばお前を教皇に据えたかったのだよ。大司教。適正率98.7パーセント。つまり、我々にとって非常に都合の良い精神性をもったお前が教皇になれば、アパティアは更なる繁栄を極めただろう。だがな、お前は強過ぎた。常勝無敗の英雄――強力無比の兵器を、ゴミ処理の部品として差し出すのは、余りにも惜しい。戦況は決したとはいえ、異教徒達との戦いも残っているからな」
「だから……適正率の低いシャロンを教皇に選んだのか」
「あれの力は専守防衛にしか役に立たないからな。今の民衆に安息の味を覚えさせるのは、組織にとって毒だ。……なに、教皇は一定の適正率があれば、誰がやったとて同じ。あれは長期間の運用に耐え得る精神力については懸念があったが、なに、もし早々に限界が来たなら、また新たな教皇を据えればよい」
「答えろ《・・・》、メルクリウス。それが、管理教会《アパティア》の正義なのか!?」
「そうだ」
「――執行!」
 クロエの怒声と同時に、天使ミカエルが怒りの咆哮を上げて、デッキ上のメルクリウスへと光の矢を放つ。
 紅炎の天使ミカエルが放つ、『神の杖』。
 小さな都市一つを焼き払うほどのエネルギーを秘めた一撃は、一瞬でメルクリウスへと迫り――霞のように掻き消える。
 驚きに固まるクロエを見おろし、メルクリウスが小さく鼻を鳴らす。
「無駄だ。〈アストレア〉は、自身に降りかかるあらゆる災厄を他次元に強制移行《シフト》させる。私がこの場所に居る限り、お前の力は届きはしない」
 憐れむような目で言うと、小さく腕を上げる。足元に出来た重力場が収束する勢い増した。
「……くっ、堪えてくれ、ミカエル!」
 吸い込まれまいと抗うクロエの身体へ、相殺仕切れなかった重力が圧し掛かる。
「真実を知ってなおも天使《それ》に語りかけるか。愚かな。そもそも天使の意志は、量子演算装置〈アストレア〉が運用するプログラムの中で決定される。天使たちが母体に危害を加えることが出来ないのは自明の理だろう。……知っていたかね? 天使たちの名が星の名前に由来していることを。これは……ははっ、当時の研究者たちがお遊びでつけたのだそうだ!」
 引き攣った声で笑って、メルクリウスは瞳に冷たい光を宿すと眼前のクロエに向かって告げる。
「『神の間』への不正侵入、枢機卿である私への殺人未遂、教皇……ひいては神への反逆行為――すぐさま極刑に処しても余りある罪状の数々だが……。安心するといい。お前は記憶を〈アストレア〉の手で書き換えられ、再び戦場へと送られる」
「……そんなことを、俺が許すと思っているのか」
「許す許さぬの問題ではない。お前は全てを忘れて、従順な信奉者として管理教会《アパティア》に尽くすのだ。お前は戦場の華。お前が前線から退けば、敗退の恐怖から退役を申し出る審問官が数多く出るだろう。……今が大事な時なのだ。預言者は教会分裂《シスマ》の危機があると告げた。せっかく異教徒鎮圧も最終局面という段に至って、しくじる訳にはいかないのだ」
「それがあんたの正義なのか!? 友を……アナスタシアを生贄に捧げてでも、守りたいものだったのか!?」
「黙れッ!」
 クロエの問いに、冷たいメルクリウスの表情から怒りの炎が吹き上がる。
「この装置の運用すれば、数多くの人類が救われる! 何一つ憂うことの無い生活が送れる! その為に、これまで何十人と言う教皇が犠牲になって来たのだ。……私の所で、その螺旋を終わらせる訳には行かない!」

  3001 Michelangelo! 

 『神の意志の力』《アニマ・ムンディ》の流れが変わったのを察知して、メルクリウスは眼鏡の奥の青い瞳を眇めた。双肩にかかる圧力により、宙に跪き動けずにいたクロエが、ゆっくりと身体を起こす。
「……限界動作《オーバークロック》か」
 メルクリウスが忌々しげに呟き、微かに口の端を歪める。
「ヤクザなものに手を出したな、大司教」
「俺は認めない。認めるものか……!」
 クロエは憤怒の表情で強くメルクリウスを睨み据えると、頭上高くへと黄金の天秤を掲げた。
「俺たちは、そんなものの為に生きてきたんじゃない!」
 肩の上で咆哮を上げる天使ミカエルが、刻々と姿を変えていく。黄金色の光の人形から、甲冑を身にまとった紅蓮の騎士へ。怒りと暴力を具現したような禍々しい兜の口が開き、口から太陽の如き光が溢れる。

 ――――――ッ!

 万雷を収束し、一本に束ねた様な一撃だった。光の槍は一瞬で宙を駆け、鋼鉄の巨大機械の腹に穴を穿つ。

 オォ、

 〈アストレア〉が呻きにも似た音を発し、ぶるりと震えた。空間が歪み、あちこちでケーブルが破れ、白い蒸気が噴き出す。
「生体オペレーターとの同期が不十分では、〈アストレア〉の力も十全とはいかないか」
 白く煙る蒸気の中、メルクリウスが冷たい瞳で呟き、長い指で眼鏡の位置を直す。その固く結ばれた皺だらけの口元から、赤黒い血が一筋、伝って落ちた。
「私の勝ちのようだな、クロエ・シュトラウス」
 震える唇で淡々と声を発し、メルクリウスは冷たく笑った。光の矢は彼の腰から下を消し去り、上半身は半ば埋もれるように鋼鉄の機械に張り付いている。
「これしきの損傷ならば、〈アストレア〉の自己修復機能で対処できる」
 ぜーぜーと濁った呼吸を繰り返しつつも、その瞳の冷徹さは微塵も揺らぐことは無い。
「それなら、修復出来なくなるまで壊し続けるだけだ。次はもっと強い一撃を食らわしてやる」
 クロエは青褪めたメルクリウスの前に立つと、黄金の天秤を掲げ、『神の意志の力』を傍らの紅蓮の騎士へと注ぎ込んだ。同時に、黒く燃え上がる両の瞳へも、力を流す。眇めるように目を細め、
「……見つけた。あれが核か」
 遥か頭上、分厚い鋼鉄の外壁に覆われたある一点に、心臓のように拍動を続ける動力炉を見つける。ミカエルが応じるように禍々しい兜の口を開けた。
「無駄だ。止めておけ。大司教」
「そこで見ていろ。枢機卿。全てを終わらせた後、あんたは管理教会《アパティア》の法廷で裁かれなくちゃならない」
 クロエは細い呼吸を繰り返すメルクリウスには目もくれず、黄金の天秤を掲げた。
「ただの機械を神と称し、多くの人々を騙した罪、見逃すわけには行かない。機械仕掛けの神《デウス・エクス・マキナ》による救済など、流行ではないんだ。悲劇はここで幕を降ろす」
 何も置かれていない皿がゆっくりと沈み、水鳥の羽根が乗った皿を持ち上げる。
「――“執行”」
 低い呟きと共に、クロエは練りに練った力を撃ち放とうとして、
「――っ?」
平衡感覚に致命的な狂いを覚えて、ひしゃげた通路の欄干に手を突いた。
「なに、が――……?」
 視界に映るあらゆるものがぐにゃぐにゃと歪み、呼吸が出来なくなる。時間が間延びし、不等なものへと変化していく……。
「疑似太陽『黒い太陽《ソル・ニゲル》』が暴走を始めたのだ」
 耳元で――いや、どこか遠くでだろうか。メルクリウスが囁く声が聞こえる。
「『黒い太陽《ソル・ニゲル》』とは、〈アストレア〉の核となっている動力機関のことだ。巨大なエネルギーを発するミカエルに共鳴し、目覚めたのだろう。我々の制御を無視して、力を集め始めている。アレは何より自己防衛を優先するよう造られている。恐らく、大聖堂……いや、エリュシオンの園ごと、外敵である貴様を他次元に吹き飛ばすつもりだ」
「エリュシオンの園ごと……!? 馬鹿な!」
 クロエは千路に乱れる意識を繋ぎ合わせて、何とか言葉を繋いだ。自分の身体が数万分の一に縮んだかと思えば、数万倍に引き延ばされるという感覚を、何度も交互に体験する。
「どうすれば止まる! 教えろ、メルクリウス!」
「ふん。誰が教えるものか。……私たちは、こんなところで立ち止まる訳には行かないのだ」
 嘲笑う老人の声が、どこかに反響して聞こえる。
「……私が天使システムの真実を知ったのは、アナスタシアが教皇として眠りに就いてから四十年後、枢機卿になった後のことだった。一度〈アストレア〉と同期し、運用の為に最適化された脳は、その寿命を完全に終えるまで、元に戻ることは無い。装置を停止させることは、アナスタシアの死を意味する。私はそのまま走り続けるしかなかった。全てはアナスタシアのため。彼女の犠牲を無駄にしないためにも、我々はこの装置を運用し続ける義務がある」
 わんわんと反響する呟きが途切れた途端、不意に捻じれていた空間が元に戻った。
 割れるように痛む頭を堪えて顔を上げると、目の前には焦点の合わない瞳でクロエを見つめる、悲しげな老人の姿があった。べっとりと血塗られた鋼鉄の壁に張り付いた老人は、息も絶え絶えに、しかし歯を剥き出しにして笑う。
「クロエ、シャロン! お前たちには、その為の人柱となってもらうぞ。アナスタシアと、私の生きた証の為に!」
 老人の叫びと同時に、〈アストレア〉へと、膨大な量の『神の意志の力』が流れ込んでいく。それはこれまでクロエが扱ってきた力が、ほんの小川のせせらぎに感じられる程の、あまりにも非常識で強大な力の流れだった。
「……このまま臨界に達すれば、エリュシオンは」
 呟いたクロエの脳裏に、エンメルカルの、アイーシャ、ライラとレイラ、そしてダリウスの顔が走馬灯のように次々と浮かんだ。
 砕けんばかりに拳を握りしめるクロエに、メルクリウスが低い声で笑う。
「終わりだ。大司教。もうどうにもならない。エリュシオンの園は滅ぶ。だが、〈アストレア〉は自己修復を終えた後、再びこの次元に戻って来るだろう。そうなれば、また続けられる。エンメルカルが、原理主義が、新たな管理教会《アパティア》をまとめ上げ、この悲しい連環の輪を繋いでいくだろう。我々のしてきたことは、決して無駄には終わらない」
「あんたはそうやって、これからも同じ苦しみを引き継がせていくのか。おぞましい現実を、はりぼての神々しさで取り繕って、何人もの何も知らない審問官たちを世界の生贄に捧げるのか!」
「ここで退くわけにはいかんのだ……! これはアナスタシアの為に、私が唯一出来る罪滅ぼし! 何も知らず、彼女を送り出した私の!」
 血を吐くように叫んで、メルクリウスは血走った目でクロエを見返した。荒く息を吐く姿には、あの冷徹で酷薄な恐ろしい枢機卿の面影はどこにもない。ただ、哀れで、悲しい、執念だけが歩いているような無力な老人があるだけだった。
 クロエは、その深い絶望に彩られた瞳を見返し――僧衣の裾を翻すと、半ば崩壊しかけた螺旋階段のステップに足を乗せた。
「教えてやる。メルクリウス枢機卿。俺がここへ来るように仕向けたのは、前教皇アナスタシア・セレーネだ。彼女は言った。『メルクリウスを止めて欲しい』と。最期の瞬間、あんたと話が出来なかったことだけが、唯一の心残りだと」
「…………馬鹿な」
 低く呻いたメルクリウスが、どのような顔をしていたのか、クロエは知らない。これ以上掛けるべき言葉も無かった。致命的な擦れ違いを正すには、全てがもう手遅れだった。
「何かの間違いだ……。そんな結末、認められない。それなら、アナスタシアは、何のために」
 絞り出すような声を聴きながら、クロエは螺旋階段を昇り始めた。『黒い太陽《ソル・ニゲル》』へと近づくたびに、時間は細分化され連続性を失くし、一秒が数時間に感じられ、数十分が一瞬に感じられた。
 ……どれくらい経っただろう。
 果てしなく続くと思っていた階段は途切れ、鋼製のデッキが現れる。
 見下ろすように宙に浮かぶは、薄青色の巨大な半透明の球体は、表面が水のように波打ち、一定間隔で白い光を鼓動のように瞬かせていた。
 球を満たすのは、蒼穹の世界霊魂《アニマ・ムンディ》……『神の意志の力』と呼ばれる不可視の流体だ。凝縮され、形質を獲得した霊魂《イデア》は、もはや本質的には生命と変わりない。
 ――そして、羊水に満たされた球の中には、小さな胎児……教皇の玉座が、浮かんでいる。
「他の枢機卿たちの姿が無いな。……危険を察知して逃げたか……あるいは、あれに取り込まれたか」
 あの球体の中では、あらゆる物質が存在を許されない。全ては分解され、ただの情報として取り込まれる。玉座が消化されずに浮いていられるのは、量子演算装置〈アストレア〉による加護のためか。
 クロエはゆっくりと球体へ近づくと、青白く発行する流体の中に浮かぶ玉座を見上げた。ガラスの棺のような玉座に、眠る幼馴染の姿を見つける。
「シャロン……」
 手を伸ばそうとして、躊躇う。
 これ以上、球体へと近づけば、クロエもまた取り込まれ、二度と戻っては来れないだろう。
 苛立ちを抑えるように歯を食いしばると、不意に玉座の中に見覚えのあるものを見つけた。
「あれは……まさか」
 呆けたように見上げていたクロエの顔が、くしゃりと歪む。玉座で眠るシャロンの身体を覆う、真っ黒な布地……ところどころがほつれ、色褪せたそれは、
「俺の、司祭服じゃないか」
見紛うはずがない。クロエが修道院を出るときに捨てた司祭服だった。

 ――私はいつも貴方の傍に居るわ。クロエ。

 耳元にシャロンの声が蘇り、クロエは苦しげだった顔に歪な笑みを浮かべる。
「何だ。施設に寄付した、って言ってたじゃないか」
 涙が一滴、頬を伝って落ちる。
 青白い光を放っていた流体が、一際強い光を発した。
 『黒い太陽《ソル・ニゲル》』は既に臨界に達している。いつ決壊しても可笑しくない。これほどの濃度を持った世界霊魂《アニマ・ムンディ》が流れ出せば、聖都エリュシオンは瞬く間に情報へと分解され、集合無意識の中に取り込まれてしまうだ。〈アストレア〉は、この『神の間』ごと、その際に発生する力を利用して、他次元に身を隠すつもりだろう。これほどの力ならば、戻る時のエネルギーにも事欠くまい。
 手の中の天秤を強く握りしめる。
 公正と調和を象徴する、クロエの聖遺物《レリクス》。自らに与えられたそれを見下ろし、傍らに立つ天使ミカエルと視線を交わす。
「――行こう。シャロンをもう、独りにはさせない」
 真っ直ぐに玉座を見上げると、クロエは球体の中へと跳び込んだ。


 距離が捻じれ、物体が質量を失くし、時間が無限に細分化される。肉体は単なる情報に解体され、剥き出しになった魂に無数の霊子が絡み付く。
 第一可動天球を超えた頃には、クロエは魂だけの存在となっていた。ミカエルの強力な加護が、紙一重で魂が取り込まれるのを防いでいる。
 甲冑を纏った勇壮なミカエルの姿も、今は微かな灯火と化していた。小さな太陽は、しかしクロエを見守るように後を付いていく。
 水の中を歩くように玉座へと近づき……ついにその手が、無機質な素地に触れる。瞬間、意識の中に無数の情報が雪崩れ込んできた。〈アストレア〉は、その力をクロエの魂を分解することに費やすことにしたらしい。
 このまま行けば、クロエ・シュトラウスという人格は、膨大な情報の中に溶けて消えるだろう。一度溶けてしまえば、もう元に戻す手立ては無い。
 それでも、手を伸ばした。
 ――帰ろう、シャロン。
 一緒に星を探した、アジアの大都市の路地裏へ。
 夕日が輝く、エリュシオンの園の涼やかな丘の上へ。
 記憶も人格も関係ない。
 俺たちは、物心ついた時には、二人一緒に居た。ただのクロエと、ただのシャロン。それだけあれば、他には何も要らなかった。
(目を覚ましてくれ、シャロン。俺たちは、こんなものの為に、審問官になったんじゃない。そうだろう?)
 同期作業が開始してから、まだそう時間が経っていないはずだ。間に合ってくれ――強く願ったクロエの魂が、シャロンを抱きしめる。
(頼む、目覚めてくれ)
 強く念じたその時、不意にシャロンがぱっちりと目を見開いた。焦点の合わぬ目でクロエを見上げ、
『ist(--curlist, uname, uemail, lat, lon, setutime2(utime――……』
 意味不明の文字列の連なりを囁き始めた。
(っ!?)
 球面を保っていた疑似太陽が崩れ、濃密な世界霊魂《アニマ・ムンディ》が外界へと流れ出す。染み出した流体に触れた瞬間、空間が捻じれ、ゆっくりと歪曲を始める。
 聖都の崩壊が、始まったのだ。
 クロエは痙攣したように震えるシャロンの身体を、質量の無い魂で強く強く抱き締めた。……恐ろしく冷たい死の感触が、すぐ傍に横たわっている。
(済まない、シャロン。間に合わなかったみたいだ)
 声にならない声で彼女の名前を呼んだ時、ふと微かな後悔が頭を過った。
 ――俺が来なければ、シャロンはここで死なずに済んだのではないか?
 相手の真意を確かめもせず、ただ己の罪の意識から逃げる為に、彼女の存在を言い訳にして、真意から目を背けていたのではないか?
 あの、悲しいメルクリウスのように。
(……そうだ。少なくとも)
 シャロンは、聖都エリュシオンの消失なんて、望んではいなかった。
 胸を過った後悔の念さえも、冷たい死の感触は黒く塗り潰していく。腕の中のシャロンは、何も映さない瞳でただ虚空を見詰めている。
(消えていく)
 肉体も、自我も、魂さえも。
 全てが崩壊し、藻屑と化して行く。加速を続ける死への疾走の、その中で、
「クロエ!」
最期に、友の声を聞いた気がした。

   ※

 クロエの守護天使ミカエルが発する力の気配を感じ取ったダリウスは、自らの裁きを求めて、重たい大聖堂の扉を開いた。
 扉を潜った途端、ダリウスの目に飛び込んできたのは、鋭く差し込む午後の陽光だった。夜空を覆っていた雨雲は消え去り、聖堂内には温かな日差しが満ちている。
(どういうことだ?)
 思わず自らの正気さえ疑ったその時――祭壇の向こう、後陣の奥から、荒々しく流れる『神の意志の力』の気配を感じた。
「クロエ……? 何をしているんだ」
 足が自然と、後陣へと向かう。
 溢れ出す『神の意志の力』は凄まじく、それは空間を揺るがすほどに膨れ上がっていた。これほどの異変の中にありながら、他の審問官たちの姿は見当たらない。
 ――何かが、可笑しい。
 後陣に辿りついた時、そこにいつもの門番の姿はなく、扉は微かに開いていた。ダリウスは分厚い扉に手をかける。恐る恐る扉を潜り、

 その向こうに、光り輝く『神』の姿を見た。

「いや、あれは……クロエの天使、ミカエルか?」
 遥か頭上――鋼鉄の巨大機械に沿うように伸びる螺旋階段の上に、光の槍を携えた天使の姿があった。限界動作《オーバークロック》により制限を外された天使は、その姿を甲冑の騎士のそれに変えて、口元から白金の炎を吐き出している。
「クロエ……何をするつもりだ」
 ダリウスは掠れた声で呟くと、巨大機械へ向かって駆け出した。戦闘が行われた爪痕だろう。崩れ落ちた作業通路を迂回して向かう。
(ここが『神の間』? この機械はいったい何なんだ。神はどこに居る!?)
 そこは、想像していたよりもずっと、無機質で冷たい場所だった。
 鉛を流したような重たい空気で満ちた螺旋階段を、満身創痍のクロエが、足を引き摺るようにして昇っていく。頭上には、分厚い鋼板で覆われた巨大な玉座。ずる、ずる、と歩みを進める度、赤い滴が流体の滑らかさを持つ鋼板を伝って落ち、すぐさま細かい粒子と化して消失した。
「それに触れてはならない! クロエ・シュトラウス……!」
 メルクリウスの絶叫が冷たい玉座に反響する。あの冷血動物のようなメルクリウスが、脇目も振らずに声を張り上げ、怨嗟の叫びを上げていた。巨大装置の冷たい壁に張り付いた彼の身体は、腹部から下が失われていた。
「何をするつもりだ。クロエ。まさかシャロンを目覚めさせるつもりか!?」
 混乱のまま呟き、血の痕の残る螺旋階段へと足を掛ける。一段一段足を進めるにつれ、少しずつ濃度を増していく『神の意志の力』の圧力を感じる。そうして上を目指すにつれ、いくつかのことが解ってきた。
 一つは、この巨大機械が『神の意志』へと接続できる装置であるということ。二つに、この玉座が世界軸《アクシズ・ムンディ》が貫通する、聖地と呼ばれるに相応しい場所であるということ。
 ここは『神』を内包する胎盤だ。ならば、濃密に溢れている『神の意志の力』《アニマ・ムンディ》は羊水か。
 螺旋階段を抜けてデッキに出ると、玉座は膨大な『神の意志の力』で満ちていた。
 クロエの身体はすでに第一可動天球を通過しようとしている。否、肉体は既に情報に解体されていて、魂が辛うじて形を保っているに過ぎなかった。
 ダリウスはすぐさまクロエを引き戻そうとして、しかし踏み出した筈の足が全く進んでいないことに気付き、足元を見下ろした。
 目に見える光景が、水の中から液面を見上げた時のように、屈折して映っていた。遠近感が掴めなくなり、時間軸さえもが捻れ、狂い始める。
「……ッ、何をしている、クロエ! 教皇に触れるな! 『神』が消えてしまうぞ!」
 張り上げた声すら、果たしてクロエまで伝わっているかどうか。
 ついに、クロエの手が玉座で眠るシャロンの肩に触れる。一千万倍に引き伸ばされた回廊の向こうから、長く尾を引く皺枯れた老人の声が聞こえる。
 球体を満たしていた流体が染み出し始めた。強い粘性を持った流体は、玉座にある、あらゆる物を飲み込み解体していく。鋼製のデッキ、作業通路、階下で狂ったように喚くメルクリウス枢機卿……そしてそれは、ダリウスさえも例外ではなかった。
「止めろ! クロエ。神が消えてしまう……! 世界を終わらせる気か!?」
 気化した世界霊魂《アニマ・ムンディ》が肺さえも犯す。
 溶解し、今や実体を失いつつある頬を、乾いた熱風が殴りつける。
 黒い太陽《ソル・ニゲル》は、異物を吐き出そうと出力を高めている。肉体を含めたあらゆる物質が原子単位で解体され、霊子と化した魂が剥き出しの自我に絡みつく。音も立てずに、血濡れた銀の細剣が、流体の中に落ちた。 
「止めろ……クロエ。どうして俺を裁くはずのお前が、罪を犯す。お前に先に逝かれて、残された俺はどうすればいい!?」
 悲鳴に似たダリウスの声は届かない。
「クロエ――!」



 ……――どれくらい眠っていただろう。
 頬を撫でる柔らかな感触に、ダリウスは目を覚ました。
 微かに身を捩ると、四肢に確かな感触が伝わってくる。あれほどの濃度の世界霊魂《アニマ・ムンディ》に呑まれながら、どうやら自分はまだ生きているらしい。
 ――何が起きたのだ?
 縋るように首を動かすと、霞んで定まらない視界に、触れ慣れた褐色の肌が映った。後頭部に伝わる柔らかな温もり。さわさわと揺れる女の細い腕には、真っ赤なガーネットの嵌められた、黄金の腕輪が揺れている。
「アイーシャ……?」
 名前を呼ぶと、女は返事の代わりに愛らしく微笑んだ。
 ダリウスの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
(俺は夢を見ていたのか? ……恐ろしい悪夢を)
 胡乱な頭を動かして、シャロンの眠っていた玉座を見上げる。そこには無機質な機械があるだけだった。他には、何も無い。機械を動かしていた動力炉は完全に沈黙し、周囲に漂っていた巨大な意志――『神』の気配は、微塵も感じられない。
 ――ああ、神は消えてしまったのだ。
 それだけが、ぽっかりと空いた胸に、すとん、と落ちてきた。
 そして、クロエとシャロンの二人も。
 二人は、連れ立って神の国へと旅立ったのだ。抱えきれない程の罪を背負った、ダリウスを残して。
 ダリウスは、唸るような声を上げて泣いた。鋼鉄の空間に嗚咽が反響する。
 頭を抱いていた女の腕が動いて、そっとダリウスの涙を拭う。
 アイーシャは、とても安らかで満ち足りた顔をして、ダリウスを見下ろしていた。その顔に、先ほど夢で見た、悲しみのままに事切れた妻の顔が重なり、ダリウスは思わず息を飲んだ。
(……どういう、ことだ?)
 意識の底から、泡沫のように疑問が浮かび上がって来て、意識の表層で弾ける。
 ……罪を犯した俺は、クロエに罰せられることを求め、禁を破って『神の間』へ入り込み、この玉座の前で、シャロンへと触れようとしているクロエの姿を見た。二人と共に、この世界に留まっていた『神』は去り、俺は玉座の前で悪夢から目覚めた。
 ――可笑しい。
 原因と結果に矛盾が生じている。もし、これらが本当に悪夢だというのなら……。
 俺が目覚めるのは、隣で妻が眠る寝室のベッドの上でなければならない。
「誰だ、お前は」
 ダリウスは震える声で囁いて、頬を撫でる女を睨みつけた。
 焦点を結びつつある瞳に映った女の姿に、引き攣ったように喉を鳴らす。
 改めて見ると、女の姿は、アイーシャに比べあまりに幼く、またライラやレイラと比べると、いささか大人びていた。
 まるで二人が数年の成長を経て、目の前に現れた様な光景――しかし、そんなことはありえない。もうそんな姿を見ることは敵わない。
 何故なら。
 レイラとライラは、もうこの世の何処にも居ないのだから。
 低く抑えた誰何の声に、慈しむようにダリウスの頭を撫でていた女の手が止まった。穏やかな笑みを浮かべて、戦慄の表情で見上げるダリウスを見詰め、
「誰だ、は酷いなぁ。忘れちゃったの? ずっと一緒に居たじゃない」
 どこか芝居じみた声で言って、拗ねたような目でダリウスを見下ろす。その瞳は、まるで少女の腕で輝く腕輪に嵌められた、ガーネットのように、紅い。
「なんだ、解らないの? 僕だよ。君の守護天使イグニスだ。堕天した天使は、魂が劣化しないように容れ物である肉体を纏う必要があるんだよ。……だから、ちょっと待ってて、って言ったのに」
 驚くダリウスを見つめ、少女はくすくすと笑った。愉しくてたまらないと言うように細められた瞳が、この世の者ではないことを示すように、深紅に輝く。
「イグニス、だと?」
 ダリウスは震える唇で、懸命に言葉を紡ぐ。
「しかし、その姿は」
「まだ寝ぼけてるのかな。これはどう見ても君の妻アイーシャのものじゃないか。君だって、さっきそう言ってたでしょ?」
「……アイーシャの?」
 呆けたように呟くダリウスの前で、イグニスを名乗る少女は微かに首を傾げ、
「そうだよ。手頃な肉体が無いから、アイーシャの遺体から素材を拝借したんだ。よく出来てるでしょ。……んん?」
眉間に皺を寄せたかと思うと、首をあらぬ方向に、ぐい、と折り曲げた。ごきり、と骨が砕ける音が鳴り、少女の顔が粘土細工のように歪む。
「……ッ!?」
 ダリウスは溜まらず上げそうになった悲鳴を、辛うじて押し殺した。怯えの色さえ浮かべたダリウスに、しかしイグニスは気付いた風も無く、照れたように笑って、
「えへへ、まだきちんと固定化されてないみたいだ。アイーシャだけじゃ使えない部分があったから、足りない分は君の子供たちのを使ったんだけどね。それがまだ、上手く馴染んでないみたいで」
 何でもない事のように言って、身体の具合を確かめるように上体を捩じる。すると、まるでそれをきっかけに仕掛けが動いたかのように、ごきり、ごきり、と身体はあらぬ方向に捻じれ曲がり、人では再現できないシルエットを形作る。
「怖がらなくても大丈夫だよ。すぐに馴染むから。ね?」
 身体の割にはあまりも長すぎる腕が肩に触れた瞬間、ダリウスは今度こそ短い悲鳴を上げた。
 褐色の肌が触れた場所から、頭蓋に直接流れ込んでくる苦悶の声――それは紛れも無く、彼の妻と二人の子供が上げる苦悶の声だった。
 目を見開くダリウスに、少女が愛おしそうな目を向け、顔を寄せる。
「もう気づいたんだ。……そう、君の妻と子供たちはここに居るよ。ここで、ずっと君を見ている」
「――ひッ」
 間近に迫った少女の深紅の瞳には、真っ黒な地獄の窯が映っていた。底から手を伸ばしているのは、紛れもなく、
「アイーシャ……レイラ、ライラ」
 崩れ落ちたダリウスの顔から色が消え、身体が瘧のように震え始める。異形の少女はダリウスを醒めた瞳で見下ろすと、彼の子供たちに良く似た声音で、
「一緒に堕ちて貰うよ。ダリウス。堕天を選んだ僕は、もう二度と天使たちの元へは戻れない……。君は、僕と一緒に行く義務があるんだ」
「堕天……お前は、堕天使になったのか。イグニス」
「うん。そうだよ」
 彼の妻の、あるいは子供によく似た声で囁いて、イグニスはダリウスの首に腕を絡ませた。
「ようやく、君に触れられた」
 冷えた身体に伝わる、確かな温もり。
「……これが、報いなのか」
 ダリウスは宙を見上げ呟いた。
 報い……ヒトとして裁かれる機会をも失った俺に課せられた、罰。
 両の瞳は急速に光を失い、黒瞳一杯に、少女の瞳の奥に見たものと同じ景色が映りこむ。
「……重い」
 そんな重いもの、背負って歩いていける訳が無かった。
 宙空から細剣を取り出すと、ダリウスはそれを自身の首元に突き立てようとして、
「独りにしないで。ダリウス」
暖かな温もりに、強く抱きすくめられた。
 吹きあがるような怒りに顔を歪めたダリウスに、身体を離した少女が悲しげに目を細める。
 彼の愛した者たちと同じ、仕草で。
「君が死んでしまったら、僕は永遠に独りぼっちだ。そんなの嫌だよ」
「――……ッ」
 苦悩に歪んだダリウスの顔に、色濃い悲しみが広がる。
 愛おしげに頭を抱き締める少女に、ダリウスもまた震える腕を伸ばし、
「……解った。一緒に行こう」
 絞り出すような声に、抱きすくめられたイグニスは幸せそうに笑った。

   ※   ※   ※

 青年の手が教皇聖下の首にかかったその時、空が割れるような稲妻が落ち、青年の身体を打ちました。神は何より穢れを嫌われます。神の依り代たる教皇聖下に触れることは、この世界で最も重い罪の一つ。慈悲深い神も、この時ばかりは愚かな青年をお許しにはなりませんでした。

   ※   ※   ※

 ぼこり、
 堅い土が僅かに持ち上がり、中から青白い手が生えた。ほどなく次々と地面が捲れ上がって、中から死人のように青白い顔をした青年が姿を現す。
 土の中から這い出た青年は、苦しそうに地面を転がると、水音を聞きつけ、這うように歩き出した。
 初めに感じたのは喉の渇きだった。水を求めて、のそのそと冷たい土の上を歩き出す。
 頭上には、白い光を投げかける太陽。軋む首を上げて顔を上げると、目の前に、真っ青な海が広がっていた。

 ザザァ……ザザァ……、

 よろめくように歩き、青年は乾いた砂浜の上に倒れ込んだ。生気の枯れ果てた目で、寄せては返す波を見つめる。目の前を、一抱えほどもある大きな蟹が歩き過ぎて行った。近くの丘には、白い小さな花をつけた蔓草がびっしりと生い茂っている。
 見覚えの無い海岸だった。
 自分は確か、大聖堂の奥にある『神の間』に居たはずだ。そこで『神の意志の力』の中に浮かぶ 玉座へと手を伸ばして――。
 よろよろと小さな崖錐を下ると、そのまま砂浜の上に倒れこむ。
 身体を起こしてその場に座り込むと、汚れた身体は何一つ纏っておらず、左手には審問官であることを示す黄金の天秤《レリクス》と、古ぼけた黒い僧服が握られていた。
「……う」
 枯いた瞳から、大粒の涙が溢れ出す。涙は野暮ったい司祭服へと零れ落ち、点々と黒い染みを作った。
「いい生地を使ってるから、孤児院に寄付するんだって言ってたのに」
 玉座へと赴く教皇は、一つだけ私物を持ち込むことが出来る。
 固く固く握り締められていた司祭服。目覚めた時に、知っている者が誰もいなくなった世界に怯えながら、彼女はその司祭服にどんな思いを抱いていたのだろう。
「シャロン……!」
 絞り出すように呻いて、砂浜に額を擦りつける。
 彼女はいったい、どこへ行ってしまったのだろう。近くには居ないようだが……そもそも、どうして俺はなぜこんな所で寝ていたのだ?
 どうしても思い出せない。思い出せないが、ミカエルなら何か知っているかもしれない――。
 クロエは顔を上げ、傍らの天使を振り返ろうとして、
「……ミカエル?」
表情を凍らせた。
 見上げた肩の上――いつだってあった天使の気配が、すっかり消え失せていた。
「ミカエル。どうして返事をしてくれないんだ? なぁ……」
 呼びかけるも、答えてくれる者は居ない。
 クロエは砂浜の上にひれ伏し、獣のように声を張り上げた。
 俺は、取り返しのつかない失敗した。
 押し潰されそうな胸にあるのは、ただただ色濃い後悔と、絶望だけだった。

   ※   ※   ※

 その怒りは大地を震わせ、空を落とし、海を切り裂いて――そして神は、深く深く嘆かれました。神は有史以前から罪を犯す愚かな人間を赦し、教え諭して来られました。しかし、人間は同じ過ちを繰り返すばかりで、それらを顧みることを知りません。
 神はそのことを、酷く酷く嘆かれました。そして、遂にその苦しみに耐え切れず、地上の人々を置いて、天へと帰ってしまいました。
 神の加護を失った世界には、荒廃が訪れました。たくさんの生き物が亡び、たくさんの地が作物の育たぬ不毛の地となりました。
 青年は、自分が犯した罪の重さに気付き、ひれ伏して赦しを乞いました。しかし、神の居なくなった世界に、誰も青年を赦してくれる者は居ません。
 人々は罪を犯した青年を酷く恨みました。
 恨みの念はやがて呪いとなり、青年の姿を世界を彷徨う一個の嵐へと変えました。

 嵐となった青年を、人々はこう呼びました。
 災厄を振りまく大いなる禍事――『大禍』と。







(>∀<)ノぉねがいします!



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