……聖杯戦争に巻き込まれた未熟な魔術師。
 そいつは結局、最後まで生き残って、それで――。



虚言の王・虚空の月


第三部 「復讐の騎士」




 あ、そこのお兄さん? 現在この地区には避難命令が出されてますよ。許可のない人間の立ち入りは禁止されて……ん。東洋人? こんなトコに珍しいな。中国人かい。
 ……日本人? ふぅん。で、何の用だい。こんな田舎町、何にもないでしょ? 商談(ビジネス)? 観光(トラベル)。はぁ? 自分でもわからないって……。まぁ深くは聞かないさ。ポーランドは良い国だ。楽しんでいくといい。
 どうして通れないのか、って? だから、この地区は立ち入り禁止なんだ。残念だがね。北部の農耕村落半径三十キロ圏を完全封鎖! 犬一匹通すなっていうんだから、かなりのもんだよ。俺の見立てだと、二、三日は解けないね。
 ……原因?
 さぁね。こっちも知りたいよ。今日は休暇だったっていうのに駆り出されちゃうんだから、堪んないよぉ。
 新種の伝染病が見つかったっていう話だけど……。正直どうだか。テロリストが細菌兵機ばらまいたっていう噂もあるけど。
 いやいや、デマだよ。デマ! 本気にするなよ。こんな田舎でテロやってどうしようっていうの。やるならもっと大きな町でやってるよ。
 確かに、ちょっと不気味ではあるかな。どういうわけかメディアもだんまりだ。詳しいコトって言われても、俺みたいな下っ端まで情報は降りて来てないよ。
 んー……。そう言われてもねぇ。
 そういえば、二時間くらい前に、たくさんの神父様が入って行ったな。何でも、たくさん人が死んだから、葬送に立ち会う人間が必要だとかで……。俺は危ないから止めとけ、って行ったんだけどさ。さすが神父様たちだ。表情一つ変えやしない。信仰心の篤さが違うよ。
 だからさ、どこに向かったかはわかんないよ。中にいる軍人ならまだしも、俺らみたいな下っ端警官には情報は降りてこないの。あ。このことは誰にも言うなよ? 新種の伝染病だっていうのも、外には発表されてない情報なんだからさぁ。この先にあるのは小さな町ばっかりで、住民の避難もほぼ出来てるっていうし、大した被害にはならないんじゃないの? たぶん。
 ……ところでさ。さっきからずっと気になってたんだけど。
 その服。もしかして君、神父様なの?


 ――下草が足に絡む。
 目的地は近い。このままなら、あと数分で一番近くの町に辿り着くだろう。
 深い森を抜け、だだっ広い牧草地をひたすら走る。漆黒の空には西に傾く上弦の月があった。夜明けはまだ遠い。
 忠告どおり動きやすい服装をしてきて正解だった。半径三十キロを完全封鎖、と聞いたときにはどうしたものかと思ったが、走ってみるとたいした距離には感じない。手渡された濃紺と黒で揃えた詰襟服を見た時は、因縁浅くない彼の神父の姿を思い出し、げんなりしたものだが……。
 風に乗ってきた匂いに顔を顰める。
 物が焼ける据えた匂い。不快な匂いだ。風下に立ったのが不味かっただろうか、そう自問して首を振る。
 いや、ある意味では手間が省けたとも言えるか。これなら、地図を見なくても目的地の位置が正確に解る。
 目指すは惨劇の中心部。今まさに、殺戮と略奪が繰り広げられているだろう、阿鼻叫喚の地獄絵図――。
 息が上がっているわけでもないのに、動悸が早い。
 その理由を、俺はきっと知っている。
 久しぶりの戦場――。そこに向かうことに対する、微かな高揚感。
 俺は今きっと、余計なことをしようとしている。
 自分の領分以上のものに踏み込もうとしている。
 それは正しいことではない。そう解っているのに、気分が高揚していくのは何故だろう。俺は、この先にある光景の中に身をおく事を、心の奥底で望んでいる。
 そう。望んでいるからこそ、近づきたくは無かったのに。
「……くそっ、遠坂の頼みじゃなかったらこんな所まで来たりしないんだけどな」
 遠坂凛からSOSが入ったのが、昨日の昼のこと。
 それから、ありとあらゆる手を尽くして何とかこの場所までやって来たが、それだけで既に十二時間が経過しようとしていた。ライダーの天馬なら、もっと早く来れただろうか。
「いや、流石に無理か。日本からヨーロッパの中央部までじゃあな。というより、後ろに乗ってる俺の身が持たない」
 こういう時は最先端技術の偉大さを思い知る。オカルトにはオカルトの、テクノロジーにはテクノロジーの領分があるとは、現代文明に取り残されたあの遠坂でさえ言っていたことだ。輸送性能だけで言うなら、モスクワ経由であることを差し引いても、ライダーの天馬よりボーイング社の航空機の方が優れているのは明らかだろう。
「日本に居る俺に救援を求めるくらいだ。遠坂のヤツ、余程切羽詰ってるんだろうな」
 そもそも、今まで遠坂が助けを求めて来たことなんか、一度もなかった。四年前の聖杯戦争の時でさえも、彼女は助けて欲しいなんてことは一度も言わなかったはずなのに。
 小高い丘を登り切ると、林立する木立の向こう、一キロほど先に駐留中の一群が見えた。強化の魔術を使って視力を向上させる――。戦車の側面に描かれているのは、紅白を上下で割ったシンプルな国旗。
「ポーランド軍か」
 引き結んだ口元から、思わず溜息が出た。
 災禍の中心部に、正規軍は派遣されない。
 例え派遣したとしても、自軍の犠牲と敵の戦力を闇雲に増やすだけだということを、共和国の上層部に助言した組織は知っているからだ。ここはあくまでも、万が一に備えた外縁に過ぎない。まだまだ先は長そうだ。
 事態の中心に居るのは、封印指定の魔術師。
 “魂を保存しておけるほどの純度の人工肉体”について研究していたというその男に、遠坂は魔術協会から派遣された封印執行者よりも先に接触しようと試み――そして、失敗した。
 魔術師は執行者に見つかり、交戦の末破れ――最期に、ある『病原菌(ウイルス)』をばら撒いた。
 小さな街に瞬く間に蔓延ったそれは、ある種の伝染病とも言えた。特効薬は無く、鼠算式に感染を広げたそれを処置するため、直ちにその道のスペシャリスト達が派遣された。彼らの動きは早く、発生から五時間で感染源となった中心部の村より半径五キロ圏内を制圧下に置いた。
 事態の収拾に当たっている勢力は二つ。
 一つは、死体からでも魔術師が辿り着いたという研究成果を持ち帰ろうと画策する『魔術協会』。現場に派遣された封印執行者は行方不明となっているが、既に応援の執行者が向かっていることだろう。
 そして、もう一つは現在この地を制圧下に置いている『聖堂協会』。既に一番近い都市バルチャヌィからチュートン騎士団の六百を超える信徒が感染地の中心部へと進行している。彼らは自分たちの領土から汚染区域が出たことで鼻息を荒くしている。
 『病原菌』がばら撒かれてから、既に八時間。事態は今、一番の局面に至ろうとしていた。
「吸血鬼、か」
 気づけば知らず、呟いていた。
 『病原菌』に感染した人間は、『屍鬼(グール)』と呼ばれる怪物になるという。
 これから相手にしようとしているのは、摂理の輪を外れた人外の化け物だ。
 実際、そのようなモノと対峙するのは初めてだ。対処法は日本を出る前にライダーから教えられていたが、未だ一抹の不安は残る。万が一、屍鬼(グール)などになってしまえば、二度と家には帰れないだろう。結界に登録してある武具の中でも、屍鬼に有効であるという教会に因縁のあるものを一通りストックに入れておいたが……。
 とにかく、まず初めに行うべきは、遠坂と合流することだ。
 今頃、彼女は着々と浪費される手持ちの宝石に悲痛の叫びを挙げながら、被災地を駆けずり回っていることだろう。 
「無事で居てくれるといいんだが。さすがに、遠坂の胸に杭を打つような真似はしたくないしな。……まったく。こっちは桜が塞ぎこんでいてそれどころじゃないっていうのに」
 遠坂自身はまだ知らないこととはいえ、苛立ちを覚えてしまう。
 気になるのは、このような状況でも昨年籍を入れた妻である桜のことだった。
 彼女は最近、塞ぎこむことが多くなり、どうにも元気が無かった。夜中などは、一人でこっそりと泣いていることもある。昔の彼女ならいざ知らず、ここ数年の彼女はいたって明るかったので、余計に心配だった。
 彼女が塞ぎこむ理由は、既に他でもない彼女の口から聞いて、知っている。
 ――ごめんなさい。
 謝られるたび、士郎は居た堪れない気持ちになる。彼自身は、彼女の悩みをそれほど気にすることもないことだと考えていたが、それでも彼女は納得してくれなかった。恐らく、自分の中で整理が付くまで、もう少し時間がかかるだろう。
「早く吹っ切れてくれればいいんだがな」
 ともすれば思考の迷路に嵌り込みそうになる自らを鼓舞し、駆ける足に力を篭める。
 戦火の匂いを辿って、得物を捜す猟犬のように、ただひたすら草原を駆ける。
 ――そう、犬だ。
 魔術の師(主人)に呼ばれれば、遥か遠く日本からポーランドくんだりまで。健気な犬だろう。死んだら銅像にでもしてくれ。


 件の村へと辿り着いた頃には、東の空は薄く白み始めていた。
 戦火の匂いはさらに密度を増し、肌に絡みつくようでさえあった。途中二度ほど戻したおかげで、戦場でみっともなく胃の中身をぶち撒けるような無様は曝さずに済んだ。
 呼吸を浅く吐きながら、薄霧のかかった農場の、疎らに下草の生えたあぜ道を歩く。村はあちらこちらで勢いの盛んな火の手が上がっていて、レンガを弾けさせるほどの熱気に、顔がヒリヒリと痛んだ。
 首から十字架を下げた、自分と似たような黒い服を着た男達が細い道を行ったり来たりしては、抱えた放射器で村中に火をつけて回っている。
 異臭と熱波の原因はこれだ。
 遠坂の話では、病原菌は熱気に弱いという話だったから、火を付けて回っているのは浄化作業の一つなのだろう。
 火をくべる信徒達の動きは淡々としていて、妙に事務的だ。まるで、読み終えた古本を纏めて燃やすかのように、次々と火をくべて行く。
「……それにしても、なんだ? この臭いは」
 村の中を駆けながら、士郎は顔を顰めた。
 どうしてこんなにも不快な匂いがするのか。
 家の中にあるものを燃やしたって、ここまで酷い匂いはしないだろうに――。
 黒い服の神父たちに混じるようにして、村の奥へと走っていく。
 間に合わせで調達して来た黒い詰襟服は、作業に追われる彼らの中に混ざるのに想定以上の働きをしてくれた。
 この先、村の背に広がる森で、遠坂と落ち合う手はずになっている。まずは、合流して現状を把握する。屍鬼(グール)を狩りだすのはその後だ。
 石造りの家々に挟まれた狭い石畳の上を駆けていくと、視界が開け広場に出る。瞬間、騒々しいまでに鳴り響く怒号――。
「あれは」
 左手に伸びる十字路の端に、鈍く銀の光を放つ甲冑が見えた。惹かれるように足を進めると、一本奥の路地――祭事などの行進で使われるメインストリートだろう――に、ハルバートを掲げた教会の騎士団が、陣列を組んで行進しているのが見えた。
「―――、―――!」
 低い怒声が轟き、最前列の男達が一斉にハルバートを振り下ろす。空気を切り裂く重く低い音が響いて、
 ぐしゃり、
 何かを踏み潰すような鈍い音がした。
 思わず足を止めると、直後、先陣を切って行進を続けていた騎士の一人の首が、影に塗りつぶされて見えなくなる。
 初めは光の加減だと思った。しかし、辺りを煌々と照らす眩い炎に目を細めた蒼太は、確かに見た。一瞬の間をおいて、影に塗りつぶされた首から噴出す、真っ赤な鮮血を。
「……――っ!?」
 ぐらり、
 前のめりに倒れる騎士の下半身から、顔の上半分が潰れた死体が腕を伸ばし、騎士の身体に縋りついた。低い苦悶の声をもらしながら、死体は脳髄を撒き散らし、倒れ伏した騎士の喉に貪る様に喰らいつく。そして、それら異形の化け物へと、後ろに控える隊列の二列目の騎士が、再びハルバートを振り下ろす。
 びしゃり、
 今度はトマトを潰したような、瑞々しい音が響いた。
「……何だ。これは」
 足は既に止まっていた。真っ白に白濁した頭で、白痴のように戦火の只中に立ち尽くす
 首が飛ぶ。
 腕が千切れる。
 喉が食い破られる。
 死の葬列は、留まる事を知らない。悲鳴と怒号が絶え間なく十字路に響く。それでも、騎士団は歩みを緩めようともせず、闇の中に蠢く異形へと容赦なく断頭台のように凶器を振り下ろしては、代償として一人、また一人と屍鬼に身体を喰い破られ、貪り尽くされていく。
 戦火の下から怒号のような、唸り声のような、あるいはすすり泣く声のような――そんな声が響いて止まなかった。
 闇の中に蠢くのは、無数の屍鬼だった。
 初めて目にする、生ける死者の群れだった。
 目が離せない。
「前進! ―――、――――ッ!」
 騎士団が進むたび、人間とかつて人間だったものの破片がブツ切れになって跳んでいく。次々と押し寄せる波は、倒れた味方も村人も屍鬼も関係なく、動かなくなった者たちから順に轢き潰し、踏み倒し、蹂躙していく。
 鮮血に染まる、騎士団員の銀の甲冑。その後ろから、黒衣に身を包んだ神父たちが火炎放射器でそれら肉片を消し炭に変えていく。
 彼らが焼いているのは、死体だった。
「っぐ……うぅ」
 強烈な吐き気に襲われ、身体を折った。
 胃の中は既に空っぽで、収縮を繰り返す胃の動きに耐えかねて粘膜が傷つき、吐き出す胃液に少量の血が混じる。
 視界が霞む。胃の辺りが熱を持ったように熱い。
 どうして、彼らが平気で居られるのか、理解できなかった。こんな凄惨な光景を前に、機械的に、あるいは事務的に作業が出来るのか、恐ろしくて溜まらなかった。
「――、――!」
 隊列が乱れ、揉み合う群衆の中から騎士が一人、味方に引きずられて運び出された。
 苦痛に顔を歪ませた騎士は、すぐさま後方に控えていた黒服の男達に引き渡される。痛みにのた打ち回る騎士は甲冑を剥ぎ取られ、その眼前で黒衣の男が聖書を読み上げ始める。
 ――何をするつもりだ?
 思わず言葉が乾いた唇から零れた時、近くの民家から太った男が転げるように飛び出してきた。
 負傷した肩を庇いながら男は、黒衣の男達の下に縋りつき、必死の形相で「助けてくれ」と懇願の声を挙げる。
 男はパン屋のようだった。
 男がたった今転がり出て来た民家のショーウインドウには、大きめのパンが幾つか並んでいる。今まで家の片隅に隠れていたのだろう。何を見てしまったのか、今にも恐怖で気が触れてしまいそうな、凄まじい形相をしていた。
 黒衣の男達が、あの機械的な動きでパン屋の男の腕を掴む。
 戸惑った様子の男を力ずくで引き倒すと、負傷した騎士の横に焼きたてのパンのように並べた。
 後ろに控える黒衣の男が、抱えていた木杭――長さの違う木片を交差させ、即席の十字架を模したもの――を怯えた様子の男の胸へと押し付ける。
「なんだよこりゃぁ……!」 
 風向きが変わったのだろう。喚く男の声が微かに耳朶に届いた。
「早くここから逃げよう! は、早く! あの化け物共がやってくる!」
 パン屋の震える腕が、神父の黒衣に縋りつく。神父はその手を無造作に払った。変わりに突きつけられた醜悪な鉄(くろがね)の銃口に、パン屋の顔が絶望に染まる。
 黒服の男の一人が、浪々と聖書の一節を読み上げ始めた。
 そして――左右に控えていた男たちが、負傷した騎士とパン屋の男に、火を放った。
 初めは助けを求める理性ある声。続いて、身が竦むような獣のような断末魔の絶叫が迸った。似たような叫び声が、行進を続ける騎士団の掛け声の合間に、街中の至る所から聞こえてくる。
 そこで、ようやく気付いた。
 黒服の男たちは細菌の消毒をしていたわけでも、遺体を燃やしていたわけでも無かったのだ。
 彼らは、感染の疑いのある者を片っ端から――それこそ、敵味方の関係無く、生きたまま火葬にしていたのだ。
 彼らは病でも不死の化け物でも無く、同じ人間に焼き殺される。家畜のように。読み捨てられた本のように。あるいは、固くなったパンのように。
 
 ――何を驚いたふりをしている。

 裡なる声が語りかける。

 ――何だ。処女のような顔をして。この匂いが何かなんて、初めから気付いていたはずだろう。その匂いが、生きたまま焼かれる人の匂いだなんてことは。だってお前は一度、体験しているはずだ。忘れたとは言わせない。お前は十八年前の大災害で、


「ああああああぁぁぁぁぁぁっっl!!!!」


 それからのことは、あまり覚えていない。
 ただ夢中で剣を振り下ろしていたということだけを、うっすらと覚えている。
 自身が噛まれるだとか、感染するだとか、そういったことは考えていなかった。
 それよりも鼻に、あるいは身体にこびりついた匂いと脂がただただ不快で、不快で、不快で堪らなくて、気が触れたように黙々と死体を解体していった。
 ……いや、違う。
 死体だけじゃない。死体になりかけの奴らも、随分と解体した。
 たくさんの、人を殺した。

「たすけて……たす」
 足元に縋り付いてきた中年の女を串刺しにする。既に死徒に噛まれている。手遅れだ。
「なんだあの化け物は……! 恐ろしいあの」
駆けよって来た初老の男の身体を両断する。飛び出た腸に気付いていない。こいつも手遅れだ。
 鋼の塊を振り下ろすたび、機械のように呟く。
 手遅れだ。手遅れだ。手遅れ。手遅れ。手遅れ。手遅れ、手遅れ手遅れ手遅れッ。
 どこかに助けることが出来る人間はいないか!?
 一人でもいい、誰か!
「うぅ……」
 当ても無く瓦礫の中を駆けていると、微かな埋めき声を聞いた。未だ炎の燻ぶる家屋に乗り込み、一抱えほどの瓦礫を退ける。
「……ぅ、父さん」
 瓦礫の下から出て来たのは、まだ年端も行かない少年だった。憔悴しきった顔で瓦礫に埋もれているが、奇跡的に目立った怪我はない。
「しっかりしろ。もう大丈夫だ」
 手を差し伸べる。あまりの喜びに一瞬、心が弛緩した。
 ――だからだろうか。
 空気を切り裂いて飛来した黒鍵に気付くのが、半瞬遅れた。
「ぎぃ、ああああッ!?」
 心臓を一撃の元で射抜かれ、男の子が、踏みつけられた蛙のような悲鳴を挙げた。
「アハハ、残念」
「……!?」
 背後から響いた声に振り向くと、そこには天使のような美しい少年が立っていた。一瞬、何が起こったのか解らず呆然とする。
 しかし、それも一瞬。
 第六勘が告げる。コレは人間ではない、と。
「うおおおぉぉぉ!!」
 ――同調、開始(トレース オ ン)!
 虚空より陰陽の双剣を掴み取り、目の前の少年の脳天目掛け、垂直に振り下ろす。剣を向けられた少年は大きく目を見開き、一泊遅れてようやく反応したが、
「わ、びっくりしたな」
それでも易々と、剣を避けた。まるで、重力を無視したかのような跳躍だった。
 殺意に歪む士郎の顔。全身に殺気を漲らせ、間合いを詰めると、少年が慌てて目の前で手を振った。カチカチと、両手の指に嵌められた指輪が高い音を奏でる。
「ちょっと待ってよ。僕はこの件には無関係だ。教会の人間だよ」
「なん、だと?」
 じりじりと焦がすような殺気を放ちながら、士郎が尋ねる。
「そいつはもう手遅れだよ。騙されないようにしないと」
 少年は肩をすくめるとおもむろに、笑いながら絶命した子供の腹を蹴飛ばした。
「ッ……貴様!」
 再び怒りに染まる士郎の顔。相変わらずの微笑を浮かべた少年は、足元を指差す。
 射るような殺気はそのまま、視線を下げる。すると――。
 さっきまで、ぐったりとうなだれていた子供の身体は、夥しい量の灰燼になって、夜の空気に紛れていった。
「な……」
 よろめき、崩れかけた柱に手を突く。すると、
 ぼろり、
 回りの瓦礫が崩れ、ぽっかりと空いた穴の中から折り重なるようにして幾つかの屍が現れた。どれも血を吸われ、肉を食い散らかされている。
「便乗犯かな? どこから紛れたのか知らないけど、今回の感染者なら、この短期間で一端の知能を持つのは難しい」
「な……馬鹿な」
 身体から張り詰めていた何かが消失し、呆然と砂礫の上に膝を突く。
 手にしていた剣が落ち、からん、と乾いた音を発した。
「生き残りは期待しない方がいいよ。今回の汚染は、通常のものとは違う。大本は魔術で産出された『病原菌』による空気感染だ。魔力抵抗が低いと半刻も経たずに発症する」
 灰の塊を足で踏みつけながら少年が言う。その口元は、暗い三日月形に歪んでいた。
 辺りにはあの肉と髪の毛が燃えた臭気……そして、体に絡みつく濃密な霧が充満していた。その霧は、人間の体を構成する油分が熱気に炙られ気化したものだ。
「ところで。あれ、君がやったの?」
 辺りをキョロキョロと見渡していた少年が、士郎の顔を見ていった。膝を突きうな垂れる士郎が通ってきた跡には、まるで足跡のように無数の死徒を殲滅させた痕跡――大量の灰燼が残っている。
「ねぇ。聞いてる? 死徒を殺して回ってたのは君か、って聞いてるんだけど」
 士郎はその問いには答えず、魂が抜けたかのようにうな垂れたままだった。少年が怪訝そうに眉根を寄せる。そして――瓦礫の上に落ちた剣……その美麗な装飾を見て、
「あぁー!」
 突如、声を挙げてその刀剣に駆け寄った。
「なんでこれがこんな所に……。なにこれ。レプリカ? 他にも」
 少年は飛ぶような足取りで――その足は実際に宙に浮いていたが――次々と、周囲に散乱した刀剣の検分を始めた。一つ一つ丁寧に手に取っては、へぇ、とかほぉ、とか感嘆の声を漏らしている。
「これ、君の仕業?」
 戻ってきた少年は、俯く士郎の顔を覗き込むように言った。天使のような顔には悪魔的な笑みが浮かんでいる。
「いいね。これなんか凄くいいよ。僕好み。消えないんでしょ? 面白い能力だねぇ。希少価値高いよ。いや、ホントに」
 くるくると士郎の周りを歩きながら、やたら興奮した様子で話しかける。士郎はゆっくり顔を上げると、睨むように少年を見返し、
「そういうお前は何物だ。貴様はこの灰塵の仲間じゃないのか?」
口元から覗く鋭利な犬歯を見つめ、言った。
「……ん? 仲間? そうだなぁ」
 質問を問い返された少年は、特に気にした風も無く、
「まぁ、近からず遠からず、って言ったところかな。……こんな出来損ないと一緒にされるのは不本意だけど」
「では、何故こいつらを打ち滅ぼしている。いや、そんな生易しいものではない。これではまるで」
――殲滅だ。
 空気が抜けるような声で、士郎は言った。少年が歩んできた道程には、士郎とは比べ物にならないほどの大量の灰燼と、破壊痕が残されている。蹂躙され、瓦礫の山と貸した小さな村。それは、まるで初めからそこが礫地だったかと思わせるほどの。狂騒に包まれた村の中で、そこだけが静まり返り、物音一つしない。
 それは、偏執的な破壊痕だった。
 神経質に一つ一つ、草の根一つ残らず踏み潰したような。ただひたすらに、視界に入る死徒を屠ってきた士郎とは違う。余程の憎しみがない限り、ここまで徹底的な破壊は出来ないだろう。
「まぁ、それが僕の仕事だからね。教会の人間なんだから、当然でしょ。主の命に背くものは打ち滅ぼす、だっけ? いや、まぁ僕は人間では無いけれど」
 冗談めかした口調で言うと、少年は朱色の瞳を細め笑う。
「別に、ワーキング・ホリックってわけじゃない。けど、やるからにはしっかりやらないとね。僕は芸術家なんだ。殲滅戦一つにも美意識を持って」
「――そこにいましたか」
 少年の口上を遮る、落ち着いた女の声。
 顔を上げる。
 すると、崩れかけた三角屋根の尖塔の上に、カソック姿の若い女が立っていた。
 カツン、
 ぼろぼろと崩れる屋根を無骨なブーツで踏みつけ、地上に降り立つと、女は士郎にちらりと一瞥をくれ、
「メレム。あまり長居はしてられませんよ。次は北ヨーロッパです」
 まるで士郎などそこに居ないかのように、目の前の少年に語りかけた。
 少年の顔が不満そうに歪む。
「また? 最近、ナルバッレクの奴、人使い荒くない?」
「文句は移動中に聞きます。そろそろ迎えが来ますから、事後処理はチュートン騎士団に任せて行きましょう」
 短く言葉を交わすと、二人連れ立って歩き出した。しばらくの間、その背中を見つめていた士郎は、
「待て。どこへ行く?」
気づけば、そう声をかけていた。
 その声に、二人の信徒は首だけで振り返り、
「だから、次だよ。ここは目的の吸血鬼は倒したからね」
面倒くさそうに少年が言った。
「次、だと? こんな惨劇が、他でもあるというのか」
 士郎の縋るような視線が、二人を見比べるように動いた。
 先を歩く女の顔が僅かに歪む。
 女は士郎へと哀れむような視線を向けると、そのまま何も答えず歩き出した。
「ん? 『こんな惨劇』? もしかして、吸血鬼狩りは初めてだった?」
「いきましょう。メレム」
 踵を返した少年に、女が冷たい声で先を促す。少年はその声を無視し、士郎へと不審そうな顔を向け、
「あるよ。山ほどある。そうじゃなきゃ、僕達もこんなに忙しく駆け回ったりしてない。今回のやつなんか、村一個で済んだんだから軽いくらいで」
「メレム!」
「何怒ってんのさ、シエル。……僕らはキリスト教圏しか回らない。だから、きっと実際はもっとたくさんあると思うよ。それこそ、毎日のように」
「こんなことが、日常的に?」
 色を無くした声で呟く士郎へと、少年は唇の端を吊り上げるようにして笑う。年齢にそぐわない、酷薄な冷笑だった。 
「そ。日常的にある。それでさ、君どう? うちの組織に入らない? 見たところ、実力は十分だと思うんだけど」
「メレムッ!」
 再度、女が鋭い声で言った。大の男でも萎縮してしまいそうなほどの声量にしかし、少年はさして驚いた様子も無く唇を尖らせ、
「なんだよ。シエル。大きな声を出して」
「彼は教会の人間ではありません。勧誘しても無駄でしょう」
「そうなの? ……そういえば、確かに魔術師みたいだね。着てる服は神父みたいだけど」
 品定めをするように、上から下まで士郎の身体を見回し、口元に手を当てた。そうして、
「けどさ、そんなの些細な問題だ。うちは実力主義だから。どう? 給料は結構いいと思うんだけど」
おもむろに、小さな手を差し出した。
「こっちもこの通り、人手不足でね。初戦でそれだけ闘えれば、合格点だ――個人的に、君の才能にも興味あるし」
 士郎は差し出されたその手を胡乱な瞳で見つめ返し、
「何故だ」
「ん?」
「お前達は聖堂教会の人間だろう……!? 何故、お前達はこんな事態を許しているんだ?」
仇を見るような目で、少年を睨み据えた。
「何故、それだけの力を持っていながら、この惨劇を止められないんだ!」
「……はぁ?」
 怒りに肩を震わせる士郎に、少年は興醒めした、と言わんばかりにため息をつき、
「ちょっと待って。僕達に当たるのなんて、お門違いもいいところだよ。こっちは性悪上司の命令一つで世界中駆け回ってるんだ。責められる謂れなんて無い」
苛立った様子で後頭部を掻いた。
「それだけの組織と力を擁して、何故滅ぼせない。こんな悲劇を、どうして許している!?」
「……何だって?」
 激昂する士郎を、冷たい瞳で見つめる少年の瞳に一瞬、殺意の炎が灯る。しかし、次の瞬間、何か思うところがあったのか、
「……いや。そうか。君、そういう人間なんだ」
何かを思いついたように、少年は唇の端だけを吊り上げ嗤った。
 士郎の目付きが険しくなる。
「……何が可笑しい」
「僕達を責めるんだったらさ」
 士郎の声を遮り、少年が言った。跪く士郎へと顔を寄せ、
「僕達を責めるくらいなら、君がもっと早くから人を助けて回ればよかったじゃない」
その耳元で、粘つくような優しい声で囁く。
「……なに?」
「こんな悲劇が起こる前に。みんなを助けて回ってやれば良かったじゃない。出来るでしょ? 君ならさ。こんな雑魚、いくら相手にしたって平気だ。僕たちを頼らなくなって、出来ただろう?」
「俺は……」
 その言葉に、士郎は声を失くした。その顔色は、怒りの赤ではなく、焦燥の蒼白に変わっている。
 自己の精神を守るため、武装した怒りの感情。その装飾が剥がれ、身を刻むような強迫観念が士郎を追い詰めていく。
 細かく震え出した士郎を前に、少年は弛緩しそうになる顔を平静に保ち、
「力を持っているのに何もしないのってさ。見殺しにするのとどう違うの?」
「見殺し?」
「そうだよ」
尋ね返した士郎に、少年は、天使のような顔に悪魔の笑みを浮かべ、言った。
「君は、今まで何もしないことで殺してきたんだよ。たくさんの人間達を」
「……ッ!」
 固く封じ込めていた罪の意識が溢れ出し、意識を覆い尽くす。脂汗を流し、苦しげに顔を歪める士郎を見つめ、悪魔は言った。
「否定的な選択により人を殺してきた君が、それで僕達を攻めるなんてあんまりだ。ましてや、僕達みたいな人の枠を外れた化け物をね」
 悪魔は言う。
 助けられる命を、消極的な選択により救わないことは、殺人に等しいと。無知は罪。ならば、世界中で起きている悲劇を知ろうともせず、ただ世界は平常であると、不幸の絶対量は幸福の絶対量と等価であるなどという幻想を、心の底から信じていた救えない愚か者は誰だったのか。
「力あるものに責任があるというなら、君がその責任を果たせばいい。人間である君が。違う?」
「う……俺は、」
 士郎を責めて居るのは、もはや目の前の少年では無かった。
 それは、いつも見て見ぬふりをして、誤魔化してきた内なる自分の声だった。溢れ出したそれは大河のように精神を激しく急き立て、責め立てる。
 子供の頃、ある人と約束した。正義の味方になると。この身は誰かの為にあると。それが、自らが存在してもいい唯一の理由と信じていた。
 六年前、日本のある小さな街で起こった、戦争という名のデスゲーム。そこで士郎は、ある一つの決断をした。
 それは、それまで縋りつくようにして選んだ生き方を真っ向から否定する選択だった。ある、一人の女の為に生きるという、夢のような願い。

 ――そうして、辿り着いたのがこの様だ。
 守ると誓った女は毎夜のように泣き晴らし、大切なモノは砂のように手の中から零れ落ちて行く。
 誰一人として幸せになどできず、その愚かな選択により、救えたはずの命を怠惰に見殺しにしてきた。

 錬鉄の騎士は予言した。

『おまえが今までの信念を守るのならそれでいい。だが―――もし違う道を選ぶというのなら、衛宮士郎に未来などない。衛宮士郎は、今まで人々を生かすためにあり続けてきた。その誓いを曲げ、一人を生かす為に人々を切り捨てるのなら』

 ――その罪(つけ)は、必ずおまえ自身を裁くだろう。

 呆然と雨の中をさ迷い歩いていると、細い声がした。
 急いでその声のした方へと駆け寄る。重たい瓦礫を退かすと、そこには女が横たわっていた。
 腹が大きい――妊婦だろう。
「大丈夫か」
「う、ぅ……」
 女は苦しそうにもがくも、屍鬼に噛まれた後は無い。
 思わず、歓声の雄たけびが震える喉から迸った。
 ようやく、一つの命を救えた。
 その歓喜に打ち震える。
 ――切継、あんたが救われたと言ったのは、このことだったのか。
 心から、神と言うものに感謝した。それは、彼にとっても救いだったのだ。
 苦しそうな女へと手を差し出す。
 すると、すぐ近くで鋼を打ち合わせる音がした。
 首を巡らせると、取り囲むように布陣を展開する、騎士団員たちの姿があった。数人が駆け寄り、士郎を無視して女の身体へとガソリンをかけ始める。黒服の神父は聖書の文言を一心不乱に読み上げ、歩み出た騎士が木製の十字架を女に抱かせた。
 騎士たちは、この女も火にくべようとしているのだ。
「貴様ら……!」
 ぎり、
 噛み合わせた歯が軋み、音を立てた。
 このおぞましい戦場において、正常な思考を持った人間など居なかった。誰も彼もが狂騒的に、妄信的に、排他的に、自身が生きるために他人を殺す。
 いったい、どちらが人々の良心(神の教え)に背く化け物か。
「助けて……子供が」
 女が呟く。

『士郎さん。駄目みたい。私、子供が出来る身体じゃ――』

 その声が、聞きなれた女のそれと重なる。
「黙ってみていろ。すぐに終わる」
 三人の騎士に身体を羽交い絞めにられた士郎に、神父は言った。
「その女も火にくべるのか。腹の中の子供ごと――!
 響く怒声に神父は眉一つ動かさず、
「そうだ」
 士郎は背後から腕を押さえていた騎士の身体を蹴り飛ばし、神父の顔に拳を叩きつけた。
 取り囲んでいた輪が広がった。騎士団へと投影した剣を向け、震える声で呟く。
「殺させはしない」
 跪き、横たわる女の身体を掻き抱き、言った。
「もう俺の目の前で、誰も殺させはしないぞ……!」
 騎士達は動かず、殴り飛ばされた神父さえも何も言わず、じっと士郎を冷たい瞳で見つめている。
 薄く空を覆っていた雲から、雨が降り出した。
 誰も動かず、誰も何も喋らない。
 どれだけの時間が経っただろう。数秒か。あるいは数分か。不意に小さな声が聞こえた。
「助けて。……子供が――私の……」
魘されるように呟く女の声。
 士郎は耳元に顔寄せ、大丈夫だ。お前も子供も必ず助ける、と囁き返す。
 しかし、女は激しく首を振ると、再び何言かを呻いた。
「助けて。子供が――私の……を――べて、る」
「なに?」
 士郎が女の口元に耳を寄せる。
「助けて」
 そうして、ようやく士郎は、女が何を呟いているのか、知った。

 ――助ケテ。
 腹ノ中ノ子供ガ、私ノハラワタヲ、食ベテル。

 瞬間、怖気が体中を駆け上り――。
 女の腹を割いて、犬歯を剥き出しにした胎児が飛び出した。
 犬歯を剥き出しに胎児は、士郎の首筋目掛けて飛び掛り、士郎は間一髪、それを叩き落とす。
「……ッ、ば、かな」
 荒い息を突く士郎を取り囲む、騎士達の輪が狭まった。
「お前のせいだ」
 口々に、騎士達は言った。
「お前が止めなければ、こんな悲劇は起こらなかった。産まれるはずの無かった命を、誕生させてしまった」
 次々と呪いの言葉を吐き付ける。
 顔を殴られた神父は言った。
「お前がこの子供を産まれさせた。神に祝福されない、呪い子を――。お前自身の手で引導を渡せ」
 胎児は、金切り声を上げながら、草の上を駆けずり、再び母親のハラワタを貪り始める。
 ぼりぼり、ぼりぼり、と。
「――ッ!」
 士郎はゆっくりと、その前に立つ。

 ――同調、開始。(トレース オ ン)

 重たい水袋を叩いたような感触。
 振り下ろした刃が斬り裂いた感触を黙殺するのは、思っていたよりも簡単な作業だった。









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