■火天D

「あれ? ……可笑しいな」
 もう何度目かになるエラー表示に、リオは訝しげに眉をひそめた。
 中央管理棟の裏手にある職員用のエントランス。辿り着いたリオとジブリールは、網膜認証によるセキュリティロックを解除する作業に取り掛かっていた。
 もう一度、と同様の操作を試みる。
 審問官であるリオには、都市内のあらゆる公共機関に立ち入る権限が与えられているはずだった。しかし――。
 画面に表示されたのは、またしてもエラー表示。
 科学技術に疎いリオだが、網膜認証によるセキュリティロックの解除は何度か経験している。手順に間違いがあるとは思えなかった。
「ちょっと失礼しますね」
 困惑顔のリオを押しのけて、ジブリールが端末に顔を近づける。
 リオは諦め顔で、その後ろ姿を見つめた。
 そんなことをしても開くはずがない。網膜認証は、眼球にある虹彩の形によって判別を行うが、二つの虹彩が同じパターンになる確率は十の七十八乗分の一だと言われている。万が一にも開く訳など、
「あら。開いたみたいですね」
「ええ!?」
 急ぎ端末の画面を覗きこむと、表示されているのは認証成功を示す文字列。まさか、と目を見張ると、微かな電子音と共に扉のロックが外れた。
「どうしてジブリールさんの網膜が登録されてるんですか!?」
 驚いたリオが詰め寄るも、ジブリールはいつもの笑顔で「ただの偶然ですわ」。何て事の無いように答える。
「偶然って、そんな」
「外部の人間である私の網膜パターンが登録されていたという訳ではないのでしょう。たまたま、登録されていた人と網膜パターンが同じだった。確率的には有り得ない話ではないんですよね?」
 きっとこれも神の思し召しですわ、と胸の前で手を組み合わせるジブリール。身を固くするリオを置いて、塔の中へと進んでいく。
「確かに確率はゼロではありませんけど……信じるものは救われるってこと?」
 いやいや、そんなバカな。リオは力なく頭を振る。
「行かないのですか? リオさん。今は扉がどうして開いたかは、さして問題ではないと思いますが」
 振り返ったジブリールが、冷たく澄んだ翆緑色の瞳を向けて言う。リオは釈然としないものを感じながらも、数秒の葛藤の末に後を追った。
 横に並ぶと、ジブリールが「ふふふ」と弾んだ声を漏らす。
「やはり、クレーエと離れたのは好都合でしたね」
「クレーエさんがどうかしましたか?」
「イエイエ、独り言です。ささ、急ぎましょう」
 訝しむリオの手を引いて、ジブリールはずんずん奥へと進んでいく。塔の中はひんやりとして、どこか湿った匂いがした。

「は――……これはまた」
 先が見えないほどに長く続く螺旋階段を見上げ、ジブリールが感心したような呆れたような、どちらとも言えない溜息を漏らした。
「フレデリカさんは、この先へ?」
「恐らく」
 はっきりと頷いたリオに、隣のジブリールが小さく目を見張る。
 ――フレデリカはきっと、この先に居る。
 リオには確信めいた予感があった。
 改めて覚悟を決めると、引き摺るように長いカソックの裾を縛り上げて、非常灯がうっすらと輝く階段を上り始める。管制室は、塔の上階付近にある。
 中央管理塔へは、ハイゼ神父に着替えや食事を届けるフレデリカに付き添って何度か来ている。その時は、直通エレベーターを使って一気に上階まで上がっていたので、道に迷うようなことは無かった。今は侵入者への対策だろう。エレベーターは電源が落とされ作動しない。
 明かり窓一つ無い薄暗い階段を、ジブリールの息遣いを後ろに感じながら進む。
 階段は人がすれ違える程の幅しかなく、至る所に周囲の壁からはみ出した配線や配管が横たわっていた。中にはよじ登るようにしなければ乗り越えられない、一メートル近い径の管もあり、道のりは楽ではない。
「あの……手を、どうぞ」
 配管が幾重にも折り重なった壁をよじ登ったリオが、振り返り後ろのジブリールに手を差し出す。
「ありがとうございます」
 おずおずと差し出された手を取って、ジブリールも後に続く。塔内は装置が吐き出す排熱のためだろうか。上階になるほど熱気を増していく。所々に飛び出た、血管を思わせる赤や青の原色のコード。ぬらりとした質感を持つハラワタのようなチューブ。巨人の体内を進んでいるようで酷く不気味だ。
 一般的な建物で言うと、八階程度の高さまで上った頃だろうか。道が三又に別れた。
「風はこちらから流れてきているようですね」
 ジブリールが人差し指を口に含んで暗がりの中に翳し、右の道を指差した。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
 膝に手を突き上がる息を整えながら、リオはじっと覗きこむように奥の暗がりを見つめた。身体を起こして、ぬらりとした首筋を袖で拭うと、
「急ぎましょう」
迷いない足取りで、一番左の道へと歩き出す。しばらく進み――ジブリールの足音が付いて来ないことに気づくと、慌てて背後を振り返った。きょとんとした顔のジブリールと目が合う。
「あ……その、すみません。僕自身不思議なんですけど、なんだかこっちから、フレデリカの声が聞こえた気がして……」
 しどろもどろに説明するリオを、ジブリールは静かな湖面のような瞳でじっと見つめていた。螺旋階段は、しん、と静まり返り、耳を澄ましても、微かに伝わる機械音の振動の他には何も聞こえない。要領を得ないリオの説明に、しかしジブリールは表情を引き締め、
「――おそらく、『聞く力』」
ゆっくりと、噛み締めるように呟いた。
「聞く力?」
「リオさんの神威《ゲニウス》は、『聞く力』なのではないでしょうか。リオさんを見ていると、リオさんが聞きたい、知りたいと願うほどに少しずつ力を増していっているような気がします」
「……はぁ、そうなんでしょうか」
 リオはいまいち実感の無い説明に首を傾げる。だが、自分が「この先にフレデリカが居る」と根拠の無い自信を持っていることもまた事実だった。
 だからこそ、不安が産まれる――。
(この感覚は、どこまで信じて良いのだろう)
 神威《ゲニウス》の感覚は曖昧で、確たるものが何も無い。リオからすれば、それは地図無しで旅をしているのと変わりなかった。この感覚に従って行き着いた先に、目指していたものが影も形も見当たらない可能性だって、十分に有り得るのだ。
 こんな不確かなものに、全てを預けてしまって良いのだろうか?
 真剣な顔で悩むリオに、ジブリールはくすり、と小さく笑って、
「リオさんはもう少し、ご自分のことを信じた方が良いと思いますわ。この大一番でリオさんが感じた天啓……。これは愛するフレデリカさんを求めるリオさんの心が起こした奇蹟に違いありませんっ」
「……愛する?」
 意味を咀嚼するまで、数秒の時間が必要だった。理解すると同時に、顔から火が出るほど熱くなる。
「ぼ、僕が、フレデリカを? え?」
「違いますか?」
 何かを期待する翆緑色の瞳がかつてない程にキラキラと輝く。満面の笑顔で問い返すジブリールに、リオは顔を真っ赤にして逃げるように顔を背けた。ぼそりと、
「……よくわかりません。けど、さっきからフレデリカのことばかり考えてるのは事実です。けど」
囁くように言うと、真っ直ぐにジブリールを見上げた。
「それは、正しいことなんでしょうか」
「……どういうことですか?」
「さっき、クレーエさんから過去の話を聞いて、『しっかりしないと』って思ったんです。立派な審問官になって、出来るなら、クレーエさんが果たせなかった分まで誰かを助けられたら、って。けど、僕はこの状況でフレデリカ一人のことばかりを考えてる」
「それも覚悟の上で、ここへ来ることを選んだのではないですか?」
 ジブリールの華やいだ声が硬くなる。リオは迷うように視線を彷徨わせ、
「……そうですね。そのつもりでした。でも」
 拳を握りしめ、真剣な表情で俯いた。やがて、意を決したように顔を上げ、
「クレーエさんの天使は、どうしてクレーエさんの元を去ってしまったんでしょうか」
 ジブリールが形の良い眉根を寄せて首を傾げる。その瞳は「どうして今、そんなことを?」と問いかけている。リオはその視線から逃げるように顔を背け、
「その、思ったんです。都市のみんなを助けずに、フレデリカのことばかり考えていたら、マグノーリエは呆れて、僕を見限って飛んで行ってしまうんじゃないかって」
 ジブリールが小さく息を呑む気配がした。少しして、呆れたように長く息を吐く。
「そんなこと」
「無いと言い切れるでしょうか? クレーエさんは、天使のことを父や兄のように思っていたと言っていました。自分の考えを理解してくれるものだと信じていた。それなのに」
 それでも、天使はクレーエの元を去った。その原因は自分にあるのだとクレーエは言った。自分が失敗したからだと。しかし、クレーエはそれが正しいと信じて行ったはずだ。それなのに、天使は付いて来てはくれなかった。あの、異形に身を落としてまで宿主と運命を共にした堕天使とは違って――。
「……天使とは、『形相を獲得したイデア』である」
 冷たく感情のこもらない声に顔を上げると、ジブリールはどこか虚ろな表情で遠くを見ていた。
「天使は、審問官を憑代にして、世界に偏在する歪を調律するという使命を負います。彼らが重要視するのは、この世界をいかに永続させるかということですが、同時に彼らは、審問官と共に生きる中で、自身の在り方を見出したいと願っている。天使には魂がありません。だから関係性の中から、自分で存在理由を探し出すしかない」
「……ジブリールさん?」
 いつもと違う様子に、恐る恐る声をかけると、ジブリールは柔らかく、いつもの笑みを浮かべた。
「今のは、知り合いの審問官から聞いた話しです。天使は、世界の存続と同じくらい、審問官と生き、共に成長することを望んでいる。もし、天使が守護する審問官の元を去ってしまったのだとしたら、そこには余程の事情があったと考えるべきでしょう」
 余ほどの事情、と難しい顔で呟いたリオを、宝石のような翆緑色の瞳が、じっと見つめている。
「リオさんは、マグノーリエのことが信じられませんか?」
「そんなことは……無い、です」
 歯切れの悪いリオの答えに、ジブリールはじっとリオの表情を観察していたが、ふっと口元に悪戯っぽい笑みを浮かべ、
「リオさんが本当に気になっているのは、クレーエのことではありませんね?」
確信めいた声で囁いた。
「リオさんは、マグノーリエがそれくらいで自分を見捨てるはずがないと言うことを知っています。その程度の信頼関係も持てない審問官に、神威《ゲニウス》は発現しません」
 優しく暖かいが、否定を許さない透明な声。驚き目を丸くするリオに、ジブリールは微笑み、
「リオさんが本当に聞きたいのは、フレデリカさんのお父様――ハイゼ神父のことですね?」
「!?」
鋭さを伴った指摘に、リオの顔が凍りついた様に固まった。
「気づいて、いたんですか?」
「私は直接、神父にお会いしたことがありませんでしたから、憶測に過ぎませんでしたが……街で聞いた噂から、もしかしたら、と」
 リオの肩が力なく落ちる。
 彼女の言うとおりだった。リオの心に引っかかっていたのは、もう何年も天使の気配を感じなかったハイゼ神父のことだった。リオは今回の件を通して、神父が実はもう何年も前から審問官としての資格を失っていたのではないか、という考えを強くしていた。
「僕も、確証があるわけではありません。だから、誰にもこのことは話したことはありませんでした」
 もちろん、フレデリカにも。
「けれど、フレデリカが遺書を隠したのはどうしてなのかとか、どうして堕天審問官である『大禍』がこの都市に危害を与えようとしているのかとか、オスカーさんがオスティナトゥーアにやってきたことが、今まで野放しにされて来たこととか……いろいろなことを考えていると、辻褄が合うことが多くて」
 胸に抱えていた重りを下ろすように言ったリオに、ジブリールは真面目な顔で頷き、
「そうですね。堕天審問官は、暴虐な破壊者ではありますが、無法者ではありません。制約が多く、理に敵わないことは出来ないが故に、行動を起こすには、それなりの理由がある」
 俯いたリオは、ぐっと拳を握りしめる。吐き出すように言った。
「僕は、知りたいです。この都市に今何が起きているのか。亡くなった神父を貶めるようなことはしたくありませんけど、遺された審問官として、僕には真実を突き止める義務がある。もちろん、フレデリカを安全な場所に連れて行くのが一番の目的ですけど」
「真実がもたらすのが、幸福とはほど遠いものだとしても?」
「え?」
 顔を上げたリオを、ジブリールは静かに見つめていた。翆緑色の瞳に浮かぶのは、ほの暗い水底を思わせる澱んだ光。悲しげな、本当に悲しそうな瞳の色――。
「すみません。独り言です」
 ジブリールは取り繕う様な笑顔を浮かべると、
「行きましょう。『大禍』が追い付いて来ないとは限りません」
 リオの手を取って、長い階段を昇り出す。柔らかい掌の感触と優しい笑顔を前に、リオは何も聞き返すことが出来なかった。

 物音が聞こえるたび、 無意識のうちに四肢に余計な力をこめてしまう自分がいる。通路に置かれた、用途の解らない様々な機械器具――それらが作り出す影の中に、ありもしない侵入者の姿を幻視する。彼らよりも先行しているのだと頭では理解しているつもりでも、一度体験した恐怖は身体の芯にまで染み透っていて、拭い去ることが出来ない。今でも脳裏には、伸びたチューブの影に息を殺しナイフを握り締めた少年兵の姿が、ありありと描き出されている。
 「追われる」ということが、これほどの強い恐怖をもたらすということを、リオは知らなかった。
(僕は、彼らを裁くことが出来るだろうか)
 暗闇を見つめる青い瞳が、躊躇うように揺れる。
 審問法廷を開いている最中に行われた罪には、即時審問執行を行わなければならない。まさに凶行が行われようとしている時に、のんんびり法廷を開いていては、被害者を守れないからだ。
 法廷内で殺人行為が行われようとすれば、当然、執行は厳しいものにならざるを得ない。場合によっては、その場で極刑を言い渡さなければならない場面も出てくる。
 極刑――即ち、天使マグノーリエの力を使った死刑執行だ。
 橋脚から落ちて行く少年の、最期の表情が脳裏に蘇り、リオは強く頭を振った。即時の審問執行には、冷静な判断力と強い決意が要求される。一瞬で罪を秤取り、傷口が大きくなる前に患部のみを切り取る。
 リオはこれまで、審問官として誰かに極刑を言い渡したことは無い。誰かに明確な殺意を抱いたことさえ、一度として無かった。
 橋脚から落ちて行く少年兵――彼が遺した、黒い感情が凝縮されたおぞましい視線を思い出す。そして、それを見つめて薄らと微笑んでいた男、『大禍』の姿も。
 ジブリールは、『大禍』の行動には、何らかの正当性があるのだろうと言った。しかし、リオにはそれが納得出来ない。家々を焼き、市民を銃殺しようとした彼らに果たして正当性などというものがあるのだろうか?
 そこまで考えて、リオは寒さをこらえるように、ぶるりと身体を震わせる。彼らの行動は、リオがこれまで信じて来た常識の外にある。リオは彼が恐ろしくて堪らなかった。
 顎を上げ、静かな面持ちで階段の先に蟠る闇を見詰める。
 もし仮に、彼らの行動に正当性を与える要素があるとするなら――それはきっと、この塔で明らかになる。テロリストを率いて『大禍』が。神父の遺書を抱えてフレデリカが目指す、この中央管理塔で。
 そして、恐らく――。
 この場所にはもう一人、真実を知る人物が居るはずた。
「リオさん、あれを」
 ジブリールが弾む息で囁き、階段の向こうからうっすらと漏れる光を指差した。
 リオとジブリールは頷き合うと、気力を振り絞って長い階段を上る足に力をこめた。
 地下迷宮から地上へ抜け出す冒険者の心地で、長い階段を上り切る。
 視界が開け、眩い光に思わず顔の前で手をかざす。目が慣れると、最初に目に飛び込んできたのは、無機質な灰色の部屋と、それら壁一面を覆い尽くす無数のモニターの群れだった。
 隣のジブリールが感嘆に似た声を漏らす。
 これが都市の中枢部、中央管理塔管制室。あらゆるライフラインの制御を行う案内は、都市がこの世界を生き抜くための心臓とも言える。三階分を使用した吹き抜けの部屋には、白衣姿のたくさんの研究員たちが忙しそうに走り回っている。
「あの」
 リオが小さく声を発すると、慌てふためいていた研究員たちが一斉に驚きと恐怖の入り混じった顔をリオへと向けた。
 剥き出しの警戒心を向けられ、リオが思わず身構える。この場に相応しい言葉を探していると、
「――リオ君!」
白衣姿の若い女性が駆け寄って来て、リオの手を取った。
「良かった。無事だったのねっ」
 目に涙を浮かべ、表情を綻ばせる。
 彼女には見覚えがある。フレデリカと一緒に塔に着た時に塔内を案内してくれた研究員だ。
「……はい。皆さんもお元気そうで、何よりです」
 リオもまた、道中ずっと緊張しっぱなしだった気を緩め、微笑み返した。
 途端、小さく上がる歓声――。
 ぞろぞろと他の研究員たちが集まってきて、口々にリオへ労いの言葉を投げかける。
 リオは気が緩んだせいで零れそうになる涙をこらえ、人垣の間から周囲を見渡し、一番奥のひと際大きなモニターの前に捜していた顔を見つけた。
「父さん!」
「……リオ、なのか?」
 モニターを睨み、厳しい表情で部下に指示を送っていたアーダルベルトは、リオを見て一瞬、驚きに目を見開くと、固く表情を引き締めてリオの元へとやって来た。
 アーダルベルトの顔には、今回の騒動のためだろう。隠し切れない焦燥の色が見てとれる。
「良かった。父さんも無事だったんですね」
 家が燃えているのを見た時は、胸が潰されるような痛みと、足元が崩れていくような喪失感を覚えた。しかし、こうして家族の無事を確かめると、安堵のあまり、その場にへたりこみそうになってしまう。
 ほっと息を吐いたリオに、アーダルベルトは感情の見えない青い瞳を向け、
「こんな所で何をしている」
あまりにも固く無機質な、冷たい声で言った。
「……え?」
 思わぬ言葉に、リオの笑顔が音を立てて凍りつく。
「どうして市民を助けに向かわなかった」
「どうしてって……あの、フレデリカがここに向かっていると聞いて。それに、父さんのことも心配でしたし」
「そんなことが理由になるのか? お前は審問官なのだぞ? 都市は今も危機に瀕したままだというのに、何を寝ぼけたことをいっている」
 冷たい言葉に、リオが戸惑いの表情で父の顔を見返す。研究員たちは互いに顔を見合わせると、そそくさと仕事に戻って行った。
 アーダルベルトは、しばらく厳しい顔でリオを見下ろしていたが、
「私は、お前の育て方を間違ったようだ」
言い捨てると、踵を返してモニターの前に戻って行った。
 その場から一歩も動けない。
 アーダルベルトの冷たい声が、耳鳴りのように頭の中に響いていた。
「君。そこの女性を奥の部屋に」
 アーダルベルトが、近くに居た警備兵に指示を送る。警備兵は敬礼を返すと、硬質な足音を立ててリオたちへと近づき、無遠慮にジブリールの腕を掴んだ。
「……っ、なにを」
「いいからこっちへ来い!」
 強い声に、ジブリールは一瞬、険しい表情を浮かべたものの、小さくリオに頷き返し、言われるがままに警備兵の指示に従った。リオは何が起こったのか理解できず、茫然とその姿を見送ったが、強く拳を握り締めると、モニターの前のアーダルベルトの元へと駆け寄る。
「どういうことですか!? 父さん!」
「公の場では市長と呼べと言っているだろう。リオ・テオドール・アルトマン審問官」
 アーダルベルトの冷たい声に、リオはびくりと身体を震わせる。喉まで競り上がってきた言葉を堪えるように飲み込み、
「……すみません、アルトマン市長。けれど、理由は聞かせてください。どうして彼女を拘束する必要があるのですか」
「彼女がこの都市に現れたのと、テロリストたちが侵入した時期は一致する。奴らの手際は驚くほど良い。都市内に手引きした者が居ると考えられる。よって、彼女にはスパイの疑いがあると市長である私が判断した。何か問題があるかね?」
「それは」
「それに、彼女はもともと都市の外の人間だ。今回の騒動に巻き込まないためにも、別室に避難して貰っておいた方が良いだろう。少なくとも、ここに居るよりずっと安全だ」
 険しい表情のアーダルベルトが言い終わるかどうかという時、管制室内に不気味な警報音が鳴り響いた。
「……来たか」
 暗く沈んだアーダルベルトの声。警備兵たちが慌ただしく駆けていく。アーダルベルトはリオの耳元に口を寄せると、
「彼女が心配なら、お前も奥の部屋に隠れていろ。何もしなくて良い。仕事の邪魔だ。いいな」
冷たく言い放ち、すぐさま踵を返した。
「……っ」
 リオは気圧されたように俯いた。思わず「はい」と首を縦に振ろうとしている自分に気付き、歯を食いしばって押し留まる。
「……僕は、思いません」
 詰まりそうになる喉で、絞り出すように言った。
「僕は、自分の判断が間違っていたとは思いません!」
 大きな声に、アーダルベルトがゆっくりと振り返る。不機嫌そうに眉をひそめ、
「……なに?」
「僕は、自分が最良だと思うことをしたつもりです。審問官として……そして、一人の人間として。何ら恥じるべきものは無いはずです!」
 リオは顔を上げ、真っ向からアーダルベルトを見返した。
 リオの蒼い瞳に映る、いつになく強い意志の色に、アーダルベルトはしばし無言でリオの顔を見詰めていたが、
「もういい。好きにしろ」
怒りとも呆れとも取れる声で言って、歩き出す。
「待って下さい! 話があります」
「後にしろ。今の状況が解らないのか」
 部下に外部モニターを消すように指示しながら、アーダルベルトが鬱陶しそうに振り返る。
「お聞きしたいことがあります。市長」
「先ほど市長は、都市の騒動にジブリールさんを巻き込まない為に、別の部屋に避難して貰う……そう仰いましたね?」
「それがどうした」
「それはつまり、別の部屋に避難していれば巻き込まれないと考えている訳ですね? 市長は『大禍』がこの都市を狙う理由を知っているのですか?」
 リオは冷たい父の顔を正面から見上げた。アーダルベルトの頬が微かに震える。
「少し考えれば解ることだろう。管制室を制圧すれば、それは都市を支配したのと同じこと。テロリストたちの目的は管制室だと考えるのが自然だ」
「では、質問を変えましょう。アーダルベルト市長。貴方はハイゼ神父が審問官の資格を失っていたことを知っていましたか?」
「バカな。……今は下らない話をしている場合じゃ」
 不自然に視線を泳がせ、はぐらかそうとする父を、リオは手を突き出して制する。
 今日だけは、どんな嘘も見逃すつもりは無かった。
「違和感があったんですよ。どうして僕の網膜認証が無効化されていたのか……認証許可の操作が出来るのは、市の幹部だけです。どうして今になって、データを操作をしたのか。考えられる理由は、一つしか無い」
 リオは言って、胸の前に一冊の本を掲げた。
「貴方は僕に、この塔へ来て欲しくなかった。ハイゼ神父が自殺したことで、僕があることに気づいたのではないかと心配になったんです。それは恐らく、『大禍』が目を付けるに足るほどの、都市ぐるみの犯罪」
「っ!? ……それは」
「アーダルベルト市長。答えて下さい。貴方は僕たちに、何か隠していることがありますね?」
 リオの手にある聖典《レリクス》が眩い黄金色の光を発する。
 宙空より顕現し、羽を広げた天使マグノーリエの透明な肢体を前に、冷たい光を湛えていたアーダルベルトの目元が微かに歪む。

■幕間@

 数えきれない数の罪人を処断し、都市を焼き、住む家を奪った。誰かの恨みの言葉を聞かない日は無かった。遠くで誰かが死ぬと、お前のせいだと罵られ、石を投げられた。
 ただがむしゃらに、誰もが目を背ける戦場ばかりを駆け抜けた。休む暇など無くて、ぼろぼろになって、全てを犠牲にして、心は少しずつ削れ弾力を失っていった。
 ひとたび管理教会《アパティア》に帰れば、英雄と称えられ喝采を受ける。与えられた席ばかりが大きくなり、近づく者は少しずつ居なくなった。色とりどりの花が咲き乱れるエリュシオンの園。神殿の高みから見下ろす世界はどこまでも澄み渡っていて、汚れていく魂を冷たく孤独にさせた。
 本当は、たまらなく嫌だったんだ。
 嫌で嫌で堪らなくて、けれどそれしか知らなかったから、そんなことにさえも気付けなくて――だけど、そんな時でも天使が傍に居てくれた。
 自分には神の意志がついている。
 何も恐れることなど無いのだと強く思えたからこそ、全てに絶望せずにいられた。

「開廷=v

 世界中のあらゆる罪を秤取り、見合った罰を与える。
 俺はそれが、世界を正しい方向へ導くために必要な唯一の方法だと、心から信じて疑わなかった。
 あの日あの時あの場所で、どこまでも人を嘲り嗤う、狗と呼ばれたあの男に出会うまでは。

 ――『砂漠の山狗掃討作戦』。

 中東にある五つの都市は、昔から根強い異教徒たちによる自治支配が続いており、管理教会《アパティア》と激しい衝突を繰り返してきた。
 世界宗教の統一――諸教混淆《シンクレティズム》の実現こそが、世界平和実現の足がかりであると唱える管理教会《アパティア》は、第四エリュシオン公会議にて、これまで手を触れようとさえしなかった中東五都市への武力介入を採択した。
 この軍事行動を『聖戦』と称する管理教会《アパティア》は、一個師団規模である武装審問官八百余名を戦力として投入。作戦の指揮には、審問官制度において教皇に次ぐ権力を持つ『四大審問官』の中から一人が選出され、同日、教皇の名の元に騎士団総長へと任命された。管理教会《アパティア》が有する武装審問官が持つ戦力は他の組織に比類なく、戦闘は短期間で収束するかに思えたが、事態は予想外の方向に転がる。前線に立つ、一騎当千の武装審問官たちからの応答が途絶えたのだ。
 後にこれら消失の原因は、異教徒たちが傭兵として雇った一人の男にあったことが判明する。
 『山狗』。
 この奇妙な男が、どのような生い立ちを辿り、どのような信念を掲げて生きたのか、知る者は居ない。しかし確かに言えることは、この男が審問官たちにとって、守護天使による審問執行の通じない、いわば天敵であり、絶対の権力を持つ管理教会《アパティア》を、外から脅かした唯一の人間であるということだろう。
 明らかに精神的に欠落したこの男は、産まれつきなのか、罪悪感と呼ばれる感情を持たなかった。男は自らを『山狗』と称し、どこの集団《コミュニティ》にも属さず、それどころか自身を、人類という区分から逸脱した存在だと主張したのである。
 『山狗』は生物学的見地において、確実に人間だったことが解っている。しかし、天使と審問官による審問執行は、被疑者の精神を秤にかけることで行使される。自身を人間ではないと信仰している山狗を裁くことが出来る審問官は居なかった。
 管理教会《アパティア》最大の誤算は、『山狗』が中東の拠点に世界中から子供たちを集め、自身と同じ精神構造を持つ兵士を量産していたことに気付かなかったことにある。子供たちは『山狗の子』と呼ばれ、育ての親である『山狗』と同様の性質を引き継いでいた。その数は三百から四百人規模だったと言われている。
 血で血を洗う闘争は激しさを増し、かくして当初三日で収束すると推定された宗教戦争《ジ・ハード》は、予定よりも十日間ほど長引くことになる。

「お前、本当に管理教会《アパティア》のやってることが正しいと思ってるのか?」

 俺がその男と遭遇したのは、硝煙で目が霞む前線の小さな武器庫だった。
 男は薄汚れた軍服姿で、自動小銃のストラップを肩に引っかけ、火薬の詰まった木箱の上に片膝立ちに腰かけて、不味そうに煙草を吸っていた。浅黒い顔には、ニヤニヤとした笑みが張り付き、挑発するように目を細めている。
 俺は軽い戸惑いを覚えながら、男と対峙した。誰が、管理教会《アパティア》が苦戦する軍団の最高指揮者が、前線の小さな武器庫で油まみれの顔で煙草を吸っていると思うだろう。
「かっかっか、こんなに早く大司教サマが出てくるとは誤算だったぜ。生き物以外を焼きつくす聖なる炎――教会が誇る戦略兵器を前にしちゃ、俺たちなんてガキのオママゴトと同じって訳か」
 焼け野原と化した大地を見渡し、男が縮れた髪を掻き上げる。浅黒い顔に走った大きな傷跡が引き攣って、笑っているような、泣いているような不思議な表情を形作った。
「折角、戦場駆けずり回って作戦を考えたのに、稼いだ時間が十日足らずとは。泣けてくるぜ」
 管理教会《アパティア》は、この男を審問ではなく、武力によって殺害するよう命じている。
 修道服の中の聖遺物《レリクス》に触れ、紅の炎を宙に奔らせる。男の濁った瞳がぎろりと動いた。
「これが無血の勝利だと、本気で思ってるのか? クソッタレ。家はおろか衣服や財産まで燃やし尽くされて、明日からどうやって生きてけってんだ? ああ?」
 光の翼を広げ、紅炎を纏う天使の前で、男が侮蔑の言葉を吐き出す。濁った目には、怖れや警戒といった色は一切浮かんでいなかった。
「何故、刃向かった」
 言葉を交わすつもりは無かった。しかし単身で管理教会《アパティア》に刃を向け、そして一時とはいえそれを成功させたこの男に、俺は僅かな興味を抱いた。
「お前が異教徒たちの味方をしなければならない理由など無かったんだろう。金が目的だというのなら、これほど割に合わない仕事は無い。何故、管理教会《アパティア》に牙を剥いた」
「そりゃ、気に食わねぇからさ」
 山狗は口元を歪めて嗤った。
「なに?」
「知っての通り、俺たちは人間じゃねぇ。獣のように自由に生きて、獣のように自由に死ぬ。どうかこの汚れた魂が救われますように、って祈りながらな……。だが、管理教会《アパティア》はそれを悪だと言う。どうしてそんなことを言われなきゃならない? 思想を統制し、価値観を統一し、権力を掌握し、それから逸れた者を異端として切り捨てる。そんな社会、まっぴら御免だ」
「……そんな理由で、多くの子供たちを戦場に引き入れたのか」
 感情の昂ぶりに応じて、天使が纏う炎が煌めきを増す。山狗は嗤って、背中の向こうから柔らかな塊を掴みだした。傷だらけの腕に猫のように襟を掴まれているのは、襤褸切れを纏った一人の少女――。
「コイツは突然変異の目が気に食わないと言われて、長らく虐待を受けて来た。コイツが暮らしてきた都市には審問官も居たが、『悪魔の子』を阻害するってのは都市の総意だと言って、それを黙認して来たそうだ」
「……それは」
「それはその審問官が可笑しい、ってか? まぁ、そうなのかもしれない。だが、お前たちがやろうとしているのは、そういうことだ。制度と価値観を固定化して、それから外れたヤツを容赦なく弾き飛ばす。自ら考え疑問を持つ機会を奪い、何が正しいか、何が価値があるかの判断能力を放棄させる。全ては審問官と天使サマが決めて下さる。俺たちは何も疑問を持たずに、それに従っていればいい、ってな」
 男はしがみ付く少女の顔を掴み、ぐり、と強引にこちらへと向けた。
「見ろよ、この目を」
 知らず、眉間に皺が寄った。
 少女の両の瞼は、幾重にも薄汚い紐で縫い付けられ、生々しい傷痕を遺していた。薄汚れた髪は、元は金色だったのだろうが、手入れのされていない髪は艶を失くしている。
「おいおい、そんなおっかない顔するなよ。コイツの目を縫い付けたのは、他でもないコイツ自身だ。お前の瞳は悪魔の目だから、目を開くことが悪いことだと神父サマに教えられたんだとよ」
 少女が勢いよく身を捩り、助けを求めるように山狗の軍服にしがみ付く。その身体は恐怖のためだろう。ガタガタと震えていた。
 少女が恐れていたのは、他でもない。審問官である俺だった。
「俺は、こいつの金目が好きだがねぇ。まるで豹のようだ。獣である俺たちにお似合いの目だよ」
 山狗は優しげに目を細め、少女の頭を撫でた。
「他の子供たちも、おおむね似たようなものだ。こいつらには居場所が無かった。管理教会《アパティア》だって、救いの手を伸ばそうとしなかった。だから、俺が教えてやったのさ。一人で生きて行くにはどうすればいいかを」
「……その結果が、この有り様か? 子供たちは再び住む場所を失くし、路頭に迷う。自らを獣と信じ、殺人術を叩き込まれた子供たちに引き取り手は無いだろう。お前がやったのは、結局は子供たちを不幸にすることだ」
「お前がそれを言うのか!? 全てを焼き尽くした、お前が!」
 男が腰から抜き放った山刀の切っ先が、真っ直ぐに突きつけられる。
「お前たちはいつだって奪うだけだ! 裁いて、救って、それで終わり。与えることをしない。自ら手に入れさせる術を教えない! 管理教会《アパティア》という絶対の価値観を押し付けて、それ以外は焼きつくし押し潰す。古い小説の言葉を借りれば、それは管理社会《ディストピア》だ。姿形だけ神々しいが、やってることは獣以下のクソみたいな行為だよ。その先にいったい、どんな幸福がある!?」
 敵意を向ける男へと、一歩を踏み出す。金の刺繍の施された白い僧衣が捲れ上がり、熱風がプレハブの武器庫をガタガタと揺さぶった。
 右手を前に突き出し、懐から取り出した黄金の天秤《レリクス》を掲げる。
「山狗。お前は子供たちを唆し、多くの人々を戦火に巻き込んだ。その罪は、万死に値する」
 冷たい声で、判決を告げる。
「――教会騎士団は、いや、管理教会《アパティア》は貴様に、極刑を言い渡す」
 手の上の天秤《レリクス》が傾き、羽を載せた方の秤が持ち上がる。瞬間、背中の天使が勇壮な翼を広げ、周囲を眩い陽光で照らし上げた。
「――おお、おお、綺麗な炎だ。神が発する光のようだ。……それだけに痛々しい。そんな清い炎を纏って、眉ひとつ顰めることなく人の生活を焼き尽くすお前が、俺は心底恐ろしい」
 眩い光の雨が男の身体に降りかかる。それは音も無く全身に広がり、静かに男を焼き始める。
「クソガキ。お前はいつか、管理教会《アパティア》の傲慢さに気付くだろう。その時はせいぜい苦しみ後悔すると良いさ。そしていつか、胸を焦がす痛みと共に思い出せ! この山狗の言葉を!」
 男は低い声で笑って、両腕を広げた。段々と輪郭を失くしていく顔で、冷たい視線を送る美しい青年の姿をした天使に向かって歯を剥き出しにして笑う。

「――じゃあな。地獄で待ってるぜ。人殺しの天使サマ」

 作戦は成功し、多くの犠牲を出しつつも聖戦は管理教会《アパティア》側の勝利によって幕を降ろした。
 正義を執行し、凱旋した英雄を湛える色とりどりの喝采。
 それらに耳を傾けながらも、俺の耳には、戦場で聞いた子供たちのすすり泣く声がこびりついて離れなかった。

 ――それから数日後。俺は深い絶望の中で、審問官としての資格を失う。



「私は覚えている。父が私の目を褒めてくれたこと。豹《レオパルト》という名を与えてくれたこと」
 無骨なナイフを抜き放ち、レオパルトが金色の瞳を白っぽい街灯の明かりに煌めかせた。
「へぇ。そうか。あの時の子供か。美しい金目だと『山狗』が褒めていたっけな」
 クレーエは感慨も無く呟くと、咥えていた煙草を石畳の街路に吐き捨てた。高い建物に挟まれた細長い街路を吹き抜ける冷たい風に、微かに目を細める。
「ん? 髪の色はどうしたんだ? 以前はたてがみのような金色だったろう」
 瞬間、黒革で覆われたレオパルトの銀髪が音を立てて逆立った。
「やはり、貴様があの時の審問官か!」
 金色の瞳の中央に縦に走る緑の光彩が、殺意に煌めき、抜身のナイフのように細まる。
「……そうだよ。だから俺が残ったんじゃねぇか」
 つまらなそうに呟くと、クレーエはリボルバーを構え直した。レオパルトの身体が後ろに跳ねる。黒い僧衣の下の身体が引き攣ったように反り上がり、全身くまなく巻かれた黒革がみしりと軋み、音を立てた。
「死ね、審問官!」
 僧衣の下から、引き絞られた矢のようにナイフが跳び出す。
「……気の短い奴だな」
 レオパルトが後ろに跳ねた直後、クレーエは既に駆け出していた。一度に投げ放たれた都合五本のナイフを足運びだけで躱すと、迫り来る残り一本を、リボルバーの柄で弾き飛ばす。更に飛ぶように移動して、一気に間合いを詰める。細い街路は下り坂の坂道になっている。間合いを詰めるにはクレーエの方が有利だ。
 揺れるし視界の中、クレーエが片手でリボルバーの照準を絞る。と、視界からレオパルトの姿が消えていることに気づいた。
「……っ!」
 手近の民家の軒下に飛び込み、周囲を窺う。
 ひっそりと静まった夜の街路は物音一つ聞こえない。辺りは見晴らしも良く、身をひそめる場所もありはしないはずだが――。
「影、か」
 クレーエは小さく口の中で呟き、リボルバーを顔の前に引きつけると予断無く周囲を窺った。
 光源は、二十メートル間隔で並ぶ水銀灯の明かりのみ。それが却って闇の濃さを深め、辺りには身を隠すに十分な影が無数に出来ていた。レオパルトがそのどこかに身を隠しているのは間違いない。まるで狩りを得意とする野生動物のような軽やかさだった。
 ――いっそ、全ての街灯を壊してしまうか?
 その方が闇に目が慣れるのも早い――と、そこまで考えて首を振る。
 気になったのは、レオパルトという名前。
 豹は夜行性だ。『山狗の子』ならば、夜目に適応する術も身に付けているに違いない。左腕が使い物にならず、近接格闘を避けたいクレーエにとって、リボルバーの照準を合わせにくい暗闇は、むしろ不利となる算段が高かった。
「……くそっ」
 出来ることなら、左腕が使えないと悟られる前に勝負をつけたかったが、こうなれば消耗戦だ。疲れ果てて、必殺の隙が出来るまで、レオパルトからは動かないだろう。
 クレーエは外套に差し入れたままの左腕に、微かに力を籠める。
 影の中からは、獲物を窺う肉食動物《レオパルト》の気配が微かに漂っている。両方を高い建物で挟まれた街路は逃げ道が少ない。クレーエは自分が狩られる側に居ることを認めざるを得なかった。
(手近な民家に飛び込み、罠を張るか? どちらにしろ、まともにぶつかっては勝機が無い)
 隣の民家に飛び込もうと、上体を沈めた、次の瞬間――左腕に走る、脳髄を貫くような激痛。何が起こったか気付く間もなく、冷たい石畳の上に転がされる。
「……う」
 呻く間もなく、首筋に触れる冷たい刃の感触。目を開くと、そこには凍える程に美しい女の顔があった。
 大きく見開かれた猫科の動物を思わせる金色の瞳。風に靡く、解かれた黒革のベルト。短い銀髪が、吹き抜ける風にたてがみのように靡いている。
「恥じることは無い」
 見開かれた大きな金色の瞳でクレーエを見下ろし、レオパルトが口を開いた。
「左腕がその調子では、まともに闘えないのは当然だ」
「っ、お前、左腕が使えないことに気づいて」
「野生動物は手負いの獣の臭いに敏感だ。そうでなくとも、ずっとコートに差し入れたままの手を見れば違和感に気づく」
「……っ!」
 淡々とした声に、クレーエは己の欺瞞を恥じた。
 少し挑発すれば、すぐに直情的になってかかってくると思っていた。それならば、幾らでも付け入る隙はあるだろうと。しかしそれは、完全な見誤りであったと認めなければならない。
 ――完全に不意を付かれた。
 まさか、背後から近づかれて気付かないとは。クレーエは改めて、レオパルトと言う戦士を感嘆の思いで見上げた。
「なるほど。そこを見抜かれていたんじゃ、話にならないな」
「いや、勝負がついたと言うならば、それは始まった時に既に決していたのだ。私は罠を張り、お前はそれにかかった」
「待て。まさかとは思うが、線路上に車両を置いたのは」
 思わず呟いたクレーエに、レオパルトが薄く唇を吊り上げるようにして笑った。それは、クレーエが初めて見るレオパルトの人間らしい表情だった。酷薄な印象を与える冷たい笑みはしかし、美しい、と表現するには十分過ぎるほどの人間らしさを持っている。
「怪我の影響は、その部位が使えなくなることだけではない」
 真っ赤な唇だけを動かし、レオパルトが囁く。
「痛みは集中力を奪い、慣れない動きは体力の消耗を速める。ましてや、闘いが長期になるとなればなおさらだ。焦りは必ず隙を産む」
 降り注ぐ淡々と呟く声。首筋に当てられったナイフに力が籠もる。ぷつり、と皮が破れる音がして、首筋に生温かい血の筋が広がった。
「答えろ」
 レオパルトは氷のような声で囁いた。
「私がお前に会ったのは、もう九年も前の話だ。当時二十前後だったろう審問官は、もう三十近い年齢になっているはずだった。野生動物は衰えに敏感だ。その動物が一生の中のどの時期にあるのか、瞬時に判断出来る目を持っている。だが、私にはお前が、今の私と同じ位の年齢にあるように見える。何故だ?」
 首筋に突きつけられたナイフが、動脈に触れるかどうかという位置で止まる。迫りくる死の予感に、クレーエは力なく唇を歪めて嗤った。
「……そんなに若く見えるか? そりゃ良かった。これでも、若作りには気を使っててな」
「私は真剣に聞いてるんだ!」
 レオパルトの銀髪が獣が威嚇するように膨れ上がり、金色の瞳に殺意が宿る。ナイフを振り上げると、躊躇い無くクレーエの左肩に突き入れた。
「……ぐ、ぁっ」
 身を捩ろうとしたクレーエの胸倉を、ナイフを握る方とは反対の手で抑えつけ、レオパルトは声を張り上げる。
「答えろ! 九年前にいったい何が起こった!? 父が褒めたお前の天使はどうしたんだ。私はまだ見ていない! 見ていないぞ! 父を屠った『神の光』を!」
 話すたびに、低く枯れたレオパルトの声が少女のものに変化していく。細い身体は細かく震え、瞳孔は死人のように開き、半開きの口からは涎が零れた。
 クレーエは噴き出す自身の血に頬を濡らしながら、ぼんやりと自分を食い殺そうとしている獣の姿を見つめた。
 ――そうか。この少女はまだ、あの忌まわしい掃討作戦の夜に捕らわれたままなのか。
 ぼさぼさに痛み、色が抜けた少女の細い髪を見つめる。
 昔、戦場で聞いたことがあった。精神的なショックなど、強いストレスを受けたものの中には、髪から色素が抜け“銀髪”となる者が居るらしい、と。
 九年前に聞いた、燃え尽きた『山狗』の灰の上に覆いかぶさり、気が狂ったように泣き叫ぶ少女の声がまざまざと脳裏に蘇る。何度も何度も夢に見た後悔の記憶。髪を振り乱し、縫い付けられた両目から血の涙を流す少女の姿――。
「……そうだな」
 焼け野原に残された少女が辿った人生を、クレーエは知らない。後続の部隊が保護し、管理教会《アパティア》が里親となったと聞いていたが、今となっては真実の程は解らない。だが、あのせいで彼女に何らかの歪みが残ったのだとしたら、それは間違いなく、
「俺の、せいだ」
 レオパルトが長く遠吠えのような声を張り上げて、血濡れのナイフを振り上げる。水銀灯の明りを受けて、哀しく輝く銀の刀身。そして、次の瞬間、
 ぐさり、
 と、柔らかく肉を抉る鈍い音がした。
「――え?」
 か細い声を上げたのは、ナイフを振り下ろそうとしていたレオパルト。自身の脇腹に刺さった細見のナイフを、不思議そうに見つめている。
「そういや、さっきお前が投げたナイフを一本、預かってたままだった。返すよ。お前のだろう?」
「……な……ん、だと?」
 レオパルトの瞳が悔しげに歪み、目から透明な涙が零れ落ちる。
 抑え込んでいた脚から力が抜け、ナイフが乾いた音を立てて石畳の上に落ちた。クレーエは前のめりに倒れ込んでくる細い身体を柔らかく抱き止める。
「済まない。あの時の俺は、ああするのがお前たちの為だと思ったんだ」
「そんな、もの……」
 レオパルトが震える唇を動かし、何事かを囁く。クレーエは口元に耳を寄せ、言葉を聞いた。それは紛れも無い、クレーエに向けられた呪祖の言葉だった。
「許して貰おうなんざ思ってないさ。死んでも許されないことがあるってことも、嫌になるくらい解っている。……それでも。勝手な言い分だが」
 生きててくれて良かった、と囁いて、クレーエは細い身体に残ったぬくもりを確かめるように、強く抱きしめた。
 完全に弛緩した身体を担ぎ上げて手近な民家の軒下に連れて行くと、簡単な止血を施す。厳重にまかれた黒革を緩め、薄い胸が小さく上下するのを確かめると、脇腹から抜いた細見の投げナイフを掴み上げ顔の前に掲げた。
「塗ってあったのは即効性の麻酔薬だな。どこかに監禁して、拷問にでもかけるつもりだったんだろう」
 「おっかないことで」と呟き、眠るレオパルトを見下ろして長い息を吐く。あの効き目を見る限り、一晩は目を覚まさないだろう。通りに出ると、外套から煙草を取り出して咥える。ライターを探していると、
 くらり、
 足元がふらつき、近くの街路灯に手を突いた。
「血を流し過ぎたみたいだな……。視界がダブつく。リオには悪いが、少し休んで」
 タン、
 不意に聞こえた、乾いた破裂音。
 腹の辺りに走る焼けつくような痛み。ゆっくりと視線を落とすと、黒い厚手のシャツに、じっとりと濡れた様な跡が広がっていくのが見えた。半ば無意識のうちに振り返り、銃を撃った相手を確認する。通りを挟んだ反対側にある肉屋のショーウインドウの影に、二脚《バイポッド》と狙撃用の銃を構えた細い影を見つけた。
 頭上から降り注ぐ水銀灯の眩しさに目を細め、
「――あ? 何やってんだよ、お前」
ぼんやりと焦点を結んだ見知った顔に、クレーエは歪な笑みを浮かべ声をかけた。



(>∀<)ノぉねがいします!



<前へ   表紙へ   トップへ   次へ>