13.不可逆な悪夢




「“まさか”何さ? もしかして、僕を疑ってるの? 失礼しちゃうな」
 殺気の篭もった視線を向ける士郎に、メレム・ソロモンは呆れ顔で肩を竦めた。
「尾けられたね、二人とも。注意が足りないなー。話の邪魔をされて、文句を言いたいのはこっちのほうなんだけどなー」
 じろり、と非難めいた眼差しを士郎に向ける。
 悪意の感じられないメレムの様子に、士郎の緊張が解けた。この吸血鬼には、相手を騙したり謀ったりするような考えが無いことを、彼は彼よく知っていた。
「あーあ。あんなゲテモノ、食べる気にもならないよ」
 苦々しく顔を歪める。良くも悪くも、彼は永遠の少年ピーターパンなのである。
「……む。疑って悪かった。だが、どうする? 話の間、大人しくしてくれているとは思えないぞ」
「僕はそこで休んでるから、さっさと片付けちゃってよ。――ああ、ここの美術品はまだ全部見てないから、壊さないでよね」
 そう言うと、我関せずといった様子で、ひょこひょこと壁際の彫像によじ登り、腰掛けてしまった。持っていた分厚い黒い装丁の本を開くと、澄ました顔で読み始める。
 戦う気は無いらしい。
「士郎!」
 緊張を含んだ凛の声が響く。固まっていた士郎は、はっ、と闇の中へと視線を戻した。
「なにボーっとしてるのよ」
「――悪い。少し気を取られていた」
「まさか、尾けられてたなんてね。お互い、少し弛んでいたかしら?」
 自嘲するように、凛が呟いた。士郎もそうだな、と小さく頷く。
「まったく弁解の余地も無い。誰かが尾けてきているという気配はあったがすぐ近くで尾行していた遠坂の気配に紛れて気付かなかったとか、その遠坂自身も俺に見つからないようにするのにいらない気を使ってたから気付かなかったんだろうとか、そんなことは何の言い訳にも……」
「ああ、もう! うるさいわね! 元を正せば、あんたが何も言わずに勝手に……」
「二人とも。美術館では静かに」
 本から顔も上げずに、メレムが声を上げた。
「まったく、痴話喧嘩も程ほどにしてよね」
「う」
 凛の顔が赤く染まる。
「……まあ、いいわ。このことは後でゆっくりと話しましょう」
 悔しそうに呻くと、凛は赤らんだ顔を隠すように、真紅のコートを翻した。
「気をつけろ、遠坂。これは囮だ。おそらく本体がどこかにいるはずだ」
 僅かな警戒の色を含んだ声で、士郎が囁く。
「……」
 それは、凛も考えていたことだった。
 メレムは「尾けられた」と言ったが、屍鬼グールに尾行などという高度な真似が出来るとは思えない。もし仮に、こうして美術館でかち合ったのが偶然だったとしても、彼らが自分から姿を現す事など有り得ない。いかに屍鬼グールとて、強大な力を持った同族を察知する本能くらいは持ち合わせている。こちらにはメレム・ソロモンがいるのだ。むざむざ殺されるために姿を現すとは思えない。
 だから、このような状況に陥る可能性があるとすれば、可能性は二つ。
 一つは、士郎が考えたとおり、屍鬼グールを操っているのがメレム・ソロモンである場合。
 そして、もう一つは、屍鬼グールを操っている親となる吸血鬼が、どこか別にいる場合である。
「ああ、そうそう。言い忘れてたけど」
 メレム・ソロモンが分厚い本から顔を上げる。
「さっきの死徒がこの近辺の町を襲ってるっていう話なんだけど、これには一つ、可笑しな所があってね」
「可笑しなところ?」
「うん。公にはもちろん出してないけど――なんでも、数が全然合わないらしいんだ」
 闇の中で蠢く死人の群れに気配を配りながら、士郎が怪訝そうに眉を顰めた。
「……数が合わない?」
「だから、死体の数だよ。昨日のは、町そのものが燃えちゃったからわからないけど、これまでに起きた事件は、どれも町の人口に反して死体の量が少なすぎたんだってさ。そんなたくさんの人間、どこにいったんだろうね?」
「死体が……? まさか」
 凛は迫り来る死者の群れに目をやった。
「もしかして、その行方不明の人たちがこいつらだっていうの?」
 メレム・ソロモンが死体を数ではなく、量、と表したことから、士郎は惨劇の様子を想像することが出来た。つまるところ、死体は一体、二体と数えられる状況でなかったということだ。そしてこのような場合、頭の数で死体の数は数えられる。屍鬼化した者は教会の人間によって始末されただろうから、数はわかるだろう。
 しかしそれでも、現実問題として、どうしても数は合わない。頭を潰された者、他の死体に紛れたものが必ずいるからだ。
 だから一つの街が襲われた場合、十体や二十体という誤差は許容される。
 死体の数が合わないと問題視するとは、一体どれほどの数が足りないというのだろうか。
「ちょっと待て。もし仮に町の十パーセントの人間が屍鬼グール化したとしても、何千人という規模だぞ?それだけの屍鬼グールを、夜明け前に……それも人目に止まらず町の外に移動させるなど不可能だ」
「そうだね。そもそも、名も知れぬ死徒一匹に、それだけの数をコントロールするのは荷が重過ぎる」
屍鬼グール化してから消滅して、灰になってしまったというのは?」
「まぁ、有り得ない話じゃないね。けど、そんな大量のアンデットを、一体誰が斃したっていうのさ?」
「……」
 ならば、答えは決まっているじゃないか。
 何百と言う数の死人が、一夜のうちに教会の部隊の目から逃れるのは不可能。そして、通常の死徒には、それだけの死人を操って逃がす能力は無い。つまり、
「影で屍鬼グールを統率している、強力な死徒、あるいは組織がいるということか」
 士郎が呟く。
 ――そう。そして、こうも言える。
「アルトルージュ・ブリュンスタッドは、情報を集める道すがら、大量に屍鬼グールを集めている。そうでしょう? メレム」
 メレム・ソロモンは答えずに、ただ口元を綻ばせた。
「……そういうことは早めに言ってくれないか」
 頭を抱えるようにして、苦々しい顔で士郎が呟いた。
「別にそんなに騒ぐ程のことでもないだろう? そんな雑魚、何万匹いたって大勢には全く影響しない」
 そんなもの、幾らだって僕が食べてあげるよ。
 少年は、天使の顔で悪魔のように嗤う。
 そこに一切の誇張はなく。
 ただ、寒気がするほどに圧倒的な力の差が存在していた。
「そもそも、僕はあの紛い物の企みさえ潰せればそれでいいんだ。この国の人間が何人死んだって知ったことじゃない」
 メレム・ソロモンが気だるげに呟く。
 瞬間、十インチのロングバレルが咆哮を上げた。
「来たわよ」
 冷めた声で、凛が呟く。
 彼女が持つ銃口の先には、数を増しながら迫り来る死者の群れがあった。
「ちっ、」
 士郎は僅かに逡巡した後、主装として一組の弓矢を投影した。
 一メートルにも及ぶ黒塗りの洋弓と、それと対称を為す白木の矢。
 ――この距離ならば、剣による斬撃よりも弓の射撃の方が有効だ。
 幸い相手は一方向に固まっている。
 鴨打ちだ。射ればどれかに中る。
「――……!」
 凛の銀銃が圧倒的な火力で吼える。飛び掛ってきた屍鬼グールは肩と頭を撃ちぬかれ、破片と化してカーペットの上に振り落ちた。肉片のシャワーが振り終わる前に、凛は獣の速さで次の標的に照準を合わせた。
Anfangセット……!」
 右手の魔術回路が灼熱の炎を噴いて回転を早める。予断無く辺りに意識を這わせながら、闇の中に潜む異物の気配を探り出す。
 カシャン、
 空になった弾装の落ちる音が館内に響く。
「気をつけろ。奥にまだ居るぞ」
 弓を引き絞りながら、呼吸一つ乱さずに士郎が呟いた。解き放たれた白木の矢は、空気を切り裂いて屍鬼グールの頭を体幹から引き千切るように吹き飛ばす。
 ―――なんて威力。
 視界の隅で次々と灰塵と化していく死徒を見て、凛は思わず呟いた。一体、どれほどの力で弓を引けば、あれほどの威力が出るのだろう。
 それに、番えてから射に入るまでの動作が恐ろしく速い。凛が獣ならば、士郎のそれは精密機械だ。凛が照準を合わせ、引き金を引くよりもなお疾く、矢を放っていく。
 二人が繰り出す射撃は、さながら光の雨のようだった。
「ラスト」
 最後の一体。
 美術品の影から顔を出した死人は、頭に銀弾、心臓に白木の矢を打ち込まれ消滅した。
「――ふん、」
 都合十八体いた死徒は、数瞬の内に砂塵と化した。
「他愛もないな」
 あまりの手ごたえの無さに、士郎は拍子抜けした、と言わんばかりに呟いた。
「あははは! やるじゃないか!」
 背後から歓声が上がる。
「見直したよ、凛。いい腕してる!」
 ぱちぱち、と拍手を送りながら、少年は目を輝かせ、興奮気味に歓声を送っている。
「ふぅ、」
 装弾数九発の弾装を取り替える。たなびいていた硝煙の白い煙が、冷たい空気に溶け込み消えていく。
「お褒め頂いて光栄だわ。メレム」
 魔術回路の回転を緩めることなく、凛が微笑を浮かべた。
「本体はどこだ。逃げられたか?」
 訝しげに士郎が呟く、その時、
「流石ですな。ご両人」
「!?」
 突然、闇の中から皺枯れた男の声が響いた。凛と士郎は、声のした方へと視線を転じる。
「もう少し手古摺るかと思いましたが、余興にもなりませんでしたか」
 闇に沈んだ美術館の奥……。そこには、観察するような視線を二人に送る、一人の男が立っていた。
「きゃ!?」
 男のすぐ傍から若い女の悲鳴が響く。
 闇の中を凝視した凛の目に、朧げだが、仮面を付けた初老の男の姿が浮かび上がった。
 薄く、束ねられた白髪。茶色のスーツに同色のジレ、草臥れたシャツから、枯れ木の様な皺だらけの褐色の肌が覗いている。
「た、助けて……」
 男の胸元で、腕を捻り挙げられた若い女が、眼鏡の奥から請うような視線を投げかけている。
「ん?お嬢さん、」
 穏やかな声で、老人が女性を見据えた。
「誰が喋っていいといいました?」
「ぐぅ……」
 恫喝するように、男は女の首を締め上げる。
「士郎」
「ああ」
 士郎と目配せを交わす。凛は、一先ず様子を伺うことにした。
「武器を捨てなさい。言う通りにして下さらないのなら、この女の首を刎ねます」
 仮面の下で、男がくぐもった、低く皺枯れた声で言った。
「……わかった」
 頷くと、士郎は手に持っていた弓矢を足元に放った。脇の下に吊るしてあった短剣までをも取り出すと、薄く灰の降り積もる赤い絨毯の上に放り投げる。
 凛もそれに倣う。銀銃と、腰に刺していたアゾット剣を投げ捨てる。降り積もっていた粉塵が、埃のように舞い上がった。
「これで満足かしら?」
 尋ねると、男は大きく一つ頷いた。
 ――なんのつもりかしら?コイツ。
 凛は明らかな違和感に、眉を顰めた。
 凛たちは魔術師だ。武器を捨てるなんて大したリスクにもならない。まさか、これで無力化したつもりなのだろうか?
「後頭部に手を回し、ゆっくりと後ろを向きなさい」
 仮面の男は、続いて指示を出す。
「……」
 後頭部に手を回すと、凛はゆっくりと後ろを向いた。
 士郎は僅かに渋るように一度、顔を顰める。
 と、
「ぁ」
 凛の口から小さく息が漏れた。振り返る瞬間、袖口から何か零れ落ちたそれは、一粒の赤い宝石だった。
 男は訝しげに仮面の下の目を細めた。
「何です? それは」
 腕の中の人質を、がっちりと掴み、声を荒げる。
「そこの女! 可笑しな真似をしてみなさい、そうしたら……!」
「うぅ……」
 女の口から呻き声が漏れる。
「――、」
 瞬間、士郎が動いた。
 頭の位置まで挙げていた腕ををのままに、肘から下の動きだけで投擲用の短剣を投げ放つ。
「ぎ、!?」
 仮面の下から、くぐもった声が漏れた。
「き、さま――!」
 肘に刺さった短剣を掴み、男が怨嗟の声を上げる。禍々しい色を讃えた赤い瞳が、仮面の下で爛々と光っている。
「――――Anfangセット……!」
 しかし、男は遅すぎた。
 それは明暗を分ける、一秒にも満たない刹那。
 思わず男が短剣を掴んだ時には、凛は既に詠唱を終えていた。
「Fixierung,EileSalve――――!」
 体内の魔力をガソリンとして魔術回路を疾駆する。短い節で紡がれた詠唱と共に、人差し指が仮面の死徒に向かって突き出される。
「!?」
 凛の指先から撃ちだされた閃緑の光弾は、寸分違わぬ正確さで、男の身体を吹き飛ばした。
 男の身体が崩れ落ちる。
「――うん、完璧」
 満足げに呟く。ガンド撃ち。凛がもっとも得意とする魔術である。
「今だ! 逃げろ!」
 鋭い声で士郎が叫ぶ。捕らえられていた女は、体勢を崩し膝を突く男を突き飛ばして駆け出した。
「……!」
 右半身を根こそぎ失った男は、何も出来ずに立ち尽くす。
 凛の指先が、ぴたりと仮面の男に照準を合わせている以上、僅かでも動けば命は無いだろう。男は、悔しげに女の背中を見送るしかなかった。
「とんだ小物っぷりね。何を相手にしているかもわからなかったのかしら?」
 呆れた、というように、凛が冷たい息を吐いた。
 これが町を襲っている死徒だって? 話にならない。
 彼我の力量も計れないようでは戦場では生き残れない事を、凛は知っていた。
 ――あるいは、何か裏があるのかしら?
 あまりにも単純な展開に、尚更警戒の色を強める。
「た、助けて!」
 息を切らせ、女は駆け寄ってくる。凛は予断無く女を凝視した。
「――、」
 ……気配は完全に人間のものだ。腐臭もしない。男に締め上げられていた首には青痣もある。
 目には大粒の涙。眼鏡の奥の瞳が大きく見開かれて、瞳孔が開いている。極度の興奮状態にあるようだ。
 ――思い過ごしだったようだ。彼女は間違いなく、ただ巻き込まれただけの一般人だ。
 凛は緩やかに思考を止めた。
「はぁ、はぁ、」
 倒れた彫像や散乱する絵画の間を、女は縫うようにして駆けて来る。足が縺れ、転びそうになりながらも、なんとか辿り着いた女は、安堵の表情で士郎へと縋りついた。
「あ、ありがとうございます。助かりまし、」
 礼を言い、士郎を見上げた女の細い腕を、
「!」
 躊躇いの無い、白銀の一閃が斬り飛ばした。
「え?」
 女の顔が、驚愕に染まる。ナイフの握られた女の腕は、音を立てて地面に落下し、同時に、
「ぁ」
 ザン、
 士郎の剣が跳ね上がる。閃く銀光。士郎の長剣は間髪入れずに女の首を刎ね飛ばした。
「な、んで」
 凛の口から、何の意味もなさない、悲鳴にも似た声が漏れた。思わず突き出した手が、行き場を求めて彷徨う。凛の背中を、怖気にも似た何かが走り抜けた。
 しかし、士郎は止まらなかった。
 宙を流れる勢いそのままに、呆然と立ち尽くす男に白銀の剣を投擲する。
 ザクリ、
「ぁ」
 男の仮面に、深々と白銀の剣が突き刺さった。重く鈍い音を立てて崩れ落ちる。
「士郎!? どうして……!」
 悲鳴にも似た怒声が響く。震える身体を押し留めて、凛は士郎を鋭い目で睨み付けた。
「良く見ろ、遠坂」
 士郎の声は平静だった。顎で倒れた男の方を指す。
「一体、なにが」
 凛が呆然と呟いた瞬間、男の仮面が、乾いた音を立てて割れた。
「!」
 中から現れたのは、腐乱した死体の相貌。男の肉体は一瞬で崩れ落ち、灰塵と化していく。
 士郎の顔に嘲笑の色が浮かぶ。
「そちらが屍鬼で、この女が親玉の死徒と言うわけだ。上手く擬態したようだが、そんな手が通じるか。こんな夜更けの美術館に、女が一人でいるわけがないだろう」
 ふん、と侮蔑するように呟いて、士郎は腕を組む。
「……罠?」
 思わず呟く。身体はまだ震えていた。よかった。ナイフを持っていたとはいえ、てっきり、士郎が人間を殺してしまったのかと、
「違うよ」
 背後で、盲い少年の声が響いた。
「よく見てみなよ。そこの女の死体を」
「――え?」
 メレム・ソロモンの声に、凛はゆっくりと、女の死体へ視線を彷徨わせた。
 美術館の石床に引かれた赤いカーペット。
 そこには、首と右手首を失った女の身体と、赤いカーペットをより鮮烈な赤で塗りつぶす血の海があり、
 とっ、
 ブーツに硬く、生暖かなモノが触れた。
「ひッ」
 凛の足元には、目を剥いて絶命する、女の首が―――!
「――!!」
 喉から、細い悲鳴が迸る。
「灰に」
 喚くように、凛が叫ぶ。
「灰に、なっていない!」
 女は間違いなく絶命している。だというのに、その身体は灰にならず、静かに地面に横たわったまま動かない。
 眼鏡の奥の瞳が、恨み言を訴えるように、凛を見上げている。
「それは人間だ。エミヤ」
 弔うように、メレムが呟いた。
「そんな、馬鹿な!」
 震える声で士郎が叫ぶ。
「馬鹿は君だ。女が死徒であるなんて確証は何処にあった? 死徒の擬態だなんて、どうして言い切ることが出来たんだ。……君は、夜の美術館に人間の女がいるわけがない、というただそれだけの先入観で、その女を死徒であると決め付けただけなんじゃないのかい?」
 顔面を蒼白にし、士郎が数歩後ずさる、
「そん、な嘘だ」
「――少し感覚が乖離しているみたいだ。そろそろ気をつけないと」
 少年は、赤い瞳を細め、

「踏み外すよ。エミヤ」
 
 甘く優しい声で、士郎の精神を抉り取った。
「あははははっ! 殺したな! エミヤ! 人間を!」
 奥の闇から、甲高い女の声が響いた。
 士郎の視線が、反射的に声の主の姿を追う。そこには、窓の桟に腰掛けるようにして佇む、一体の死徒の姿があった。
「酷い男だな。ん? 酷い人間だよ、お前は。首まで刎ねちまって」
 妙齢の女は、吊り上った目で責めるように士郎を見下ろした。
「ああ、ああ。もう取り返しが付かない。その女は私が”魅了の魔眼”で操っていただけの人間だというのに」
 からん、
 士郎の手から、剣が落ちる。唇が戦慄き、堪えるように強く噛み締めた。
 呆然と立ち尽くす士郎を横目に、メレム・ソロモンは怒りさえ讃えた瞳で士郎を睨み付ける。
「なんだ、その様は。エミヤ」
 不の感情を露に、メレム・ソロモンは侮蔑の篭もった目で士郎を見つめた。
「躊躇い無く首を刎ねたときは、少しは成長したのかと思ったけど。それじゃあ、あの時と変わらないじゃないか」 
「黙れ」
 色を無くした声で、士郎が呟いた。
「君は忘れてしまったのかい? ――いや、忘れてしまいたいのかな」
 メレムは先ほどまでの厳しさを一転、優しげな声で士郎へと語りかける
「何を戸惑ってるんだ。エミヤ。そいつは確かに人間だ。だけど、そんなこと関係ないだろう? そいつは君を殺そうとした。正当防衛じゃないか。それに」
 蕩けるような甘い声で、その悪魔は優しげに語り掛ける。
「――今までだって、君はたくさんの人間をその手に掛けてきたじゃないか」
 その顔は、堪えようもない愉悦で歪んでいた。
「今更一人増えたところで、君の罪が揺らぐことは無い」
「黙れ!」
 叫び、士郎がその手に陰陽の双剣を投影した。限界まで開かれた、憤怒に満ちた瞳を窓際の女へと向ける。
 窓の桟から飛び降りると、女は刃物の様な爪を伸ばし、挑むように、あるいは誘うように士郎へと向けた。
「戦るのか? ん? 人殺しの英雄様」
 ――どこか遠くで、金属の擦れる音が聞こえる。
「士郎、」
 泣きそうな顔で、凛が士郎の名前を呼んだ。
「キャハハハハ。愉快。愉快よ。エミヤ……この偽善者め。裏切り物め! 私はお前のその顔が見たかった。とっくに外れているはずのお前が、ヒーロー気取りで私たちを糾弾するお前が、私はどうしようもなく不快だった!」
 愉しそうに嬌声上げる。恍惚の表情で、女は憤怒に目を剥く士郎へと語りかける。
 ガチン、ガチン、
「私はあの兄弟とは違う。仕事とは別に、これくらいの享楽があって然るべきよ。ゲームは楽しんだもの勝ちでしょう? ……いい表情をしてるわ。私の思ったとおり……ん?」
 ぐらり、と身体が傾いだのを感じて、女は足元に目を落とした。
「……?」
 地面が、僅かに盛り上がっている。
 なんだ、これは?
 みち、みち、と音を立てて、地面が割れていく。女はその光景を見て、僅かに首を傾げた。
 何だ?何かが生えてきているのか?
「ははぁ、なるほど。これが」
 誰にも聞こえない声で呟いて、メレム・ソロモンは唇の端を吊り上げるように小さく嗤った。
 ギチリ、ギチリ、
 虫の鳴くような音が、どこからか聞こえてくる。
「愚かだね。君は本当に愚かだ。エミヤシロウ」
「黙れ。メレム・ソロモン……!」
 握りつぶさんばかりに双剣を握り締め、士郎は殺気の篭った瞳で少年を睨み付けた。
 呆れ返ったような表情でメレムは緩やかにかぶりを振り、士郎を見上げた。
「まったくもって愚かだ。救い難いほどに」
「黙れといっている!」
 士郎の身体が怒りで震える。メレム・ソロモンは、その姿に、僅かに哀れむような視線を向けた。その目はどこか優しい。
「……けど、エミヤ。正直言うとね。僕はそういう人間は嫌いじゃないよ。醜さを抱えても、清く生きようとする姿は、美しいと思う」
 そう言って、にこり、と花の様な笑みを浮かべる。
「……?」
「もう一度、よく見てみなよ。君の殺した人間の姿を」
「……」
 メレムの言葉に、士郎は訝しげに眉を顰めた。床に横たわる女へと視線を向けようとして――。身体が、石のように動かなくなった。
 どうしても、自分の犯した罪を、直視できない。
「――え? 嘘、どうして」
 動かない身体に立ち尽くす士郎のすぐ隣で、呆然と呟く声が聞こえた。
 信じられない、という顔で、凛が呟く。
「死体が、無い」
「!?」
 弾かれたように、士郎は女の死体のあった場所へと目を移した。
「……これは」
 凛の言うとおり、確かにそこに女の死体は存在しなかった。
「どういうことだ?」
 士郎が訝しげに呟く。
「こういうことさ」
 パチン、
 メレムが白銀の輪が連なった右手の指を鳴らすと、彼の座っていた彫像の影から、法衣にカズラを羽織った老神父が現れた。人の良さそうな笑みを浮かべる神父の腕には、顔面を蒼白にした一人の女が抱えられている。
 思わず、声を失った。
 それは紛れもなく、先ほど士郎が首を刎ね飛ばしたはずの女だ。
「手間を焼かせないで欲しいな。君のおかげで、僕の相棒も随分と死体のフリが上手になってしまった」
 おどける様に、メレムが笑う。
「使い魔を死体に擬態させたのか? 四大の魔獣フォーデーモン・ザ・グレイト・ビーストを……?」
 女吸血鬼は、侮蔑の篭った瞳でメレムを睨み付けた。
「堕ちたな。メレム・ソロモン。彼の名高い魔獣に人間を助けさせるだと? ……貴様には失望したぞ。死徒の面汚しめ!」
「――吼えるなよ、餓鬼」
 氷の様な声が闇夜を貫いた。安堵に胸を撫で下ろしていた凛は、心臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥る。凍りついたように、身体が動かない。息も出来ず、鼓動も消失した。
 ――なに、これ?

 トテモオソロシイモノガ、チカクニイル。

「……!」
 激昂していた女吸血鬼は、喘ぐように喉を引きつらせた。
「僕は、お前の思い通りに事が運ぶのが気に食わなかっただけだ。その甲高い笑い声を聞くだけで吐き気がする。あの紛い物の使い走りが、一人前の女吸血鬼ドラキュリーナ気取りだと?」
「ひ」
 女の口から、小さな悲鳴が上がる。
「一つだけ聞いてやる、売女。昨日、トゥルグ付近の町で代行者を殺したのはお前か?」
 ぎろり、と闇の中、真紅の双眸が女を捕らえた。
 斬るような殺気に、大気中のマナさえもが、凍りつく。
「ひ!?」
 ようやく女は理解した。自分が罵った相手が、どんな生き物だったのか……。否、化け物だったのかを。
「ち、違う! 私じゃない」
 瘧のように震える身体を抱いて、女が喚いた。
「知らない、私は何も……! 知らない!」
 よろり、と一歩後ろに下がると、背を向け脱兎の如く駆け出した。
 女が美術館から姿を消す。メレム・ソロモンは、それを追おうとはしなかった。
 しかし、
「――逃がさないよ。お前は塵さえ残さないって、昨日決めたんだ」
 その瞳の冷たさは、変わることは無い。
 女の足音は、美術館の奥へ奥へと消えていく。足音だけが、静まり返った館内に響いている。
 
 たん、たん、たん、たん、たん、たん、たん、たん、たん、た
 
 ばくん。
 
 重く柔らかい音と共に、足音は消え去った。
「……」
 恐れの混じった目で、凛は少年を見つめた。
 ――駄目だ。
 コレを敵に回してはいけない。
「……あれ? そういえば、代行者を殺したのは”束縛”の魔眼使いだったっけ。あいつじゃなかったのかな?」
 もしかして、間違っちゃったのかなー? と、さして後悔もしていないような声で呟いて、
 「――まぁ、いっか」
 少年は、にこり、と天使の様な顔に無邪気な笑みを浮かべた。




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