――どこか遠く。 カン、カン、と甲高い音が、間断なく反響している。 穴倉は深く、日の光は届かない。闇の帳は質量を持って四方から圧し掛かり、身を捩ることにさえ苦痛を感じた。出口は暗く見通せず、どこまで続いているのかさえはっきりとしない。 訳もわからぬ焦燥感に追い立てられ、とにかく叫び出したい衝動に駆られるが、叫べばただでさえ薄い酸素を無駄に浪費することになる。それはみんなが許さないだろう。 ぼんやりと穴倉の奥を見つめていると、この穴倉は死の国に繋がっているのではないだろうか、という馬鹿げた妄想にとりつかれそうになる。馬鹿げた妄想、と判断出来るだけまだ良いのだろう。人は暗闇の中では長く精神を保てないと聞く。このままでは精神に異常をきたす者も出るだろう。 穴倉は、たくさんの人々の気配で満ちている。誰も彼もが空腹と疲労を覚えているはずなのに、声を荒げる者は一人として居ない。それは異様な光景だった。 時間の感覚が次第に無くなり、ほんの一秒が永遠となり、永遠が刹那と入れ変わった。精神は極限へと追い詰められ、正気は狂気と激しく鬩ぎ合う。狂気へ傾こうとする自我を押し留めているのは、身を焼くような怒りや恨み、嘆きだ。それらは一歩踏み外せば、狂気へと反転する危ういものだが、今はそれに縋るほかない。それは周りの者たちも同様だろう。いや、あるいは――狂ってしまうことが出来たなら、少しは楽になるのだろうか? 穴倉は正気と狂気の狭間にあった。苦と楽と、生と死の狭間だ。この世の全てがここにあり、何一つありはしなかった。 だから、手探りで進むことも難しい真っ暗な穴倉の中を、少女が軽い足取りで歩いて来る姿を見た時も、驚きはしなかった。むしろ、やはりそうなのだ! と手を叩いて叫び出しそうになった。 歩いて来るのは、私の娘だった。夏に病で亡くなった、十を過ぎたばかりの私の娘だった。娘は小さく光を放っていた。私は眩しさに目を細めた。 ――ああ、良かった。ようやく会えた。 ぶつぶつと何事かを呟き始めた男を見下ろし、少女は薄闇のなかで微かに眉をひそめた。白人の男は虚ろな目で、少女の褐色の肌へと汚れた手を延ばしている。 そっと手に持っていた燭台の明かりを吹き消すと、闇が視界を覆い尽くした。すすり泣き、嗚咽を漏らし始めた男の横を通り過ぎて先へ進む。男は繰り返し、知らない女の名前を呼んでいた。 穴倉の奥からは、カン、カン、という鉄の塊を打ち付け合う音が一定のリズムで繰り返し聞こえていた。 ほどなく少女の足が止まった。微かに視線を落とし、 「調子はどう?」 よく通る透き通った声で尋ねた。その先にあるのは闇――穴倉の中でも暗く陰気な空気で澱んだそこは、まるでそこにだけぽっかりと穴が開いていて、あらゆる光を吸い込んでいるかのように真っ暗だった。 「あと数時間といったところだ」 返って来るはずもない少女の問に、蟠る闇が答えた。低く野太い、身体の大きな大人の男の声だった。まるで長い間声を発するのを忘れていたように、ひび割れ枯れている。 「もう少ししたら、お前にはもう一働きして貰うことになる」 「……いいけど。疲れるんだよね、アレ。僕たちって本来、そういう用途には創られてないから」 「そう言うな。他に方法が無いのだ。それに――」 闇は淡々とした声で囁き、 「奴らもそろそろ限界だろう」 微かに声のトーンを変えた。闇は少女が辿って来た道を見つめているようだった。促されるように少女もまた穴倉を振り返る。しばし息をひそめ、じっと穴倉の向こうを見つめていたが、 「そのようだね。正気を保っていられるのは、どれだけいるか」 つまらなそうな顔で、そっと息を吐いた。 穴倉には、密集した大勢の人間の気配で満ちていた。押し殺した敵意と殺意が、思わず目を覆いたくなるほどのおぞましい密度で犇めき合っている。 少女はそれらを、水槽の中の魚を観察するように眺めた。闇の中でガーネットの瞳が怪しく輝く。 「正気である必要など無い。正気であっては奴らの望みは叶わないのだ。早目に狂ってしまった方が楽ということもある」 「おや? 随分と優しいんだね。ダリウス」 からかうような少女の声に、闇は返事をしなかった。代わりに、 「こんな時に、お前はどこへ行っていたんだ?」 非難の声を少女に向ける。 「ちょっとそこまで、ね」 曖昧に唇を吊り上げる少女に、闇が沈黙の中に圧力を伴わせた。少女は闇から距離を取ろうとして――それまで響いていた甲高いものとは違う、ガン、という低く手応えのある音に、弾かれたように顔を向けた。穴倉の向こうから、押し殺した歓声が聞こえてくる。 「――着いたか」 呟くと同時に、闇が立ち上がった。燭台に火が灯り、闇の中に男の姿が浮かび上がる。何てことはない。声の通りの、三十絡みの大柄な男――黒地の僧衣の胸元で、無骨なロザリオが鈍く輝く。 「着いた」 「着いたわ」 「ついに、ついに」 暗い喜びに湧く人々の囁きが、至る所から漏れ広がる。まとわりつくような熱気が、冷たい穴倉の温度を微かに上げた。 「始まるねぇ、ダリウス」 どこか芝居がかった少女の声。 「一夜限りの祝祭が。――ああ。何もかもこれでお終いだよ。台無しだ」 楽しげに笑う湿った声に、 「それでいい。それでいいのだ。それでも次の終わりが始まるだけだ」 男が無表情に乾いた声で答える。見かけも表情もちぐはぐな彼らの声には一様にして、暗い歓びの色が滲んでいた。 ※ ※ ※ 冷たい部屋には明かりがついていたが、誰の姿もなかった。ひっそりと鎮座する、クローゼットと庶務机。香部屋はいつも通りの密やかさで、ひっそりと誰かが訪れるのを待っている。 香部屋とは祭具や祭服、典礼書などの用具が保管されている部屋のことで、ヴィクトールは帰宅すると、必ず礼拝堂の奥にあるこの部屋でカソックを着替え、奥の離れに移動する。 フレデリカは部屋に誰も居ないことを確認して、燭台の灯りを消した。 薄暗い廊下を歩いて離れに向かう。離れは神父やその家族の居住部となっており、それらは今しがた通って来た香部屋と、小さな外回廊で繋がっていた。 火の扱いに厳格な父が、燭台を消し忘れるなんて珍しい――そんなことを考えながら扉を潜ると、踏みしめる感触が、つるつるとした廊下のそれから、ごつごつとした外回廊の石床に変わった。真っ直ぐに伸びる外回廊からは、右手側に居住部となる部屋が、左手側に小さな庭園が臨める。天蓋の照明が落ちているので周囲は暗いが、教会の周りに設置された水銀灯の明りが回廊まで届くので、蜀台の明りが無くとても存外に明るかった。 知らず、ため息がこぼれる。 右手側に並ぶ小さな部屋は、どれも清貧を旨とする教会の教え通りの味気ないものばかり。リオの母、リーゼロッテのレースで飾り付けられた部屋のように、心躍るようなものは何一つない。庭園も、ほとんど手入れがされていないため、荒れ放題になっていた。 回廊を降りるとすぐに、ヴィクトールの部屋から明りが漏れているのに気付く。やはり戻っていたらしい。半開きの扉から中を覗くと、背中を向けたヴィクトールが鞄に荷物を詰め込んでいるのが見えた。まだ着替えていないらしく、カソック姿のままだ。 「父さん?」 呼びかけると、ヴィクトールはびくりと背中を震わせた。ゆっくりと、何かを怖れるように振り返り、 「フレデリカ」 自分を見つめるヘイゼルの瞳に、全身の緊張を解く。カソックの内懐から、微かに紙の潰れる音が聞こえた。 「……どうしたの? こんな遅くに。どこかへ出かけるの?」 昨日は喧嘩をして家を飛び出した手前、少し気まずい。反応を窺うように尋ねると、ヴィクトールはいつもの落ち着き払った無機質な声で短く「そうだ」と答えた。 「中央管理塔に行ってくる。制御装置(ラケシス)の調子が悪いらしい。すぐに調べて欲しいと連絡が入った」 「……そう」 「フレデリカ」 静かに名前を呼ばれ、顔を上げる。眼鏡の奥のヘイゼルの瞳が、真っ直ぐにフレデリカを見詰めていた。額に険しい皺の刻まれた、細面の壮年の男。ここ数年で、父はめっきり老けたように思う。 「お前も一緒に来るか?」 思わぬ言葉にフレデリカは驚き、まじまじと父の顔を見つめ返した。どんなトラブルがあっても、父は一度だってフレデリカを環境制御装置(ラケシス)に連れて行ってくれたことなんて無かったのに。 「出来れば人手が欲しいのだが。手伝ってくれるか」 ずっと待ちわびていた言葉。しかし、タイミングが悪い。沸き立つ内心を抑えて視線を逸らした。 「……ん。今日はいいよ。リオが来てるし。巡礼者の人も、教会に泊まらせて欲しいって」 「巡礼者?」 「うん。すごく綺麗な女の人なんだけどね。一人で旅をしているそうなの。父さんに一言挨拶したいって。……その、昨日リオの家に泊まったのも、その人が居たからで」 「……女性の巡礼者」 ヴィクトールは一人呟くと、考え込むように白手袋の嵌められた手を細い顎に添えた。フレデリカの声など聞こえていない様子で、じっと何事かを考えていたが、 ――いや、リオが居るなら問題ないだろう。むしろ好都合か。 口ごもるように独り呟き、戸惑い顔のフレデリカに視線を合わせる。 「いや、独り言だ。私は遅くなる。巡礼者の方は、お前の方でもてなして差し上げなさい」 「……うん」 「すまないな。お前には苦労をかける」 疲れた声で言って、ヴィクトールは白い手袋の嵌められた手を、フレデリカへと伸ばした。俯いていたフレデリカは、その手に気づくのが遅れ、 「――っ!」 反射的に首をすくめるフレデリカに、ヴィクトールの手が、火に触れたように離れた。 「あ……」 慌てて顔を上げる。必死で言葉を捜すフレデリカに、ヴィクトールは苦い顔で笑って、 「驚かせて済まなかったな。……それより。薬はもう飲んだのか?」 「ま、まだだけど……その」 「夕飯は済んだんだろう。忘れないうちに飲みなさい。お前は身体が――」 「もう、わかってるわよ……。急ぐんでしょ? 早く行かないと」 子供扱いは止めてよね、と拗ねた声で言うフレデリカに、ヴィクトールは咄嗟に何か言いかけたが、結局何も言わずに口を噤んだ。年季の入った壁掛け時計を見上げ、 「そうだな。では、行ってくる」 重たげなフラップバックを肩にかけると、早足にフレデリカの横を通り過ぎた。 「父さん」 反射的に、遠ざかる背中に声をかけた。扉にかかったヴィクトールの手が止まる。背中を向けたまま、 「どうした」 「オスカーさんの商会が、オスティナトゥーアの人たちを騙してお金儲けをしていたんだって。他にも、新しく興した商売を潰したり、ヴィクトリクヴェレからの寄付金を自分のものにしたり……父さんはそのこと知ってたの?」 僅かに降りる沈黙。ヴィクトールは、半身だけで振り返ると、 「いや」 いつもの平静な顔で首を振った。 「知らなかった。知っていれば、そんなことはさせなかった」 「けど、都市の人たちの中には父さんの所に相談に行ったけど、取り合ってもらえなかったって言う人も居るって……。どうしてオスカーさんを審問をしなかったの? そうすれば、こんなことにはならなかったのに。オスカーさんとはよく会ってたのよね?」 「それは……」 絞り出したようなヴィクトールの声が途絶え、小さな部屋に重たい沈黙が降りる。 壁掛け時計が刻む秒針の音が、やけにはっきりと聞こえた。一秒、二秒、三秒……僅かに身じろぎする気配。扉の軋む音がして、 「すまない。急ぎの用なんだ。話はまた明日にしよう」 「父さん!」 言い募ろうと踏み出したフレデリカの足が、縫い留めめられたかのように止まる。 振り返ったヴィクトールの顔は、これまでフレデリカが見た父の顔のどれとも違った形に歪んでいた。自分と同じヘイゼルの瞳に浮かんでいるのは、激しい苦悩と痛み。それを前にした途端、喉から出かかっていた全ての言葉が消えて無くなった。まるで自分が我がままを言って親を困らせる子供であるようにさえ思えた。 ――どうして。 戸惑うフレデリカに、ヴィクトールは苦しげに顔を歪め、 「明日、きちんと話をしよう。それと……」 一度言葉を切ると、微かに視線を逸らし、 「昨日は、頭ごなしに叱りつけて悪かった。お前が都市の為に頑張っていることは、私も知っている」 「……うん」 「だが、都市の外に行くのは認められん。……人手が足りないのだ。解ってくれ」 ――違う。 水の中から覗いた様に、静かに語る父の顔が歪んで見えた。 何かが、違う。 いつも厳格で公正な神父。天使ケントニスと共に多くの人々を救ってきた審問官。ヴィクトール・ハイゼ。 フレデリカの知る父は、こんな苦しげな顔で笑う人だったろうか。 「リオのことは、もう聞いたか?」 「リオ?」 「いや、聞いてないのならいい」 会話を打ち切るように言って、ヴィクトールは部屋の扉をくぐった。 「今日はくれぐれも、外を出歩かないように。いいな。リオには今日はここに泊まって貰いなさい。夜は門扉を閉めて、誰が訪ねて来ても開けないように」 口々に言い聞かせながら、足早に回廊を歩いていく。大きな音を立てて閉まる扉の音。礼儀作法に厳しい父とは思えない振る舞いだった。 「……何よ」 人気の絶えた部屋で、フレデリカが掠れた声を絞り出す。 「あんなに慌てて……。何かあったんでしょ? どうして私には話してくれないのよ」 唇から漏れた弱弱しい声はしかし、冷たい部屋に吸い込まれるようにして消え、急ぐ父の耳にまで届くことは無かった。 ※ ※ ※ 解いた髪が花の様に広がる。シャワーを浴びた後、フレデリカは教会敷地内に建てられた尖塔に上り、夜風に当たっていた。 第一階層から吹き上がる上昇気流が、項垂れた金褐色の髪を巻き上げる。毛量が多いせいか、髪留めでまとめていないと、ふわふわとスポンジケーキのように膨らんでしまう。くるくるの癖っ毛を、リオは「女の子らしくて可愛いよ」なんて言うけれど、癖の無い綺麗な髪の方が良いに決まっている。そっちの方が綺麗だし、何より手入れに時間がかからない。 なだらかにウェーブする髪を手ですいていると、隣に細い影が差した。 「――いい風ですね」 薄いキャラコの布地が、水銀灯の明かりを受けて羽衣のように煌めく。透明感のある薄い布地を身にまとったジブリールが、尖塔の上にある小さなバルコニーへと降り来るだった。頬を撫でる風に「気持ちいい」と微笑み目を細める。長く美しい金色の髪が夜の空に流れ、金砂を振り撒いたように、光の粒るを舞い踊らせていた。 「……ジブリールさん」 フレデリカは俯き、風に煽られる金褐色の髪を強く押さえつけた。 胸を犯すのは、身を焼くような劣等感。どんなに頑張っても、フレデリカにはジブリールのように女性らしく微笑むことは出来ない。 「ここは、夜になっても街路灯の明かりが消えないんですね」 ジブリールはフレデリカの隣に並ぶと、風に流れる髪を抑えて、ほの白い水銀灯の明かりに沈む公園を見渡した。 「……教会と、隣接する自然公園は、緊急時の避難場所になっているんです。だから夜間でも明かりが点いたままになってて」 そうだったんですか、と透明な声で囁いて、ジブリールは目を眇めた。ずっと遠くには、闇に紛れた中央管理塔が聳えている。塔の周りもまた、非常時に備えて明かりがついている。巨大な杭の様な塔の細長い輪郭がうっすらと見えた。 「どうしたんです? 元気がないですね」 優しげなジブリールの声に、激しく心が揺さぶられる。思い出したのは、七年前に他界した優しい母の顔。視界が曇る。 いけない。 顔を逸らしたフレデリカは、動揺を隠そうとして、 「母のことを、思い出してたんです」 咄嗟に、脳裏に浮かんでいたことを口にした。 「お母様――世界的な科学者だったそうですね」 ジブリールの声に曖昧に頷いて頭上を振り仰ぐと、夜に染まった強化ガラスの天蓋が見えた。映っているのは、真っ暗ば闇。リオの家から見えた、巨大な榛の木(アールキング)の枝影は、ここが明るすぎるためだろうか。見ることは出来なかった。 階層型第十四自治都市『ヴェステリクヴェレ』。母が守り、私たちが暮らす小さな揺り籠。 「何年か前に、急に森の木が次々と枯れてしまったことがあったんです。作物は痩せて、井戸も枯れて……そんなことが半年ほど続きました」 突然の異変に、都市は大騒ぎになった。ヴェストリクヴェレは、緑が豊かで作物が豊富に採れるというだけで、他には何の特徴もない地方都市。森が枯れてしまえば、みんな飢えて死んでしまう。 「ありったけの薬品を使って森を保たせようとしたけど駄目で……。気候が変わったんだって誰かが言ってました。『大罪事変』後の気候は不安定で、そういうことが世界中であったんだそうです。みんなが途方に暮れかかっていた時、手を挙げたのが母さんでした」 ヘンリエッテは、世界中の科学都市にかけあって情報を集め、当時実現不可能だと言われていた環境制御装置『ラケシス』を完成させた。 「環境制御装置(ラケシス)が完成すると、都市はゆっくりと元通りになっていきました。けれど、身体の弱かった母さんは、連日の徹夜で無理がたたって……」 言葉を切ったフレデリカに、ジブリールは悲しげに目を伏せた。 バルコニーの欄干を握り締めて、静かな眠りに就こうとしている都市を見渡す。視線は自然と中央管理塔に吸い寄せられた。 「父さんは、どうしてオスカーさんを止められなかったのかな。商会がオスティナトゥーアの人たちを騙してる、って噂は前からあったんです。けど、父さんは『そんなはずはない』って話を聞こうともしなくて……。助けてって来た人を、忙しいからって断ったこともありました。父さんが審問官としてきちんと仕事を果たしていれば、オスティナトゥーアの人たちはもっと早く救われたはずなのに」 熱い涙が込み上げてきて、目を閉じた 「忙しい忙しいって、父さんは何をしているのかな? 母さんの開発した装置は大切だけど、それで暮らしが良くなったって、暮らす人の心が荒んでしまったら、意味無いじゃない。父さんは、この教会の神父様なのに」 思いが溢れだして止まらなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、理論立てて考えをまとめることが出来ない。激流のように渦巻く感情に任せて、想いを吐きだす。 「私は許せないよ。どうしてみんなの話を聞いてあげられないの? 父さんは、その力を持っているのに。母さんは、そんな父さんが好きだったのに」 ――そうだ。 口に出してようやく思い出した。 私は、昔の父さんに戻って欲しかったのだ。 母の遺志を継いで装置を守る父と、審問官として活躍する父。そのどちらの姿も好きだからこそ、どちらかがおろそかになるのが許せなかった。そのことで思い悩む父を見て居られなかった。 だから、自分が環境制御装置(ラケシス)のメンテナンスを代わることが出来たら、と思った。 そうすれば、父さんは審問官として再び活躍できる、幼いながらに、私はそう思って――。 「……けれど、駄目だった」 震え出したフレデリカの身体を、ジブリールが横からそっと抱き締めた。ふっと甘い香りが鼻を掠める。透き通った、安らぐような甘い香り。目を瞑ると、子供の頃――まだ世界が優しさに満ちていた頃の記憶が蘇った。水辺に咲いた水連の、穢れを知らない白い花びら。芳しく甘い香り。 「人がより良い暮らしを求めるのは、祈りにも似ています」 優しく透明なジブリールの声が、そっと耳朶に染み込んでくる。 「多くの都市を旅してきた私には、ここに暮らす人々が、より正しくありたいと願っているのが解ります。幸せでありたい、都市をより良いものにしたい――都市はそんな正の感情で溢れています」 「そんなの、当然のことです。誰だって、今よりも良い暮らしがしたいと思ってる」 それなのに、どういう訳かみんなが幸せになれない。 しゃくり上げるフレデリカに、ジブリールは少しだけ困ったように笑って、 「みんな、少しだけ不器用なんだと思います。誰もが考えに考えて、正しい方へ手を伸ばしているはずなのに、幸福はするりと指の間を摺り抜けて行ってしまう。何が正しいかは朧気ながらも見えているのに、複雑に絡みあった糸が、それに手を伸ばすことを許さない事もある」 「……うん」 「貴女の苦しみは、お父様も気付いているはずです。それでも振り返ろうとしないのは、お父様にはお父様の考えがあるからなのではないでしょうか」 言って、ジブリールは「天使に選ばれた人が、困っている人を見捨てるようなことはしませんよ」と続けた。 「助けを求めて教会へとやってきた人を、お父様は無碍に追い返してしまいましたか?」 「……ううん。アンドレアス神父に紹介状を書いて、落ち着くようにって教会まで付き添っていった」 「オスカーさんが犯した罪を聞いて、それでも自分は間違っていないと言い切りましたか?」 「ううん。すまない、って凄く辛そうな顔で言ってた」 涙を拭うフレデリカを、ジブリールの腕が優しく抱きしめる。 「いつか理解し合える時が来ますよ。きっと。お父様だって、フレデリカさんのことが愛しくて堪らないはずですから。それと」 言って、ジブリールは大げさに眉を吊り上げると、人差し指をフレデリカの眼前に突き出した。 「フレデリカさんは、悩んでいることを一人で抱え過ぎる所があると思いますよ。話をするべきです。すぐ近くに、あなたの幸せを願ってくれる人が居るのですから」 ジブリールは振り返ると、階段の下に向かって「出てきなさい」と声をかけた。子供を叱る母親の様な声だった。僅かな間があって、バルコニーに繋がる階段の向こうからリオが現れた。 「リオ!」 ――見られてた!? 恥ずかしさに顔が熱くなる。慌てて目元を拭いながら、 「な、何よ。立ち聞きしてたの?」 思わず責めるような口調になってしまう。リオは俯き、何かを考えていたようだが、意を決したように様に顔を上げた。 「ジブリールさん。お話があります。それと、フレデリカも」 怖いくらい真剣なリオの表情。 ――どうしてだろう。 私はその話を、聞きたくない、と思った。 「ジブリールさんは、エリュシオンを目指しているって言ってましたよね?」 「え? ええ、そうですが」 「もしかしたら、ジブリールさんの願いを叶えてあげられるかもしれません」 突然の話に、ジブリールが戸惑い顔で目を瞬かせる。リオはバルコニーに降りてくると、内懐から一枚の便箋を取り出した。それは酒場からの帰り道、リオ宛てに届いた管理教会本部(アパティア)からの手紙――。 「管理教会本部(アパティア)から招待状が届きました。士官学校の特待生として、僕を招待したいと書かれています」 「アパティアから……?」 「管理教会本部(アパティア)はエリュシオンの野の一角にあると言います。教会は超音速輸送機を保有していますから、返事を出せば二日とかからず迎えが来るはずです。ジブリールさんも、それで一緒にエリュシオンに行けばいい」 「あの。わ、私も乗って行っても良いんですか?」 ジブリールが動揺を隠しきれない様子で自分の顔を指差す。リオは頷いて、 「士官学校の特待生は、在学中の四年間を管理教会本部(アパティア)預かりの審問官として過ごすことを条件に、友人知人を同じく管理教会本部(アパティア)の所属生として受け入れてくれると言う制度があります。これに、ジブリールさんを登録すれば」 「まぁ! それは助かりますわ!」 ジブリールがはしゃいだ声を上げ、手を合わせる。 ――どういうこと? フレデリカは未だ事の成り行きについていけず、呆然と二人の話を聞いていた。耳から入った言葉が、そのまま反対側から抜けて行く。まるで頭が理解するのを拒否しているかのようだった。 アパティアに招待? 四年間を過ごす? それってつまり、リオがジブリールさんと二人でこの都市を出て行くっていうこと? 行ってしまうの? どこにも行くことの出来ない、私を置いて。 「所属生として行く以上、しばらくは管理教会本部(アパティア)で過ごしていただくことになると思いますが、自由になる時間も多くあるはずですし……あの。それで相談なんですが」 「――止めて!」 悲鳴のような叫び声に、リオが驚きの顔を向けた。 そこには、顔を真っ赤にしたフレデリカが、怒りに目を燃え上がらせて立っていた。 「どうしてそんな話、私の前でするの? 私が都市から出られないのを知ってる癖に!」 「違うんだ。フレデリカ。僕は」 血相を変えたリオが慌てて手を伸ばす。フレデリカはそれを、乱暴に振り払った。 「そんなの聞きたく――、っ」 言いかけると同時に、声を詰まらせる。 崩れ落ちる様に膝を突くと、身体を折り、バルコニーの床に額をこすり付けるように身を捩らせた。 「……ぅっ」 ――苦しい! 息が、出来ない……! 「ごほっ、ごほっ」 「フレデリカ! 君、まさか薬を!?」 駆け寄ったリオが、額にびっしりと浮かんだ汗を見て顔を青くする。肩を抱えて上体を起こさせると、暴れるフレデリカの胸元に手を突き入れ、首に掛かったネックストラップを引き摺りだす。ネックトップの捩子を口で外し、ピルケースを口に押し込んだ。 舌に滑り落ちて来た丸い錠剤の感触に、フレデリカは夢中で喉を動かす。しばらく喘ぐように口を動かしていたが、少しずつ呼吸が収まって来た。 うっすらと目を開けると、頭上に泣き出しそうなリオの顔があった。 「……大丈夫?」 絞り出したような声に、まだ焦点の定まらない目でリオを見上げ、小さく頷く。 助かったんだ。 実感が身体に染み込んで行くのを感じていると不意に、 「駄目じゃないか! 薬を飲まないなんて!」 リオの眉が跳ね上がった。 「だから前みたいに、僕と一緒に薬を飲んだことを確認しよう、って言ったんだ。ハイゼ神父だってそうしなさいって言ってたじゃないか。それなのに、君と来たら『そんな子供っぽいこと嫌だ』なんて話を聞こうともしないで」 「……うるさい」 「うるさいじゃないよ! これは君の命に関わる」 「うるさいって言ってるの!」 叫び、フレデリカはリオの身体を押し退けた。精いっぱいの力で突き飛ばしたつもりだったのに、それでもリオはフレデリカから離れない。リオは顔を背けるフレデリカの顔を強引に覗きこみ――息を飲んだ。 「……どうして泣いてるの? フレデリカ」 再び顔が熱くなる。どうして泣いているのか、何が悲しいのか、自分でもよく解らなかった。ただ、自分がとても惨めに思えた。 母は都市を救ってこの世を去り、父は審問官としての役目を捨てて亡き妻の遺志を継いだ。リオは夢を叶えて都市を出て行く。綺麗で優しいジブリールと一緒に。 科学者になる夢は叶わない。複葉機は飛ばない。私だけが変われない。たくさん、たくさん頑張って来たはずなのに。 「まだどこか痛いの? 言ってくれないと解らないよ」 「大丈夫だから…ぁ…っ、触らないでっ……!」 顔をぐしゃぐしゃにして、何度もしゃくり上げながら、それでも精いっぱいの力でリオを押しやる。這うように立ち上がると、夢中で階段に縋りついた。 「っ、落ちついて、フレデリカ! 話せばきっと」 「リオには私の気持ちなんて、解らないよ!」 驚くほど大きな声で叫んで、駆け出す。背中に、何かを言いたげなリオの視線が張り付いているのを感じた。 ※ ※ ※ 遠ざかる背中を見送り、リオは伸ばしていた腕を下ろした。 足がすくんで、後を追う事も出来なかった。見栄っ張りのフレデリカが、肩を震わせて泣いていた。子供みたいにしゃくり上げて、顔をぐしゃぐしゃにして。そんな彼女の姿を見たのは、彼女の母ヘンリエッテが亡くなった時以来だ。 ――リオには私の気持ち、解らないよ! その言葉が、鋭く痛みを伴って、胸に突き刺さる。あんなに悲しそうな声で拒絶されたのは初めてだった。ずっと傍に居て、誰より彼女を理解していると思っていた。しかし、そうではなかったのだ。 彼女を泣かせてしまったのは、恐らく僕だ。 「私、一緒についていきます」 一人冷静なジブリールが、フレデリカを追おうとする。その手を掴んで引き止めた。 「行かないで上げて下さい。彼女、意地っ張りだから……泣いてる姿、人に見られたくないと思うんです」 「そんなこと言っている場合じゃ……!」 ジブリールが珍しく非難するような声を上げて、リオを睨みつける。リオは何も言わずに首を振って、 「お願いします」 俯く顔を見せないようにして、頭を下げた。ジブリールはしばらく掴まれた腕に力を込めていたが、 「解りました」 渋々と言った様子で言って、力を抜いた。 ありがとうございます、とリオが囁くように言ったその時――けたたましい警報音が夜の街に響き渡った。 「何かあったんでしょうか?」 表情を引き締めたジブリールが、バルコニーから身を乗り出し周囲の様子を伺う。どこか遠くで、鳴り響く警報に紛れて、スピーカーから流れる声が途切れ途切れに聞こえてくる。 「何か放送が流れているようですが……ここからでは、何と言っているか聞き取れませんね」 火事でもあったんでしょうか、とジブリールが形の良い眉を寄せ唇に手を当てる。すると、慌ただしく階段を駆け上がる足音が階下から近づいてきた。 「大変だ! 三人とも!」 血相を変えたクレーエがバルコニーに飛び出して来る。乱れた息を整えようともせず、 「すぐに逃げるぞ。支度を整えろ……おい、フレデリカはどこに行った」 「どうしたのですか? いったい何が」 クレーエのあまりの狼狽ぶりに、ジブリールが戸惑いを隠しきれない様子で尋ねる。クレーエは苦り切った顔でジブリールを、次にリオを見て、 「外からの襲撃だ。放送によると、現在都市内に多数の侵入者。……東側の第六階層から向こうは、もう火の海だそうだ」 ※ ※ ※ 「ぅ……ひっぐ……うぅ」 何度もしゃくり上げながら、暗がりを選んで走る。身体が熱くて燃え尽きてしまいそうだった。 ――リオには私の気持ち、解らないよ! 咄嗟に出た声は、怒りと悲しみに満ちていた。自分でも、どうしてそんな言葉が出て来たのか、不思議なくらいだった。 けど、同時に納得している自分も居た。きっと私の気持ちはリオには理解できない。リオはきっと、私のような汚い感情を抱いたりしないだろうから。 その事実が、少しだけ悲しかった。けど、それは間違いのないことなのだ。リオが私の気持ちを少しでも理解してくれていたなら、あんな形で管理教会本部(アパティア)の手紙を見せたりしなかったはずだ。 「酷いよ。どうしてあんな言い方……!」 あまりにも惨めで、どこかへと消えてしまいたかった。 何度もしゃくりあげながら、礼拝堂へと向かう。まだ上手く呼吸が出来ない。 今は誰とも顔を合わせたく無かった。無き晴らした目は、きっと醜く腫れ上がっているに違いない。 敷地内の石畳を通って、礼拝堂の重たい扉の前に立つと、入り口の扉が薄く開いているのに気づいた。 門扉の戸締りは、シャワーを浴びる前に一通り確認している。開いているはずは無いのだが――。 不意に、不吉な予感が胸を過ぎった。 そう言えば、自分のしゃくり上げる声で聞こえなかったが、どこか遠くで非常時に鳴る警報が鳴っている。他の階層で何かあったのだろうか。 それに――。 フレデリカは薄く開いた扉に張り付き、微かに眉をひそめた。何だろう。可笑しな臭いがする。嫌な、とても嫌な臭い。 リオやジブリールを呼びに行く気にもなれず、寝まきの袖で涙を強引に拭うと、意を決して薄く開いた扉を開く。すると、祭壇の辺りに人影が横切るのを見たような気がした。ステンドグラスに落ちる光が一瞬遮られ、長い影を落としたような気がしたのだけれど――。 「……父さん? 帰って来てるの?」 声をかけるも、答えは返って来ない。 気のせいだろうか? とフレデリカはまず自分の目を疑った。さっき見たと思った人影は、教会の中に入らないとよく見えないようだった。 ――貧乏教会に押し入る強盗なんて居ないはずよ。 そう自分に言い聞かせ、恐る恐る赤いカーペットの敷かれた身廊を進む。礼拝堂の鍵を持っているのは、フレデリカとヴィクトールだけだ。もしかしたら、ヴィクトールが忘れ物を取りに、一度戻っていたのかもしれない。鍵を閉め忘れなど、普段のヴィクトールからは考えられないことだが、先ほどの慌てぶりを見る限り、有り得ないことではないだろう。 ずらりと並ぶ長椅子の間を歩いて、祭壇が置かれている内陣の前まで来る。ゆっくりと辺りを見渡すも、人の姿は見当たらない。その時、ふと足元を長い影が掠めた。ぶらり、と右から左へ影が振れたように見えた。 どこ? フレデリカは慌てて周囲を見渡した。しかし、辺りに動くものは見当たらない。不意に、強い異臭が鼻を掠めた。 ここじゃない。 ――上? フレデリカは、何気なく十字架の掲げられた祭壇を見上げ――言葉を失った。祭壇の上で、何か大きなものが振り子のように揺れている。 「……父さん」 言葉にならない声が、喉から漏れた。 頭上で揺れているのは、祭壇に掲げられた十字架から垂れ下がった縄と、それにぶら下がった変わり果てた父の姿だった。 やせ細った頬は赤く腫れ上がり、大きく見開かれた双眸からは、ヘイゼルの瞳が飛び出かかっている。自重で首が長く伸びた姿は、どこか遠い国の別の生き物のようでさえあって、意識が白濁して遠のきかけているフレデリカにでさえ、否応にも既に手遅れだということが理解出来た。 カソックの裾から滴り落ち、異臭を放っているのは糞尿。赤いカーペットを汚して黒くシミを作っている。 「どうして」 生理的嫌悪感に後ろに下がったフレデリカの手に、かさり、と乾いた何かが手に触れた。 長机に置かれた便箋。フレデリカはそれを、細かく震える手で拾い上げた。 読み進めるにつれ、青褪めたフレデリカの顔が、蝋のように白く透けて行く――。 |