■ エリュシオンの園D

「っ!」
 瞼を持ち上げた途端、剥き出しの眼球に乾いた熱風が吹き付けた。
 反射的に顔の前に手を翳すと、狭まった視界の隅で、ごわごわとした更紗《サラサ》の羽織り物が風に巻き上げられ、高く舞い上がる。
「下がって!」
 頭上から鋭く発せられる、絹を裂くような声。身を固くすると、風を孕んで膨らんだ透けるような綺羅の薄布が視界を覆う。
 陽炎のように揺れる白いヴェールの向こうには、強く踏み締められた剥き出しの女の白い脚があった。

 ――オォ、

 頭上から降る、低く唸るような獣の声。
 屹然と立つ女の向こうに、黒い翼を持つ異形の姿があった。
 幼い少女のシルエットを持つそれは、深紅の瞳を煌々と輝かせ、細くしなやかな褐色の腕を蓮華の花弁ように広げて、ぼうぼうと炎を吐き散らしている。
 身体に比して妙に長い腕が、屹立する女へと伸び――しかしそれは、女に触れることなく宙を掻いた。異形の腕は、まるで見えない何かに阻まれたように――いや、まさしく何かに阻まれて、それ以上進むことが出来ずにいるのだった。
「怪我はありませんか?」
 涼やかな声と共に、女が振り返る。
 極大の宝石のように美しい、翆緑色の瞳。金細工のように細い髪が、炎の照り返しを受けて別の生き物のように波打つ。異形の前に、さながら中世の騎士のように立った女は、冷たいコンクリートの床に座り込んだクレーエを見降ろして、不敵な笑みを浮かべている。
「ジブリール」
「はい」
 呆けた声で呟いたその時、再びけたたましい咆哮が地面を震わせた。
 身を躍らせ、見えない壁へと張り付いた異形は、その向こうに居るジブリールめげけて炎を吹きかける。じゅぅ、と音を立てて白い蒸気が霧のように舞い上がった。
 不可視の壁が、険しい顔をしたジブリールの前で、さざめく。それは極薄の水の膜だった。それが壁となり、鋼よりも強固に、異形の侵入を拒んでいた。赤黒い炎に包まれた異形が、薄い唇の間から呪詛の言葉を撒き散らし、もがくように長い爪を突き立て、それでも敵わぬと知ると、苦しそうにぐるりと首を回し――後ろで身を固くする、クレーエへと恨めしそうな目を向ける。
「――……」
 クレーエは思わず息を呑んだ。異形は、ぴたりとほんの一瞬、動きを止め、
 ――アアアァァッ!
深紅の瞳を大きく見開くと、花弁のように開いた長い腕を、出鱈目に振り回した。
 ――クロエエェェ!
 地獄の底から響く、怨嗟の声。
 クレーエは知っている。
 深紅の瞳を殺意に煌めかせ、炎と呪詛の言葉を吐き続ける、前時代の宗教画に伝えられる悪魔そのものの姿をした、その異形の名を知っている。
 唇が微かに震え、かつての面影も無い、その異形の名を呼ぼうとして、
「止めろ、イグニス」
黒く節張った翼の向こうからかかる、低く唸るような声を聞いた。
 異形の天使が炎の中に溶けるように消えていく。悲鳴のような金切り声を上げて、細く遠く……地平に夕日が沈むように。そして――。
 眩しいほどの炎が消え、陽炎の向こうには、この世の苦悩を煮詰めた様な沈鬱な顔をした男が立っていた。
「少し休んでいろ。お前の炎では、その防壁は突破できん」
 吐き捨てるように言うと、男は白手袋を嵌めた手で額を押さえ、ギリと歯を鳴らし、
「最悪の目覚めだ。頼んでもいないものを勝手に見せやがって」
鳶色の眼球を動かし、ジブリールを睨みつけた。
「だが、ようやく解ったぞ。貴様が何なのか。イグニスの炎を封じた水の防壁……見紛うはずがない」
 黄ばんだ歯を剥き出しにして、
「久しいな。シャロン・ウイルスティーズの守護天使、ガブリエル」
「ええ。こうして会うのは九年ぶりになりますか」
 ジブリールは冷たい声音で応じると、頬にかかった細い金細工の髪を、さらりとかき上げた。

   ※

「大禍に、堕天した教皇の元天使……今日は珍しいものによく遭う」
「堕天? あなたの天使と一緒にしないでください。背中の翼が見えないのですか?」
 ジブリールは心外だというように目を細めると、地面を蹴って、くるりと背を向ける。
 白い薄布に隠れた細い背中には、肩甲骨の辺りから、左右対称に半透明の翼が、緩やかな曲線を描きながら伸びている。それは、天使たちが力を行使する際に伸びる、光の翼によく似ていた。
 ――いや、そんなことは有り得ない。
 クレーエは一人、心の中で呟く。
 ジブリールが天使である筈がない。それら二つの間には、誰しもが一目で分かる、分かり過ぎる程の違いがある。
「堕天使では無いだと? それなら何故、貴様は受肉している」
 ――そう。
 彼女は、生身の肉体を持っている。
 魂だけで存在できる天使にとって、肉体はただの枷。魂が持つ能力を限定させる、不自由な檻に過ぎない。そんなものを背負う羽目になるのは、神に背き、天使としての位を剥奪された堕天使だけだ――そう指摘するダリウスに、ジブリールは口を噤み言葉を返さなかった。
 代わりに、思いっきり舌を出して、不機嫌そうに顔を背ける。ぎり、とダリウスが歯を噛み締める音が聞こえた気がした。
 ――いや、そうではない。
 クレーエは、小さく首を振った。
 そもそも、天使が魂だけで活動することが出来る高位な存在だいうのは、管理教会が自分たちの都合に合わせてでっち上げた虚構だ。何故なら、天使とは全能なる神の御使いなどではなく、量子演算装置『アストレア』の一端末、人工的に産み出された魂無きプログラムの集積体に過ぎないからだ。九年前のあの日、クロエ・シュトラウスはそのことを教皇の玉座の前で知った。
 それは隠された世界の真実であるはずだった。知ってしまった以上、疑いようのない事実でなければならないものだった。だが、それならば。それならば何故、あの天使は――。
「何を呆けているんですか? 間抜け面が余計に際立ちますよ」
 澄ました声に顔を上げると、少し先に無表情に見下ろすジブリールの冷たい横顔があった。
 クレーエは射抜くような視線をジブリールへと向ける。目の前の女が何者なのか、クレーエは知らない。人なのか、天使なのか、ただのプログラムの集積体なのか、確かなことは何も分からない。しかし、
「本当に、お前なのか?」
 イグニスの炎を退けた、絶対防御の水の壁――隅々にまで均等に巡らされた、『神の意志の力』。それだけの力を行使出来る存在を、クレーエは他に知らない。
「ガブリエル」
 長い逡巡の末、クレーエはその名を呼んだ。囁くような声に、ジブリールは一瞬、驚いたように目を見開いて、
「……だから、そうだと言ってるじゃないですか」
呆れ声で言って、微かに口元を綻ばせた。
「ようやく名前を呼んでくれましたね。クロエ」
 座り込んだクレーエへと、細い腕を差し出す。その顔には、一切の偽りのない満面の笑みが浮かんでいて、
「あーあ、気付いちゃったか」
頭上から降ってきた声に、その場に居た全員が顔を上げた。
 不意に強い風が吹き、あちこちに篝火のように上がっていた炎が掻き消され、纏わりつくような熱気で溢れていた中央管理塔屋上に、冷たい夜の空気が吹き込んだ。炎が退いたことで、眩しいほどだった炎の照り返しが無くなり、ゆらゆらと揺れていた陽炎の向こうに、人影が現れる。
「つくづく、人の世とは思い通りにいかないものだねぇ。近づけば近づくほど思うよ。人間ってのは不自由な生き物だって」
 澄んで響くボーイソプラノ。
 半壊した昇降機塔――その上に、ちょこんと褐色の少女が腰かけていた。膝に突いた腕に小さな頭を乗せた少女は嘆くように呟くと、クレーエを――否、その前に立つジブリールが持つ、一枚の大鏡へと視線を落とした。
「教皇アナスタシアの宝鏡《レリクス》――大罪事変以降、行方不明になっていたそれを、まさか君が持ち出していたとはねぇ。ガブリエル」
 ガーネットを思わせる煌びやかな真紅の瞳に、鋭い悪意の光が刺す。
 ジブリールは顔から感情を消して、昇降機塔の少女を見上げた。いっそ冷たくも見える横顔は、少女を睨んでいるようにも見える。
 褐色の少女は大げさに肩を竦めると、腰かけていた塔の上からさっと身を躍らせた。音もなく着地すると、あどけない少女の表情に不釣り合いな、年増女のような妖しい目で、屋上に居る人間を一様に見渡す。
 馬の尻尾のように跳ねる、一本縛りの黒髪。後ろに組んだ腕で金の腕輪が揺れた時、クレーエの脳裏に過るものがあった。
「お前、昨日の」
「また会ったね。おにーさん」
 思わず出た呟きに、少女はにっこりと、年相応の笑みを浮かべた。
 どうしてだろう。その笑顔に何故か空寒いものを感じて、クレーエは眉間に皺を寄せ――ほどなく、寒気の正体に気付いた。深紅の瞳と同色のガーネットが嵌めこまれた金の腕輪。それは、先ほど観た九年前の光景の中にあった、
「お前……イグニス、か?」
 恐る恐る発した問いに、少女は返事の代わりに紅を引いたように赤い唇を吊り上げた。
「だから忠告したでしょ? この都市に残っていれば大変なことになるって」
 素直に忠告を聞いてここを去っていれば、こんなことにはならなかったのに、と肩をすくめ、にやりと笑う。
「お前は目が良過ぎるんだよ、クレーエ。だから少しの違いで、同一のものを全く違うものとして認識してしまう。――まぁ、九年の間で記憶が薄れてたってのもあったんだろうけど」
 不敵な笑みを向けるイグニスに、クレーエは歯を食い縛り、穴が開くほどにその一挙一動を見詰めた。仕草の端はしに、今は亡き少女たちの面影を見つけるたびに、拳の震えが大きくなる。
「――忠告?」
 低く響いた声に、クレーエとイグニスは、揃って顔を上げた。
 いつの間に移動したのだろう。昇降機塔の前に立つイグニスの傍らに、ダリウスが立っていた。片腕だけで不器用にバランスを取りながら歩み寄ると、小柄な少女に比すと大き過ぎる掌で、イグニスの頭を鷲掴みにする。
「どういうことだ? 説明しろ。イグニス」
「説明? な、何の事かな」
「お前、こいつらがこの都市に居ると気づいていて黙っていたな?」
 頭を締め付けられ、イグニスが頬を引き攣らせる。
「どうだったかな? そうじゃないかとは思ったかもしれないけど、僕だって万能じゃない。間違うことだってあいたたたたた!」
「嘘をつけば、お前とて罰するぞ。お前は都市間の横穴を抜けて、わざわざこいつに会いに行った。神威《ゲニウス》を使ってまでだ。目的は知らないが」
「別に今はそんなこといいじゃない。それよりさ、ダリウス――」
 低く糾弾する声に、イグニスは取り繕うな笑顔を一転、挑発めいたものへと変えて、
「――闘うんだよね?」
「無論だ」
 ダリウスは短く答えると、イグニスを解放する。代わりに手の中に現れる銀杭剣《レリクス》。
 炎の帯が吹き出し、それらはダリウスを中心として逆巻く。轟々と唸りを上げて夜の空へと立ち上った。

 ――オォ、

 いつの間にか、傍らに立っていた少女の姿は無く、代わりに、空高くから怖ろしげな少女の嬌声が響く。
「どうして」
 よろよろと立ち上がったクレーエは、戸惑い顔で炎を従えるダリウスを見た。
「お前だって、さっきの光景を見たんだろう。なら解ったはずだ。『神の座』なんてものはもう存在しない。神となって世界を変えるというお前の望みは叶わない。……叶わないんだよ」
 絞り出すような声は、陽炎立ち上る夜の空に溶けて消える。
 ダリウスは一瞬、呆けた様な顔でクレーエを見詰めたが、
「なるほど」
にやり、と邪悪に口元を歪めた。
「それでお前はさっき、最期の瞬間に俺に告げようとしたのだな。『我らが信奉した神は居らず、全ては『機械仕掛けの神《デウス・エクス・マキナ》』の劇中にある』と。それを知った俺は審問の大義を失い、自己に生じた矛盾によって制裁を受けるというわけだ」
 ダリウスが今までやってきた審問は、神となりこの世界を変えるという誓いの下にやって来たもの。それが叶わないとなれば、審問原理は根底から崩れる――そう、クレーエは考えていた。だが、
「当てが外れたな。さっきのまやかしの中で見ただろう。俺はあの時、あの玉座に居たんだぜ。機械仕掛けの神『アストレア』の足元に」
 言いながらも右足で地面を踏みしめ、闘志を全身に漲らせる。
「お前……自分の望みが叶わないと解ってていて、こんな真似を繰り返してきたのか?」
「何故、叶わないと言い切れる。神が鉄の塊であったとしても、俺が目指す場所は変わらない。いや、神に意志が無いというのなら、むしろ好都合だ。説き伏せ屈服させる必要が無くなったのだからな!」
 踏み締めた足元から炎を吹き上げ、ダリウスが地面を蹴った。一瞬で鋼の巨躯が眼前に迫る。
 不意を突かれたクレーエは、隣で身を固くするジブリールを突き飛ばし、受け身も取らずに屋上を転がった。転身すると、素早くリボルバーを構え、
「待て、ダリウス! 今を持って、装置は動いていない。疲弊した管理教会《アパティア》の現状を見れば、装置がどんな状態にあるのかくらい解るだろう。科学の英知を失っ世界に、装置を修復する手立てはない。お前の願いは叶わない!」
「メルクリウスは、装置《アストレア》は他次元に消えたと言っていた。装置はいつか戻ってくると。ならば待つまでだ! どれだけかかろうともな!」
 ダリウスが銀杭剣を振り上げる。ごっ、と空気が吸い寄せられる音がして、周囲の炎が一所に凝縮していく。それは一抱えほどの球体にまで成長すると、音もなく弾けた。
 横殴りの雨となって降り注ぐ、高熱の炎。
「……っく!」
 横に飛び退いたクレーエは、辛うじて直撃を免れる。
 炎が降り落ちた場所には、抉られたような穴が転々と穿たれ、コンクリートの床面はぶくぶくと煮立ったように気泡を浮かべていた。
 ――この九年間、誰もこの男を止められなかったはずだ。
 クレーエは苦々しげに顔をしかめる。
 コンクリート塊を溶解させるには、一千三百度近い温度が必要だ。それだけの熱量を持った炎を一瞬で喚び出した。
 確信を持って言える。
 堕天した今のイグニスが誇る力は、管理教会《アパティア》の大司教たちが擁する、四大天使をも凌駕する。
「この九年間、俺が運だけで生き残って来たと思ったか?」
 少しずつ後退するクレーエに、ダリウスが笑いながら問う。
「俺を処断するため、どれだけの数の審問官が現れたと思っている。百や二百は下らない。その誰もが、俺を止めることが出来なかったのだぞ」
「――管理教会の審問官たちが?」
 離れた位置に距離を取っていたジブリールが、小さく声を上げた。胸に押し当て手を握り締め、
「待ってください! どうして貴方の前に、そんなに大勢の審問官たちが? 堕天審問官の処断は、大司教の役割のはず」
「そんなこと知るかよ。だが、奴らにしてみれば俺はただの堕天審問官じゃない。世界に災厄を引き起こした大いなる禍だ。思うところがあったんだろうよ」
「『世界に災厄を引き起こした大いなる禍』? 貴方が『大禍』だということですか? それは可笑しい。大罪事変を犯した審問官『大禍』は、そこに居るクレーエのことではないですか」
「実際はそうだ。だが、管理教会は俺を『大禍』と呼んで何人もの審問官を差し向けた。『大禍』が居れば、大罪事変後、権威を失墜させた管理教会《アパティア》も求心力を保つことが出来る。全ての責任を被せる、解りやすい象徴が欲しかったのだろう。なにせ、当の本人は生死不明で出て来やしねぇんだからな。もっとも――」
 にやり、と引き攣るように昏い笑みを浮かべ、
「有りもしない罪を裁きにやってきた審問官たちには災難だとしか言いようがない。見当違いの罪を糾弾しようと俺に審問対決を挑んだ審問官たちがどうなったのか。それくらい、お前にも想像できるだろう」
「っ、どうして」
 クレーエは唸るように声を上げると、よろよろと数歩後退った。
「どうして言わなかったんだ。俺は大禍ではないと」
「言ったところで誰が信じる。審問官たちは審問法廷を開けばわかる、と繰り返すだけだった。そうして俺に殺意を向け――そのままそれを返された」
「――っ」
 鈍い痛みに、胸を抑える。『大禍』を罰する為にと犠牲になって審問官たち。上層部の連中が真実を知らぬはずがないだろうに。
「今更なんだよ。まったく……。今更なんだ」
 ダリウスは呟くように言うと、強張った顔で身を固くするクレーエへと歩み寄る。
「さぁ、審判の時は来た」
 鬼神のように盛り上がる両肩の向こうで、立ち上がった炎の壁が揺らぎ、甲高い堕天使の嘶きが上がる。突きつけられる、紅に染まった銀杭剣《レリクス》。
「首を差し出せ、クロエ。過去から蘇った亡霊よ。貴様の身勝手によって玉座に消えた、シャロンの傍らに添えてやる」
 開廷――唸るような声が吐き出されると炎の壁が揺らぎ、それらは瞬く間に水平に燃え広がった。
 首を巡らせたクレーエは目を細める。辺りは瞬く間に広がった炎に取り囲まれ、照り返しが眩しくて目を開けていられない。クレーエは、どこか虚ろな表情でそれらを見渡し、
「まったく、申し開きの余地がない」
弱弱しい声で呟いて、小さく首を振った。
「解り切っていることだ。悪いのは俺だ。俺がこの世界をこんなにまでしちまったんだ」
 自身の両手を見つめ、呟く。縋るようにリボルバーを握りしめた右手と、何も持たない左手。ごつごつと節張った、傷だらけの掌。
「そうだ。今更語ることもあるまい。……大人しく裁きを受けろ、クロエ」
 ダリウスが銀杭剣の切っ先を向ける。クレーエはそれを見返して、小さく頷いた。
「幾らでも責め苦は受けるさ。俺は地獄に堕ちるべきだ。そんなことは解っている。だが……」
 ゆっくりと銃把を掴んだ右腕を持ち上げた。
「ただで殺されてやるつもりは、ない」
「……なに?」
 ぴくり、とダリウスの瞼が震えた。クレーエの瞳には、ただ裁きを待つ罪人には宿らない光がある。
「この九年間、俺は自らを裁くことなく生き続けた。身勝手な理由で世界を変えた俺が、身勝手に死ぬことは許されないと思ったからだ。俺を裁くことが出来るのは、きっと世界の為に生き、世界の為に犠牲になった、これからの世界の為に生きていく人間だけだ。このままでは終われないという行き場の無い怨念のようなものだけが、九年もの時間、俺を生かし続けた。だが、もう疲れた。これ以上進むには、俺が背負った罪は重すぎる。……ここに来るまでは、お前になら裁かれてもいいと思っていた。お前に裁かれて、鬼と化したお前を道連れにして、この世界から消えようと思った」
 悲しそうに笑い、
「だが、お前は真実を知った今も、俺と来る気は無いんだな」
「当たり前だ! 俺はもう九年前の俺ではない。何万という者たちの無念を背負い、神の元に辿り着くと決めた。俺がここで倒れれば、何万というものたちが遺した訴状が行き場を失くす」
 憤怒の表情で叫ぶダリウスに、クレーエは表情を引き締め、
「俺の最大の罪は、九年前のあの日に、お前を裁いてやれなかったことなんだな……。ようやく解った。ここで終わりにしよう、ダリウス。これからの世界を担っていくのは、過去の亡霊のような俺たちではない。失敗し、歴史の舞台から降りた俺たちが手を出せば、世界はより混迷するだけだ。未来は、新しい者たちが担っていかなくちゃならない」
 照準を、ダリウスの眉間に合わせる。
「俺には責任がある。お前という怪物を世に放ってしまった責任が」
「はっ、気でも違えたか?」
 ダリウスが吐き捨てるように言う。
「そんなもので、俺が打ち倒せると思っているのか。 俺の神威《ゲニウス》が何か忘れたわけじゃないだろう。銃弾を放てば、倒れるのはお前だ。俺の審問法廷は罪をそのまま返す鏡。俺の肉体は銃弾を弾き、お前は殺意をそのまま返され絶命する」
「そうかもな。だが、試してみたら違う結果が出るかもしれない」
 クレーエは微かに口元を歪めると、リボルバーの引き金に指に力を篭め――、
「おやめなさい、このお馬鹿!」
鈍い打撃音と共に、後頭部に激痛が走った。
 視界いっぱいに星が散り、溜まらずその場に蹲る。
「……つっ、いってぇな! 何しやがる!」
「黙りなさい! そんなもので、どうやって戦うんですか! 相手は審問官なんですよ!?」
 大鏡を抱えたジブリールが声を荒げる。
「そんなことは解ってる! ……てかてめぇ、アナスタシア教皇の聖遺物《レリクス》を鈍器代わりに使ったな!?」
「てめぇじゃありません! もう私の名前を忘れたんですか、このすっとこどっこい! そういう戯けたことは、相手をよく見てから言えっつってるんです!」
 顔を寄せ叫ぶと、ジブリールはダリウスの背後を指さす。その先を、クレーエは反射的に目で追い……言葉を失った。
 身構えるダリウスの頭上――空高くに、殺意と共に三本の銀杭剣を従える、黒翼の天使の姿があった。
「それ見なさい! 正面から勝負しようとしているのは、貴方たちバカ二人だけです!」
「そんなこと言ってる場合か!」
 イグニスが褐色の腕を広げる。恐ろしいまでの神の意志の力が、中空に奔る。背中に、じっとりと冷たい死の予感が伝う。
「っ、来い、ジブリール!」
 反射的にジブリールの身体を抱き寄せ、身を伏せる。
 剣が空を切る、悲鳴のような風鳴り。直後、一瞬の間があって、

 ――――、

 煮え立つような熱風と、塔を揺るがすような衝撃が、重なり合った二人を襲った。


   ※   ※   ※


「えらく派手にやったもんだ」
 足元のコンクリート片を蹴飛ばすと、ダリウスはもうもうと煙る砂塵に、鳶色の目を細めた。
 辺りは爆撃を受けた後のようだった。コンクリート造の屋上は三分の一が吹き飛び、階下のフロアが剥き出しになっている。
 鋭く舌打ちすると、ダリウスは身を乗り出して、屋上を大きく抉る破壊痕を覗き込んだ。残骸だけが横たわる穴底を昏い瞳で見渡して、ぎろりと背後を振り返る。
「勝手な真似はするな。あいつは俺が裁く」
 恫喝するように言うと、中空からくすくすと笑う少女の気配が滲み出す。
 ――やだなぁ。そんな怖い顔しないでよ。君の顔は普通にしてたって怖いんだからさ。
 おどけた声がして、床を蹴る軽い音。何も無い空間から、褐色の少女が現れる。
 『空間転移』。
 屋上の一部が吹き飛んだのにも、この力が関係している。
 審問官が持つ聖遺物《レリクス》は、『神の意志』から力を引き出す触媒であり、そこには強大な『神の意志の力』が秘められている。『神の意志の力』は、無色透明な純粋のエネルギー体。無秩序に漏れ出せば、辺りに災厄を撒き散らす要因にも成り得る。
 聖遺物《レリクス》には天使の加護があるため、滅多なことで傷つくことはない。だから『神の意志の力』が漏れ出す心配も無いのだが――イグニスの『空間転移』は、その稀有な例外となる。
 あの瞬間――イグニスは、射出した三本の銀杭剣《レリクス》を全く同じ座標に転移した。転移した銀杭剣《レリクス》は、複数の物質が同じ座標に存在するという矛盾により破壊され、膨大な無色のエネルギーを辺りに撒き散らし、空間を歪ませるほどの力で、屋上の一部を消滅させたのである。
「奴を裁くのは、審問官である俺の役目だ。お前はあいつの罪が定まるまで、勝手な真似をするな」
「君が裁くって言うんなら、別にいいんだけどさ。……手を抜くのだけは止めて欲しいな」
 じっと見通すような瞳。ダリウスの眉間に深い皺が刻まれた。低く、強い声で、
「手を抜いてなどいない」
「だったら、どうしてすぐに殺さないのさ。あいつにはどの道、死刑以外あり得ない。さっさと殺してしまえばいいじゃないか」
「殺そうとしている。だが、肝心なところで邪魔が入る。ここでガブリエルに相まみえるとは思いも」
「嘘」
 鋭く差し込まれる言葉。イグニスが炎のように赤い瞳でダリウスを睨み上げていた。
「君は解ってて手を抜いている。チャンスは数え切れないほどあった。本当にあいつを殺す気だったら、もうとっくに殺してなきゃ可笑しいよ」
「銀杭剣《レリクス》を三本も犠牲にしておいて、一匹も仕留められなかったお前に言われたくない。――退け」
 目の前で睨み上げるイグニスを押し除け、前に出る。イグニスは一瞬、眉尻を吊り上げ――しかし、何も言わずに奥歯を噛み締めた。
 顔を伏せたまま冷たい声で、
「解った。もう一度だけチャンスを上げる。でも、もし次も君に殺す気が無いようなら、僕がやる。それで文句はないでしょ?」
「……好きにしろ」
 ダリウスは不機嫌そうに吐き捨て、屋上にぽっかりと空いた空洞を見下ろし、
「これくらいで終わる玉じゃないだろう? なぁ、クロエ。俺を楽しませてくれよ」
 ただ一本きりの腕で露払いをするように剣を一振りすると、ダリウスはイグニスを伴って、躊躇いなく空洞の中へと身を躍らせた。


   ※   ※   ※


 ――細かなモルタル片が、ぱらぱらと宙を舞っている。
 外壁と内壁の間に造られた地下通路。上手くその中に落ちたクレーエとジブリールの二人は、半ば重なるようにして半壊した屋上を見上げていた。
 頭の中が白く霞んで、何の言葉も湧いて来ない。辺りはさっきまでの騒がしさが嘘のように静まり返り、遠く屋上には、松明のように微かに揺れる明かりが見えた。
「――何をやってるんですか! このおバカ!」
 突然、火に触れたように表情を引き攣らせ、ジブリールが声を上げる。クレーエは一瞬、ぎくりと身体を硬直させ、
「バカはお前だ! あと少し反応が遅れたらどうなっていたと思う! 怪我をするどこじゃ済まなかったんだぞ。でしゃばった真似をするな!」
「でしゃば……っ」
 ジブリールの顔がかっと赤らむ。怒りでぷるぷると身を震わせながら身を乗り出すと、触れそうなほど近くで睨み合う。
 しばらくそうしていると、不意にジブリールが深く息を吐いた。四肢から力を抜くと、真っ直ぐにクレーエを睨み上げて、
「私には水の壁があります」
胸に手を当て、澄んだ声で言った。
「イグニスの炎など、私の敵ではありません。こそこそと逃げたりしなくても十分に」
「嘘をつけ」
 朗々と語る声を、低い声で遮る。
「嘘をついている顔をしている」
「うっ」
醒めた目で流し見ると、ジブリールは逃げるように顔を背けた。クレーエは大きく息を吐くと、だるそうに肩を落とし、
「まぁ、それはいいんだ。それより、気になるのはさっきのあれ。何なんだ? 俺の目には、水壁の前で銀杭剣《レリクス》が消えて、いきなり目の前に現れたように見えたんだが」
 じっと考え込むように目を細めると、ジブリールがバツが悪そうに顔を上げた。
「イグニスの神威《ゲニウス》です。『空間転移』とでも呼べば良いでしょうか。まさか、あんな使い方をしてくるとは……。不覚でした」
「神威《ゲニウス》? なるほどな。堕天使は使えるのか」
 一人呟き、咥えた煙草に火をつける。右手が切れてひび割れた唇に触れ、焼けるように痛みが走った。肺が膨らむ度に、胸が刺すように痛む。ゆっくりと紫煙を吐き出して、
「あの神威《ゲニウス》がある以上、水壁は役に立たない。お前はここで身を伏せていろ」
「クレーエ!」
歩き出そうとすると、後ろから強く腕を引かれ、クレーエは小さく呻いた。ジブリールが「あ」と目を見張る。
 生暖かい、錆びた鉄の匂いが周囲に漏れる。薄汚れた外套から滴り落ちるのは、真っ赤な鮮血。咥えていた煙草を吐き捨てると、クレーエは震える唇で、
「俺に構うな。シャロンの天使だからって、義理立てることは無い」
 怯えたようにジブリールが手を離す。数歩後ろに下がるも、それ以上追ってこなかった。
 それでいい、とクレーエは口の中で呟く。
 ジブリールの水壁がイグニスの黒炎に敵わないということは、最初から解っていたことだ。天使は、審問官が居なければ、多くの『神の意志の力』を汲み取ることが出来ない。かつて『神の盾』と称された水壁も、審問官の居ない今の彼女では、半分の力も引き出せないだろう。
 何かを堪えるように、身体を覆う薄いヴェールを握りしめるジブリールに、クレーエは背を向けた。じゃあな、とだけ声をかけて歩き出し、
「いいから待ちなさい」
背後から外套の襟首を掴まれ、息を止めた。首が閉まり、折れた肋骨の位置がズレて激痛が走る。
「何すんだよ!」
 掴みかかると、ジブリールは正面からクレーエを見上げた。固く握りこんだリボルバーを掴み、
「貴方の言う通り、今の私にイグニスを止める力はありません。けれど、それは貴方も同じです。こんな玩具で何が出来るっていうんですか?」
 ――痛いところを突く。
 舌打ち交じりに、ジブリールを睨みつけた。
「俺とお前、どちらが出ても勝てないなら、被害は最小限に抑えるべきだ。俺には奴と向き合う責任がある。お前まで無駄に死ぬことは」
「私がイグニスを止めることが出来ないと言ったのは、私の力がイグニスよりも下だからではありません」
 リボルバーの銃身を掴み上げ、ジブリールは凛とした声で言った。
「これを」
 代わりに掌に触れる、冷たい感触。
 差し出された手に握られているのは、銀色に輝く司教杖。
「どうして、これがここに」
 知らず、声に出ていた。
 目にするのは九年ぶりになる。忘れもしない。その聖遺物《レリクス》は、
「私を使いなさい、クレーエ。私を、貴方の守護天使として」
 有無を許さない声で言って、僅かも揺るがない強い瞳を向けた。
 クレーエは息を呑んで、その湖面のように澄んだ理性的な瞳を見つめる。深く深淵を映したようなその瞳は、何らかの真理を訴えているように思えた。
 クレーエは、吸い寄せられるように手を伸ばし、
「――堕天使イグニスの名において、ダリウス・ロンブルが審問する」
 夜の空を焦がすような、巨大な火柱を見た。空には血の涙を流し叫ぶ堕天使。全天燃え上がるような炎の壁が、クレーエを威圧的に取り囲む。
 それは目にしたことがないほどに圧倒的な『神の意志の力』だった。
 溶岩流のように溢れ出る炎が、じりじりと夜空そのものを焼き尽くそうとしている。
 ――これには敵わない。
 至極当たり前のことのように、その事実だけが静かに胸に落ちる。
 瓦礫に膝を突きそうになった時、白い影が前の前に立つ。
「闘いなさい。私が力を貸します」
降りてきたイグニスを挑むように睨み、ジブリールは強い声で言った。
「ミカエルだと思って使役しなさい。……出来るでしょう? シャロンと共に『至高天《エンピレオ》』を目指した貴方なら」
 肩越しにジブリールが振り返る。
 上手く声が出なかった。
 強く歯を食いしばると、吸い込まれそうで苦手な瞳を真っ直ぐに見つめ返す。ただ一言、
「断る」
「……は?」
 ジブリールが呆けたように目を見開くと同時に、頭上から容赦なく赤熱の炎が降り注いだ。

   ※

「断る? 断るって言ったんですか? 何を言ってるんですか、貴方は!」
 後ろから抱えられる形になったジブリールが、腕の中でばたばたと手足を振り回す。
「お前の力は借りない」
 クレーエは前を向いたまま答えつつ、暗がりの中をひた走る。跳ねる外套の裾は少し焦げついている。
 真黒な炎が降り注いだ、あの時――。
 炎が舐めるように水壁を焼き尽くし、波のように迫ったあの時、クレーエは踵を返し、ジブリールと共に入り組んだ暗がりの中に飛び込んだ。内壁と外壁との間に造られた作業通路は、緩やかに傾斜しながら階下まで伸びている。
「どうしてそうなるんですか! 私は神に使わされ、貴方の元へやって来たのですよ!?」
「そんなもの関係あるか。いいからちょっと黙ってろ」
「ああ、もう! こっちを見なさい!」
 ぐい、と頬を挟まれ首を引かれる。
 思わず呼吸を止めた。
 触れそうなほど近くに、深い湖面のような翆緑色の瞳がある。
「私のことが、信じられませんか?」
 逃げるよう逸らした首を押さえて、ジブリールが囁いた。
「信じられないのなら、私の目を見なさい。嘘かどうか、貴方は目を見れば解るんでしょう?」
「……違う」
 どこまでも真剣な瞳に、思わず言い訳がましい声が出た。
「別に、お前を信じていないわけじゃない」
「だったら、どうして!」
 なおもジブリールは食い下がる。クレーエはぐっと歯を食いしばり、
「違うんだ。……俺は」
苦渋の末に先を続けようとして――頭上から響く、猛烈な破壊音を聞いた。
 立ち止まり、じっと耳を澄ます。下からジブリールが窺うように見上げてくる気配を感じる。
「何故、追ってこないーー?」
 一人呟いた時、脳裏に閃くものがあり、腹の底が冷たくなった。深い穴に落ちていくような感覚ーー。
「まさか……」
 不意に過った最悪の想像に、早くなる自身の鼓動がはっきりと聞こえた。


   ※   ※   ※


 冷たく乾いた風が、半壊の屋上に吹き荒れている。
 コンクリートの床面に、身を寄せ合って眠るリオとフレデリカ。小さな二人の傍らに、のそりと無表情の男が立つ。男はおもむろに片腕だけの銀杭剣を振り上げると、一気にそれを振り下ろした。
 響く轟音。衝撃が屋上を震わせ、飛び散った炎が熱風となって吹き荒れる。
 ただの一撃で、昇降階機塔は瓦礫の山と化した。きつく噛み締めた口元から白く息を漏らすと、男は鬼の形相で剣を握りしめ、
「出てこい、クロエ!」
割れるような怒声を響かせる。
「お前が出てこないなら、こいつらの執行を先に行うぞ!」
 ゆっくりと歩き寄ると、項垂れるフレデリカの頭上で銀杭剣を振り上げ――背後から聞こえた瓦礫の崩れる音に、ゆっくりと振り返る。
 そこには、
「その二人から、今すぐ離れろ」
瞳に怒りの色を露わにするクレーエの姿がある。向けられたリボルバーの銃口は、ひたとダリウスに向けられていた。ダリウスは薄く笑むと、剣を降ろす。
「この都市からは、もう手を引け」
 絞り出すようにクレーエは言った。
「確かに、この街の人間が犯した罪は大きい。だが、その報いが虐殺では意味が無いだろう。都市の秘密に辿りついた審問官がやるべき事は、この都市を壊すことじゃない。都市に複雑に絡み付いた罪悪という名の鎖を断ち切って、新たな道を歩ませることじゃないのか」
 クレーエはそっと懐の辺りに手を当てる。そこには軸が折れ、罪を計ることの出来なくなった天秤の聖遺物《レリクス》がある。
 ダリウスは表情一つ動かさず、小さく鼻を鳴らし、
「罪は罪、罰は罰である。それらは一切の私情無く、公平に扱われなければならぬ。都市の破壊は犠牲になった者たちが願ったこと。犯した罪は罰によって清算されなければならない。新しく歩く道は、残った者たちが、それから導き出せばいい」
「だからといって、住民すべてを皆殺しにするのはやり過ぎだろう」
「やり過ぎ? 何を持ってやり過ぎだというのだ」
 声を荒げるクレーエに、ダリウスが重たい口を開く。
「人の世は複雑だ。清廉潔白な綺麗事では裁けない。法律なぞ作っても、人は抜け道を探し、そこに蔓延り他者を苦しめる。実際にその手にかけなくとも、間接的に人を殺す方法は五万とある。奴らは正当な行為であると詭弁だらけの論理で防壁を塗り固め、あるいは無知であることに何ら恥じることなく、一欠けらの罪悪感さえ抱かずに卑劣な行いを続ける! 後悔に苛まれ続ける殺人者よりも醜悪だ。それを正すことが出来るものが、今の世界に居るか。原告さえ居ない訴えを、聞き届けるものがあるか。社会に蔓延る亡者共は周到に手を回し、原告であるべきものたちに自身が被害者であることさえ気づかせない。弱者は虐げられ続け、亡者どもは耳触りの良い綺麗ごとを吐き並べて、自身の保身に走る。今の管理教会を見てみろ! 口先だけで理念なき管理教会の審問官に、この都市が救えたか? この都市の罪を止めることが出来るものがあったか。再生のための崩壊を、躊躇なく執行出来る者が居たか? 人は本質的に弱く、安きに流される生き物だ。世の矛盾を力で捻じ伏せる、鬼神の如く力を持った審問官が必要なのだ。一切の妥協なく厳正な罰を執行する首切り役人が必要なのだ!」
「その役目を負うのがお前だと? それは傲慢というものだ。正義とは、全ての意志の総体から導き出されるものでなければならない。お前個人に何の権利がある。神にでもなったつもりか」
「神になったつもり、ではない。俺は神になるのだ」
 ダリウスは低く抑えた声で答えた。
「世界を巡り、人の嘆きや苦しみを集める。全て俺が背負う。この俺が」
 銀杭剣を握りしめたダリウスの周囲から、暗い死の世界が滲み出す。
 おぞましい気配に、クレーエは口元を抑えて後ろに下がった。
「……これがお前の世界なのか、ダリウス」
 怖気を誘う、死者の臭い。深淵から響く呼び声。深い闇の底で蠢く、無数の顔。それらは一様に苦しげに歪んでいて、どれもが怨嗟の声を撒き散らしている。
 ――こんなものを正視しながら生きるなんて、正気じゃない。
 クレーエは込み上げてくる吐き気を押さえながら呻いた。
 これこそが、ダリウスを追いつめ、狂わせた現況。
 クレーエは小さく息をのむと、両手で慎重にリボルバーを構え直す。
「俺には見えるぞ。お前が背負うものが。おぞましい呪いが。そんなものを抱え込んだ者に、世界が救えるものか。お前自身が世界の呪いになってしまうのが関の山だ」
「抱え込むのではない。飲み干すのだ。全て飲み干して、それでも正義が語れたなら、俺はきっとこの世界の神となる資格を得る」
 亡者たちに縋りつかれながら、ダリウスが誇るように両腕を広げる。吐き気さえ覚える死臭の中で、眉ひとつ顰めずに嗤う。
「どうしてそこまでする。お前は、どうして」
「この九年間、人々の嘆きばかりを背負い続けてきた。真なる公平、正義が敷かれた世界を渇望する人々の涙を見てきた。これらを無に返す訳にはいかない。俺は、立ち止る訳にはいかないのだ!」
 ダリウスが叫んだ途端、亡者たちが一斉にクレーエを見た。それらは細かく蠢きながら、波となってクレーエへと押し寄せる。冷たく力ない、ぶよぶよの腕を伸ばしながら、ぽっかりと空いた、夜闇を凝縮したような暗い眼窩を向けてくる。
 クレーエは這い上ってきた亡者に躊躇いも無く五発、銃弾を放った
。掴みかかろうと腕を伸ばしていた亡者たちが、死者の腐海に沈むと同時に、肩と頬の皮膚が破れ、温かな血滴が頬を伝う。
 亡者たちに弾丸を放った代償――例え死者とはいえ、ダリウスの審問法廷は悪意を映し返す。
 一瞬、躊躇うように退いていた死者の波は、徐々にその包囲網を狭める。クレーエは銃弾を再装填すると、冷たく瞳を眇めた。その顔は、どうしようもないやるせなさに切なく歪んでいる。
「お前は死者に憑りつかれているんだ。ダリウス。お前がなろうとしているのは、神ではない。神の下僕だ。お前は民衆の下僕に成り下がろうとしている。全ての穢れを背負って、地の底で悪魔の頭領になろうとしている。俺は、そんなお前を――」
 ――お前を、そこまで追い詰めた世界が恨めしい。
 俺たちが手に入れたいと願ったのは、世界がどうとか、そんなものじゃなかったはずだろう。
「だから」
 クレーエは銃弾を放つ。顔も向けずに、続けて二発。
 背後でぐしゃり、と重たいものがコンクリートの床に落ちる音。外套に空いた穴から、白い煙が細く立ち上らせながら、クレーエはゆっくりと振り返った。
「……どうして」
 地面に這いつくばったイグニスが、悔しげにクレーエを見上げる。
「どうして、僕の居る位置が解ったんだ」
 怒りに震える声。クレーエはそれには目を向けず、
「鏡だよ」
 視線を戻し、瓦礫の山を一瞥した。そこには、見覚えのある大鏡が立てかけられている。
「アナスタシアの宝鏡……?」
 呆けた声に、クレーエが冷たく嘲う。
「お前は単純で助かる」
「クロエェ……ッ」
 深い恨みの籠った声が、次第に細くなっていく。しかしクレーエはそれに視線さえ向けない。外套の裾から染み出す、真っ赤な鮮血。銃弾の代償として傷を負いながらも、冷たい瞳には強い戦意が浮かんでいる。
 ダァン、ダァン……、
 前振りもなく、銃声が二発。
 花のように血飛沫が上がる。
 ダリウスの巨体が、ぐらりと揺らぐ。撃ち込んだ弾丸は、ダリウスの右肩を正確に撃ち抜いていた。
「やっぱりな」
 代償として与えられた、左足の骨が折れる苦痛に耐えながら、クレーエは白い顔を笑みの形に歪めた。
 その身に宿った神威《ゲニウス》により、弾丸を弾く筈のダリウスの肩からは、大量の出血がある。流れ出た液体は次々と溢れ、残った右腕を伝ってコンクリートの床面に血溜りを作る。
「お前の神威<金剛>の強度は、精神状態に大きく作用される……。イグニスが撃たれたことがそんなにショックだったか?」
「貴様……ッ!」
 ダリウスが噛み締めた口元から血滴を垂らしながら叫ぶ。
「いや。それだけじゃないな。お前、本当は神が機械仕掛けだってことを知らなかったんだろう? 今にも崩れそうな理念を執念だけで取り繕っているだけの亡霊。それが今のお前だ」
「――……っ」
 悔しげに顔をしかめるダリウスへと、クレーエはリボルバーを突きつける。
「ダリウス。お前の理想は気高く、純粋だ。だが、傷ついたこの都市を見渡してみろ。父を殺され、夢を奪われ、それでも必死で未来を信じるこの子らの姿を。お前は、この子らまでをも、未来への犠牲と切り捨てるのか」
「……若さは、未来を担うという権利は、罪を逃れる免罪符とはならない。ここで犯した罪が浄化されるからこそ、その上に創られる未来は健全なものとなるのだ」
「過去の償いに未来を消費するなんて、馬鹿げたことだとは思わないか。死んでいった者たちは、遺されていった者たちは、本当にそんなものを望んだのか。未来に思いを繋いで欲しいと思っていたんじゃないのか。お前に殺された二人の男と、遺された二人の子供たちが、そう願ったように」
 低く問いかけるクレーエの声に、しがみついていた亡者たちが薄い靄となって姿を消していく。
 それを暗い瞳で眺めながら、ダリウスは引き攣るように嗤って、
「俺が、撃てるのか?」
「撃てる。本当は、もっと早くにこうして欲しかったんだろう?」
 クレーエもまた、唇を引き結び、小さく笑みを作った。ゆっくりと引き金にかける力を強めていく。
 ――ダリウスの神威《ゲニウス》『金剛』に効果がなくなっていると知った以上、次に放つ弾丸に、クレーエは明確な殺意を篭めなければならない。
 その殺意はきっと、銃弾を放った瞬間にクレーエ自身を食い殺すだろう。
 しかし。
 だからといって、ここで引き金から指を離す訳にはいかなかった。
「さようならだ、ダリウス。……一緒にアイーシャさんに謝りに行こう」
 罪人は揃って地獄に堕ちるべきなのだ。
 俺たちは所詮、過去の亡霊。償い切れないほどの罪を犯し、その罪を受け入れられなくて、世界を彷徨い、関わった未来を歪め続けて来た。
 アイーシャに、レイラとライラ。リオとフレデリカ、山狗、レオパルト、メルクリウス……そして、シャロン。
 結局、誰も救えなかった。
 それも仕方ないことなのかもしれない、と思う。
 俺たちは、世界中で謳われる、この世界に災厄を撒き散らす存在――『大禍』なのだから。
「止めなさい!」
 さっと飛び出した細い腕にしがみつかれ、銃口が下を向く。クレーエは身を捩り、暗い瞳に怒りの炎を宿して、
「邪魔をするな! 俺はあいつを連れて行かなくちゃならない!」
「いいから聞きなさい!」
 ジブリールは必死に声を張り上げる。真っ直ぐに強い意志の篭った翆緑色の瞳を向けながら、
「どうして、未だに神威《ゲニウス》『神の目』を使うことが出来るのか、貴方は考えたことがありますか?」
そんな問いを口にした。
 張り詰め、今にも弾けそうだったクレーエの顔に、戸惑いと疑問の色が浮かぶ。
「バカを言うな。天使を失い、審問官としての資格を失った俺に、神威《ゲニウス》は使えない。千里先を見通すことも、物を透過してみることも出来やしない」
「それなら、どうして貴方の目は、普通の人では見えないほどの遠くを見通し、表情から感情の変化までをも読み取ることが出来るのですか」
「それは、ただ少し目が良いだけで」
 そこまで答えて、思わず口ごもる。ジブリールは乱れていた呼吸を整えると、僅かに視線を和らげ、
「……呆れた。貴方の視力は、ただ目が良いというだけで済ませられるものなんかじゃありませんよ。今まで、そんなことにも気づかなかったのですか?」
 クレーエは小さく呻き、ジブリールにしがみつかれたまま、一歩退がった。動かないダリウスを一瞥すると、抑えた声で、
「……何が、言いたい」
「決まってるでしょう。いい加減気づきなさいっていうんです、このすっとこどっこい! 貴方は今でも神威《ゲニウス》を使っている。それが出来るのは、貴方の守護天使であるミカエルが、今も力を送り続けているからでしょう!」
 ジブリールは掠れた声で叫んで、クレーエの襟元を握りしめた。
 目を見開き呼吸さえ止めたクレーエに、ジブリールは更に顔を寄せて、 
「ミカエルの気持ちも考えて下さい! 彼は、貴方にもう一度チャンスを与える為に、自ら貴方と離れるという代償を払ったのですよ!」
 脳が理解に追いついた時、周囲に赤黒い炎が噴き出した。背後を振り返ったクレーエは目を息を呑む。そこには、

 ――クロエェェェェ――!

 おぞましい化け物に姿を変えた、イグニスの姿があった。黒い翼が蝙蝠のように広がり、鋭利に尖った牙の間から獣の咆哮を発する。
四本に増えた褐色の腕が長く伸び、それらは複雑な軌跡で銀杭剣を打ち放った。
「――……っ」
 クレーエは、咄嗟のことに身を躱す術もなく。
 自身の体幹が、四本の銀杭剣に貫かれるのを見た。

   ※

 ゴウゴウと強い風が吹き荒れる、渇いた空……。
 その空の中で、二つの『神の意志の力』が鬩ぎ合っていた。
 赤黒い炎の波と、透けるように薄い水の壁。全てを飲み込み、焼き尽くそうとする炎はしかし、僅か数ミリの水の膜を突破することが出来ない。
 ……何が起こったんだ?
 クロエは尻餅をついた姿勢で、拮抗する二柱の天使の鬩ぎ合いを見上げていた。
 目の前には、鏡のように滑らかな水壁。映った自分の身体には、四本の銀杭剣が突き刺さっている。刃は水壁を貫通こそしているが、倒れ込んだクレーエにまで届くことなく、しっかと動きを止めている。
 四方に張り巡らされた水壁は、よく見れば膨大な『神の意志の力』を内包しながらも高速で流動しており、猛烈な炎を前にしても、薄さに偏りは現れない。
 かつて、聖都エリュシオンを外敵から守った、絶対防御の『神の盾』。
 それと比べてもいささかも遜色のない水壁が、今目の前にある。何故、とは思わなかった。右手にしっかと握りこまれた、冷たい金属の感触。
 それは、触れ慣れた黄金の天秤では無かった。代わりにそこにあるのは、雪をまぶしたように白銀色に輝く、一本の司教杖。
 次々と流れ込んでくる、『神の意志の力』は、砂漠のように渇いていた身体を、生き生きと蘇らせていく。
 そっと指を這わせると、記憶の底にあった記憶が泡沫のように浮かび上がる。
 幾つもの思い出の中にあった。幼馴染が遺した、ただ一つの遺品《レリクス》。
 ――いいのか? 使っても。
 心の中で問いかけるも、答えが返ってくるはずもない。
 迷いの残る顔で身体を起こしたクレーエは、ぴくりと表情を硬直させた。難題に当たった学者のように眉根を寄せ、じっと考えに耽る。
 身体を起こそうとして突いた右手が、柔らかで暖かい何かに触れていた。
 そっと視線を移す。
 隣で横たわる、ジブリールの精巧なビスクドールのような顔が、ぴくり、と微かに痙攣した。
「……いつまで圧し掛かっているつもりですか?」
 火傷をしてしまいそうな凍えた声。いつも湖面のように静まり返った翠緑色の瞳には、燃え上がるような怒りの感情が浮かんでいる。
 自分の顔から血の気が引いていくのがはっきりと分かった。
「いや。その。違うんだ」
「言い訳はいから、さっさと退きなさい! そ、それに、さっきから、あ、貴方は何を鷲掴みに……!」
「す、すまん!」
 火に触れたように飛び退くと、ジブリールは自身の胸元を庇いながら、ゆっくりと身を起こした。陶磁器のように白い顔は真っ赤に染まり、細い肩はぶるぶると震えている。瞳いっぱいに涙を浮かべ、
「こ、このエロガキっ!」
「っ!? いや、違う! そういうつもりじゃ」
 拳を振り上げたジブリールに、クレーエは激しく狼狽えて、顔の前に空いている左手を翳した。襲ってくるであろう痛みに目を閉じ、
 バシン、
 強く掌で背中を叩かれた。
 ゆっくりと目を開く。そこには、真剣な顔で空を睨むジブリールの姿があった。
「いいから準備なさい。体制が整うまで待ってくれるほど、相手はお人よしではありませんよ」
 言葉と同時に、吹き上がる盛大な水蒸気。立ち上がり、司教杖を構えたクレーエは見た。水壁に捉えられ、なおも赤黒い炎を吐き散らす四本の銀杭剣。その向こうに、

 ウオオォォォ……!

見たこともない、異形の化け物の姿があった。
 蝙蝠を思わせる節ばった羽。蛇のようにのたうつ下半身。上半身は女のものであるようだが、口からぼうぼうと火炎を吐き散らし、杭のように尖った牙の間から、人のものとも思えぬ低い雄たけびを発してる。
 醜悪な有翼の黒い獣。
 思わず呼吸さえも忘れる。それは、古い絵画に見る悪魔の姿そのもので、
「『限定解除』《クロック・オーバー》……こんな姿、彼女も見せたくなかったでしょうに」
 低く呟く声に、はっと視線を落とす。ジブリールは強張った表情で、しかしどこか悲しげにその醜悪な怪物を見上げていた。薄い唇が微かに動き、イグニス、と言葉を発する。
「あれが……イグニスなのか」
 胸から名前も知らぬ感情が浮き上がる。
 握った司教杖から溢れ出した『神の意志の力』が白い光の粒子となって漂い、見上げるジブリールの金砂の髪で静かに跳ねる。
「あの虚け者に見せてやりなさい、クレーエ」
 ジブリールは不敵な笑みを浮かべると、クレーエを見た。ゆっくりと宙に浮かび上がる、その背中にあるのは、光り輝く純白の翼。
「貴方の、そして、このガブリエルの力を!」
 差し出された手に、クレーエは持っていた杖を掲げる。
 ジブリールの指先が杖の先に触れた瞬間、『神の意志の力』が泉のように溢れ、白銀の司教杖が黄金色に輝いた。
 一拍の間を置いて、鋭く告げる。
「審問官クレーエ・シュトロームの名において告げる。――『開廷』!」

 ――この聖杖〈しるし〉によって、汝はうち勝たん《イン・ホック・シグノ》


「……羊飼いの杖《クロウジャー》? 馬鹿な。あれはシャロンの」
 眩い光と共に顕現した天使の姿を見上げ、ダリウスは呻くように囁いた。光の翼を持つ、純白の天使。溢れ出す、一点の曇りもない水の奇跡《エレメンタム》。
「何故だ」
 ぎゅう、と銀杭剣を握った白手袋が悲鳴のような音を発する。
「何故、貴様が。あれだけの罪を犯した貴様が、そのように天使を従えることが出来るのだ。呪われた黒い翼ではなく、白い翼の光の天使と共にあれるのだ!」
 苦悶の唸りと共に、周囲を取り巻く赤黒い炎が大きく揺れる。それを契機にしたように、天使ガブリエルが発する白銀の粒子は、赤黒い炎に彩られたダリウスの『審問法廷』をゆっくりと塗り替え始めた。
「……ッ、馬鹿な!」
 ダリウスは赤茶色の瞳を限界まで見開き、千切れんほどに唇を噛みしめた。
 悪夢のように呟く。
 堕天したイグニスを上回る権限の行使だと――?
 管理教会《アパティア》の大司教審問官でも打ち破れなかった、ダリウスの審問権限。それはつまり、管理教会の審問官にダリウスよりも強い審問権限を持つものが存在しないことを示しているはずだった。
 しかし、今ダリウスの目の前で、その審問権限は別の審問官によって塗り替えられようとしている。
 大司教以上の権限を持つ審問官。そんなことが出来が者があるとすれば、それは――。
「……認めぬ」
 ぎり、と。砕けんほどに喰いしばった口元から、音を漏れる。
「認めぬ。認めぬぞ! クロエ! どうして貴様が。裁かれるだけの立場にある貴様が!」
 水膜の向こうで呪いのように言葉を吐くダリウスに、クレーエは小さく口を開く。
「……ジブリール」
 なんでしょう、と耳元で流れる風のような囁き。
「一つだけ、教えてくれ。ミカエルが俺の元を離れたのは、代償を払ったからだと言ったな。あいつは今、どこに居るんだ」
 平静を装っても、緊張に声が強張る。絞り出すようなクレーエの問いに、ジブリールは微かに迷うような気配を置いて、
 ――彼は今も、『神の間』に居ます。
 感情の読めない、静かな声で答えた。
 クレーエの目の前で光の粒子が集まり、ジブリールが人の形をとって姿を現す。穏やかな翠緑色の瞳を向け、
「ミカエルは、全てが崩れていこうとしていたあの日、あの瞬間――現世を捨て、常世へと帰ろうとしていた神の下へと自ら赴き、訴えました。『どうか私の宿主の罪を許し、その願いを受け入れて欲しい』と」
「馬鹿な」
 クレーエは吐き捨てるように言って、何度も首を振った。
「神など、どこにも存在しやしない。あれはただの機械。人の心を介することが出来ない、ただの無機物だ」
「では、貴方はその端末である私たち天使も、人の心を理解できない、ただの無機物だと言うのですか?」
「――それはッ」
 クレーエはきつくきつく瞼を閉じ、強く手の中の聖遺物を握りしめた。荒れ狂う様々な感情が、いつも平静を取り繕っていた心を掻き乱す。それを察したのか、ジブリールはどこか哀しげに笑って、
「貴方の言う神がどういう存在なのか、私は知りません。しかし、私たちが仕える女神は、確かに仰いました。『私には、このシステムに抗う、あの青年の行動が理解できません。しかし、幼馴染の少女を求める彼の気持ちに、間違いがあるとも思えない』」
 『私は全知全能でなければならない』と神は仰いました、とジブリールは続けた。
『迷いを抱えた私には、人を裁く資格はない』神はそう考えられ、貴方に――旧いシステムを否定した、罪深い貴方に、しばしの猶予を与えることにしたのです。
「……猶予?」
 はい、とジブリールは首肯した。
「貴方は、世界を巡り、あらゆる人々の嘆き、悲しみを理解しなければなりません。そうして、いつかあの玉座の前へと辿り着き、答えを告げなけらばならない。貴方が出した、世界があるべき正しき姿を、神の御前で」
 透けるような、弾けるような、あるいは染みいるような、優しい声。クレーエは呆然と、どこまでも深い叡智を湛えた翠緑色の瞳を見つめる。
「ミカエルは、この提案を受け入れました。しかし、神は彼が貴方と共に行くことを許さなかった。ミカエルの加護の元にある限り、貴方は人間が抱える本当の苦悩を理解出来ないだろうから」
 クレーエは口元を食いしばり、顔を伏せた。そうして何かを堪えるようにしていたが、ゆっくりと俯けていた顔を上げ、
「ミカエルは、俺を見限って去ったわけじゃないんだな?」
 何かに縋るようなその顔には、微かに涙の流れた痕がある。
 ジブリールは口元を綻ばせて、
「当たり前です。ミカエルは、自らの意志で貴方に共感し、旧いシステムに弓引くことを選んだのです。……彼は、貴方が正しき答えを見い出せると、誰よりも信じた」
 言って、ジブリールは強い瞳でクレーエを見つめた。強張ったクレーエの顔に安堵の色が浮かぶ。
「ずっと、見放されたのだと思っていた」
 物心ついた時からずっと、傍に居た天使ミカエル。辛い時も哀しい時も傍で見守って来た最大の理解者は、クレーエにとって、兄のような、あるいは父のような存在だった。
 正しいと信じて出した答え。引き起こしてしまった最悪の結末。それらを、誰よりも傍に居たミカエルに否定されたことが悲しくて。そんな彼を失望させてしまったことが、何よりも辛くて。
「本当は、貴方に出会ったら、すぐにでもこのことを伝えようと思っていました」
 大きく開いた背中を向け、ジブリールは言った。
「けれど、再会した貴方は、腐りきった魚のような目をしていて、全てを諦めているように見えて……。私は悔しかったんです。貴方は、ミカエルの思いを理解していると思っていたのに」
 小さく溜め息を吐いて、けれど、と続ける。
「けれど、それは私の勘違いだったようです。貴方は、私が思っている以上に、ミカエルのことを大切に思っていたのですね」
 だから、他の天使《わたし》の聖遺物《レリクス》を手に取ることを拒んだのでしょう? とジブリールは振り返り笑った。クレーエは否定も肯定もしない。静かに涙が伝う冷たい頬に、細い指がそっと触れる。
「追いつくのが遅くなってしまいました。すみません」
「……いいや、謝らなければならないのは俺の方だ。危うく、ミカエルが作ってくれた機会を不意にするところだった」
 力溢れる司教杖を見つめ、懐の中の黄金の天秤に掌を当てる。そっと囁くように言った。
「俺一人では、生きてここを勝ち抜くことは出来ない。――力を貸してくれるか」
「もちろん。それが、今の私に託された役目ですから」
 確かな視線を交し合ったその時、水壁の向こうで男が上げる苦悶の叫びを聞いた。

   ※

「おおおおおぉぉッ!」
 噛み締めた口から、迸るような絶叫を上げ、ダリウスは残った片腕を出鱈目に振り回した。
 イグニスの口から吐き出された、黒い炎。地獄の苦しみを煮詰めた業火が、ダリウスの身体をじりじりと焼き始めた。
「なんだ、これは」
 炎に包まれていく自身の身体を見下ろし、ダリウスは呻いた。千変に姿を変える炎の中に、嘲笑を浮かべる人の顔が、陽炎のように揺らいでいる。
 そこに映るのは、復讐の末に果てたオスティナトゥーアの少年兵たちだった。都市への復讐の為に命を捧げて果てていった魂たちが、都市を裁こうとするダリウスに反発し、その身を焼き尽くそうとしている。そんなことはこれまで一度も無かった。そう。この九年間、ただの一度も。
「……揺らいでいると言うのか。私の論理が」
 身を舐める炎に抗うように、薄汚れた僧服を叩きながら、ダリウスが唸る。ごり、と握りしめた拳を額に当て、
「恥を知れ、恥を知れ、恥を知れ……! この九年間、私が集めて来た嘆きは、苦しみは、その程度のものだったのか……! この程度で揺らいで燃え尽きる炎だったのか! 私が愛した人が見た嘆きは。私が見た絶望は!」
「違うんだ、ダリウス」
 水壁の向こうから、かかる声。拳を除けると、白銀の司教杖を手にしたクレーエが立っていた。じっとダリウスを見つめ、ゆるゆると首を振る。
「お前は、結果を急ぎ過ぎたんだ」
「ふざけるな! 急ぎ過ぎるなどと言うことがあるか。答えを模索している間にも、人々の嘆きで地獄に溢れかえっていく。動機や過程など問題ではない。全ては結果なのだ。罪を犯せば、罰が与えられる。善行を積んだ者には幸が。人を蔑み妬んだ者には災いが。それだけで、世界は救われるのだ! 無能な神では為せなかったそれを、俺以外の誰が為す!」
 羅刹のように叫ぶダリウスを、クレーエは悲しげに見つめ、
「なぁ、ダリウス。結果を出さねば報われぬと言うのなら――それはいったい、いつ出るものなんだ?」
「……なに?」
「ジブリール」
 ダリウスを見つめたまま名前を呼ぶ。ぼろぼろの外套を纏った肩の辺りにそっと、細い指先が触れた。
「さっきみたいに、水の壁を周りに巡らせてくれ。水の操作は勝手が分からない」
「それは出来ません」
「ああ。よろしく頼む……って、なに?」
 思わぬ答えに振り返ると、そこには少しだけ不機嫌そうなジブリールの顔があった。
「出来ないって、お前な。さっきはいくらでも力を貸すって」
「嘘は言っていません。けれど、使える水がもう無いのです」
 ――水? と思わず間抜けな声が出る。クレーエは小さく唸ると、眉間に深い皺を刻み、
「水が無いって、それじゃあ、さっきまで使ってたアレは何だったんだよ」
「あれは、複葉機に積んであった保存水です。全部で四十リットルほどありました。……といっても、さっきの攻撃で全て使ってしまいましたが」
「…………」
「な、なんですか、その目は! 貴方だって知ってるでしょう! 水の奇跡《エレメンタル》を持つ天使は、物質として存在する水が無ければ、力を行使出来ないって」
 狼狽するジブリールに、クレーエは思わず額に手を当てた。
 忘れていたわけではない。
 確かに、無から炎を生み出す火の奇跡《エレメンタム》とは違い、水の奇跡《エレメンタム》はあくまで物質としての水に神聖を付加させることによって、『神の意志の力』を行使する。そんな基本的なこと、忘れる訳がない。忘れるわけがないのだが、あまりにもジブリールが自然に水を操っていたので、そこまで気にしていなかった。
「ここまで来て、この展開は無いぜ」
 知らず、愚痴が出る。
 ダリウスの審問論理の綻びは、今やダリウス自身をも焼き尽くそうとしている。恐らく、ダリウスは次の一撃に全てを賭けてくるだろう。
 『限定解除』した堕天使イグニスの渾身の一撃――それは、想像を絶する破壊をこの塔にもたらす。今のダリウスならば、クロエ・シュトラウスの審問に、リオとフレデリカを巻き込むことに躊躇などしまい――。
「ん? あいつ、もう」
 微かに呟いたクレーエに、ジブリールは不満げに口を尖らせて、
「な、なんですか。言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうですか。私のせいじゃありませんからね。元はといえば、貴方がすぐに司教杖を取らないから」
「おい」
「おい、じゃありません! 私はジブリールだと何度言ったら……!」
「ジブリール」
 名前を呼んだ瞬間、ジブリールはぴたりと動きを止めた。
 訝しげに目を細めると、問う用にクレーエの顔を覗き込み、
「水さえあれば、イグニスの炎は凌げるのか?」
「もちろんです! 凌ぐどころじゃありませんよ。私は現教皇シャロン・ウイルスティーズの守護天使。イグニスなどに後れを取るはずがありません! 一定量の水さえあれば、朝飯前です。……一定量の水さえあれば」
 目に涙を浮かべて悔しそうに言うジブリールの頭に、クレーエは掌を載せた。驚くジブリールが顔を上げた時には、その夜のように暗い瞳は、どこか別の場所を見ている。
「俺に考えがある。あと一回だけでいい。俺の合図で、残りの水を全て放ってくれ。……お前のことだ。どうせ、まだ水壁一回分の水くらいは残してあるんだろ」
 ジブリールは目を丸くして、ひたとクレーエを見返した。全く迷いの無いその言い様に、そっと口元だけで笑って、
「あら? 私、顔に出てましたか?」


   ※   ※   ※


 ――認めるわけにはいかなかった。
 大司教を上回る審問権限を有するダリウスに、本来覆せない審問法廷は無い。しかし、クロエの審問法廷は少しずつダリウスの審問法廷を塗り替え、今やその全てを黄金の光で覆いつつある。
 つまり、今のクロエは、大司教以上の審問権限を有していることになる。そして、管理教会のヒエラルキーにおいて、大司教以上の権限を有する位はただ一つ、教皇のみ。
 ――俺は、いったい何の為にここまでやってきたというのだ。
 心の水底奥深くから、疑問が気泡となって浮かび上がり、水面で弾ける。その度に、黒い炎は身体を舐めるように燃え広がり、骨の芯から響く炎の痛みをダリウスに与えた。
 口元を歪め、呪詛の言葉を吐き、次々と浮かんでくる疑問を押し留め、ただクレーエに殺意を向ける。
 そうでもしなければ、燃え尽きてしまいそうだった。
 それなのに。
 それなのに、クレーエはどこか悲しげな瞳で、ダリウスを見るのだった。
「なぁ、ダリウス」
 ――遠く水壁の向こうで、クロエが口を開く。
「俺は、この都市で二人の子供に出会った。そいつらは、どれだけ悲しい罪を負っても、辛い現実に打ちのめされても、未来を信じることを選んだ。
 この九年間、犯した罪の重みに耐えながら生きて来た俺に、そいつらの姿は酷く眩しく見えた。時にいら立ちをぶつけてしまったこともあった。二人の姿は、まるで教皇の座を目指していた俺とシャロンに似ていたから。
 それでも、そいつらが現実の厳しさに打ちのめされそうになった時――助けてやりたいと思った。俺はシャロンを守れなかったから。その代わりに、こいつらには、手に入れてほしかった。自分だけの北極星《ポーラスター》を、手放して欲しくなかった。
 お前だって、そうだったんだろう? だからそうやって、片腕を失くすことになった」
 黒く燃え上がる憎しみの炎の熱さは、骨の芯をも通り抜け、魂までをも焼いていく。
 ダリウスは知っている。
 その痛みは、彼が罪人たちに強いてきた痛みだった。罰を求める心に安息を、と喚び出し続けて来た、地獄の業火の熱さだった。
 いいだろう、とダリウスは囁いた。
 その報いを受けながら今、それでもダリウスは願う。
「俺は、罰を与えるだけの機械であれば良かった」
「――なんだって?」
 クレーエが怪訝に顔を顰める。ダリウスは口の端を釣り上げるようにして笑った。
「認めるわけにはいかない、と言ったのだ。未来が過去を凌駕するなど許すわけにはいかない。この身が犯した罪も、感じた痛みも、全ては過去に償うためにある」
「もう一度だけ、考え直してくれ。ダリウス。無念の魂の為に現在の全てを焼き尽くすことが、本当に慰めになるのか? ――お前が今、贖罪のためにこいつらに与えようとしている苦しみと、復讐の為に妻と子供を殺されたお前が負った苦しみの間に、どれほどの違いがある」
「そんなことは解っている。解っていても、止まるわけにはいかないのだ!」
 呪いの炎に包まれながら、ダリウスは銀杭剣を構える。ただ、一本だけの腕に。
「もう遅い。遅いんだよ。俺はもう、自分の意志では止まれない」
 その姿に、クレーエは一瞬、泣き出しそうな顔を向け、「だろうな」と苦しげに呟く。緩慢な動きで、外套の中に手を差し入れた。
 ――リボルバーか?
 ダリウスが余談なく半身い構え、銃弾に備える。
 鋼の意志が、骨を焼く痛みを忘れさせる。例え首を撥ねられても、その喉音を噛み切ってやるつもりだった。
 クレーエは、暗い瞳で、じっとダリウスを見つめた。ほんの僅か、口元を食いしばり懐から取り出したそれを、空高くへと放り投げる。
「ジブリール! これを出来るだけ高く――天蓋まで打ち上げてくれ!」
 ――はい!
 光の天使が白く透ける腕を伸ばすと、地面から二本の水の矢が飛魚のように跳ね、渇いた空へと駆け上がった。
 二匹の魚はクレーエが投げ上げた何かに絡みつくと、更に空高くへと向かって跳ね続け、天蓋にまで伸びる。
 クレーエは再び懐に手を差し入れると、取り出したリボルバーの照準を、二匹の魚へと合わせた。

「神威《ゲニウス》――『神の全能の目』」

 目の奥に力が流れ込み、遥か遠く天蓋の向こう、巨大な榛の木《アール・キング》の枝ぶりの間に見える、雲の向こうの一等星さえ見通す。
 ――外れるわけがない。
 確信と共に、引き金に力を篭めた。
 放たれた銃弾は、重力に逆らい天蓋まで駆け上ると、二匹の魚が運ぶそれへと触れた。
「しばらくお別れだ」
 光となって漏れ出す、猛烈な『神の意志の力』――白い布が剥がれ落ち、『黄金の天秤』《レリクス》が姿を現す。
「ありがとう――ミカエル」
 眩い紅焔を発し拡散する光の中で、クレーエは消えていく友との絆の証に、渇いた唇で別れを告げた。


   ※   ※   ※


 研ぎ澄まされたダリウスの聴覚は、眩い光の中で鋭く宙を切る飛来物の存在を感じ取った。
 ――光は陽動か!?
 鋭く身を翻すと、屋上の淵に駆け寄り、下界を見下ろす。そこには、夜の大気を切り裂いて迫るミサイルの影があった。
 パンツァークライスト、と口元が動き、無意識にその兵器の名を呟く。
 はっ、と知らず渇いた嘲笑が漏れた。
「そんなものが俺に効くとでも思ったのか!」
 叫ぶと同時に、銀杭剣を最上段に構える。ありったけの力を刀身に篭める。
 ――限界まで引きつけて、両断してやる。
 不退転の覚悟。背水の陣―全身に力を漲らせ刀身を振り下ろそうとして――違和感に目を眇めた。
 予想していた軌道よりも、機首が高い。
 ミサイルは屋上よりも上空……全く見当違いの方向に狙いを定め放たれたようだった。
 ――操作ミスか?
 ダリウスは、これまでの軌道から予想される到達地点を目で追い――ぎょっと目を見開いた。
「クロエ、貴様、まさかッ」


 ――ミサイルは地上の火災を映すガラスの天蓋へと向かって、高く高く昇っていく。それは夜の空を切り裂く一羽の鳥のようだった。



 ほぼ垂直に伸びあがったミサイルが、都市を覆う天蓋に触れたのは、それから僅か数瞬後のことだった。耳をつんざくような爆音が都市を揺るがし、大量のガラス片が瞬く星のように振り落ちて、戦闘機による爆撃のように、都市の建物を破壊した。
 そして、僅かな沈黙を挟んで――大量の雨水が、滝のように降り注いだ。
 籠型都市は構造上、多量の雨水を天蓋で蓄え、生活水として普段の生活に利用出来るように設計されている。
 外は大嵐。
 満杯まで蓄えた水の量たるや凄まじく、それらは都市の下層……中枢部
である第一層から三層までをあっという間に水没させた。
 それは、中央管理棟とて例外ではなく、多量の雨水は屋上のありとあるあらゆるものを押し流していく。
 リオとフレデリカ、二人の夢が詰まった複葉機。屋上を区切るように巡らされた赤黒い炎。いくつものコンクリート片。そして、その上に居たあらゆる生き物までをも。
 リオはフレデリカをしっかりと抱えたまま、すっくと伸びた緑樹にしがみついていた。屋上から生えた水樹は、天使マグノーリエの力によって降り注いだ雨水を飲み込み、瞬く間に巨大樹へと生長した。
 打ち壊された天蓋の向こう、真っ黒な樹影を落とすアールキングの向こうから、けたたましい雷鳴の轟が聞こえる。湿った風が嵐のように吹き込み、恐ろしげな音を立てて都市全体を飲み込んだ。


 水没した都市の水面から、すっくと伸びる中央管理棟。それはまるで、墓標のように静やかで、

 壊れかけの屋上には、二組の審問官が残された。

 屋上に突き立てていた銀杭剣を引き抜くと、ダリウスは同様の三本の銀杭剣を背後に従えて、最上段に構えた。その背後には、頭から水を被り、微かに炎をくゆらせる異形の堕天使、イグニスの姿がある。
「まだ終わりではない」
 ダリウスは絞り出すように叫んだ。
「俺は止まらない。止めたいのなら、力づくで止めてみろ。クロエ!」
「……はぁ。呆れました」
 足首ほどの深さになったプールから、身を起こしたジブリールがため息交じりに呟く。ずぶ濡れになった金の髪を、細い指で掻き上げながら、
「水があれば、とは言いましたけど、これはさすがに度を越えています」
 張り付いた綺羅の薄布。水を吸った服は、今にも細い身体からずり落ちそうだ。
「なんだよ。多量の水があれば、と言ったのはお前だろ」
 ぼやくように言って、クレーエもまた司教杖にもたれて身を起こす。濡れそぼった外套は水気を含んで重く、全身の傷に沁みるのだろう。その顔は雨に降られた野良犬のように引き攣っている。
「貴方のその外套――」
 服の袖を絞っていたジブリールは、少し驚いた顔でクレーエを見つめた。
「よく見れば、司祭服じゃないですか」
「それがどうした」
 ぶっきらぼうにクレーエが答える。何度も手が加えられているようだが、その生地は間違いなく、管理教会で支給されている司教服のそれだった。
「いつぞやは、審問官は嫌いだ、って言ってませんでしたか?」
「嫌いだよ。審問官なんてなる奴は、どいつもこいつも碌なもんじゃない。分不相応な力を持たされて、見なくても良い夢を見る羽目になった道化ばかりだ」
 煙草を咥えるも、湿化って火がつかず、投げ捨てる。不機嫌そうに眼を眇めて、
「ろくでもなくて、どうしようもなくて、いつだって全てが報われる未来を夢見てる……。そういう俺たちが、クレーエ・シュトロームは大嫌いだったのさ」
 囁くと同時に、猛烈な火柱が立ち上がって、辺りの水気をもろとも吹き飛ばした。一瞬でそこは地獄の窯へと姿を変える。
 ダリウスの巨躯は、既に炎の中にあり、死者たちの魂が地獄の底で陽炎のように揺れていた。
 怨嗟と嘆きの炎の中で、理性ある男の声が響く。
「俺が訴え、俺が裁き、俺が罰し、俺が赦す。……俺は傷であって、また短刀だ。俺は撲る掌であり、撲られる頬だ。俺は、車裂きにされる手足で、また裂く手足だ。生贄であって、首斬役人だ。――俺はそれでいい。そうあれかしと願う。他には何も望むまい。俺はただ、人の罪を裁く断頭台の刃であれば良い!」
 火達磨の男が足を踏み出すと、身を焼いていた赤黒い炎は消え去り、無秩序に流れていた『神の意志の力』最上段に構えた一本の銀杭剣へと収束する。
 膨大な神の意志の力を注ぎこまれた聖遺物は、今や禍々しい赤黒い輝きを放って、その殺意の全てを相対するクレーエ一人へと注ぐ。
「我はここに問う――罪と罰の在り処を。開廷! 開廷! 開廷!」
 叫ぶダリウスの声に合わせて、中空に浮かぶ三本の刀身もまた、黒い炎を纏う。
 『限界動作《オーバークロック》』からの力の暴走――自身さえも焼き尽くさんとする赤黒い炎の中で猛るダリウスの姿はもう、人ではなかった。怒り狂った炎の魔人。地獄の世界を引き連れ、聖者の国に仇を為さんとする悪鬼羅刹。
 ダリウスを中心として、炎に包まれた銀杭剣に、無数のアラビア文字が浮かび上がる。
『死刑! 死刑! 死刑!』
 地獄の亡者たちが声を上げる。
 ダリウスは確かに、死者の世界を背負っていた。多くの期待を背負って立っていた。
 焼け爛れた皮膚。縮れた頭髪。その中で、黄色く濁った瞳だけが、炯炯と光を発している。
 世を呪う亡者たちの声を背に受けて、ダリウスが一歩を踏み出す。ただそれだけで世界は歪み、炎はあらゆる物質を幽界の中に引きずり込む。
 何か見えないおぞましいものが、首を、腕を撫ですぎていく。亡者の世界が染み出してくるような絶望感――クレーエは縋るように、手の中の司教杖を握り締める。
 見ているだけで闇に呑まれそうな気がした。
「怯えているのですか?」
 ふわりと耳にかかった言葉に顔を上げると、すぐ傍に険しいジブリールの横顔があった。司教杖を握りしめた手に、そっと暖かい手が添えられる。
「大丈夫です。私が居ます。私を信じて」
「……どこが大丈夫なんだよ。ありゃ、もう人知を超えてるぞ。いくらお前の水壁でも、あれを防ぐなんて」
「出来ます」
 そう囁く声に、迷いはない。
 じっと前を見つめたままでいると、ジブリールが微かに微笑む気配がした。
「私の目を見なくてもいいんですか?」
 クレーエは微かに苦笑を浮かべると、半身に構え、黄金に光る司教杖の頭を背後に引きつけた。
「最期だと思って、正直に答えてくれないか」
 震える声で、懸命に囁く。
「シャロンはあの後、どうなった」
 微かな静寂があった。
 ジブリールが深く何かを考え込んでいる気配がする。やがて、小さく唄うような声が、そっとクレーエの耳朶を震わせる。
「神は人に試練を与え、その結果をもって世界の行く末を決めようと仰られました。その対象に選ばれたのが、貴方。神は貴方にミカエルが同行することを許しませんでした。ミカエルの力は強過ぎるから。貴方はただ一人きりで、たくさんの呪いを背負ったまま、冷たいこの世界を彷徨い続けなければならなかった。……だから、神の玉座の下でそれを聞いていたシャロンは、こう申し出たのです」

 ――私の天使を、どうか彼に。

「シャロンは、その代償として、それが遂げられるまでの間、自分の時間を神に捧げると誓いました。彼女は今も、玉座で答えが出る日を待ち続けています。――シャロンからの伝言です」
 そっとジブリールが動き、唇が微かに耳に触れた。
 クレーエの腕が一瞬、細かく戦慄き、強く強く司教杖を握りしめる。
 溢れた黄金の光は、雪のように空を舞い、ジブリールの光の羽に振り落ちた。
 いいだろう、と震える唇から、掠れた声が漏れる。
「いいだろう。女神アストレア。俺がこの世界の罪を裁量してやる。隅から隅まで歩き回って、あらゆる人々の暗部を量り取ってやる!」
「貴様にそんな資格は無い! クロエ、貴様は未来を見ることなく果てる。ここで終わりだ!」
 ダリウスが瞳に殺意を輝かせて、獣のように叫ぶ。
「俺は、自分が犯した罪に、未だ罰が与えられない理由を知った。どうして再び天使が俺の前に現れたのかを知った。なんてことはない。俺が犯した罪には、まだ結果が出ていないんだ。結果が出なければ、釣り合う罪を与えられない。しかも神様って奴は、俺が犯した罪に釣り合うだけのものを、これからの俺が購えると期待しているらしい。罪にまみれた膨大な過去を、より報われた未来が上回るなら、それらをチャラにしてやると言っているんだ。なんて自分勝手な論理だ! 吐き気がする! だがな!」
 司教杖に力を注ぎ込む。すると、クレーエの背後に無数の水の矢が浮かんだ。
「俺はその話に乗るぜ。膨大な過去を未来で凌駕して、犯した罪を賄って見せる。そんなことをしたって、俺が犯した罪の重さは変わらない。だが、それでも! 俺は託された思いを抱えて前に進む! 俺は決めたぞ。お前はどうする!?」
「知れたこと! 今更、戻る道など無い! 己が道を進むだけだ! だが俺の進む道は貴様とは違う。未来で過去を塗りつぶす貴様のやり口とは違う! 未来は過去によって復讐されるのだ。消えて行った命が、その嘆きが、報われるに足る未来を創るのだ!」
 再び火達磨と化したダリウスが、片腕に銀杭剣を構える。
 応じるように、クレーエもまた白銀の司教杖を構えた。
 ――俺は止める。自分では止まれないお前を。
「……いや。違う」
 そうじゃない。俺は、自分の身勝手の為に、お前の信念を打ち砕くんだ。
「俺は進むぞ。ダリウス。例え、その果てにあるのが破滅だとしても。這ってでも辿りついてやる!」

「約束の地《エリュシオン》に!」


「「――開廷″!」」
 叫んだのは二人、同時だった。

 ――この剣〈しるし〉をもって、汝はうち勝たん《イン・ホック・シグノ》
 ――この聖杖〈しるし〉をもって、汝はうち勝たん《イン・ホック・シグノ》

 ジブリールが純白の羽を広げ黄金色に輝く水の矢を放ち、ダリウスの足元から現れたイグニスが、ダリウスを背中に乗せ、屋上と水平に羽ばたく。
「クロエェ!」
「ダリウス!」
 互いに得物を構えたのは最上段。
 ただただ全力で、力を振り絞る。
 全身全霊。二つの力がぶつかり合い、飽和した『神の意思の力』が都市を明るく照らし出す。
 白く霞んでいく世界の中で、クレーエは、
「ああ――まったく。お前の放つ光は、いつだって眩しい」
光に溶けていく、友の声を聞いた。







(>∀<)ノぉねがいします!



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