機械工として短時間の労働を許されているフレデリカは、授業が終わると工場に通い、機械の整備を手伝うことを日課にしている。都市の存続には、環境制御装置『ラケシス』の存在が不可欠。しかし、開発者であるヘンリエッテ博士亡き後、都市には装置の整備を行う事が出来る技術者が一人も居なかった。装置の整備は、博士の夫――即ちフレデリカの父であるヴィクトール・ハイゼが引き継いだものの、周辺環境の自律制御は他の都市でも実用化されていない最新技術。科学者ではないヴィクトールには、いささか荷が重過ぎた。
 都市の存続を思うならば、早急に装置を整備・運用出来る人間を揃えなければならない。いつ『ラケシス』が動かなくなるとも限らないのだ。
 フレデリカは連日油まみれのツナギを着て、年配の職人たちに混じって機械弄りに精を出す。自分に母の様な学問の才能が無いことは、ずっと前から知っていた。彼女にとって、実際に機械に触れながら学ぶことが最も効率の良い学習方法だったのだ。
 それでも、夜は母が遺した専門書を貪るように読み耽った。内容は半分も理解できていないだろうが、それでも何もしないで居るよりは、ずっとマシだと思った。
 もっと高等な教育機関で、最新の科学技術を学びたい。
 理解できない箇所にぶつかる度、強くそう思った。母の遺した専門書はレベルが高過ぎて、当たり前のように出てくる専門用語さえ理解出来ない有様だった。
 資料が充実した他の都市なら、もっと効率的に勉強を進めることが出来る。それなのに、

『ダメだ。都市の外に出るなんて、私は認めないぞ!』
 
 調整を行っていた大型コンプレッサーから顔を上げ、フレデリカは赤味がかった髪をゴムで纏めた。機械油で汚れた工場の底から見上げた夜色の天蓋には、うっすらと巨大な榛の木(アールキング)が造り出す枝影が見える。
 たくさんお金を貯めて、この鳥籠のような街を出ていくのが幼い頃からの夢だった。最新鋭の技術を学び、母のような優秀な科学者となって帰ってくる。母の遺してくれた装置は、すんでの所で故障を免れ、都市の平和は保たれる。その時には、リオだって一人前の審問官となって帰って来ているはずで――。
「――……っ」
 零れ落ちそうな涙を腕で拭って、配線の最終点検に取り掛かる。
これじゃダメだ。
 もっともっと頑張らないと。父さんに、一人でも都市の外でやっていけると認めてもらえるくらいに。
 泣き顔を見られるのが嫌で逃げているようじゃ、まだまだ。大丈夫。きっといつか認めてもらえる。
 誰かの重荷になるのだけは、絶対に嫌だった。



 古めかしい教会の前を通り過ぎて、小高い丘を覆う林の中を歩く。教会の天を突くように伸びる尖塔を右手に臨みながら進むと、背の高い広葉樹の影に隠すように倉庫が立っていた。
 石造りの建物が多い都市の中では見かけなかった、スチール製の倉庫――随分と古いものらしく、外壁の白い塗装がすすけている。
 リオの案内で、分厚いシャッターの脇に据えられた入口から中に入る。数十人規模の緊急時避難施設(シェルター)を思わせる広さの倉庫。その中央に、見慣れない形をした物体が鎮座していた。
 「まぁ」とジブリールが小さく感嘆の声を上げる。
「これは……」
 クレーエは目を丸くして鈍色のそれを見上げた。
「複座複葉の非金属製軍用機――また珍しい物を」
 倉庫の中央に鎮座するのは一機の複葉機だった。揚力を得るための主翼が二組に、推進力を得るためのプロペラが一つ。機体は鈍色で、足には水上用のフロートが付いている。
「よくご存知ですね! 以前どこかで見たことが?」
 思わず出たクレーエの呟きに、リオが目を輝かせた。
「いや、複葉機なんて資料でしか見たことが無い。それにしても古い機体だな」
 複葉機と言うだけで随分な年代物と解るが、注目すべきは機体が金属製では無いということ。木製の機体など、軽く見積もっても四百年以上前の代物だ。博物館に展示してあっても不思議ではない。
「こんなアンティーク、どこで手に入れた?」
「そんなに古いものでもないんです。これはレプリカですから。旧技術の復興についてはご存知ですよね?」
 クレーエは無言で頷いた。
 『大罪事変』による神の消失によって、それまで自律制御だった多くの機械が動かなくなり、世界は重大な金属不足に陥った。その時に注目されたのが、旧技術。再興の試みは他分野に渡り、飛行機についても数機のレプリカが製造されたと聞いている。今から八年ほど前の話だ。
「しかし、旧技術の復興は失敗に終わったと聞いているが」
 再現された非金属性の機体は『大罪事変』後に爆発的に増大した異常気象の猛威に耐え切れず、取り組みは僅か数年で取り止められた。
「はい。これは当時、廃棄寸前だった機体を旧技術の再興に取り組んでいた物好きな人が引き取って、倉庫に隠していたものなんです」
 リオは慣れた様子で、機体の横に置かれた作業机に荷物を置いた。よく見れば、棚という棚には同様の飛行機模型が飾られている。
「ずっとほったらかしで、足りないパーツも結構あったんですけど、僕とフレデリカで少しずつ直したんですよ」
 棚には工具や材料と思しきものも多く見える。
 話によると、二人は審問官としての勉強や機械工としての仕事を終えた後の時間を使って、四年がかりでコツコツと修理を進めて来たらしい。
「……飛べるのか?」
「大方の修理は終わってるので、飛ばそうと思えばいつでも。都市の中での飛行は禁止されてるので、試験飛行が出来ないのが難点なんですけど」
 リオは困り顔で笑って、小さく肩をすくめてみせた。出来るなら、すぐにでも試験飛行を行いたいと顔に書いてある。
 白い作業着に着替えたリオに案内されて、機体の下まで近づく。
 機体は見上げるほど大きい。プロペラは今にも倉庫の天井に届きそうだ。
「この機体――フェアリーソードフィッシュは、一九三五年にイギリス海軍が採用した軍用機です。汎用性・操作性に優れ、その使い勝手の良さから、パイロット達にはストリングバッグ(何でも入る買い物籠)と呼ばれていたそうです」
 全長十一.二メートル、翼幅十三.八メートル、高さ三.八メートル、機体重量二.一三トン。三座複葉の機体は、複葉機時代の最後を飾った非全金属製軍用機の傑作と言われている。元は、航空魚雷による対水上艦攻撃に特化して設計されたと言うだけあって、積載可能重量は千キロ近くにもなる。
 リオが興奮した様子で拳を握りしめる。彼が熱弁を振るう姿は初めて見る。
「実用上昇限度三千二百メートル。航続距離八百八十キロ。一度空に飛び立てば、最大速度二百二十キロメートルで空を」
「あー、はいはい。その辺で止めておきなさいよ。飛行機オタクの話なんて、誰も興味無いんだから」
 後ろからした声に振り返ると、ツナギ姿のフレデリカが済まし顔で立っていた。
「フレデリカ! 早かったね」
「うん。心配で早めに上がらせてもらっちゃった。何だか放っておいたら直した所まで壊されちゃいそうで」
 急いで来たことを示すように、フレデリカは油で汚れたツナギを指差した。いつもは着替えを済ませてから帰って来るのだが、今日はアンドレアス神父が待っていたこともあって急いで帰って来たらしい。
「お帰りなさい、フレデリカさん」
 にこにこと笑いかけるジブリールに「ただいま」と返して、フレデリカは背中に背負っていた道具を作業机の上に置いた。
「お前も手伝っているのか?」
「そうよ。だから変なところ触らないで。じっとしてて」
 言って、剣呑な視線を投げつける。クレーエの頬を引きつらせた。どうやら「放っておいたら直した所まで壊しそう」と思われていたのは、クレーエだったらしい。
「フレデリカは凄いんですよ! この飛行機は、ほとんどフレデリカ一人で直しちゃったんですから」
「へぇ。そりゃ凄いな」
 クレーエは苦笑交じりに言って、自分のことのように目を輝かせるリオを見下ろした。邪気の無い笑顔に、知らず毒気を抜かれてしまう。男子と女子では男子の方が精神の発達が遅いと言うが、リオとフレデリカの二人を見ていると、それを顕著に感じる。
「一人じゃないでしょ。私だってリオが細かく設計してくれないと直せなかったわよ。私じゃ図面も上手く描けないし」
「僕は古い設計図を取り寄せて、その通りにやっただけだから。やっぱり凄いのはフレデリカだよ」
「……な、なによ。持ち上げたって何も出ないわよ」
「あらあら」
 謙遜し合う二人を見て、ジブリールがくすくすと笑みを零す。クレーエの視線に気づくと、笑顔のまま小さく舌打ちをした。何なんだろうコイツは。
「折角ですし、操縦席に乗って見ませんか?」
「ん? ああ……」
 折角だしな、と呟いて機体の方へと歩きだす。すると、
「あら。随分と嬉しそうですね」
目ざとく感情の機微を感じ取ったジブリールが、棘のある声で呟いた。
「……なんだ。文句あるのかよ」
「いいえ。ただ子供っぽい所もあるんだなぁ、と呆れていただけです」
 澄まし顔で言って、小さく鼻を鳴らす。実は、リオから申し出が無かった場合、どうやって操縦席を見せてもらおうかと考えていたクレーエは、心中を見抜かれたようで面白くない。
「うるさい。……お前はいいのか? こんなアンティークに乗れる機会なんて、滅多に無いぞ」
「私はここで見ています」
 言って、ジブリールは自分の手元に視線を落とした。爪の辺りを気にしている。複葉機には興味が無いらしい。
「私も行く! 言っておくけど、計器類に触ったら殺すからね!」
「俺は命を賭けて乗らないといかんのか……」
 スパナを手に剣呑な目を向けるフレデリカとの間合いを測る。
 慣れた様子でステップを上がる二人に続いて機体に上がると、風防を開いたリオが操縦席を指差した。
「ここの修理は、昨日ようやく終わったところなんです。良いシートが無くてずっと探していたんですけど、フレデリカが見つけてくれて」
 操縦席には、縦に二つのシートが並んでいる。後部座席の後ろには、シート一つ分の空間。リオは先ほどの説明で『三座』と言っていたから、設計上はもう一つシートが収まるのだろう。
 促されるまま前のシートに滑り込むと、ミラー越しに後ろに座ったフレデリカの、毛量の多い金褐色の髪が見えた。心なしか不機嫌そうに見える。
「どうしたんだ? ご機嫌斜めだな」
 尋ねると、ぎろりと剣呑な目で睨まれた。フレデリカは目だけを動かして密閉式の風防が降りていることを確認すると、
「そこ……リオの席なの」
「そうか。どうりでシートが小さい訳だ」
 クレーエは尻の位置を調整するように座り直した。
「長時間の飛行だと、シートが身体に合ってないと疲れるって聞いたから。それで、探すのに時間がかかってたの。ようやく見つけたのに、リオったら一度も座ろうとしなくて」
「それは悪かったな。初めに座ったのが俺なんかで」
「べ、別にいいわよ。これが初フライトって訳じゃないし」
 ミラー越しに顔を窺うも、ふい、と視線を逸らされてしまう。気にしてないなら、睨みつけるのは止めて欲しいのだが。
「リオに付き合ってるだけなのかと思っていたが、なんだ。お前もこの複葉機が飛ぶのを楽しみにしてるんだな」
「そりゃそうでしょ……。あんたが思っているより、飛行機を修理するのって大変なんだから。好きじゃなきゃやってられないわよ」
 言って、フレデリカはぶっきらぼうな口調で計器の説明を始めた。どうやらリオに説明を頼まれたらしい。
「へぇ……いろいろあるんだな」
「飛行機が好きな癖に、そんなことも知らないかったの?」
「っく、俺は別に飛行機が好きだったわけじゃない。立場上、目にする機会が多かっただけだ」
「立場上?」
 オウム返しに尋ねたフレデリカに、クレーエは言葉を返さなかった。クレーエが私情を詮索されることを好まないと知っているフレデリカは、「まぁいいけどね」とそっけなく言って、会話を打ち切った。
「……」
 クレーエは憮然とした顔で腕を組んだ。
 詮索されるのも嫌だが、子供に気を使われるというのも面白くない。
「この飛行機、どっちが操縦するんだ?」
 クレーエの方から話を向ける。
「リオよ。リオが操縦して、私が地図を見るの。都市の外の世界をたくさん見てくるんだ。私たち、物心ついた時からずっと外の世界を見て無いから」
 そう語るフレデリカは、ミラー越しにも興奮しているのがよく解った。口元が自然と綻ぶ。
「航続距離八百八十キロと言っていたな。それだけあれば、大陸の西端まで行ける。運が良ければの話だが」
 都市の外の気候は不安定であるし、晴れの日だって強い紫外線が障害となる。砂漠地帯では砂嵐が頻繁に発生するため、長距離の移動は旅慣れた砂漠のキャラバンに紛れるのが最も確実な方法だ。
「大丈夫よ!」
 強い口調で言って、フレデリカが勢いよく立ち上がった。操縦席が狭いため、中腰の姿勢になる。
「紫外線は風防に貼ったUVカットフィルムで防げるし、悪天候だって時期さえ見誤らなければ回避できる。気象データを都市から送ってもらう方法だってあるし……。高度三千五メートルなら砂嵐の影響も無いってリオが言ってたわ!」
 大きな目を見開いて、クレーエを見下ろす。
 別に無理だとは言ってないだろう、とぼやきつつ、クレーエは助けを求める様に風防の外に視線を移した。強化ガラスの向こうには、何が楽しいのか、ニコニコと楽しげに笑うリオの姿がある。
「……相手がこれじゃ、お前も苦労するな」
 思わず考えていたことが口を突いた。
 クレーエの言わんとしていることに気付いたのだろう。フレデリカは顔を真っ赤にさせて、すとんと座席に腰を下ろした。何も知らないリオは、呑気に手を振っている。
 しばしの沈黙。聞いたばかりの計器の説明を反芻していると、ぽつりと掠れた呟き声が漏れた。
「――私たち、いつか海を見に行くって約束してるの」
 どこか切実な響きのある声だった。
「ここから海まで四百キロって所か……。行けない距離では無いな」
「でしょう!?」
 勢い込んで身を乗り出すフレデリカに、クレーエは驚き座席から腰を浮かせた。
「あ、ごめ」
 フレデリカが赤くなった顔を手で押さえる。
「暴れて計器を壊すなよ」
 クレーエがぶっきらぼうに言うと、小さくはにかんだ。夢見るように目を瞑り、
「これで空を飛ぶのが私の夢なの。この機体は母さんが遺してくれたものだから」
 母さん――亡くなったというヘンリエッテ博士のことか。
「今のところ、リオは付き合ってくれてるけど、どうなのかな。リオは飛行機なんてなくても、もっと遠くに行けるはずだから」
「俺が見る限り、いやいや手伝っているようには見えないけどな」
「私、重荷にはなりたくないの」
 小さく呟いたフレデリカの声には、強い意志が感じられた。そういうことはリオに打ち明けろよ、と思いつつ、クレーエはがしがしと頭を掻きむしり、
「なに思いつめてんだよ。重荷かどうかは、お前が決めることじゃ……うおっ!?」
 何気なく上げた視線の先に、風防に顔を押し付けたジブリールの不機嫌そうな顔を見つけ、思わず可笑しな声を上げてしまった。
 風防を開いて顔を出すと、ふくれっ面のジブリールが顔を寄せて来る。
「フレデリカさんを泣かせたら、許しませんよ」
 場違いな言葉に、思わず肩を落とす。
「そんなことを言う為に、わざわざ上って来たのか?」
 棘を含んだ声で言うと、ジブリールは小さく手を合わせて、
「ああ、そうでした。――フレデリカさん。教会の方に誰かいらっしゃったようですよ。表から物音がします」
「あ……父さんが帰って来たのかな」
 僅かに表情を強張らせると、フレデリカは手に持っていた工具をリオに手渡した。
「ちょっと私、教会の方に行ってくる。機体を壊されないように、しっかり見張ってるのよ」
「一緒に行かなくて平気?」
 真剣な顔で尋ねてくるリオに、フレデリカは小さく笑った。
「平気よ。もう子供じゃないんだから」



 都市の主だった建物には歴史的価値の高いものが多い。『大罪事変』以前、保護の名目で世界遺産級の建築物を次々と都市内に移設したためだ。
 フレデリカが住むヴェストリクヴェレ第一教会もまた、中世時代に建立されたゴシック様式の教会を基にしている。天高く伸びた尖塔は「少しでも主の近くに」という人々の祈りが込められているようだ。もっとも、今現在尖塔の先にあるのは「主がおわします天の国」では無く、分厚い強化ガラスで造られた天蓋なのだが。
 フレデリカは、『全知全能の神』なるものがこの世界に存在するなんて信じてはいない。母が「物理的に観測出来ないものは信じない」を信条とする現実主義(リアリスト)だったというのが影響しているのだろう。
 神父の娘としてはいささか不信心だと思われかねないが、教会を任される審問官とて、全員が熱心な信仰心を持つ信徒という訳ではない。審問官は、あくまで『天使に選ばれた正しい心を持つ者』。信心が無くても実績を積めば、大抵は司祭の位までは出世出来る。司祭は教会の父である神父を務めることが出来るから、不信心な神父というのが出来上がる。
 四世紀前の宗教革命(パラダイムシフト)以降、管理教会は『あらゆる宗教の信仰対象は全て一つの神の側面に過ぎない』という宗教多元主義を掲げている。よって、審問官の服装や祭事の運営も地域や慣習によって様々。もっとも、その柔軟性の高さこそが管理教会(アパティア)の最大の強みと言っても良い。
 強いて言うならば、管理教会(アパティア)の掲げる教義には、宗教として重要なファクターである死後の世界に対する補足がされていないのだが、現世で天使の手によって全ての罪をあながうことが出来る現在の制度で、死後の世界にそこまでの憂いを抱く者はごく少数である。
 死後の世界の在り方についても、管理教会は様々な視点の取り方がある、と言葉を濁しつつ、既存の宗教の考えを柔軟に取り込んでいる。
 明りの消えたガラス窓を一度だけ見上げて、フレデリカは分厚い両開きの扉に手をかけた。ヴィクトールが帰って来ているとしたら、礼拝堂に居るはずだ。
 重たい樫の扉を開き、中に入る。
 長い年月を経て艶光る長椅子の向こうに、静謐な空気に佇む内陣が見えた。教会専用に設置されたガス燈の明りを受けた色取り取りのステンドグラスが、この世ならざる美と英知の極致を演出している。
 ほう、と白い息が漏れた。
 盲目的な信仰には危うささえ感じるフレデリカだが、人が正しくあろうと願う気持ちは尊いと思っている。だから、祈りの結実たる教会建築の荘厳さは好きだし、掃除などの雑務をこなすことも苦では無い。
 重たく閉じた扉の音に押されるように、一歩を踏み出し――すぐに立ち止まる。真紅のカーペットが伸びる身廊の先に、黒っぽい人影があった。
 ヴィクトール……ではない。
 若い女だ。
 黒い修道服を着た女が、祭壇の置かれた内陣の前に跪き、一心に祈りを捧げている。声をかけるのもはばかられ、身じろぎひとつせず立ちつくしていると、女がゆっくりと立ち上がった。微かな絹擦れの音と共に振り返る。
 女の姿に、フレデリカは思わず息を呑んだ。まず目を奪われたのは、野暮ったいヴェールの下から覗く流れる様な白銀(プラチナブロンド)。目鼻立ちのはっきりとした白い顔は精巧な人形のようで、ぽっかりと空いた二つの眼窩からは、どこまでも静かな金色の瞳が、真っ直ぐにフレデリカを見詰めている。
 清潔な白い襟を光が反射し、眩しさに目が眩む。修道服に包まれた細いシルエットはどこまでも女性らしい。
「あの……」
 おずおずと声を発する。触れてはいけなものに触れてしまった様な罪悪感があった。気分を害してはいないだろうかと不安になる。
「お祈りの方でしょうか……」
 女は身じろぎ一つせずフレデリカを見つめている。ややあって、
「はい」
澄んだ声が帰って来た。フレデリカは胸を撫で下ろし、
「何か御用ですか? あの、神父は不在でして……。あ、もしかして管理教会の方ですか? それ――」
 修道服を指差すと、女は視線を胸元に落とした。
「これは……喪服のようなものです。せめて神様の前で別れの祈りをと」
「お知り合いが亡くなられたんですか?」
 思わず尋ねたフレデリカに、女は静かな顔で、
「はい。亡くなったのは、この都市ではありませんし……恐らく、遺体も見つからないのでしょうが」
淡々と話す声の重さに、思わず言葉を失う。重たい静寂に溺れないよう喘ぐように言葉を探し、
「それは……その、残念です」
ありきたりな言葉しか出て来ない自分に、顔が熱くなった。
「ありがとう。……もう行きます」
 女は歩き出し、すぐに庇うように手を脇腹の位置に当てた。
「あの……!」
「大丈夫です」
 駆け寄ろうとしたフレデリカを平静な声で制して、ゆっくりとカーペットの上を歩いて来る。その表情はベールに隠れて見えない。こんな時にヴィクトールやリオが居てくれたら――そんなことを考えていると、足が止まった。思いつめたように身廊の中ほどで立ち止まると、顔を上げて、
「神様は本当に、この世界を見捨ててしまったのでしょうか?」
ベールの下の金色の瞳が、静かにフレデリカを見つめていた。
 胸がきゅっと締め付けられる。縋る様な細い声だった。
 その問いかけは、確かな重みを伴ってフレデリカの心に届いた。言葉に詰まる。安易な慰めや楽観は口にしてはいけないと思った。今の問は、彼女が考えに考えて、その果てに藁にも縋る想いで発した問いなのだ、そんな予感があった。

 ――神様は、この世界を見捨ててしまったのでしょうか?

 尋ね来る信徒に、幾度も問いかけられた言葉。フレデリカはこれまで一度として、その問いに満足な答えを返すことが出来なかった。
 考えに考え、
「わかりません」
フレデリカはただ誠実に、自分の考えを口にした。
「神様がどこに居ってしまったのか。そもそも存在するのかどうかすら、私には解りません。けれど、正しさを信じる心がある限り、神様はどこにも居なくなったりしないのだと思います」
「……居なくなったりしない?」
「はい。神様はきっと、私たちの心の中にも居られるのだと」
「……」
 女は空虚な金色の瞳でフレデリカの顔を見つめた。迷うように視線を落とし、
「私の中には、居ません」
「え?」
「また来ます」
掠れた声で言って、再び歩き出した。
 すれ違う瞬間、ぞくり、と怖気が電気のように背筋を走り抜ける。慌てて振り返るも、女はフレデリカを振り返ろうともしない。
 ――気のせいだろうか。
 どこかで、今と同じ不吉な気配を感じたことがあったような気がしたのだけど。
 記憶の糸を手繰るフレデリカを余所に、女はゆっくりとした足取りで扉口の向こうへと歩いて行った。





(>∀<)ノぉねがいします!



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