書記審問官リオ・テオドール・アルトマンは、半年前に東の森で五人の夜盗たちに襲われた時のことを、今でも繰り返し思い出すよう心掛けている。
 あの時に感じた、四肢が痺れるような無力感――今でも、思い出す毎に手足に力が入る。
 審問官は文民である。
 誰かを傷つけた人の罪を糾弾する立場にある以上、その力を誰かを傷つけることに使ってはいけない――それが、あの夜までのリオの考えだった。
 しかしあの日、冷たい夜の森で――凍りついたフレデリカの頬に、鈍く光る銃口が突きつけられるのを見た時、リオは足元が崩れて行くような、激しい恐怖と後悔に頭の中を掻き回されながら、それまでの考えが間違いであることに気付いた。
 何かを守る為には、力が必要なのだ。
 いくら正論を説いたところで、振り上げられた拳を防ぐことは出来やしないのだ。
 天使の力が、使いようによってはあらゆる暴力を屈服させるほどの強力な兵器となり得ることは、四百年前、初めて天使がこの地上に現れた時から認識されていたことだ。
 事実、審問官の中には、軍事力を保有する犯罪組織を積極的に追い詰める、武闘派と呼ばれる者も、少数ではあるが存在する。高位の審問官ともなれば、最新鋭の科学兵器を搭載した空挺一個師団と渡り合うことも可能であることが、歴史によって証明されていた。
 夜が明けると共に、リオはアンドレアス審問官の元を訪ね、天使の力を積極的に使う方法――闘い方の教えを乞うた。
それから半年。リオは闘う術を手に入れた。これで、もう二度とあんな無力感に打ち震えることはなくなる。――そう、思っていたのに。
 オスカー・グートルン・ペーツが憤った都市の人々に暴行されそうになった、あの瞬間、リオは何も行動を起こすことが出来ずに居る自分に愕然とした。
 力の使い方以前の問題だった。
 彼は、幼い頃より見知った人々が向ける、禍々しい悪意や怒りに恐れ慄き、立ち向かう気力さえ失くしてしまっていたのだ。
 法とは、人の営みから産まれるものであり、それ故に審問官は、人の営みの結集とも言える都市(コミュニティ)が下す決断を尊重しなければならない。
 それは審問官として守るべき、基本姿勢だ。しかし、都市による『私刑』が許されるのであれば、そもそも審問官の存在理由が無い。リオは審問と執行を代行する神の僕として、市民が一時の感情に任せて罪人を処断するという恐ろしい行いを、諌めなければならなかった。
 鉛のように纏わりつく重たい罪悪感の中、リオは自らに繰り返し問いかける。あの時、自分が採るべきだった最善の方法は何だったのか。どうすれば、同じような状況に再び立たされた時、このような過ちを繰り返さずに済むのか。
 ハイゼ神父はかつて、「審問官は間断なく考え続けなければならない職業」であると言った。善悪とは何か。人が人を裁くということが、どういうことなのか。また、それらに相対する時、自分の心に虚偽や欺瞞は混じっていないか。常に問い続けなければならないのだ、と。
 そこまで考えて――リオは自分の顔を覗き込む、ヘイゼルの瞳に気づいた。
「……――!」
 目が合うと、フレデリカの透き通った肌が、ほんのりと紅潮し始める。慌てたように手を動かしながら、
「あ、あのね。リオ」
「え? なに?」
「その……あの」
 しばらくあちこちに視線を泳がせたかと思うと、フレデリカは自分の手を見下ろして、
「昼間はゴメン」
言って、ぺこりと頭を下げた。
 そこでようやく、リオは思考の海から顔を上げ、目の前の少女に意識の焦点を合わせた。
「え? ええ?」
 咄嗟に言葉が出てこない。目の前には、ふわふわの髪に埋もれたフレデリカの旋毛がある。意地っ張りのフレデリカ。自分から頭を下げるなんて、いったいどんなことをしでかしたのか。思わず俯く顔をまじまじと窺ってしまう。
「えっと……ごめん。何のことかな?」
「昼間のことよ」
 反応の鈍いリオに、フレデリカは不貞腐れたように唇を尖らせた。
「オスカーさんのことを裁けなかったリオに私、酷いこと言っちゃった。あんたに頼んだ私が馬鹿だった、とか、それでも審問官なの、とか……」
 段々と小さくなっていく声。
「ああ」
 そんなことか、と思わず口にしてしまいそうになって、慌てて口を噤む。確かに、そんなことを言われた覚えがある。しかし、
「いいよ。全部本当のことだから」
それらはきっと、偽りようのない事実だ。
「そういう問題じゃない!」
 穏やかに微笑んだリオに、目を怒らせたフレデリカが、声を張り上げた。
「リオは、ああなることが解っていたから、オスカーさんを審問しようとしなかったんでしょ? 私はそんなことも知らない癖に、勝手なことを言ってリオを責めた。本当に何も出来ないのは、私の方なのに」
真っ赤な顔で一息に言って、糸が切れた人形のようにがっくりと項垂れる。
 なるほど、フレデリカらしい理屈だ、とリオは思った。彼女は、自らの無力を棚に上げて、リオに責任を押し付けたことを悔いているらしい。
 しかし、彼女の推測は事実と少し違う。オスカーは、広場に音声が中継されたあの時点で、どう転んでも逃げられない所まで追いつめられていた。だからリオは、都市そのものに裁きの手を委ねてしまった方が良い――いや、そうせざるを得ないと考えたのだが、その決断が、あのような結末を産むことになることは、予想すらしていなかった。
「正直に言うとね。僕は、あの時の判断は間違っていたと思うんだ。ああいう結果になったのは、本当にただの偶然で――だから、あの時フレデリカが僕に言った言葉は全て、本当のことだったんだよ」
「……どういうこと?」
「うん」
 頷いて、リオは一度、後ろを歩くクレーエとジブリールの方を振り返った。離れて歩く彼らに、声は聞こえていないようだ。
 正面からフレデリカの顔を見詰めながら、
「もしもあの時、オスカーさんが都市のみんなに殺されていたら、多くの人が傷ついたと思うんだ。彼を殺した人、それを見ていた人……それにフィーネだって」
囁くような声に、フレデリカは神妙な顔で頷いた。この普段は勝気な幼馴染だって、目の前で知っている人が、都市の人たちに無残に殺される姿を見たら、少なからず心に傷を負ったことだろう。
「僕はあの時、どんな罰を下すことになったとしても、審問官としてオスカーさんを裁くべきだったんだ」
 胸に手を当て、マグノーリエに告解する。
 これは、僕の罪。
 審問官の癖に。あんたに頼んだ私がバカだった。
 全て、フレデリカの言う通りだった。
「……何よそれ」
「え?」
 低く押し殺したような声に顔を上げると、怒りに揺れるフレデリカのヘイゼルの瞳と目が合った。
「別にいいじゃない! リオが裁かなくちゃいけない理由なんて無いんだから。全ての悪事を裁かなくちゃいけないなんて、いくら審問官だからって、そんなの横暴よ!」
「……横暴?」
「そうじゃない。横暴よ!」
 腰に手を当て、フレデリカは頬を膨らませた。
 思わず笑ってしまう。
 審問官の使命を横暴と言われたのは、さすがに初めてだった。
「だいたい、あんたはまだ半人前なんだから、一人で責任背負い込もうなんておこがましいのよ。都市のみんなが裁いてくれるって言うなら、任せとけばいいじゃない。……確かに、昼間のあれは少し怖かったけど」
 ぼそぼそと、最後の方は聞き取れなくなる。
「とにかく! 早く一人前の審問官になりたいなら、もっと勉強しなさい! こんな小さな都市じゃなくて、もっと大きな、ちゃんとした所で勉強して……。こんな些細なことで責任感じて落ち込むんじゃないの!」
「さ、些細なことって」
「些細なことじゃない。……私たちはまだ子供なんだから。全てをどうにかしようなんて、初めから無理なのよ」
 フレデリカは肩をいからせたまま、背を向けた。素早い動きで、袖で目元を拭う。
「悔しいけど、しょうがないじゃない。こんなことで立ち止まってたら、前に進めなくなっちゃう」
 ――悔しい。
 今にもフレデリカの押し殺した声が聞こえてくるようだった。
「……僕、一人前の審問官に、なれるかな」
「なれるわよ。なってくれないと困るわ。父さんやアンドレアス神父だって、いつまでも現役じゃいられない。都市には審問官が必要なんだから」
 言って、フレデリカは気丈な瞳をまっすぐ前に向けて歩き出した。
 昼間見た、彼女の泣き顔が蘇る。
 あらゆる罪に公平な裁きを下す使命を負った審問官。「どうして?」と問う彼女の声は、リオの心に深く突き刺さった。当たり前のことを、当たり前に行えないことが、悔しくて堪らなかった。
 「リオなら一人前になれるよ」と言って笑ってくれる、優しい幼馴染。

 だからこそ、僕は――。

「リオ?」
 細い声に顔を上げると、振り返ったフレデリカが、むくれた顔でこちらを見つめていた。
「早く行くわよ。なに? どこか具合悪いの?」
「……ううん。ちょっと、今日はいろいろなことがあったから。疲れてるみたい」
 無理に笑みを浮かべると、フレデリカは「もう、体力ないわね」と呆れたように笑った。いつものフレデリカだ。
「それで、フレデリカはどうなの?」
 隣に並ぶと、「何がよ」と不機嫌そうな声が返ってくる。リオは、そっとフレデリカの横顔を窺いながら、
「前に言ってたじゃない。お母さんの研究を引き継ぎたいって。その為には、管理教会本部(アパテイア)に行くのが一番良いんでしょ? フレデリカも、この都市を出て行くのかな、って」
「ああ、それ――」
 フレデリカは、癖の強い髪を弄りながら、
「難しいと思う」
眼下の街並みを遠く見下ろして、拗ねたように言った。
「……どうして?」
「お父さんがね、都市の外に出ちゃダメって言うの」
「――え?」
 細い手足を伸ばして、フレデリカは照明の落ちかけた天蓋に向かって伸びをした。どこか晴れ晴れとした口調で、
「実は、お父さんと喧嘩しちゃった理由が、それ。だって、お父さんったら私の言うこと、聞こうともしないんだから。都市の為にも、誰かが最先端の技術を学んでくる必要があるって、私は思うんだけどな」
「……そうだったんだ」
「うん。だから今日は、出来ればリオにも一緒に説得して欲しいなーなんて、そんな企みもあったりしてね。……お父さん頑固だから、難しいかもだけど」
「わかったよ。そういうことなら、僕も出来る限り協力する」
 出来るだけ頼りに見えるように、ぐっと胸を張る。フレデリカは、くすくすと小さく笑ってくれた。
「期待してるわよ。……あ、私ちょっと工場に顔を出してから行くね。途中の仕事が気になって。リオはジブリールさんたちと一緒に、先にドッグに行ってて。すぐに向かうから」
「うん」
 階層を繋ぐ階段に差し掛かると、フレデリカは教会のある方向とは逆の石段に足を駆けた。
 フレデリカは学校が終わると、機械工として職人たちに混じって工場で働いている。
 そういえば、今月に入って小さな仕事を一人で任されたと言っていた。今日は休みを貰っているはずだが、様子が気になるのだろう。
 いつもの元気な足取りが遠ざかりかけて、
「ねぇ、リオ」
 振り返ったフレデリカの顔は、薄暗くてよく見えない。
「オスカーさんがオスティナトゥーアに対してやって来たこと、本当にみんなは知らなかったのかな?」
「どういう意味?」
「オスティナトゥーアへは、伝染病が怖いから、普通の人は行っちゃいけない。けど、何人かは都市の代表として、視察に行っていたはずよね。例えば――リオのお父さんとか、私の父さんとか」
「ん。そうだね。何回か行ってるはずだよ」
「普通、気付かないかな? オスティナトゥーアのみんなが、どれくらい困っていたか」
 口元に手を当て、記憶を辿る。確か、以前アーダルベルトが、夕食を食べている時に、オスティナトゥーアのことを話していたはずだ。その時は、そこまで酷い状況になっているという印象は受けなかった。
「……どうかな。みんなの案内はオスカーさんがしてたみたいだし、上手く隠されたら気付かないのかも。でも、オスティナトゥーアにだって神父様が居るんだし、本当に困っていたなら、ハイゼ神父やアンドレアス神父に相談があったはずだよね?」
 都市を任される教会審問官は、近隣都市の審問官と密接に情報のやり取りをして、緊急時に備えるのが普通だ。それに、管理教会本部(アパティア)への定期報告もある。問題があったなら、すぐに騒ぎになったはずだ。
 フレデリカの手が、首元のネックトップを掴んだのが、暗がりの中でも解った。
「そう、だよね。けど、私のお父さんは――」
「え?」
「う、ううん。何でもない」
 聞き返すリオに、フレデリカは曖昧に言葉を濁すと、いつもの元気な足取りで、石段を駆け上がっていった。



「フレデリカの奴、どこに行ったんだ?」
 低い声に振り返ると、腕を組んだクレーエが気怠そうに立っていた。
「あ、すいません」
 どうやらぼうっとしていたらしい。改めて襟を正す。
「フレデリカは、工場です。様子を見て来たいって」
「工場……? そういや、職人の手伝いをしているとか言ってたな。機械工、とか言ったか」
 クレーエは、記憶を手繰るように自分の口元を撫でた。感情の読めない濁った瞳で、ぼんやりと路地の向こうの暗がりを見つめる。
 薄暗いせいもあるのだろうが、随分と顔色が悪い。酒に弱いというのは間違いないらしい。
「一人で行かせて平気なのか?」
「いつものことですし。……心配してくれるんですね。フレデリカのこと」
 リオが邪気のない顔で笑いかけると、クレーエは苦虫を噛んだような顔になり、
「俺がそんな柄かよ。あいつの様子が少し可笑しかったから、気になっただけだ」
言い訳染みたことを口走る。リオは、やっぱり心配してるじゃないですか、という言葉を口に出さずに飲み込んだ。
「――おい。お前、一緒についていってやれよ」
「……はい?」
 急に話を振られ、軽い足取りで後ろを歩いていたジブリールが、驚いたように目を見開いた。
 振り返ったクレーエを、不思議そうな顔で見つめ、
「どうして、私が貴方の命令を聞かなくちゃいけないんですか?」
首を傾げて、可愛らしい笑顔で尋ねる。
「危ないだろう。こんな時間に子供を一人で歩かせるもんじゃない」
「そんなことは解っています。私が聞きたいのは、どうしてそれを私に頼むか、ということです。貴方が行けばいいではないですか」
 澱みの無い声で言って、底の見えない翆緑色の瞳で、クレーエを見上げた。
 クレーエは、気を落ち着けようとするように煙草を取り出し、
「……俺はあいつに嫌われてるんだよ。解るだろ」
ジブリールを宥める様に言った。
「それに、俺みたいな怪しい奴がついていくより、お前の方が何かと面倒が少なくて済む。幾らガキとは言え、体裁ってもんがあるからな」
 リオは驚いて目の前の横顔を見上げた。クレーエが、そんな細かな気遣いまで考えてくれていたとは、思わなかった。
「――なるほど」
 ジブリールもまた、クレーエの回答は意外だったようで……思案気に細い腕を組むと、人差し指を柔らかそうな唇に当て、
「確かにそうですね。フレデリカさんも、年頃の女の子ですし。けれど私、どうしても気に要らないことがあるんです」
「なんだよ」
「頼むんだったら頼むで、相応の頼み方があるでしょう。手を突いて頭を下げるなら、少しは考えて上げてもいいですよ」
 ジブリールは何の悪気も感じられない笑顔を浮かべ、足元を指差した。クレーエが低い唸り声を上げて、がしがしと頭皮を掻きむしった。
「どうしたのです? 下げないのですか? 頭」
「お前にはもう頼まん! もう話しかけてくるな!」
 怒り心頭と言った様子で声を張り上げる。
「あらあら。自分から話しかけておいて、何という物言いでしょう。そんなに年下の女に頭を下げるのが嫌ですか。嫌だ嫌だ。猫の額ほどの器量ですね」
「……お前な、俺に何か恨みでもあるのか?」
 疲れた表情でクレーエが尋ねた。怒りを通し越して、情けなくなってきのだろう。その顔には、「どうしてここまで言われなくてはならんのだ」と大書されている。対するジブリールは、「何を今更」と掠れた声で呟くと、顔を背けてしまった。
「……?」
 リオは思わず自分の目をこすった。
 気のせいだろうか。
 今一瞬、ジブリールが視線を切る直前、これまで見たことの無い目をクレーエへと向けたような気がした。深い翆緑色の瞳に映っていたのは、激しい苛立ち――? クレーエが、それに気付いた様子は無い。がしがしと頭を掻きながら、
「まぁ、どうでもいい話だ。言って置くが、俺がお前に頭を下げることなんて、未来永劫絶対に有り得ない。お前の様な、頭の先からつま先まで信用出来ない奴は論外だ。俺だって、物を頼むにしても人くらい選ぶ」
吐き捨てるように言って、咥え煙草に火を付ける。同時に、
「信用できない?」
すぐ後ろで、凍えた声が響いた。
 リオは、ジブリールの顔をまじまじと見上げた。
 今の声、発したのはジブリールで間違いない。間違いないのだが――今の声は、これまで彼女が発した正体の見えない優しげな声とは、明らかに質を異にしている。冷たい平坦な声には、無理に感情を凍りつかせるに足るだけの、明確な意志が秘められているように感じられた。
 つい先ほど彼女が垣間見せた、感情が噴き出した様な激しい苛立ち――そして、それとは魔逆の、理性で感情を凍りつかせたような冷たい声。
 ほんの僅かな間に垣間見えた、両極端に位置する感情。それらが持つ絶対値は、リオやフレデリカでは近づくことさえ不可能なほど、強く激しいもの。いつも朗らかな笑顔を向けるジブリールからは、想像も出来ない激しさだった。
「どの口が言っているのでしょうか」
 せせら笑うように、ジブリールは続けた。
「結局、何もかも信用し切れず、全てを投げ出してしまったのは、どこの誰だか」
 暗い感情を孕んだ美しい声。感情の読めない視線が、クレーエを見上げる。
「ちょうど良い機会だから言わせてもらいます」
「……なんだ」
 どこまでも深い翆緑色の瞳に捉えられたかのように、クレーエは喘ぐように口を動かした。凍えるような感情が、クレーエの周囲の空気を凍りつかせてしまったようだ。
そこまで考えて――リオは初めて気付いた。彼女がクレーエに向けている、感情の正体に――。
(あれは、そう――『憎しみ』だ)
 思わず、ぞっとした。
 気付かなかった。あんな深く渦巻くような感情、今まで触れたことが無かったから。
「私は貴方に失望しているのですよ。クレーエ。何もかもを信じられず、全てを投げ出してしまった貴方のそのよわ――ひっ!?」
「……ひっ?」
 クレーエが硬い表情で、オウム返しに尋ねる。ジブリールは、ひきつけを起こしたように身体を硬直させ、
「あ、あわわわ……!」
あたふたと忙しなく頭を動かし、周囲を見渡した。
「泡? 泡が何か関係があるのか!」
 焦れたクレーエが真剣な声を張り上げ、ジブリールに迫る。ジブリールは伸びた手を潜り抜け、巣穴に飛び込むウサギのように、素早く左手側にあった石段の陰に飛び込んだ。
「おい! お前、何をふざけて――」
 クレーエは苛立ちを隠そうともせず、石段の影に手を伸ばし――ぴたり、とその手を止めた。
 リオの位置からも、辛うじて見えた。
 人差し指を口元に当て、大きな翆緑色の瞳で、何かを必死に訴えかけるジブリールの姿を。
「そこで何をしている?」
 頭上からかかる、野太い声。リオは驚き顔を上げた。
「ここいらでは見かけない顔だな」
 いつからそこに居たのか。今しがたフレデリカが駆け上っていった階段の上から、大柄な男のシルエットが、顔だけ出してこちらを見下ろしている。
 ――りん、
 どこからか、聞き覚えのある涼やかな鈴の音が聞こえた。
「外部の人間か? 登録証を見せたまえ」
低く太い、威圧感のある男の声。
「……あん?」
 目を細めたクレーエがコートの下の銃を握る。
「待っていろ。今そちらへ行く」
 声がして、男の姿が夜の闇に消えた。ほどなく足音が近づいてきて、よく見えなかった男の姿が夜の中に浮かび上がってくる。
 手に持った懐中電灯が。次に、野暮ったい黒のカソックの裾が――。
「アンドレアス神父!」
「……ん?」
 リオが声を上げると、それまで威圧的だった空気が霧散した。
「おお! その声はリオ・テオドール・アルトマン。こんな所で何をしているのだね?」
 現れた男は、相好を崩し、大きく両手を広げた。右目から頬にかけて傷のある、大柄な男――クレーエが思わず懐の銃に手を伸ばしたのも、無理もない。カソックを着ていなければ、傭兵か盗賊にしか見えないだろう。
「クレーエさん。この方はアンドレアス神父。教会の神父さんです」
「見れば解る」
 クレーエは、いつにも増してぶっきらぼうに言って、懐の銃把から手を外した。
「えっと……。何度かお話したことがあったと思うんですが、アンドレアス神父には、僕の指導役をしていただいているんです。昔は管理教会本部(アパティア)に留学していたこともある、博識な方なんですよ」
「管理教会本部(アパティア)で?」
 そこで初めて、クレーエは正面からアンドレアスの顔を見た。アンドレアスは大きな体を丸めて、「もう十年ほど前になるがね」と強面のいかつい顔に、おどけた笑みを浮かべた。
「神父。こちらは、クレーエさん。都市から都市へ渡り歩いている旅人さんです」
「旅人……?」
 アンドレアスは記憶を手繰るように、白い手袋の嵌められた手を口元に当てた。
「もしや、オスカーさんの件で活躍した外部の人間と言うのは、君たちかね?」
「はい。……あの。そう、だと思います」
 もう噂が聞こえているとは思っていなかった。リオは強張った表情でアンドレアスを見上げた。
「そうか。クレーエ殿、と言ったな」
 顔を強張らせた神父が、素早く間合いを詰める。警戒したクレーエは、反射的に足を組み替えようして、
「――申し訳なかった!」
アンドレアスはよく通る太い声を張り上げて、後退しかけていたクレーエの手を、両手でしっかりと握りしめた。 
「私がもっとしっかりしれば、こんなことにはならなかったのだ。都市で起こっている問題を見抜けなかったのは、司祭審問官たる私の不徳! 申し訳なかった!」
 言って、深々と頭を下げる。同時に、丸まった背に少年のシルエットを持つ光の塊が現れる。天使は哀しげな表情で、アンドレアスと同様に頭を下げた。
「我が天使ケムエルの名に誓って、このようなことが二度と起こらないよう、全力を尽くすことをここに誓おう! 今回の件については、都市を代表して、私からも礼を言わせてもらう」
「……好きでやったことだ。別に、あんたに礼を言われることじゃ」
「おぉ! 謙虚な男だな。いや良し! ……しかし。うーむ」
快活に笑って、アンドレアスはクレーエの顔を覗き込んだ。鋭い目を細めて、
「貴殿とは、何だか初めて会った気がしないなぁ。名前の響きにも、微かに覚えがある。以前、どこかで会ったことが無いかね?」
 まじまじと顔を覗きこまれ、クレーエは不愉快そうに顔を背けた。
「気のせいだろう。この街に来たのは今回が初めてだ。少なくとも、俺はあんたのことなど知らん」
「そうかなぁ」
 うーむ、と小さく唸って、アンドレアスは身体を離した。腰帯に括りつけていた鈴――東洋風の細かな細工の施された、ハンドベルに似た鈴。アンドレアス審問官の聖遺物(レクリス)――が、りん、と涼やかな音を立てる。
 確か以前に名前を――そうだ。五鈷鈴(ガンター)。
 かつて、チベットと呼ばれていた地域に伝わる、宗教祭具だと聞いた覚えがある。
 威圧的な外見を気にしているアンドレアスが、審問法廷を開くとき以外に聖遺物(レクリス)を現出させているなんて珍しい。
「あの、神父。今日はどんなご用件で? 神父の管轄からは、ここは随分と離れているようですが」
 何かあったのかもしれない。
 意気込んで尋ねるリオに、アンドレアスは困り顔で苦笑した。
「そう期待されても困るのだがね。なにやら街で不穏な噂が流れているというから、見回りをしていたのだ。ここいらには、よく浮浪者がうろついているという噂もあるものでな」
「……そう、ですか」
 ちらり、と顔を上げると、引き攣ったクレーエの顔が目に入った。
「そういえば、さっきそこの階段を駆け上っていった元気な娘が居たが」
「あ。それ、たぶんフレデリカです」
「やはりそうか! しばらく合わない間に、大きくなったなぁ。よし、彼女は私が責任を持って送って行くとしよう。ハイゼ神父の様子も気になっていた所だ」
「ハイゼ神父……ですか?」
「ああ。彼とは、手紙のやり取りはあるが、もう何年もまともに会っていなくてな。装置の調整に付きっ切りで、随分と忙しい思いをしているのだろう」
 アンドレアスは、気遣うような目を、教会のある丘の上に向けた。
 ヘンリエッテ博士の死後、ハイゼが装置のメンテナンスを引き受けることを申し出た時、アンドレアスはハイゼの担当していた区域の管理を、快く引き継いだ。多忙という点では、彼もハイゼと大差無いはずだったが、アンドレアスからは愚痴の一つも聞いたことが無い。
「僕も、ハイゼ神父のことは少し気になっていたんです。昔はいろいろと講義をしてくれたりしたんですけど、最近は話しをする機会もなくて」
「ふむ……。彼は、どがつく程の真面目な男だからな。無理をして、身体を壊していなければいいのだが……。そのうち、時間を作って挨拶に行くことにしよう」
 さて、と話を区切って、アンドレアスは肩を鳴らしながら、ゆっくりと踵を返した。
 これからフレデリカを追って、工場地帯へと向かうのだろう。遅くならないうちに帰りなさい、と言い置いて、あっと言う間に階段を昇って行ってしまった。
「神父がこっちまで見回りをするなんて、やっぱり何かあったのかな……」
「リオ」
「あ、はい。何ですか?」
「今の神父、管理教会本部(アパティア)に居たことがある、と言っていたが、フレデリカの父親もそうなのか?」
 クレーエの問に、リオはほんの僅か考えて、
「いえ、フレデリカのお父さん――ハイゼ神父は、ずっとヴェストリクヴェレに居たはずですよ。管理教会本部(アパティア)から招待はあったそうですけど、当時は他に審問官が居なかったので、辞退したと聞いています」
「そうか」
「どうかしたんですか?」
「……いや、もし行ったことがあるっていうなら、管理教会本部(アパティア)がどんな所か聞けるかと思ってな」
 苦笑を浮かべたクレーエが吸殻を揉み消すと、階段裏の暗がりから、忍び足のジブリールが出て来た。
「……何してるんだ、お前」
 クレーエが冷たい声をかける。ジブリールは、罰が悪そうに視線を逸らしながら、
「あのー、髪留めを落としてしまって。灯りが無いので手間取りましたが、無事見つかりました。ああ、良かったです」
頭の小さな髪飾りを指差して、ぎこちない笑みを笑かべる。フレデリカから
、鈍い鈍いと繰り返し言われているリオでも嘘と解る、苦しい言い訳だった。
「ふん。……道化だな」
「貴方ほどではありませんよ。浮浪者さん」
 吐き捨てたクレーエに、ジブリールが固まった笑顔で言う。
「はぁー……」
 額に手を当てたクレーエは盛大に息を吐き、
「だから浮浪者じゃねぇって言ってんだろ! この不良巡礼者!」
今にも掴みかかりかねない勢いで、ジブリールに迫った。
「わ、わ、二人とも! 喧嘩してないで、行きますよ!」
 間に入ったリオが両手を振ると、けん制し合うように視線を闘わせていた二人は、一時休戦とばかりに目を逸らした。
 リオはそっと胸を撫で下ろしながら、
「あ、あと少しで着きますから」
二人を宥めて歩き出す。その時、
「……!?」
 急いで首を巡らせる。
 今一瞬、ジブリールがクレーエへと、奇妙な視線を向けていたような気がした。酷く悲しげな、何かを悔いている様な瞳――。
「どうかしましたか? リオさん」
 ジブリールが不思議そうに首を傾げる。
「いえ……」
 何も変わらない。いつものジブリールだ。
(あれ? 見間違いかな……?)
 都市を騒がす不穏な噂について反芻する一方で、ぼんやりと考える。
 ジブリールとクレーエ。二人の間には、いったいどんな問題が横たわっているのだろう――。





(>∀<)ノぉねがいします!



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