14.カルテットT





「――騙したな。メレム!」
 しばし呆然と立っていた士郎は、自分が化かされたのだという事を理解すると、烈火のごとく激昂した。猛然と目の前の少年を睨みつけ、恨み言を吐く。
 メレム・ソロモンは不機嫌そうに目を細めると、如何にも興味が無い、といった様子で、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「何さ? 文句あるわけ? どう考えても悪いのは君だろ。――あんまり変な言いがかりつけるんなら、このお姉さん食べちゃうよ?」
 メレムの言葉に、傍に控えた老神父がその腕に抱えた女性を主へと差し出す。それを見た士郎の顔が、目に見えて蒼ざめた。
「……いや、俺が悪かった」
 どうやら、先ほどの一件が軽いトラウマになってしまっているらしい。
「士郎。あなた顔が真っ青よ? 大丈夫?」
「ああ。……すまない、少し、取り乱した」
 怪訝そうな顔で問いかける凛に、士郎は疲れた声で応えた。その声はどこか空ろで、色を無くしている。
「そう。ならいいんだけど」
 その返事を聞いた途端、凛は思わずその場にへたり込んでしまいそうになった。
 ――はぁ。まだ胸の鼓動が治まらない。本当に心臓に悪い夜だ。
「あんな雑魚にいいようにあしらわれて情けないね、エミヤ。君は考えが甘いんだよ。少しはしっかりしてくれないと、いつか本当に――」
「メレム。そこまでにして頂戴。幾らなんでも趣味が悪いわよ。……さすがの私も寿命が縮まったわ」
 ニヤニヤと笑みを讃え、士郎をからかうメレムに、ついに凛が噛み付いた。
「それは悪かったね。けど、寿命が縮まる、ねー。僕にはちょっと理解できない感覚かな」
 メレムは、冗談めかして嘯く。
「生首が転がってきたときは、本当に心臓が止まるかと思ったんだから。やるなら、士郎と二人のときだけにして」
「……おい、遠坂。原因の解決になってないぞ」
 士郎ががくり、と頭を垂れる。ほっとしたのと、自分の行動を後悔しているのが半々といったことろだろう。
「まぁ、考えておくよ」
 口元に嘲笑を浮かべたまま、メレムが言った。
 ……絶対、わかってない。
 凛は思わず肩をすくめた。
 しかし、今回ばかりは彼の気紛れに感謝しなくてはならないだろう。なんの罪も無い一般人を斬殺したとなれば、士郎も立ち直る事ができなかったかもしれない。
「けどね、凛。僕が文句を言いたいのはエミヤだけじゃないんだよ」
 士郎へと同情の視線を向けていた凛に、少し棘のある声でメレムが言った。
「甘いのは君も同じだ。君が昨日、重大なミスを犯してくれたおかげで、聖堂教会はいらない仕事が増えてしまったんだからね」
「……重大なミス?」
 突然向けられた話の矛先に、凛は思わず身構えた。
「君達はさっき、昨夜は二体の死徒を斃した、って言っていたよね? けど、それは間違いだ」
 どこか冷めた声で、メレムが目を細める。
「君達が戦った死徒が二体なら、一体はまだ確実に生きている」
「え――?」
 その言葉で、思考が停止した。
「まさか。だって、確かに……」
 思わず、呟く。
「確かに、なんだい? 塵と化すところを見た? 心臓か頭を確実に破壊した? ……『確かに』なんて言葉、軽々しく使うものじゃないよ」
 窘めるように、少年が言った。
「今朝方のことだ。昨夜焼け落ちた、君達も知っているあの町の近くで、およそ三人分の死体が見つかったそうだよ。ばらばらになって、井戸の中に投げ込まれていたらしい。――間違いなく死徒の仕業だ。たぶん、損傷した身体を復元するために、血液の補充をしたんだろうね」
「うそ、」
「嘘なんてつくもんか。昨日の夜の様な事件は、今晩も変わらず起きている。今回は教会の騎士団が早く駆けつけたから被害は少なかったみたいだけど」
 凛は口を噤んだ。ただ呆然と、メレムの言葉を反芻する。
『一体は確実に生き残っている』
『今朝、およそ三人分の死体が見つかったそうだよ』
 ――君が仕留め損なったおかげで、三人の人が死んでしまったんだよ。
 凛には、メレム・ソロモンがそう言っているように聞こえた。
 そして。
 それは恐らく、否定しようの無い真実で―――。
 拳を硬く握り締め、昨日の夜の出来事を反芻する。
 ……士郎が戦っていた男の消滅は、この目で確認した。他でもないこの私が、心臓と頭に銀弾を撃ち込んだ。
 だが、あの礼拝堂で出会った男―――あの、火達磨になって森の奥へと消えていった男はどうだ?
 消滅は確認していない。決して消えない魔術の炎。もう助かるまいと放置した。追いかければ、確実に仕留められた筈なのに、それをしようとしなかった。完全な勝利を確信して、慢心していたのかもしれない。
「いえ、違う。そうじゃない。私は――」
 ――もっと苦しみを味わせたかった。あの男には、安らかな消滅ではなく、最後までのた打ち回る無様な死が相応しい。そう思っていた。
 その黒い感情が、引き金を引く判断を鈍らせたのだ。
 ……そんな感情、余分な贅肉でしかないのに。
「そしてやっぱり、どういうわけか死体の数が全然合わない。屍鬼(グール)なんて扱い辛いモノ、誰が必要とするんだか。あんなゲテモノ、僕だって好き好んで食べたりしないよ。連中、何を企んでるんだろうね?」
「……」
 暗い顔で俯く凛に、士郎はなんと声をかけていいものか見当が付かなかった。いつも強気な凛だが、自分がミスをした時は驚くほど弱気になる。
 しかも、そのミスのせいで見知らぬ誰かが死んでしまったとなれば――。元々、責任感の強い彼女のことだ。その落ち込みようは計り知れない。
「……さぁな。行ってみなければわかるまい。で、アルトルージュ・ブリュンスタッドは何処に向かったんだ?」
 凛を気遣うように、士郎が気楽な口調で話題を変えた。
「まぁ、一理あるね。今夜はここらでお開きにしようか。僕も少し喋り疲れたし。……取り合えず、君達は”ヒーシ”を探してきてよ」
 どこか投げやりな調子で、メレムが言った。
「北部に、ケミって町がある。上手く行けば、あの紛い物(アルトルージュ)ともそこで会えるはずだよ」
「その、ヒーシっていうのは?」
「さぁ?僕もどんなモノなのかは、はっきりと解らないんだよね。カレワラに出てくる言葉で、悪霊、なんて意味らしいけど」
 身体についた灰を振り払うと、メレムは老神父を連れ出口に向かって歩き出す。本当にここでお開きにするつもりらしい。
「おい! ――ちょっと待ってくれ。それしか情報が無いのか?」
「うん。当面行くべき場所はわかってるんだ。ヘルシンキには民俗資料記録局があるから、少しカレワラについて勉強しておくといい」
 後ろ手にひらひらと手を振りながら白く灰の降り積もる真紅のカーペットを歩いていく。それは穢れ無き、白い光景。淡い星明りに照らされながら、倒れ、砕けた美術品の海の中を歩いていくその様はどこか退廃的で、そして美しかった。
 その姿を見送りながら、士郎がぽつりと呟いた。
「記録局・……か。難しいな」
 その声に、首だけでメレムが振り返る。
「ん? どうして?」
「……君が俺を指名手配犯にしたからだ。俺には公共の施設は使えない」
 眉尻を下げる士郎に、メレムは「それはご愁傷様」と言って笑った。
 町はまだ夜の帳から抜け出す術を知らず、闇の中に屍のように沈んでいる。夜明けは近い。しかし、フィンランド最大の都市が黎明を迎える姿を、凛はどうしても想像することができなかった。
 凛の夜は、あの日から夜明けを知らない。


※       ※       ※


 ヘルシンキのショッピング街、エスプラナーディ通りの真ん中にある高級ホテル。そこが彼らの待ち合わせ場所だった。
 大きなガラス窓から差し込む眩しい光に、衛宮士郎は目を細めた。
「遅いな」
 ホテルロビーの柱に背中を預け、腕を組んで瞑目する。ガヤガヤと辺りが騒々しいが、思わず身構えてしまうような格式高いホテルの中では、良いBGMになった。
 ホテルに着いたのは、つい二時間ほど前、午前十一時頃のことだった。
 待ち合わせは午後一時。指定されたのは、『世界のホテルベスト100』に名前を連ねる高級ホテルだった。
 そんな場所にジーンズにTシャツ姿で行くわけにもいかず、ましてや赤い外套を羽織って出張るわけにもいかなかったので、エスプラナーディ通りで白いシャツとスーツ地のパンツを揃えた。靴は自前の編み上げブーツだが、それほど気になる組み合わせでもない。
 通りはどれも高級ブティック店ばかり。結果、予想外の出費がかさんでしまった。
 服のことはよくわからないから、とコーディネートを頼んだ人物も悪かった。元来からの高級嗜好、おまけに他人の財布のことはお構いなし、という爆撃機のようなその女は、次々と思わず目を剥くような値段のものばかりを選んできては、士郎を戦慄させたのだった。
 ……完全な人選ミスだった。
 ――自分が買い物をする時は、こっそり値札からチェックするくせに、他人の時は値札も見ずにレジに持って行く、と来たもんだ。少しはこっちの経済事情も考えろっていうんだ。
 士郎は心の中でぼやいた。
 財布の中身は正直、厳しい。
 当たり前だが、どこからか旅費が出るわけでもない。聖杯探索にかかる出費は完全に自腹だ。当面は、先日せしめてきた金塊を換金すれば何とかなるが、金銭面での不安はどうしても拭えなかった。凛の言うとおり、美術品を投影して金を稼いでしまおうかと魔が差すことも、正直、在る。
「――お待たせ。ごめんなさい。少し話が長引いちゃって」
 掛けられた声に顔を上げると、大きなトランクケースを提げた凛が立っていた。
「? なによ? そんな辛気臭い顔をして」
「いや、ちょっと定職も持たない自分の人生に疑問を覚えてな……。いや、そんなことはどうでもいいんだ。――話は終わったのか?」
「ええ。なんとかね。気になる情報も聞けたし」
 そう言って、凛は笑った。
 赤いリボンの付いた白いシャツに、黒のカーディガン。下はシフォンの膝下丈のスカートに、黒のヒールという、高級ホテルでは些かラフに思えるような服装が、凛が着ると実に様になる。
 値段もそこそこなのだろうが、それ以上に、凛自身が服が持つ魅力を引き出し、完璧に着こなしているためだろう。
 いくら服飾に疎い士郎でも……いや、そんな士郎だからこそ、色眼鏡の無い純粋な視点でそう思えた。
「とりあえず、向かいましょうか。あまり待たせても悪いしね。話は道すがらしましょう」
 そう言って、凛は軽々とトランクケースを掲げると、エレベーターホールに向かって歩き出した。


※      ※      ※


 朝の微睡みの中に居た凛は、けたたましい電話のコール音で目を覚ました。彼女宛の電話があったことを伝えるフロント係。取次いで良いか、という女性の声に、凛は寝ぼけ眼を擦りながら「イエス」と答えた。
 昨夜は明け方まで外出していたせいか、猛烈に眠い。時計に目をやると、時刻は午前八時を少し過ぎたところだった。眠りについてからまだ三時間しか経っていない。
「―――、」
 回線が繋がり、硬い男の声が電話口から流れる。
 男は、魔術協会に在籍する魔術師であると名乗った。今回の聖杯に纏わる事件について話を聞きたいという。それも、もうすぐそこまで来ているらしい。
 無下に断ることも出来ず、凛は正午からなら、と待ち合わせ場所に一軒のカフェを指定した。
 出かける準備を済ませ、隣のベットで眠っていた士郎を叩き起こす。怪訝そうに見上げる士郎を引きずって、そのまま街に繰り出した。
 値札を見るたびに青ざめる士郎をからかいながら、エスプラナーディ通りを流し見て、彼の私服を調達し終わった頃、協会の魔術師と合う時間となった。士郎は先に当初の約束相手との待ち合わせ場所であるホテルへ向かい、凛の到着を待つことになっている。
 話はすぐに済む、という協会の魔術師の言葉に、当初は一時間ほどを予定していた報告という名の尋問は二時間に及び、予定よりも一時間ほど遅れて、凛は約束のホテルに到着した。これが午前八時から午後一時までの出来事である。
「協会の人間とは何を話したんだ?」
 上がっていくエレベーターに背中を預け、士郎が尋ねた。
「別に。簡単な報告と、これからの方針を簡単に。聖杯探索に協会から魔術師が随分と東欧へ派遣されたみたいだけど、何も手がかりは無かったって。……やっぱり、舞台は北欧に移ったと見て間違いないわね」
 メレム・ソロモンの言葉が当たったか。士郎は小さく肩を落とした。
「それで、何か面白いことは聞けたのか?」
「うーん。どうだろう? 面白いかどうかは解らないけど……。興味深かったっていう話なら幾つか。協会の魔術師が何人か、相次いで失踪しているそうよ。先月のことらしいんだけど」
 ガラス張りの壁からホールを見下ろしながら、凛が言った。
「……失踪? 原因は何だ?」
「さぁ?それがわかれば苦労しないわよ」
 見下ろしたホールには、多くの人間ががやがやと慌しく行き交っていた。頻発している事件の影響により、フィンランドの都市部には多くの検問、交通規制が設けられている。そのあおりを食った人たちが、今後の身の振り方を模索しているのだろう。
 もっとも、昨日まで静かだったヘルシンキがここまで慌しくなってしまったのには、今朝、このホテルとそう遠くない美術館で発見された、大規模な破壊痕が関係しているのだが。
「居なくなったのは、降霊科、霊媒科、神代言語科、それから魔術工芸科の、聖遺物再現の研究に携わっていた魔術師の四人。どれも、それなりに名前の知れた魔術師よ。各部門でそれなりに騒がれたらしいけど、どういうわけか四人とも身辺整理はきちんと済ませてあったらしくて、初めは失踪じゃなくて、四人で旅行か何かに出かけたんだろう、って思われていたらしいわ」
「……きな臭い話だな」
 士郎が眉を顰めた。魔術師四人が仲良く物見遊山だと? そんな目出度い発想が出来るなんて、魔術教会も案外柔軟になったものだ。
「ええ。おまけにこの四人、集まってこそこそ何かやってたらしいのよ。一人は、失踪直前に近々東欧方面へ行くって周囲に漏らしていたらしいし。協会は先月聖杯が観測されたのは、この四人の仕業じゃないか、って考えているみたい」
「なるほどな。東欧で観測された聖杯はその魔術師達の仕業、というわけか。ようやく話が見えてきた」
 得心した、というように士郎は頷く。
「聖杯に辿り着くのに成功した魔術師達は、聖杯を狙う外敵から逃げるために姿を隠した。アルトルージュ・ブリュンスタッドは、聖杯を持って失踪した魔術師達を追っている。それならば、聖杯が観測された東欧ではなく、北欧に舞台が移ったことも説明できる」
 自分の考えを整理するように、士郎が呟く。それを聞いた凛は、鋭く目を細めた。小さく首を傾げると、肩にかかっていた髪を掻き揚げる。
「どうかしら? 聖杯の出現は確かに一度確認されている。だけど、現れたのは一分にも満たない僅かな時間よ。それ以降は、ぱったりと反応が消えてしまってる……。魔術師達が聖杯を手に入れて逃げている、っていうのは怪しい推理ね」
 冷たい声で、凛が呟く。その目に、士郎は身体が粟立つような感覚を覚えた。
「第一、失踪した魔術師たちが、もし本当に聖杯を手に入れたのだとしたら、とっくに望みを叶えて、聖杯ごと姿を消しているはずよ」
 そう語る彼女の瞳は、見紛う事なき魔術師の瞳だった。こんなにも冷たい凛の瞳を、士郎は敵と対峙している時にしか見たことが無い。
 昨夜、メレムに言われたことを気にしているのだろう。身に纏う空気がピリピリと張り詰めている。そんな調子では道中持たないぞ、と注意しようとして、士郎は口を噤んだ。
 言って素直に従うようなヤツでもない。それに、彼女とて自分の神経が過敏になっていることくらいは気付いているだろう。気質だけなら彼女は、折り紙つきの一流の“魔術師”なのだから。
「こそこそ逃げ回る必要なんてない。聖杯を手に入れたのなら、魔術師が願うことは一つだもの」
 落ち着いた声で、呟く。
 彼らの願いが何なのかは凛は知らない。だが、魔術師である以上、願いは「根源の到達」にあると考えるのが自然だろう。
 アルトルージュ・ブリュンスタッドとて、一度世界の外側に出てしまったものをどうにかすることはできない。魔術師達が願いを叶えて消失したのなら、もう打つ手はなくなっているはずだ。
 それに。
 凛は思う。もし仮にアルトルージュ・ブリュンスタッドンスタッドの目的が魔術師達が持つ聖杯なのだとしたら、彼女が士郎と契約し、真租の姫を狙った理由も、”ヒーシ”と呼ばれる場所を探している理由も見えてはこない。
「……っ」
 ギリ、
 パズルの全景を知るには、まだピースが足りない。
 凛は強く唇を噛み締める。
 早くどうにかしないと。時間が立てばたつほど、被害は大きくなる。
「……ねえ、士郎。本当に、あなたは何も知らないの?」
 焦る気持ちを抑えて、凛は士郎を見上げた。
「何をだ?」
 士郎が怪訝そうな顔で凛を見つめる。
「アルトルージュ・ブリュンスタッドの目的よ。真租を滅ぼすことが、あなたに課せられた契約だっていうのはわかったけど、それ以外のことは何も知らないの? そもそも、どうしてそんな契約を交わしてたのよ。そんな契約を交わしてまで……」
 一体、あなたは何を手に入れたかったの?
「……」
「……それも答えられない、ってわけ」
「すまない」
 凛の視線から逃げるように背を向けると、掠れるような声で、士郎が囁いた。
「気にしてないわ。今はまだ、あなたを信じてあげる。……さ、着いたわよ。行きましょう」
 最上階に到達したエレベーターが、音も無く開く。 凛は、それ以上何も追求しようとしなかった。
 ホテル最上階のスイートルーム。そこが彼女から指定された場所だ。待ち合わせは午後一時。既に一時間ほど遅れてしまっている。
 かちゃり、
 頑強な扉に手を掛ける。
 ノックはしなくて良い、と言われている。扉は開いていた。
 凛が扉を開ける。するり、と士郎が室内に滑り込んだ。そのまま浴室の横を通って、音も無くリビングへと進んでいく。そこには、
「遅かったわね。二人とも。あんまり遅いから、もう誰かに殺されちゃったんじゃないかって思ってたわ」
 いかにも高そうな豪奢なソファーで足を伸ばす、真祖の姫と、
「……」
 傍らで控えるように立つ、目元を黒い布で幾重にも覆った、殺人貴の姿があった。


※     ※     ※


 部屋に入った瞬間、凛の目に止まったのは殺人貴の目元に幾重にも巻かれた布地だった。
 ……凄まじい力が篭められているのが感じる。恐らく、聖骸布。魔眼が見えていないというのに、不吉な感覚が拭えない。
「凄い装備ね。……こんな短い時間でよく揃えたものだわ」
 不適な笑みを浮かべて、凛が呟いた。
「ふふん。そうでしょう? 大変だったんだから」
 得意げに、真祖の姫が胸を張る。殺人貴は目元の眼帯に手を当てた。
 体中に巻かれた魔力封じの黒衣。心臓の位置と右肩、それに左膝の辺りに銀色の止め具が付いているが、これも魔術礼装だろう。掌には、魔法陣の描かれた黒い皮手袋が嵌められている。
「―――対魔術要塞並ね。これじゃ、私でも三節は詠唱しないと傷も負わせられない」
 思わず感嘆してしまうと同時に、凛は殺人貴に対する警戒を強めた。
 殺人貴の疾さを持ってすれば、三節の詠唱を終える前に魔術師の首を落とすなど造作もない。
 一工程で大魔術の行使を可能とする宝石魔術や、魔法の行使を可能とする宝石剣は数少ない例外に当たるが、だからといって、殺人貴の相手をしたいとは、凛には到底思えなかった。
 その礼装が持つ対魔力は、冬木の聖杯戦争における三騎士にも比肩する。対魔力だけならば、士郎の礼装を遥かに上回るだろう。
「志貴は魔術師じゃないから、魔力殺しを身につけても害はないのよね。私は魔術なんか効かないから、今まで気付かなかったんだけど。それって十分長所だと思わない?」
「これ、そんなに凄いのか?確かに嫌な感じはするけど……。おまえ、大した礼装じゃない、って言ってたじゃないか」
 殺人貴が不満げに真祖の姫を見つめる。贅沢な話だ、それらを全て売り払うだけで、一生遊んで暮らせるだけの価値があるというのに。
 真祖の姫は随分と景気が良いらしい。このホテルだって、「世界のホテル・ベスト100」に名前を連ねる高級ホテルである。その最上階スイートルームをワンフロア貸し切るなんて、一晩でいくらかかるか考えるだけで眩暈がしてくる。
 殺人貴の言葉に、真祖の姫は唇を尖らせた。
「そうでも言わないと、志貴は嫌がるでしょ」
「何言ってんだ。今でも嫌だよ。こんな全身黒ずくめの忍者みたいな格好」
 そう言って、自分の身体を見下ろす。あんなに厳重に眼帯を巻いて見えているのだろうか? 凛は疑問に思った。
 確かに殺人貴の姿は、忍者と表すのが一番相応しい。速さを追求した抵抗の無いシンプルなデザイン。全身くまなく巻かれた黒衣。黒の布地には、細かい銀の刺繍が施されているが、遠目には完全な黒衣にしか見えないだろう。描かれた幾何学模様には見覚えがあった。
「その刺繍、錬金術師の手によるものだな」
 凛が指摘する前に、士郎が口を開いた。
「ええ、ご明察。よくわかったわね」
「そんな細かな刺繍、奴等でもなければ施すのは不可能だろう。――しかし、そんな格好でよく歩けるな。警察に捕まったら職務質問の一つでも受けそうなものだが」
 むしろ感心するように、士郎が言った。
「ああ。大丈夫よ。これはあなたたちに見せたかったから着て貰っただけだから。移動するときは私服に着替えるわよ。ね、志貴?」
「なんだ、そうなのか?」
 惚けたように、士郎が眉根を下げた。
 じろり、と幾重にも巻かれた眼帯の向こうから、殺人貴の視線が士郎を貫く。
「当たり前だ。こんな格好で街を歩き回るくらいなら、いつもの格好で戦ったほうがマシだよ」
 どこか拗ねるように、殺人貴は言った。
「えー? 格好いいじゃない。似合ってるわよ。志貴?」
「ふざけるな、馬鹿。敵に殺される前に恥ずかしさで死にそうだ」
 体中に巻かれた黒衣を弄くり回す真祖の手を、殺人貴が払う。無下に手を払われた真祖の姫は、特に気にした風も無く、無邪気な笑みを浮かべている。
「……なんか、調子狂うわね」
 凛が声を潜めて、隣に立つ士郎に声を掛ける。
 真祖の姫は、不気味なくらい機嫌が良い。殺人貴の顔を見つめて、終始にこにこ笑っている。殺人貴の方は、何やら落ち着かない様子で体中をぺたぺたと触っていた。
 ……これが先日命を掛けて戦った相手かと思うと、なんだかどっと疲れが押し寄せてくる。
「ああ。……正直、俺も驚いている」
 皮肉を言う気も起きないのだろう、士郎はどこか居心地悪そうな顔で、肩をすくめた。
「何話してるの? もしかして、二人して作戦会議?」
 少し棘を含んだ声に視線を戻すと、頬杖を突いた真祖の姫が、不敵な笑みを浮かべ凛を見つめていた。それは、心の間隙を突くような、ドキリとさせられる笑みだった。
(そう、押さえるトコは心得てる、ってわけ)
 ……なかなか、油断の出来ない相手だ。心の中で苦笑する。
「いえ、別に何も。それより、これからのことを話しましょうか」
 澄ました顔で答えて、凛は手元のトランクケースから、幾つかの資料を取り出した。


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