■第五章 火天 caelum empyreum
■幕間3


 教会を後にしたヴィクトールは、蜀台を手に夜の街路を急いでいた。
「オスカーめ……! やってくれたな」
 昼間に都市を騒がした事の顛末は、既にヴィクトールの耳にも入っている。希少鉱物《レアメタル》取引の詐称に、市民の善意である寄付金の横領……極めつけはオスティナトゥーアが興した新規事業を、裏で圧力をかけて潰していたという事実。市民が怒り狂うのは当然だった。
 万事休すと思われたオスカーは、広場で公開私刑《リンチ》に遭う所をリオたちの機転に救われたという。つくづく悪運の強い男である。
(いや、悪運というのならば、私もそうなのだろうな) 
 全てが露見したオスカーの悪事――それに、神父ヴィクトール・ハイゼが一枚噛んでいたという事実は未だ露見していないのだから。
 後悔が重たい泥のように足にまとわり付き、焦燥が燃え盛る炎となって重たい身体を突き動かす。ヴィクトールには石畳の街路が、死体の敷き詰められた黄泉路のように感じられた。
(全てはもう、過ぎたことだ)
 くらくらと揺らる視界の中、自らに懸命に言い聞かせる。
(こうなることは、初めから解っていただろう。……七年前のあの日から)
拳を握りしめると、手の中の封筒が乾いた音を立てた。固く握った拳の中から覗く真っ白な封筒には、剣と天秤を模した管理教会《アパティア》の紋章が刻まれている。ヴィクトールはその紋章を忌々しげに見下ろし、石畳を蹴る足に力を籠めた。
(急がなければ。時間が無い)
 一刻も早くオスカーを見つけ出し、都市の外へ逃げるよう警告しなければならない。管理協会《アパティア》からの報告が正しければ、都市は今、壊滅の危機に瀕しているということになる。
(恐らく、アレ《・・》は環境制御装置《ラケシス》の存在を許しはしないだろう)
 確信めいた予感に、心中を暗い影が過る。
 オスカーの消息は昨夜から掴めていない。秘書と用心棒を連れて出かけたという話だが、戻ってきた形跡は無かった。都市の外へと逃げたのなら良いが、身体の弱い愛娘を残して行くとは考え辛い。
最悪の想像が頭を過り、ヴィクトールの歩調が更に早まった。向かう先は最下層プレートの中心にそびえる都市の中枢、中央管理塔。
 オスカーに真実を語らせてはならない。もし真実が公になることになれば、アレは必ず都市を、

 ……くすくす。

 第三階層へと繋がる下り階段が見えて来た頃、耳朶に紙片が擦れる様な囁き声が飛び込んで来て、ヴィクトールは凍りついた様に足を止めた。
 自然公園に沿って伸びる、真新しい石畳の街路――パチパチと明滅を繰り返す街灯の下に、十歳程度の少女の姿があった。青白い水銀灯の明滅に合わせて、肌理の細かい褐色の肌が、ぼぅ、と浮かび上がる。
 ――ヒトではない。
 ヴィクトールの喉が小さく鳴った。心拍数が跳ね上がり、耳の奥からはっきりと、ドクドクと激しく鼓動を刻む心臓の音が聞こえてくる。
 震える手が、カソックの下に吊り下げた分銅に伸びた。
(……闘えるのか? 今の私に)
 ヴィクトールは聖遺物《レリクス》を模した鎖を握り、
「都市の中央にそびえる、あの塔――まるで罪人を磔にする巨大な杭の様ですなぁ」
背後から響いた野太い声に、弾かれたように振り返った。
 公園の前に置かれたベンチに、大柄な男が足を投げ出すようにして座っている。歳の頃は四十手前と言った所だろうか。男は立ち上がると、大きな体を窄めて恭しく頭を下げた。胸の前で揺れる、無骨なロザリオ。そこでヴィクトールは初めて、男が自分と同じカソックを着ていることに気づいた。
「……何者だね?」
「申し遅れました。私の名はバレンタイン。審問官の末席を汚している者です」
「審問官だと? 証拠を見せたまえ」
 射抜くような視線を送るヴィクトールに、バレンタインは低い声でくつくつと笑った。
「何が可笑しい」
 ヴィクトールが語気を強める。
「いや、失礼。証拠とは、また妙なことを仰る。……まぁいいでしょう」
 言って、男は虚空から何かを取り出す仕草をした。先ほどまで空手だった白い手袋の嵌められた右手に、一本の短剣が顕れる。
 間違いない。聖遺物《レリクス》だ。
「信じていただけましたか? 神父殿」
 微笑み尋ねる男に、ヴィクトールは頷き、
「なるほど。よく解った」
素早く懐から抜き出した銃を、躊躇いもなく撃ち放った。乾いた銃声が夜の公園に木霊する。
「……何のつもりですかな? 神父殿」
「解った、と言ったのだよ。バレンタイン審問官。貴方がただの審問官ではないということがね」
 撃ち放った弾丸は――いつの間に移動したのだろう――男を庇うように前に立つ、少女の突き出した掌の前でその動きを止めている。まるでそこだけ時間が止まっているかのようだった。
くすくすと少女が湿った声で笑う。耳朶に染み込んで来る音の不吉さに、ヴィクトールの背筋をぞくりと悪寒が這い登る。
 ――気配に呑まれてはならない。
 ヴィクトールは強く拳を握り込み、男を見据えた。
 ――これが『大禍』。
 この男が、神に背いて堕落したという審問官か。
「ふん。その様子では、私が何のために来たのか解っているようだな。神父殿」
 男が鼻を鳴らすと同時に、夜の明度が落ちたような気がした。男の空気が一変する。圧倒的な存在感。何より葬列を前にしているかのような不吉さに、ヴィクトールの足に震えが走る。あらゆる光を吸い込む奈落を覗いているような、抗い難い諦観と、根源的恐怖が心の奥底より湧き上がってくる。
「今年の夏、オスティナトゥーアの老神父が流行病《はやりやまい》で亡くなったことは知っているな? 管理教会《アパティア》は主任司祭の立場にある審問官に、近隣都市に赴任した司祭にもしものことがあった場合、すぐに本部へとその旨を報告することを義務付けている。……どうして報告しなかった?」
「報告は別の審問官から行っていると思っていたのだ。私はその時には、既に審問官としての一線を退いていた」
「苦しい言い逃れだな。貴様が提出した報告書は、この一年間全て『問題なし』の一文のみ。貴様は一線を退いていたと言うが、主任司祭の立場を委譲したわけではないだろう。姉妹都市であるオスティナトゥーアに赴任した神父から挨拶が無ければ、疑問に思うのが普通だ」
「それは」
「知らなかった、とは言わせんぞ」
 男が握っていた短剣を掲げた。地面を赤黒い炎が駆け巡り、複雑な図形を形作る。
「――開廷=v
 男の低い声に、ヴィクトールは身構えた。手にしていた錘を投げ放とうとして、
「……なっ」
瞬く間に身動きが取れなくなった。目の前には、先ほどまで水銀灯の支柱一間分の距離を挟んで向かい合っていたはずの、男の野太い腕がある。
 ――何が起きた?
 その問いを発する前に、正面から頭蓋を鷲掴みにされ、宙に吊り上げられる。ヴィクトールは力任せに身体を捩ろうとして、
「っ――」
息を詰まらせた。悪鬼のように歪んだ顔が、怒りに爛々と輝く瞳を燃え上がらせて、ヴィクトールを見上げていた。
「お前は気付いていて、見ない振りをしたのだ。それだけではない。貴様は何年も決して見逃してはならない罪を見逃し続けた。この都市が犯し続ける罪を。そうだよなぁ。でなければ――」
一度言葉を切ると、唇の端を吊り上げ、
「天使には逃げられまい」
「……なぜケントニスのことを」
思わず声を上げて、ヴィクトールはすぐさま自らの失言に気付いた。
 宙づりになった身体に振れる、確かな感触。太腿にしがみついた少女が、ヴィクトールを見上げて、からからと大人びた笑い声を上げる。
「知ってる? 偽物の神父様。聖遺物《レリクス》は天使がついていないと使えないのよ? ダリウスに私がついているようにね!」
 言って、少女は零れんばかりに目を見開き、ヴィクトールを見上げた。その瞳は、魔性を結晶化したような、血のように深い紅色。
「ぬう……」
 喉から驚嘆に似た音が漏れる。
「単なる噂だと思っていた……。お前がそうなのか。信じられん。お前が。人と変わらぬ姿をしたお前が!」
 心臓の鼓動が際限なく早まり、呼吸が乱れ、視界がぐるぐると回転を始める。見える景色が幾重にも重り次々と移り変わる。万華鏡と化した世界で、少女が出した艶めかしく濡れた赤い舌だけが、妙にはっきりと脳裏に残った。
「あはははは! お笑い草だねぇ。天使に逃げられたのに、まだ神父を名乗っていたなんて!」
 下腹部に熱を感じて、視線を降ろす。少女が抱き着いた太腿の辺りから、赤黒い炎が吹き出し、それは瞬く間にカソックへと燃え移った。
 くすくすと笑う、大人びた怪しい声。
「あの真面目で融通の効かないケントニスが見たら何て言うかな――?」
 喉から迸る悲鳴を、押さえることは出来なかった。
 ヴィクトールの淡褐色《ヘイゼル》の瞳に映っているのは、もはや少女ではなかった。苦悶に顔を歪めた無数の亡者が、肉色の肌を蠢かせて、ゆっくりとヴィクトールの身体を這い登ってくる。腐臭が鼻孔を突き、ねちゃつく黄色い体液がぞろりとカソックの下に浸み込む。
「裁きの時だ、ヴィクトール・ハイゼ」
 そう宣言した男に、瞳の奥を覗きこまれた瞬間の声――ヴィクトールは理解した。
 ――例え私に天使がついていたとしても、コレには敵いなどしない。
 目の前の男の黒々とした瞳に映っているのは、無数に群がる地獄の亡者。男はヴィクトールと同じ光景を見ている。それなのに、眉ひとつ動かそうとしない。
 無意識のうちに赦しの言葉を紡ぐヴィクトールに、男は顔を寄せ、羅刹のように笑う。
「そう嘆くな、罪人よ。告解の言葉くらいは、この私が聞いてやる。貴様も神父の端くれなら、自らの処遇は自分で決めるのだな」

■火天@ マグノーリエの声

 リオはジブリールたちと手分けして、フレデリカを探していた。
 教会内を駆け回り、手当たり次第に隠れていそうな場所を当たっていく。しかし、フレデリカの姿は一向に見当たらない。
「ここにも居ない……」
 リオは顎から滴る汗を拭い、照明の落ちた天蓋を見上げた。
 気付けば、あれほどの音量で鳴り響いていた警報は止まっており、辺りは空寒い程の静寂に包まれていた。リオにはそれが、不吉な何かの兆しに思えてならない。
 都市外縁部で大規模な火災が発生しているという情報もある。密閉構造の篭型都市で大規模な火災が起こると、都市内の酸素濃度が低下し、都市全体が危険な状態になる可能性があると聞いたことがある。楽観視はしていられない。
 ――フレデリカを見つけ出して、早く避難しないと。
 じっとりと汗ばんだ背中に、冷えた夜気が染み込んで来て、リオはそっと身体を震わせた。
「フレデリカ! 返事をして!」
 声を張り上げるも、答えは返って来ない。フレデリカのことだ。ほとぼりが冷めるまで出て来るつもりは無いのだろう。
 今になって、あの時ジブリールを止めたことが悔やまれる。ジブリールがフレデリカに付き添ってさえいれば、こんなことにはならなかっただろう。
 意地っ張りのフレデリカ。
 今もどこかで、一人泣いているのだろうか――。
「……情報が入らなくなった。都市内で何が起きているのか、全く掴めない」
 正門の前で、息を切らしたクレーエが膝に手を付いたまま言った。
「もしかしたら、例の『大禍』が都市にやってきたのかもしれません」
 頭を過ぎったのは、昼間に都市で聞いた噂だった。あれだけ大規模に警報を鳴らしておいて、その後音沙汰なし、というのはやはり可笑しい。何か、都市でも対処仕切れないことが起きているのかもしれない。
「なぁ、リオ」
 名前を呼ばれて顔を上げると、眉をひそめたクレーエが、困っているような、怒っているような――何とも不満げな表情でリオを見下ろしていた。
「前から気になっていたんだが。その『大禍』ってのがやってくると、何か不都合があるのか?」
 渋面を作って尋ねるクレーエに、リオは答えを返そうとして――「まぁ!」という高い声に答えを遮られた。
 ジブリールだ。ちょうど正門前にやって来たらしく、大げさな仕草で口元に手を当て、宝石のような瞳を見開いている。
「クレーエ。あなた『大禍』が何かも知らないんですか!?」
信じられません、と驚愕の表情を浮かべ、数歩後退る。
 ちなみに、ジブリールはつい先日リオに話を聞くまで、『大禍』のことを知らなかったはずだ。
「驚きましたわ。『大禍』が何かも知らないなんて。あらあら。どうしてこんなことが起きるのでしょう。開いた口が塞がらないとは、まさにこのことです」
「……そういう話には疎いんだ。教えてくれ」
 早々に白旗を挙げたクレーエに、ジブリールは何故か不満そうな顔をすると、リオへと視線を映して、にこやかな笑顔。
 説明して下さい、ということらしい。
「解りました。ええと……」
 リオは、先日ジブリールに話して聞かせたように、いくつかの話をかいつまんで話した。大禍については様々な噂があるので、ジブリールにしたものと全く同じ説明にはならなかったが、骨子に変わりは無いはずだ。
 ――曰く、『大禍』は九年前の『大罪事変』において神を汚し、世界を終末へと導いた大罪人。
 曰く、世界を破滅へと導く力の渦。
 曰く、都市へと災厄を振りまき続ける一種の呪い。
 曰く、神を裏切り悪魔の頭領と化したかつての聖者の成れの果て……。
「はぁ――そうだったんですか」
「お前もよく知らないんじゃねぇか」
 感心したように頷くジブリールの頭を、クレーエが平手で張り倒す。頭を押さえて蹲るジブリールを見下ろして、クレーエは小さく鼻を鳴らすと、
「で、そいつが現れると、都市にどんな災厄が降りかかるんだ?」
「父さんから聞いた話では、『大禍』に襲われた都市はそのほとんどが廃棄――つまり、都市自体が地図から消えるほどの被害を受けているそうです。オスティナトゥーアでも先日、大規模な火災があり多くの犠牲者を出したとか。それと……これはお話していなかったのですが、管理教会《アパティア》から届けられた手紙に、『大禍』のことが書かれていました。オスティナトゥーアの被害に関する情報です。当初、千人近い犠牲者を出したと言われていた火災ですが……。数が足りないんだそうです」
「数が足りない?」
「人口に対して、遺体の数が圧倒的に足りないんですよ。調査の結果、オスティナトゥーアは現在、住民が一人も居ない状況なんだそうです。登録上は、一万を超える住人が一夜のうちに消えたということになります。なのに、都市内で見つかった遺体は、一割に満たない千人程度。遺体の損傷が激しいので、身元の特定は難しいそうですが、それでもこれは明らかに異常です」
 低く抑えたリオの声に、「はっ」というクレーエの嘲笑うような声が被さった。
「一万の住人が一夜のうちに消える? 都市に壊滅的被害を与えるだと? そりゃ人間の仕業じゃないわな」
 その疑問には、リオも同意せざるを得ない。
『大禍』に関する噂は多種多様で、それら全てを統合すると、とんでもない怪物が存在することになってしまう。噂はどれも曖昧で、確たる証拠が無いものばかり。憶測ばかりが飛躍している印象は、リオ自身も抱いていた。だからこそ、リオは『大禍』に関する情報が入っても、自分のところで留めておいたのだ。
 しかし――。
「僕、もう一度教会の中を調べてきます!」
 それを他愛ない噂であると断言することが出来るほど、リオは楽観的な性格をしていない。
 リオは踵を返すと、再び教会の居住部へと向かって駆け出した。

   ※   ※   ※

 教会へと走って行ったリオを見送って、クレーエは咥えた煙草に火を付けた。
「どうにも雲行きが怪しくなってきたな……」
 都市に何が起きているのか、全体像が掴めないことが不安を増長させている。
 人間の想像力は容易にありもしない化け物の姿を描き出す。『大禍』の噂もその手の類だろう、そう思う一方で、これだけの噂が周辺都市にまで蔓延っているというのに引っかかりを覚えている自分も居た。火の無い所に煙は立たない。噂になっている以上、その根拠となるものがどこかに存在するのだろう、そういう思いもある。
 オスティナトゥーアの人々には、負傷し倒れていたのを助けてもらった恩がある。何人かの顔が頭を過る。彼らは無事だろうか。一組の老夫婦と、親を亡くした幼い兄弟。オスカーの悪事を暴き、救って見せると柄にもなく約束した。

 ――この人殺し! 悪魔め!

 予感めいた心のざわめきは、戦火の記憶を呼び起させる。
 九年前の、嵐の夜の記憶を――。
 ふと思った。
 オスティナトゥーアの人々が戦禍に巻き込まれたのは、自分のような人間が関わったからではないだろうか。もしも、自分が関わらなければ、こんなことには。
「止めだ止めだ!」
 苛立ちを紛らわすように、がしがしと頭を掻き毟る。
「一万人の住民が消える? 馬鹿馬鹿しい。何が『大禍』だ。そんなものは在りはしない。妄想が肥大化して独り歩きしているだけだ。すぐに誤報だと明らかになる」
「……一人で楽しそうですね」
 気付けば、蹲ったジブリールが非難めいた目で見上げていた。

   ※   ※   ※

「ここにも居ない……」
 部屋に誰も居ないことを確認して、扉を閉める。家主に無断で部屋の中を捜し回るのは気が引けるが、そうも言っていられない。
 外回廊は、乾いた夜の下で沈黙を保ったまま重く深く沈んでいた。各々の部屋はひっそりと静まり返り、人の気配はまるで無い。家主が不在であるという点を除けば、昔からよく知るのハイゼ家そのままだ。
(ただ一つ、あの几帳面なハイゼ神父の部屋が、荒れていたことが気になったけれど……)
 石畳の外回廊を歩き、教会部へと戻る。
 神父が中央管理塔へ出かけたことは、フレデリカから聞いて知っていたが、都市内でいざこざが起こっているなら、審問官であるハイゼにも応援の要請が行っていることだろう。
(フレデリカの所へは戻って来ないのかな)
 泡のように浮かび上がった感情を、慌てて圧し殺す。それは、いささかの批判的な色を含んでいたから。
 居住部を確認し終え、香部屋まで引き返すと、その先には薄暗く生活感に欠けた、古い教会の石壁が続いていた。
「冷たい家だ」
 思わず、率直な感想が口を突いた。
 かつては、温もりと光で溢れていた第一教会は、あの日を境にすっかり姿を変えてしまった。
 ハイゼ神父は、昔は優しい神父様で、幼いリオに様々なことを教えてくれた。審問官の役割、使命、誇りと歓び――どれもが幼いリオにとって心躍る話しばかりだった。しかし、あの日を境にそれは一変した。フレデリカの母、シュタルケ博士が亡くなった、あの日から――。
 フレデリカは悲しげな顔をすることが多くなり、リオは神父と顔を合わせても、口を聞いてさえ貰えないことが多くなった。
 都市を任される主任司祭と、環境制御装置《ラケシス》の管理責任者という重責ある立場を兼任しているため、神父が多忙であるということはリオにも理解できる。だが、フレデリカが時折見せる寂しそうな表情を目にするたび、そのやり方に疑問を感じている自分も居た。
(それに――)
 少し、気になることがあった。
 それは、ハイゼ神父の肩の向こうに、ケントニスの姿をもう何年も見ていないということ。
 審問官たるリオは、長らく天使マグノーリエと一緒に居たため、他の審問官を守護する天使の気配を感じ取ることが出来る。しかし、ハイゼ神父からはもう何年も、天使ケントニスの気配を感じることが出来ないのだ。それは、ちょうどシュタルケ博士が死亡した時期と重なる。ただの杞憂だろうか? もちろん、フレデリカには口が裂けたって、こんなことは言えないけれど。

 ――……聞いて。

「え?」
 不意に後ろから呼ばれたような気がして、リオは弾かれたように冷たい廊下を振り返った。蜀台の明りに、石造りの廊下がぼんやりと映し出される――しかし、人影一つ見当たらない。
 「誰か居るの?」そう声をかけようとして、リオの視線はある一点に吸い寄せられた。廊下から少し奥まった所にある、ひと際頑丈な古い胡桃の扉。
 奇妙な予感が、さっと胸を撫でた。
「もしかして」
 吸い寄せられるように、扉の前に立つ。扉は聖堂の右側廊に繋がっている。
 フレデリカを捜すに当たって、教会部の部屋は真っ先に調べたが、唯一聖堂は外扉の鍵が閉まっていたため、中を確認していなかった。しかし考えてみればフレデリカは教会の全ての部屋の鍵を持っている訳で、施錠された聖堂は身を隠すには実に都合の良い場所と言える。
 内扉の真鍮製のドアノブに手をかける――鍵はかかっていない。ゆっくりと扉を開く。
 採光塔から落ちる、水銀灯の人工的な明り。神への祈りを結晶化させたような美しい聖堂が、冷たい夜の帳の上に青く照らし出される。
「フレデリカ? 居るの?」
 大きな声で呼びかけてみるが、返事は無い。もっとも、あのフレデリカが素直に返事をしてくれるとは思っていなかった。
 側廊から中に入り、赤いカーペットの敷かれた身廊を通って、内陣を目指す。祭壇が見える位置まで進むと、ステンドグラスから落ちる光に、影が落ちているのに気づいた。
 誘われるように顔を上げ――全身に電気が走ったように、動けなくなる。

 ステンドグラスの前に掲げられた、大きな十字架。
 そこには、首を吊ったハイゼ神父の変わり果てた姿が――。

   ※   ※   ※

 わぁ――と遠く聞こえた悲鳴を聞きつけたクレーエが聖堂に駆け付けた時には、中からは物音一つ聞こえず、辺りは不気味な静げさに包まれていた。
「リオ! どうした。何があった!」
 扉に張り付き、声を張り上げる。
 頑丈な外扉を力任せに叩いていると、中から鍵が外れる音がした。扉が開き、中から硬い表情のジブリールが顔を出す。
「何があった?」
 肩を掴み揺さぶるクレーエに、ジブリールがゆっくりと首を振る。
 ――まさか。
 ぞくり、と悪寒が全身を駆けた。石のように動かないジブリールを押し退けて中に入り、身廊の上を駆け抜ける。祭壇の前に、立ちつくすリオの姿を見つけた。
 リオは見開いた目いっぱいに涙を浮かべ、呆然と祭壇の上を見つめていた。その視線の先には、首を吊ったフレデリカ――ではなく、カソック姿の痩せた男。
「ハイゼ神父……か?」
 反射的に足が止まったが、ほどなく理性が身体を動かした。汚れたブーツで祭壇を駆け上がり、強張った神父の冷たい腕を取る。一見しただけで結果は解っていたが、それでも確認しない訳にはいかなかった。
「……駄目だ。亡くなっている」
 クレーエが小さく呟くと、背後でリオがくず折れる音がした。
「リオさん! さぁ、こちらへ」
 蹲る身体を支え、ジブリールがリオを近くの長椅子に座らせる。リオはショック状態にあるらしく、その身体は細かく震えていた。
 ――無理も無い。平和な都市では、死体を目にする機会も少なかっただろう。
 クレーエは鋭く目を細めると、再び祭壇へと視線を移した。一目この光景を目にしたときから、拭いがたい違和感があった。
「神父が、自殺だと?」
 掠れた声で呟く。
 クレーエは直接ハイゼ神父のことを知らない。しかし周囲の評判から、神父がとても厳格な神職者であることは聞き及んでいた。先ほど敷地内を見て回った時も、厳格に自らを律する清貧の精神を感じたものだ。
 だからこそ、疑問が残る。
 それ程の強い意志を持った神職者が、自身の生の幕引きに、宗教上大罪とされている自殺を選択するだろうか。
 もしや他殺――?
 払い難い疑惑が首をもたげる。クレーエは誘われるように、遺体の元へと近寄ろうとして、
 くしゃり、
革のブーツが、くしゃくしゃに丸められた紙片を踏んだ。
 拾い上げると、端正な万年筆の文字が目に入る。簡素な白い便箋の冒頭には『愛する我が娘フレデリカへ』とある。
「遺書……か?」
 遺書が残っているということは、やはり自殺なのだろうか。しかし、どうしてまるでゴミのように捨て置かれて?
「クレーエさん」
 静かな声に振り返ると、リオの哀しげな瞳と目が合った。
「その手紙、見せて貰えまませんか」
「……」
 僅か、見せても良いものかどうか逡巡する。リオの顔は蒼白で、足は細かく震えていた。
「お願いします」
「ああ。構わないが」
 強い声に、自然と足が動いた。便箋を綺麗に畳み直しながら祭壇を下りて、リオに手渡す。宛名がフレデリカになっているとはいえ、神父と面識の無いクレーエが持っているのも可笑しい。死者の弔いもまた、審問官の職務の一つだ。
 リオは強張った表情で便箋の一枚一枚に目を通して行き、
「ああ、どうして、こんな」
目元を抑え、嘆きの言葉を口にした。
「……リオ」
 内容を尋ねても良い物かどうかと躊躇っていると、リオが持っていた便箋の一枚をジブリールへと差し出す。ジブリールの顔色がさっと変わった。冷たい翆緑色の瞳を揺らすと、便箋をクレーエにも見えるように翳す。
 便箋には、ハイゼ神父のものと思われる端正な文字の上から、別の荒々しい文字が書き殴られていた。
『先に避難しています。ごめんなさい、少し一人にさせて下さい』
「……そうか」
 思わず、長いため息が漏れた。
「ハイゼ神父の遺体を最初に見つけたのは、フレデリカか」
 クレーエの言葉に、ジブリールが悲しげに目を伏せる。
 ジブリールから便箋を受け取ると、クレーエはかさかさの紙片に視線を落とした。遺書には、ヴェストリクヴェレに『大禍』が現れたこと、自分の死体はそのままにして、すぐに都市の外へ避難するように、といったことが強い語調で書かれていた。
「先に行くって。どうして僕たちを呼ばなかったんだ。フレデリカ」
 リオの悲痛な声が教会内に響く。
 クレーエは神父を十字架から降ろすと、祭壇の前に静かに横たえた。そっと目を閉じさせると、傍らに立ったジブリールが胸の前で十字を切る。誰とも無しに全員が視線を下げた時、リオが思い立ったように顔を上げた。
「もしかして、フレデリカが泣いていたのは、お父さんが亡くなっていたことを知っていたからなんじゃ」
「いや、それは無い。遺体の様子から判断するに、神父が亡くなったのは、ほんの一時間ほど前だろう。フレデリカが遺体を見つけたのは、俺たちがあいつを探して教会内を駆け回っていた時と考えるのが妥当だ」
 それに、倉庫《ドッグ》に戻って来たフレデリカは、クレーエたちに「父は急ぎの用で、中央管理塔へ出かけてた」と言っていた。クレーエの見る限り、その言葉に嘘は混じっていなかった。
「遺書には、他にはなんて書いてある? ……その、大まかにでいいんだが」
 聞き難そうに尋ねるクレーエに、リオはあっさりと残りの手紙を差し出した。読んでも良いと言う事らしい。受け取り素早く目を通す。
 便箋には、端正な文字で『大禍』に関することが詳細に書かれていた。管理教会《アパティア》から送られてきた警告文に添えて、神父なりの見解が書かれている。
曰く、
「すぐにこれらを都市の人々に伝え、一秒でも早く都市の外に逃げ出すこと。決して『大禍』に刃向おうとしてはいけない」
 口に出して読んでみて、クレーエはその後に続く文面に気になる一語を見つけ、眉根を寄せた。便箋三枚に渡る遺書は、こう結ばれていた。
 ――『大禍』の正体は、神に仇なすことを選んだ審問官である。その証拠に、彼の従える天使は純白ではなく、黒く染まった羽を持つ。
「黒い羽の天使……そうか。『大禍』とは堕天審問官のことか」
「堕天審問官?」
 思わず声を上げたクレーエに、リオがオウム返しに尋ねる。クレーエは一つ頷いて、
「堕天審問官ってのは、神の意志に背いて、管理教会《アパティア》のヒエラルキーから除外された審問官のことだ」
「……神の意志に背く行いをした審問官からは、天使が離れていくんじゃ?」
「そうだな。普通はそうだ」
 通常、天使は自分が守護する人間が『審問官に相応しくない精神となってしまった』と判断した場合、その人間の元を離れて神の元へと戻っていく。
「だが、極稀に例外が生じる。それは、審問官が神とは別の正義の在り方を見出した時――つまり、『神の意志には背くが、審問官としては適正である』と天使が判断した場合だ。天使は『その者の元を離れろ』という神の意志に背き、罰として神の眷属としての資格を剥奪される。神の意志を頂点とする天使のヒエラルキーから外れ、一個の独立したシステムとして動き始めるんだ」
そうして資格を剥奪された天使は、決まって純白の羽が黒く染まる。これを管理教会《アパティア》は〈堕天使〉と呼ぶ。
「そんな話……聞いた事がありません」
 戸惑った様子のリオだが、それは無理のないことだった。管理教会《アパティア》は、堕天審問官の存在を公にしていない。管理教会《アパティア》が、審問官の力は『神に与えられた特権』と吹聴している以上、神の意志に背き、それでも審問官としての力を失わない堕天審問官の存在は彼らにとって都合が悪い。もっとも、堕天審問官の存在は公然の秘密と化しており、管理教会《アパティア》に属する者はおろか、長く審問官を務めている者なら、誰でも知っていることだった。ハイゼ神父の手紙にも、堕天審問官という言葉こそ出てこないものの、その存在を臭わせる様な記述が所々に確認出来る。
「なるほど。ハイゼ神父が、繰り返し逃げるように言っているのは、相手が堕天審問官だからですか」
 ジブリールが合点がいった様子で頷く。対象的に、リオはまだ納得がいっていないようで、細かく眼球を動かしている。
「堕天審問官がどうして『大禍』と繋がるんですか? ……僕にも解るように、説明してもらえませんか」
「もちろん、そのつもりだ」
 堕天審問官は、十年に一人現れるかどうかと言われている希少事案《レアケース》。にも関わらず、その存在が広く知れ渡っているのには理由がある。
「リオ。天使たちの意識が、大本では繋がっていることはお前も知っているな?」
 クレーエの問いに、リオは小さく頷いた。
 天使たちの意識は独自のネットワークで繋がっており、互いの執行に偏りが産まれないよう、常に平準化を行っている。
 しかし、堕天使はこのネットワークから切り離された存在。執行基準の平準化は行われない。
 結果、堕天使は求めに応じるままに、堕天審問官が持つ独自の価値観・判断基準によって審問執行を行うようになり、通常では考えられない――多くの場合、残酷で非人道的な――審問執行を繰り返すようになる。
 そして、この事実はもう一つ、重大な問題を孕んでいる。
「堕天使は、管理教会《アパティア》所属の天使が持つヒエラルキーの外にある存在だ。よって奴らには、階級差による審問の優先が適用されない」
「……それは、つまり」
「一つの罪を二人の審問官が裁こうとした場合、互いの主張が平行線を辿れば、より高い位を持つ審問官の審問が適用されるのが普通だ。しかし、堕天審問官にはこれが通じない。堕天審問官がどんな非常識な審問を行っていようと、審問官は容易に手出しが出来ないんだ」
 一説によれば、堕天審問官の審問執行を止めるには、少なくとも二階級上の天使の力が必要だと言われている。つまり、ハイゼ神父のような司祭審問官が堕天した場合、それを止めるには、司祭の上の位にある司教審問官より更に高位、管理教会《アパティア》本部でも数人しか居ない大司教審問官の力が必要だということになる。
 この都市に居る審問官のうち、アンドレアス神父は司祭審問官、リオに至っては、助祭より下の書記審問官だ。これでは『大禍』を止めることは難しい。
「堕天審問官の発生は台風のようなものだと言われている。とにかく少しでも遠くに逃げるのが唯一の対処法だ。今は都市の外に避難して、台風が通り過ぎるのを待つよりほか無い」
「……解りました。僕たちもすぐにフレデリカを追いましょう。彼女を一人にして置くわけには――」
 そこまで言いかけて、リオは言葉を止めた。不思議そうに辺りを見渡す。
「どうした、リオ?」
「いま、声が聞こえたような気がして。その、聞いて≠チて」
 リオが戸惑った様子で言ったその時、重たく閉じていた聖堂の扉が勢いよく開かれた。
「ハイゼ神父! ハイゼ神父はいらっしゃるか!」
聖堂に響く甲高い男の声。その声を皮切りにして、何人もの警備兵が軍靴を鳴らしながら教会内になだれ込んで来る。





(>∀<)ノぉねがいします!



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