Fate/4





「正義の味方に、なってください」
 思い悩む俺を見て、彼女はそう言った。
 暑さが和らぎ、少し肌寒くなった季節だった。よく晴れた日の朝早くに、彼女はそう言って、少し疲れた顔で笑った。
「ライダーのことなら、心配しないで。私がちゃんと話をしておいたから」
 無理して作った笑顔。久しぶりにまじまじと見た妻の顔は、よく見れば焦燥の色が濃く出ていた。
 待ってくれ。
 そう言って掴んだ腕は記憶よりも細く、頼り無かった。
彼女がそっと目を逸らす。
 思わず言葉を忘れた。
 よく食べるとからかっていたはずの彼女が、すっかりやつれていた。鉄の塊で頭を殴られたような気がした。気づかなかった自らの心無さに愕然となり――もう限界なのだと思った。
「疲れたの。あなたといるのが。もう、耐えられない」
 その言葉が、全てだった。
 もう何を言い繕っても意味はないのだ、そう思った。
「さようなら、衛宮先輩……そして、ごめんなさい。あなたを、縛り、こんなにも苦しめて」
 三年間を連れ添った伴侶が最後に告げたのは、謝罪の言葉だった。
 これまで築いてきたものが、音を立てて崩れていく。歪みをそのままに組み上げた積み木が、もう修正のきかないところまで積み上げられたそれが、ふとした瞬間――いや、予兆はあったのだろう。あったが、気づけなかった。……気づかないふりをしていた。

 それから後、一度落とした剣を拾い上げ、俺は正義の味方になった。多くを救い、多くを殺した。その先に待つ結末は、考えなくても解っていた。

 そして――。

 衛宮士郎はあの赤い背中と同じ場所で最期を迎える。
 煙るような雨の中、動かない身体で見上げた空は重たく、まるで泣いているようだった。
 時間や場所、細かな差異はあっても、それは同じだった。あの背中と同じだった。だが、救われてもいたのだ。結末が解っていて、どうしようもないほど足掻いたのに、それでも同じ結末を迎えたということは、それは始めからどうしようも無かったということだ。あの赤い外套の騎士は、間違った選択の末に最期を迎えたわけではなかったのだと。そもそも、始めから、衛宮士郎はどうしようも無かったのだと。そう結論付けて、瞼を閉じた。

 同じ人生に、同じ結末を歩んだ二人の男。
 違ったのは――その最期に、予想外の続きがあったということだけ。
 それは契約を交わす相手が、世界であるか悪魔であるか、その程度の差異ではあった。決して恵まれていたとは言えない不運な人生を送った男が迎える結末を知る者は、未だ存在しない。

 ――お前に殺して欲しい者がいる。

 黒く変色した血の海の中で、月蝕姫と呼ばれる少女は囁くように言った。

 ――心配することはない。お前はすぐに気づくだろう。その殺人が、自らの望みそのものであると。

殺人を望んだことなど無かった。欲望のままに人を殺したことなど無かったはずだ。だから、それは思いも寄らない宣告だった。

 ――契約の期限は、

 しかし、どうしてだろう。その宣告を受け入れたその瞬間、心が少し軽くなったような


「ッ!?」
 目を開くと視界一面に広がる白一色。前後不覚のまま浮遊感に襲われ、咄嗟に両手両足を突っ張ると、ぎしり、金属のスプリングが軋みを上げた。
 ここは、と自問して白い箱の中をぐるりと見回すと、僅かに開いたカーテンの隙間から射し込む強い陽射しにぎょっとなる。反射的に一歩、手を突いて後ろに下がり――そこでようやく気が付いた。
「生きてる……のか」
 自分の名前と記憶を取り戻し、衛宮士郎は簡素なベットに深く身体をあずけた。ゆっくりと強張った身体から力を抜いていく。
 白いコンクリートの壁と、辺りに漂う薬品の匂い。耳を澄ますと、鋭敏な聴力は建物内を歩いている人の足音、話し声を拾ってくる。あまり広くない建物と、寝心地が良いとは言えない簡易ベット。聞き慣れない異国の言葉にしばらく耳を澄ましていると、ここがケミ郊外にある医療機関であることが知れた。恐らく、市街の病院は先の戦いにより酷い有様で、ここに仮設の治療所を設けたのだろう。
 先の戦い――。そう。あの『聖杯戦争』の影響で。
「――くそっ」
 弱弱しい声で呟き、両手で顔を覆う。
 自ら両断した死徒たちの、あるいは救えなかった町の人々の顔が脳裏に浮かんでは消えていった。
「俺は、失敗したのか」
 不思議と悔しさは無かった。心は空っぽで、何もかもが伽藍堂。しばらくして、響くように浮かんだ感情は、どうして自分が生きているのか、という八つ当たりにも似た静かな怒りだった。
「俺は、確かに黒騎士の刃に貫かれたはずなのに」
 切り裂かれた傷は、肺にまで達していた。……いや、人工衛星も一太刀で両断する黒騎士の刃ならば、完全に身体を両断されていただろう。普通に考えれば、無事であるはずが無い。
 手さぐりに身体の具合を確かめると、ほとんど痛みは残っていなかった。ただ精神が磨り減り、表面がざらざらと粗くなっている気がした。もちろん、触って確認することなど出来ないのだが。
「……アルトルージュ・ブリュンスタッドの契約の力か?」
 静かに自問する声は、誰にも聞こえないほど小さく。
 月蝕姫と結んだ契約の条件は、「死に瀕した肉体の再生」であった。
 最初の一度きりのものだと思っていたが、どうやら『契約』が続いている限り有効なものらしい、と推論付け――あの忌々しい『契約』が未だ破棄されていないことに気付き、頭を抱えた。
「当然か。俺はまだ対価を払っていないんだからな」
 少しずつ吸血鬼化の進んでいく身体。それは、士郎の身体を少しずつだが確実に蝕んでいく。今ではとうとう、陽の光の元を歩くことも難しくなった。
 口に浮かんだのは、自嘲の笑み。こんな姿になっても生き永らえている己を嘲笑う暗い笑みだった。
 鋭角に射し込む陽の光を忌々しげに見つめ、視界のすみでパタパタと動いているものへと視線を移す。ハンガーに掛かったぼろぼろの外套が、窓から吹き込む風に揺られていた。
「あるいは――。こいつのおかげか」
 じっと見つめていると、思わず声が漏れた。
『マルティーンの聖骸布』
 今では汚いぼろ雑巾のようにしか見えないそれは、『魔力殺し』の効果を持つ。
 外的損傷には極めて脆弱であるが、魔的外傷の保護に関しては一級の概念武装。実体を持たない第六架空元素を操る黒騎士の『魔剣』でも、その概念までもは貫くことが出来なかったと見える。
 かつて、若かりし頃に忌み嫌った、地獄のような苦悩を背負った男が残した置き土産――。
 士郎には、あの男が「お前にまだ地獄は早い。もっと苦しみ抜け」そう言っているような気がしてならなかった。
「はっ、あいつなら本当に言いかねないな。まったく」
 身体にかけられた白いシーツを手繰り寄せると、白い病人服の隙間から覗くボロボロの包帯が見えた。どこかで見た自分と同じ赤色の外套に、惹かれるように手を伸ばす。胸の中を様々な感情が駆け巡り、息が出来なくなった。
 鋭敏な鼻孔に触れる、微かな残り香。もう戻れない、懐かしくも遠い日々。
「……さすがに、今度は殺されても文句は言えないな」
 呟いた声は、ただ悲しみの色に滲んでいる。

 昨夜から続く細く長い雨が、霧のように煙っていた。
 黒の袖のない外套(クローク)を頭からすっぽりと被った人影は、濡れた石畳の上を駆け、降り続く雨を避けるように喫茶店の軒下に逃げ込んだ。
 浅く息を吐きつつ、周囲へと視線を彷徨わせる。その所作は逼迫しており、まるで逃亡者のようだった。足取りは酷く頼りなく、危なっかしい。
 軽く袖のない外套(クローク)を摘み、水滴を振り落とすと、「CLOSE」と書かれたプレートを見つめ、頑丈な濃い樫色の扉に手をかけた。
「ただいまー……」
 カラン、と入り口の鐘が涼やかな音を立てる。空調の効いた店内に入ると、思わず安堵の息が漏れた。ふらふらとした足取りで一番奥のカウンターへと歩み寄ると、倒れこむように腰掛ける。
「……ライダー。居ないの?」
 息も絶え絶えといった様子で奥へと呼びかけると、静かに奥の住居部分に繋がる扉が開いて、エプロン姿の長身の女性――ライダーこと『英霊』メデューサが顔を出した。
「ああ、リン。無事でしたか」
 どこか冷ややかな口調で言って、カウンターの中を回って凛の前に立つ。
「何か飲みますか?」
「あの、気持ちは解るけど、もう少し暖かく迎えてくれてもいいんじゃない?」
 凛が言うと、ライダーはふん、と小さく鼻を鳴らし、
「今回は事前に連絡を貰っていましたから、驚くようなこともありませんでしたし。私にそのような反応を期待するのもお門違いというものです」
 冷たい声で言って、凛の返事も聞かずにサイフォン式のサーバーのスイッチを入れた。
「しかし、どうして今回に限って連絡を? 何度言っても学んでくれないので、もう諦めていたのですが」
 棘を含んだ言葉に、凛が気まずそうに小さく身じろぎする。
「今回は事情が事情でね。万が一にでもあの子と鉢合わせなんてことになったら困るっていうか……」
 曖昧に言って、視線を逸らした。ライダーは、はぁ、と大仰に溜息を吐き、
「まったく。今度はどんな厄介ごとを持ち込んできたのですか」
「まぁ、それについてはおいおい。うぅー……疲れた。もう駄目」
 呟くように言うと、凛はよろよろと立ちあがり、頭まですっぽりと被っていたクロークを脱いで隣の椅子にかけた。
 ライダーの眉が僅かに寄る。
「コート、預かりましょうか?」
 尋ねると、凛が片手を挙げてひらひらと振る。必要ない、ということらしいが、ライダーとしては濡れたコートを他の客が座る椅子の上に置かれるのが少々気になるようで、しばし無言でテーブルの上に突っ伏した凛を見つめていたが、それより、と顔を土砂降りの雨が映る窓の外へと向けた。
「朝、電話があった時はびっくりしましたよ。いきなり、桜に気取らないように店を閉めて欲しい、だなんて」
「ゴメンね。それで、肝心の桜は?」
「出かけてもらっています。夕方までは戻らないでしょう」
 いつもの平坦な調子で言って、ライダーは視線を店の扉の方へと向けた。しばし無言で居たが、ところで、と前置きして、
「外に居るのは何です? 可笑しなものをこの店に連れ込む気だと言うなら、凛相手でも容赦しませんよ」
じろり、と凛を睨む。
 凛が乾いた笑みを浮かべる。頬杖を突くと、同じく窓の外の方へと向き直るように身体を捻った。袖の下から白い包帯が覗く。
「相変わらず、容赦ないわね。けど、今日は間違っても争うような真似はしたくないの。とんでもない化け物連中とドンパチやらかしたばっかりで、気力も体力も預金残高もすっからかんなのよ」
 僅かに腰を浮かせ、
「こんなハードな旅はもうこりごり。もう今生きてるのさえ不思議なくらいで――ほら、何やってるの。遠慮しないで入って来なさいよ」
頑丈な造りの扉の向こうで待つ人物へと声をかける。すると、からん、とドアベルが涼やかな音を立て、扉が開いた。
「いいんですか?」
 薄く開いた入口の扉の向こうから響く声。躊躇った様子の細い声に、ライダーの眉が素早く寄った。
 その凛とした声音を、いつかどこかで聞いた様な気がした。
 扉が開く。
 入って来たのは、凛と同じ黒のクロークを羽負った少女。その姿に、ライダーの瞳が眼鏡越しにもそれと解るほど、大きく見開かれた。
「貴女は……まさか」
 羽負っていた野暮ったいクロークを脱ぐと、金砂のような細い髪が流れた。清廉可憐にして圧倒的な存在感。かつて刃を交えたこともある英傑を前に、ライダーが開いた口をぱくつかせ、
「どうして、彼女がここに」
呻くように言った。
「ちょっといろいろあってね。あ、珈琲二つ。セイバーもそれでいいわよね?」
「出来れば、私は緑茶を」
 ライダーはしばし呆然とした様子で二人の様子を見ていたが、目を合わせた凛が苦笑するのと同時に我に返った。じっと考え込むような間をおいて危険性が無いことを見てとると、溜息を吐きつつ、緑茶の缶を取りに居住スペースへと消える。
 どこを見るともなしに店内を見回していたセイバーは、クロークの置かれた凛の隣の席からもう一つ、間を空けて座った。丸椅子を回転させ、ゆっくりと店の内装を見まわしながら、
「良い店ですね」
それだけ言って、すっと濃い樫色のカウンターテーブルの木目をなぞる。その翠緑の瞳は揺るぎなく、心の奥底を見通すことは出来ない。
 しばし、訪れる沈黙。じっと雨の降り続ける外の景色を眺め見る。もうすぐ初夏と言ってもよい季節だというのに、外はまだ肌寒く、しとしとと雨が降り続いていた。
 住居部分から戻ってきたライダーがお茶を煎れて、セイバーの前に置いた。
 言葉も無くそれに手を付けるセイバーに、カップを磨いていたライダーが、思いだしたように言った。
「士郎は来ていないのですか?」
 しん、と静寂が店の中を満たした。サイフォン式の珈琲メーカーがポコポコと音を立て、外のアスファルトを叩く雨が強さを増したような気がした。
「凛?」
 訝しげなライダーの声に顔を上げると、じっと見つめるライダーの戸惑った顔があった。
 凛は僅かに視線を落とし、言い辛そうに一度口を開き、
「士郎は」
 そこまで言って、唇を噛んで俯いてしまう。
「……っ!」
 ライダーが荒々しい所作でカウンターの上にカップを置いた。
「凛。答えて下さい。士郎は……」
「落ち付きなさい。メデューサ」
 涼やかな声音がその場を静める。ゆっくりと目を開いたセイバーは、視線を強めるライダーを正面から見つめた。
「彼のことについては、私から話しましょう。……私では少々、説明不足な点があるかもしれませんが」
 そう前置きして、セイバーは訥々と、今回の出来事を話し始める。それは、大部分がこの冬木市までの道中、凛がぽつりぽつりとセイバーに語ったものだ。
 都合の悪い一部のシナリオを排したそれは、セイバーの口から放たれる度に、凛の胸を罪悪感という名の刃が抉り取る。俯き、じっと唇を噛み締めながら、凛はつい一週間前の出来事を思い出していた。
 あの忌々しく恐ろしい、北欧で起きた聖杯を巡る戦いの終幕を。


 セイバーが円形闘技場に辿りついた瞬間、目の前で真っ赤な大輪の花が咲いた。全身を斬り裂かれ、噴水のように血を噴き出す士郎。
 その身体が、ゆっくりと屑折れ、地面に倒れ伏す。
「貴様――!」
 セイバーは掛ける足をそのままに剣を抜き放ち、黒騎士に向かって斬りかかる。しかし、刃についた血糊を払った黒騎士はセイバーに背中を向けると、低く押し殺した声で言った。
「私を追っていいのか?」
 その声に何かを感じ取ったセイバーが足を止める。睨むように幽鬼のような男を直視し、唇をわななかせた。
 男はその苦悩が凝り固まったような顔を不機嫌そうに歪め、
「私を追えばその男は助からないぞ」
吐き捨てるように言って、細い顎で倒れ伏した士郎を指した。
「何だと?」
「騎士の端くれとして、騎士王を冠する貴様と手合わせ願いたいというのも本音ではあるが、今はその時ではない。刃を納めよ」
 陰鬱な声で言って、表情を硬くするセイバーを一瞥し、薄く嘲笑の笑みを浮かべた。
「そも、英霊といえど今の貴様では私の相手は役者不足だ。……宝具も使えぬ状態では十全の力を振るえまい」
「……!」
 言葉を失った騎士王を流し見ると、黒騎士はその黒の籠手を鋭く宙へと突き出した。
 ザン、
 虚空を斬り裂く魔剣の一振り。
 たったそれだけの所作で、幾重にも斬り裂かれた円形闘技場(コロッセオ)は、バターのようにその巨体を崩し、雪崩となって吹き抜けの洞穴に崩れ落ちる。
「凛! 危ないっ」
 セイバーは、蹲る凛に向かって叫んだ。
 凛は倒れ伏した士郎を抱えたまま動こうとせず、その頭上めがけて巨石が降り注ぐ。駆け付けたセイバーの風の槌が、辛うじてそれを粉砕することに成功した。二人を抱えて安全圏まで脱出すると、遠く祭壇へと消える黒騎士の背中が見えた。
「我が主は次の舞台を用意しておられる。どうしてもというのなら、そこで殺してやる」
 耳をつんざくような轟音の中、陰鬱な声が、セイバーの耳朶にはっきりと響いた。
 その背中に向かって、セイバーが鋭く具足を鳴らす。
「貴様……! 騎士を名乗っておきながら、敵に背を向けるのか!」
 声を荒げ問うセイバーに応えを返すこと無く、黒騎士の身体が奥の祭壇へと消えて行く。
 セイバーはそれを追うかどうか迷い――。結局、凛の元に駆け戻った。
 戻ると、凛がこん睡状態の士郎を抱き起したところだった。
 士郎は胸を横一文字に斬り裂かれており、その傷は背中にまで達していた。明らかに致命傷だ。
 セイバーは緩く首を振ると、繰り返し士郎の名前を呼ぶ凛の肩に手を置く。
「……セイバー」
泣き出しそうな少女のような顔が、セイバーを見上げた。
「どうすれば。わたし」
「まずは落ち着いて。リン。士郎の傷は通常なら致命傷に達しています。普通の治療方法では駄目だ」
「普通の? それはどういう」
 戸惑った様子の凛に頷きを返し、
「幸か不幸か彼は半吸血鬼化しています。他者の血液を与えれば、あるいは復元呪詛が働くかもしれません。……どこからか血液を確保してくることが出来れば、あるいは」
 彼を助けることが出来るかもしれない、そう苦しげな顔で言った。凛はその言葉にしばし呆然としていたが、
「そう」
 躊躇いもなく左腕に腰元の短剣を当てると、流れ出した鮮血滴る傷口を士郎の口元に充てがった。セイバーの翠緑の瞳が大きく開く。
「凛、なにを――!」
「何って、血をあげてるのよ。……このまま見殺しにするわけにもいかないでしょ」
 言葉だけを聞けばそれは落ち着いた口調だったが、彼女の目にはこみ上げる様々な感情が溢れ、今にも零れ落ちそうになっていた。視線に余裕が無い。
「駄目だ! 貴方は自身の血液だって足りてないでしょう! それ以上やれば命にかかわる」
 肩を掴むと、リンは意識が薄れたのか、焦点の合わない瞳でセイバーを見上げ、
「それでも、ここでこの馬鹿を見殺しにするよりは、マシよ」
浅く呼吸を吐き、肩を上下させながら言った。
 セイバーはその蒼白な顔をじっと見つめていたが、ここで止めても聞かないだろうと判断すると、小さく息を吐き、
「貴女のその思い切りの良さには敬服します。リン」
 凛の傍にしゃがみ、セイバーもまた、自らの腕に抜き放った不可視の刃を当てた。
「セイバー」
 凛は驚いたようにセイバーの顔を見つめた。
 清廉にして気高い志を持つ彼女は、吸血鬼と言う怪物を嫌うだろうと思っていた。
「私の血は普通では無いので、どれほど効くかはわかりませんが」
「……いいの? 士郎は吸血鬼なのに」
きょとんと見つめ返す凛に、セイバーは咳払いを一つすると、
「騎士の誓いに偽りはありません。私は貴方達とともに戦い、聖杯を手に入れる」
「セイバー……」
「ただし、貴女が気を失ったらすぐに、貴女たち二人を連れてここを脱出します。……どうやらたくさんの者達がここを目指して進んでいるようですから」
 戦況は既に結した。今や聖杯の気配も、悪霊の棲む森(ヒートラ)の気配も消え失せている。極めつけは、あのガイアの怪物の気配が消えたことだ。既に祭壇はもぬけの殻となっていることだろう。
 流れる血液を士郎の口腔に注ぎ込みながら、凛は力なくほほ笑んだ。
「……ありがとう。セイバー」
 凛は、それから一分も経たずに気を失った。


 セイバーは、倒れる凛と士郎を担いで、ケミの郊外、深い森の向こうまで走った。夜明けを待ち、近くの町から駆け付けた医療団に話をつけ、治療を行う。吸血鬼化した士郎を任せることは出来ないので、看護は凛とセイバーが交互に行った。それに、士郎の吸血鬼化の進行具合によっては、目覚めてすぐに近くの患者を襲わないとも限らない。凛は絶対安静だったので、部屋を同室にしてもらうことで監視することが出来た。
 三時間ほどの仮眠をとったセイバーが、夜明け前に目を覚まし、病室というにはあまりにも簡素な仮設テントの中に入る。
 ベットの脇には、横たわる士郎の顔を覗き込む凛が居て、
「リン?」
 不快な匂いに近寄り覗き込むとと、凛が士郎の口腔に自身の腕を押し当てていた。
「何をやっているのですか!? リン!」
 短く息をのんだセイバーが、すぐにその腕を取り、士郎の口元から離す。虚ろな瞳を見つめ、言った。
「今の士郎は意識がない。いつ吸血鬼として目覚め、貴女に喰らい付くとも限りません。噛まれれば、貴方も吸血鬼になるのですよ……!?」
 厳しい口調に、凛は浅く息を吐き、
「そうね。けど、大丈夫よ。大分気分が良くなってきたから」
 青褪めた顔で言って、額を押さえた。
「……セイバー?」
 凛が顔を向けると、目の前には背を向け口元を抑えるセイバーの姿があった。何やら様子が可笑しい。どこか苦しげに胸を押さえている。
「どうしたの?」
「すみません。――その。今の私には、その匂いはあまりにも刺激が強過ぎるのです」
 そう言って視線だけを向けると、悔しげに唇を歪める。その口元には、白く光る鋭利な犬歯が覗いていた。
「まさか、貴女」
「浅ましいと蔑んでもらって結構です」
 静まり返った夜のテントに落ちる静寂。
 凛は何も言わず、硬い表情で死人のように眠る士郎の顔を見つめていたが、やがて独り言のように呟いた。
「前にね、士郎が言っていたの。『他人の命を奪わなければいけないなんて、なんて浅ましい生き物だ』って。本当に心から侮蔑しきったみたいに。私は、それは士郎なりの正義感なのかと思っていた。けど、士郎はその時には、もう吸血鬼化が進んでいたのよね。どういう気分で、こいつはそういう言葉を言っていたのかしら」
「リン……」
「もっと早く気付くべきだった。あの真祖の姫と対等に斬り合っていた、あの時点で――」
 悔しげに顔を歪めると、強く強く拳を握りしめた。
 静寂の中、凛の苦しげな声がテントに響く。
 二人は士郎の傷が快方に向かったのを確認すると、消えるようにこの地を去った。

 普通なら絶対安静の重傷を負う凛を連れ、陸路を使って何とか日本まで辿りついたのが、つい今朝方のこと。
「そうですか。士郎が吸血鬼に……」
 ライダーは呻くように呟いて、そっと瞼を閉じ、胸に手を当てた。彼女の主のことを慮っているのかもしれない。しばし、噛み締めるようにじっとしていたが、ぽつり、と零すように言った。
「だから、ここに帰って来ることが出来なかったのですね」
「どういうことです?」
「……貴女もその内、解りますよ。騎士王」
 意味深な言葉に、セイバーの顔が強張る。
「しかし、どうして陸路を? ……まさか、その身体で身銭を惜しんだということは無いでしょうね」
「冗談言わないで。そこまでケチじゃないわよ。私……」
 辛そうに頭を抱え、凛が言った。ライダーは疑うようにじっと凛を見つめ、
「では、何故」
「危険だからですよ。凛は報告を求めた魔術協会の呼び出しに応じませんでしたので」
 凛の代わりにセイバーが答える。
 魔術協会は、ことが終わってすぐに、凛をロンドンの時計台へと呼びつけ、事態の報告をさせようとしたが、凛はこれを拒否した。
 呼び出しに応じなかったのには彼女なりの理由があったのだが、協会側は凛が手に入れた秘宝を一人占めするつもりなのだと判断し、封印指定の執行者にまで手を回し、血眼になって姿をくらました凛の捜索を始めた。今回の件は宝石翁が後ろ盾になっているはずだが、事が「聖杯」そして、「根源の渦」に関わることとなると、それどころではないようだ。
 確かに客観的に見れば、凛が得られた成果を持ち逃げしたように見えるだろうが、本当に魔術師が『聖杯』を手中に収めたなら、この世界に残っているはずがない。根源の渦を通って絶対無敵の世界に行っている。
 協会を牛耳る枢機卿たちの本音が、別の所にあることは容易に想像がついた。凛も、それが解ったからこそ求めに応じなかったのだ。
「海路は逃げ場が無くなるから北欧からロシアを経由して。あそこは魔術協会も聖堂教会も影響力が強くないから、何とか切り抜けて来れたわ」
 逃亡中の苦労を感じさせる声で言って、凛がカウンターの上で組んだ腕に顔を埋める。
「だから、そんな野暮ったいクロークを着込んでいると言うわけですか。納得しました。しかし、よくその身体でここまで辿りつけましたね」
「セイバーのおかげよ。……私だけなら、ケミの町を出ることも敵わなかった」
 事実、凛は歩くことさえままならない状態だった。そんな彼女が日本まで帰り着くことが出来たのは、隣に座る英霊の、人知を超えた力に他ならない。
 カチャ、
 ライダーの手元の食器が乾いた音を立てる。
 訪れる沈黙。やがて、重たいそれを破るように、ぽつりとライダーが言った。
「聖杯は、どうなったのです?」
「……わからない。けど、聖杯の反応はこの世界から消え失せ、その後は何の音沙汰も無いみたい。どこも所在を掴みきれてないようね」
 凛の答えに、ライダーは落胆のため息とともに、そうですか、とだけ言った。
 彼女も、かつては自身の望みを叶えるべく、大聖杯の求めに応じ、サーヴァントとして戦いに身を捧げた身である。いろいろと思うところもあるのかもしれない。
「それで、貴方達はこれからどうするつもりです?」
「聖杯を取り返しに行くわ」
 一切の間を空けず、強い口調で凛が言った。
「取り返しに行く? 聖杯の反応は消えたのでしょう?」
 訝しげに尋ねるライダーに向かって、大きく頷きを返す。
「確かに反応は消えた。……けれど、聖杯はまだこの世界のどこかに留まっているはずよ」
「……どういうことです?」
「私がここにこうして居ることが、聖杯がまだ消えていないことの証明になるのです」
 隣に座るセイバーが、自身の胸に手を当て言った。
「彼女は、世界によって呼び出された特別な客人(まれびと)よ。聖杯を手に入れ、願いを叶える場所に彼女は招かれる。願いが叶わないとなれば、次の場所へ移動することになるはず。その彼女が、ここでこうして居るということは――」
「聖杯は、まだ消えていない」
引き取ったライダーの言葉に、凛は大きく頷いた
「……となれば、聖杯は死徒の姫の元ですか。一筋縄でいくとは思えませんが……。そもそも、どうやって彼女たちを追うのです?」
「これが頼りね」
 ライダーの問いに、凛はゆっくりと包帯の巻かれた腕を持ち上げた。その視線は、包帯で覆われた自身の手の甲に注がれている。
 これは? とライダーが視線で尋ねると、凛は薄く口元を笑みの形に歪めた。
「ありがたいことに、お姫様は下賤の者にも宝を手に入れるチャンスを与えようって言ってるのよ。それが、これ」
 言って、腕に巻かれた包帯を解く。その下から現れたのは、赤黒く蚯蚓腫れのように刻まれた、その意味さえ解らぬ文字のような図形――。
「北欧での戦いが終わった時、あの森に居た全員の身体にこの『聖痕(スティグマ)』が現れたようなのです」
 言いながら、セイバーもまた腕を掲げる。その手にもまた、凛と同じ傷跡が浮かび上がっている。
 ライダーが息を飲む気配がした。
 膨大な魔力による自己治癒能力を持つ彼女が、その程度の傷の修復に何日もかかるはずがない。
 その傷跡は、まさしく何らかの神秘によってつけられたものである可能性が高い。
「そして――私たちは夢を見ました」
「夢の中で、あの月蝕姫(アルトルージュ・ブリュンスタッド)は言ったわ。もう一度、聖杯戦争(ゲーム)に参加しないか、ってね」
 セイバーの言葉を引き取って、凛が言う。
「勝者には願いを叶える権利が与えられるそうよ。どういうことかはさっぱり解らないけど……。夢の中のアルトルージュの顔を見る限り、不測の事態が発生したことは間違いないようね」
 そういう凛の唇には不敵に笑み、瞳にはぎらつく希望の光が宿っている。
 まだ望みはついえていない。
 そう言っているようだった。
 ライダーは少し戸惑ったように目を白黒させると、
「月蝕姫の顔を見る限り? どういう表情をしていたのです」
「怒っていました。ものすごく」
「はぁ……。よく解りませんが、その『聖杯戦争』に参加する資格を持つのは、その時に儀式の行われた森に居た人間ではないと駄目だ、と。そう言うことですか」
「そうでもないみたいよ? あの場にはとても戦いに参加できるような状態じゃないのも居たし。そういうのは、他人に権利を譲渡することが出来る見たい。……魔術協会が執拗に私を呼び出そうとしているのも、それを奪い取るのが狙いでしょ」
 凛の言葉に、ライダーはようやく合点が行ったというように頷き、
「話が見えてきました。つまり、身体のどこかに聖傷(スティグマ)の入った人間と交渉し、権利を譲ってもらう事が出来れば、その戦争に参加できるわけですね」
「そういうこと」
 出された珈琲カップを受け取った凛が大仰に頷きを返す。ライダーは口元に手を当てると、考え込むように視線を彼方に向け、
「そうして、士郎を連れ戻すには、聖杯を手に入れて死徒化を解呪する必要がある、と」
「そういうこと……ん?」
 調子よく頷き、砂糖を入れたカップをかき回していた凛が、違和感に顔を上げる。そこでようやく、ライダーが凛ではなく、別の場所を見ていることに気付いた。
「だそうです。どうしますか?」
 いつも落ち着いた様子のライダーにしては大きめの声。同時に、店の扉が開き、
「そうね」
 その中に居る誰でもない、細い女性の声が店内に響いた。
「……ぃ!?」
 凛の顔が青を通り越して白くなり、手からスプーンが落ちて、カラン、と高い音を立てた。
 扉を開いて、桜色のエプロン姿の女性が入ってくる。固まる凛へと親しげに視線を向けると、
「その権利(スティグマ)を戴くのは後にするとして……。取りあえず、これまでの経緯を、もう少し詳しく話してくれますか? 姉さん」
 そう言って、凄味のある笑顔で首を傾げたのだった。








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