■光輝天球C



 その話しを聞いたのは、ひと月ほど前のことだった。

「――『限界動作《オーバークロック》』?」
 オウム返しに問い返したリオに、アンドレアスは大仰な仕草で頷いた。
 東の森の近くにある丸太小屋の前。笠のように頭上を覆う常緑樹の葉陰から、強い人工灯の明かりが差し込む、穏やかな昼下がりのことだった。組手の手解きを受けて、けれどすぐに根を上げて芝生の上に座り込んだリオは、上がる息に肩を上下させながら、眩しそうにアンドレアスを見上げた。
「天使階級が厳格なヒエラルキーの元に成り立っているという話は、以前にもしただろう。審問官が議論を闘わせた場合、有利となるのは、より高位の天使を持つ審問官となる。つまり」
「審問に勝つのは正しい主張をしている方ではない。力がある方が勝つのだ、ですよね」
 引き取ってリオが答えると、アンドレアスが目をぱちくりとさせた。
「なんだ。そんな嫌そうに言うことはないだろう」
「その言い方は、好きじゃありません」
 顔を背け、リオが低い声で答える。普段は気弱なのに、妙なところで頑固な所を見せるリオに、アンドレアスは苦笑を浮かべた。
「まぁ、君の気持も解らないでもないがな。私とて力が全てなどというつもりはない。実力に大きな開きがあったとしても、法廷内で自らの正しさを証明し、相手を論破することが出来れば、階級差を超えて勝利することは可能だ。だが――」
 話しながら、ダリウスは大きな花柄のポットを取り出す。
「審問官としての階級の差が、審問結果に大きく影響するというのは、動かしようのない事実だ。『正義は力』というのは、野蛮な表現に聞こえるかもしれないが、この世界を構成するシンプルな論理の一つなのだよ」
 切り株の上に置いてあったカップに紅茶を注ぐと、一つをリオに差し出す。
 アンドレアスの言葉にリオは肯定も否定も返さず、芝生の上に座り込んだまま、暖かい紅茶の注がれたカップを受け取る。
 言葉を返さなかったのは、アンドレアスに反感を覚えたからではない。今のリオには、どちらが正しいか判断がつかないと思ったからだ。
 リオはカップを口に運ぶと、アンドレアスを恨めしそうに見上げて、
「神父はこう仰りたいのですか? 自分の信じる正義を行いたかったら、大きな力を――より高位な審問官を目指すべきだ、と」
「いや。そういう訳ではない」
 隣の切り株に腰掛けたアンドレアスが緩やかに首を振った。
「力を持つということは、同時に多くの責任を背負うということだ。そうなれば、今度は別の意味で思うようには出来なくなる」
 低い声で言って、手を組み目を細める。
 その目は、ここではないどこかーー遠い過去へと向けられているようだった。
 リオは紅茶をすすりながら、じっと目の前の先輩審問官を見上げた。
 アンドレアスには、武装審問官として異教徒掃討戦へ参加した経験がある。そこで酷く精神を病んで、出生街道である管理教会《アパティア》勤めを離れ、ヴェステリクヴェレへ戻って来たのだという。
 その為だろうか。アンドレアスは、エリュシオンに居た頃のことを話したがらない。
「審問する際に重要なのは、立ち位置なのだ」
 自身の傷だらけの手のひらを見つめながら、アンドレスは言った。
「物事を判断する時、審問官はいずれかの視点を持たねばならない。幼い頃は確信を持って定めていたはずの視点はしかし、上に行けば行くほど――広く世界を見渡せる目と、それに相応しい力を持つほどに――曖昧にぼやけ実態を失ってしまう。誰の為の正義なのか? その視点を失った時、審問官は人ではなく、血の通わぬ審問兵器になってしまう。出会ったものを裁きの炎に飲み込んでしまう、一個の兵器に」
 そこまで話すと、苦笑混じりに目元を抑え、小さく手を振り、
「すまない。話が逸れてしまったな。本題に戻ろう」
 立ち上がった時にはもう、アンドレアスの顔にはいつもの力強い微笑が浮かんでいた。
「先ほども言ったが、審問する際に重要なのはその立ち位置なのだ。互いに正しい主張をしているつもりでも、立ち位置が違えば見方は変わってくる。君も守りたい何かのために、高位の審問官と――あるいは世界そのものを相手に闘わなければならない時が来るかもしれない。その時に、これが最後の切り札となる」
 アンドレアスは一度言葉を切ると、リオの元へと一枚のプレートを投げて寄越した。鉄よりも滑らかで明るい光沢――ステンレスだろうか。のっぺりとした表面が白銀色に輝いている。
「それは、天使を『限界動作《オーバークロック》』させるのに必要なキーだ」
 プレートを見つめるリオに、顎髭を撫でながらアンドレアスが言った。
「今、君が天使を通して扱っている『神の意思』の力は、身体に負担をかけないよう管理教会《アパティア》によって制限されている。君だけじゃない。管理教会《アパティア》に属している審問官は、みな力の制御を受けている。今君が見たコードは、その制限を解除し、天使が扱える限界値まで『神の意思』の力を汲み取れるようにするものだ」
 リオは受け取ったプレートを、木漏れ日の下にかざして見せた。プレートの表面には、ブロック体の刻印で「No.1060 magnoria」と記されている。
「せっかくですけど、神父」
「うん?」
「僕はきっと、この力を使わないと思います」
 言って、リオはプレートを拳の中に覆い隠した。
 汲み取れる『神の意志』の力の総量が大きくなれば、起こせる奇蹟の規模も大きくなる。そんな魅力的な機能があれば、審問官たちは喜んでこの力を使うだろう。
 しかし、物事は都合の良いことばかりではない。自らが制御できる限界値を越えて力を行使すれば、当然どこかに歪が生まれる。
 天使から溢れ出した『神の意志』の力は、人の身には強過ぎ毒となる。量が過ぎれば身体に――取り分け脳に過大な負担を掛ける。
「『限界動作《オーバークロック》』は、気軽に扱うにはリスクが大きすぎます」
 はっきりと告げるリオに、アンドレアスは何故か滲むような笑みを浮かべた。なんだか小さな子供にする態度のように感じられて、リオの顔が微かに赤くなる。
「何か、可笑しなことを言いましたか」
「いや、君の言うことはもっともだ。確かに、この力は審問官の力を底上げする代償に、相応のリスクを伴う。私も戦場でこれを使い、廃人同然になった者を何人も見て来たよ。だがな」
 一度言葉を切ると、アンドレアスは顔の前で手を組み、遠い目をした。
「死に直面すれば、誰もが悪魔に魂を売ってでも力を手に入れたいと願う。戦場でこの力を使うのを迷うものは居なかった。ここで死ぬか、寿命を縮めてでも生き延びるかと選択を迫られれば、迷う余地など無いのだ」
 滔々と流れる言葉に反して、その声はどこか苦しげだった。鳶色の瞳は現在ではなく、過去を――遠い戦場を映している。
「これはこの先、君が自分の手に余るほどの壁に出くわした時、最後の寄る辺となるだろう。そして恐らく、これを使うことが出来た時――君の懊悩は解決を見せる」
「……仰る意味がよく解りません」
「まぁ、もう少し考えてみたまえよ。リオ書記審問官。まだ時間はあるのだからな!」
 訝しげなリオの頭に無骨な手を載せて、アンドレアスが豪快な笑い声を上げた。胸の内の不安を吹き飛ばすような力強い声。見上げたアンドレアスの向こうから差し込む木漏れ日の強さに、目を細めた。
「けれど、神父。『限界動作《オーバークロック》』の使用は管理教会《アパティア》では禁止されているんですよね? どうしてそんなことを僕に?」
 訪ねると、アンドレアスの笑い声が止んだ。難しい顔になると、いつも歯切れの良い彼には珍しく口ごもり、
「いや、その。正直を言うと、私は君にこれを教えるのは反対だったんだがな。ハイゼ神父から『どうしても』と頼まれたのだ。君が十六歳になったら、教えてやって欲しいと」
「ハイゼ神父が?」とオウム返しに尋ねたリオに、アンドレアスは大仰に頷いた。
「それだけ、君が期待されているということだ。なに、難しく考える必要はない。神父と私からの成人祝いとでも思ってくれればいい。いざという時の選択肢が増えることは、悪いことではないだろう?」

 今思えば。
 ハイゼ神父は、この時が来ることを予感していたのかもしれない。自分の身に裁きが下り、一人になるフレデリカが誰かの助けを必要とする日が来ることを。
(感謝します、ハイゼ神父)
 心の中で、今は亡き神父に呼びかける。
(僕は今このとき、この選択をすることが出来ることを、心から嬉しく思います)

「来い! 『英知の探究者』マグノリア!=v

 ――この聖典〈しるし〉を持って、汝は打ち勝たん《イン・ホック・シグノ》

 透明な囁きと共に暗い空に稲光が走り、幾重にも曲がりくねった光のラインが塔の屋上を切り取る。
 『審問法廷』。
 以前、オスカーを審問した時に見せた薄緑色の美しい光の帯ではない。赤や青、緑……それらが複雑に混ざり合い、疎らな暗色となった光の帯が、縦横無尽に駆け巡る。秩序を体現するはずの真円の法廷は乱れ、歪な境界を造り出し、漏れ出した『神の意思』の力が、千路に迸る雷の如くコンクリートの床面を削り取る。
 オオオォォォォ――……
 地鳴りのような咆哮が、びりびりと大気を震わせた。
 穏やかな表情で宙に浮いていた天使マグノーリエが、すっかり姿を変えていた。光り輝く身体は、屋上から生えたグネグネと曲がりくねる土色の木の幹と同化し、上半身には這うように伝った木の根が浮き出た血管のように食いこんでいる。苦しげに歪んだその顔は、噴き出すような怒りに染まっていた。
 その姿は「天使」よりも古い絵画に描かれる「悪魔」のそれに近い。
 変わり果てたマグノーリエを、ダリウスは厳しい表情で見上げた。つまらなそうに鼻を鳴らし、
「誰だ? 見習い審問官に限界動作《オーバークロック》なんぞ教えたのは」
 低く呟くなり、宙空から銀の細剣を顕現させる。
「まぁ、いい。開廷の権利はくれてやる。すぐに決着がついては、面白くないからな」
「――これより、審問法廷を開始します。被告人、名前を」
 リオが手の中の聖書(レリクス)を開き、低い声で命じる。ダリウスは垂らした短剣を気怠げに揺らし、
「審問官ダリウス・ロンブル。位は司教だ。訳あって、堕天審問官なんぞをやっている」
 気負いも無く答え――口元の笑みを深め、続けた。
「形式に則って、こちらからも尋ねよう。被告人《・・・》、名前を述べよ」
「書記審問官リオ・テオドール・アルトマン」
 真っ直ぐに見つめ返し、リオが答える。ダリウスは低く声を上げて笑った。
 審問法廷に審問官として参加する資格は、聖遺物《レリクス》を所持しているかどうかで決まる。この場合、リオの天使マグノーリエが審問法廷を展開しているので、ダリウス自身は審問法廷を開かずとも、聖遺物を手に名乗りを上げるだけで、審問官として法廷に参加することが出来る。
 気負いのない足取りでダリウスが歩き出す。リオもまた、決闘に赴く騎士のような面持ちで足を進めた。歴史ある決闘の作法のように、互いの聖遺物を捧げ持つ。
「罪状は『この都市にまつわる罪と、その贖罪方法』ででいいな?」
「……異議ありません」
「互いの確認の元に、事前に取り交わすべき手続きは滞りなく完了した」
 厳粛な面もちで視線を交わし、聖遺物を掲げる。ダリウスが細剣を構え、リオが緑のツタを床面を這わせる。マグノーリエが発した閃光がコンクリートの床で弾けた。
 それを合図にしたように、二人の審問官は互いの身体へと凶器を放った。


 初動から攻撃に至るまでの早さは、ダリウスの方が上だった。躊躇なく踏み込むと、袈裟懸けに細剣を振り上げ、間合いを詰める。半身から伸び上がるように繰り出された斬撃は、瞬く間に二人の距離を詰め、リオを襲う。
「――ッ!」
 細く尾を引く悲鳴のような風斬音を聞きながら、リオはマグノーリエのツタを眼前に展開する。幾重にも展開されたツタの防壁に阻まれた細剣は、リオへ届くことなく、ツタに絡め取られ動きを止める。そのまま押し切ろうとリオは絡みついたツタに『神の意志』の力を注ぎ、
「……っ!?」
格子状に編まれた防壁の編み目越しに、ダリウスのもう一方の腕に新たな細剣が顕現するのを見た。
 一撃目を振り抜いた勢いをそのままに、ダリウスがもう一方の剣を逆袈裟に振り上げる。その一撃で、ツタの防壁は暴風に巻き上げられたかのように斬り飛ばされた。
 なんて出鱈目な膂力!
 鬼神めいたダリウスの猛襲に、リオがたたらを踏む。突き出された鋭利な刃の切っ先に顔を強ばらせ、
「マグノーリエ!」
 名前を呼び右腕を突き出すと、コンクリートの床面から幾条ものツタがダリウスの下肢へと絡みつく。抵抗するほどにツタは密接に絡みつき、嵐のような進撃を阻む。しかし、
「来い、十の楔よ!」
 ダリウスが裂帛の声を上げると、虚空に出現した四本の銀剣が、弾丸のような速度でコンクリートの床面へと降り注ぐ。ツタの拘束が断ち切られ、ダリウスの拘束が解かれる。
「まだだっ!」
 リオは踏み込むと同時に聖書《レリクス》を掲げ、右腕に幾重にも緑のツタを巻きつける。「神の意志』の力を宿した巨大な突撃槍。これなら、あの細剣にも断ち切られることはない!
「器用な真似を!」
 ダリウスが舌打ち混じりに、最上段に銀の細剣を振り被る。しかし、得物のリーチはリオの方が長い。
 リオは鋭く踏み込むと、壁のようにそびえるダリウスの、その喉元めがけて切っ先を突き出した。
「・・・・・・はぁ、はぁ!」
 タイミングからいって、確かに貫いたと思った。
 だが、その感触はあまりにも軽くーー。
「残念だったな」
 間近で囁かれる不吉な声。ぞくり、と全身に怖気が走る。
 横をすり抜けるように駆ける黒い影。白と黒の僧衣が行き違うと、鮮やかに振るわれた銀の刃はリオの僧衣を紙のように斬り裂いていた。
「ん? 浅かったか」
 ダリウスが気だるげに首を傾げ、細剣で自身の肩を叩いた。
「……っ」
 すぐさま反転し、突撃槍を構え直す。無意識のうちに止まっていた呼吸を再開すると、額から玉のような汗が噴き出した。
(今の一撃、一歩間違えば死んでいた)
 乱れる呼吸を抑え、目の前の男を睨み上げる。足が震え戦慄いた。ここに至ってようやく、リオは冷たい死の気配をすぐ側に感じていた。
(迷っている時間はない。もう時間がない。早く決着をつけないと)
 震える腕を押さえて、突撃槍の切っ先をダリウスへと向ける。小さく息を吸って、一直線に駈け出した。
「単調なパターンだ」
 ダリウスは足を開いて半身に構えると、鋭く突き出されたツタの穂先に二本の刀身を合わせた。切っ先が逸れ、槍は容易に軌道を変える。
「お前には、その得物はでか過ぎるんだよ」
 ダリウスが嘲笑うように言った。
「槍なんてものは、先端さえ捌いてしまえば怖くない。そんな得物じゃ、むしろ自分から死角を作っているようなものだ」
 その言葉の通り、リオは槍の下から現れたダリウスの動きを目で追うことが出来なかった。細く短い銀の剣が、輝く白銀の軌跡を残してリオの首元へと迫る。
「ん?」
 不意にその動きが、ぴたりと止まった。
 篭めた力にびきびきと震える腕は、何かに絡められたように動かない。
 目の前に行く手を阻むツタは見えない。
 ダリウスは訝しげに眉をひそめ――見た。自身の右腕の袖、そして白手袋の下へとみっしりと這い伸びる、無数の細いツタの群れを。
「チィッ!」
 ダリウスはたまらず細剣を手離すと、腕を引き抜き、もう一本の細剣を這い上がるツタ目がけて、叩きつけるように振り下ろした。斬撃は容易くツタを断ち切るが、
「貫け、マグノーリエ!」
その時にはもう、リオは次の行動に移っていた。
 身を低くして回り込み、がら空きの左側面から矢のようにツタを放つ。ダリウスはこれを避けようとはせず、顔の前に腕を合わせると、自らツタの群れの中へと飛び込んだ。
 元より、リオが放つツタに一本一本に大きな殺傷能力はない。その上、これでは間合いが近すぎる。ツタはダリウスの僧衣や皮膚を切り裂くと、てんでばらばらに空を穿った。
「捕まえたぞ」
 低い唸りにも似た囁きに、リオが身体を強張らせる。
 ダリウスは刃を返そうとはせず、剣の柄を振り上げた。ツタを引き戻す隙もない。身体の捻りを活かした、玄翁のような一撃。正面から受け止めたリオは、圧し掛かるような重圧に、その場に尻餅を突き、
「……ぬぅ!?」
 ダリウスの口から、戸惑いの声が漏れる。
 先ほどの比ではない。ダリウスの身体は、全身がぴくりとも動かなくなっていた。
「ようやく、ツタが全身に回りましたね」
 ひゅーひゅーと細かい呼吸を繰り返していたリオが、無理矢理に頬を吊り上げて笑う。
「さっき、ツタを這わせたときに、貴方の身体に種子を残しておきました。僕が地面に手をついたのを合図に、貴方の身体を拘束するようにしてあります」
「種子? 馬鹿な。天使が操る植物は、直接『神の意志』を注がなければ操れないはず。どうやってツタを成長させて」
 言いかけて、口を噤む。その顔に嫌悪の色が浮かんだ。
「まさか」
「きっと貴方の想像した通りです。マグノーリエが創り出したツタは、顕現した時点で既に独立した個体として活動します。その後の成長速度は、『神の意志』の力の供給量によって変わる。知ってますよね? 植物の中には、動物に寄生して成長するものもある。こんな風に」
 リオは言って、自身の白い僧衣の胸元を開いて見せた。
 薄汚れた白い僧衣の下に、細かなツタが張り巡らせ、みっしりとツタが蠢いている。
「寄生した植物は、本能的に宿主を守ろうとする」
「……ッ、貴様、俺の力を使って」
 ぎしり、と歯ぎしりをするダリウスに、リオは微かに微笑み、
「僕のマグノーリエは、誰かを傷つけることには向いていない。けれど、動きを拘束することにかけては、他の天使にも負けません」
「――ははっ」
 僅かな沈黙があって、ダリウスの喉がひきつったような声を漏らした。
「なるほど。どうりで刃が届かないわけだ。してやられたわ。――だが」
 みちり、とダリウスの全身を覆うツタが軋む音を上げる。吐き出された呼気と共に、全身が膨れ上がり、僧衣の下でツタが千切れる音がした。
「これくらいで、俺を止めた気になるなよ」
「マグノーリエ!」
 地面を通して、リオが「神の意志」の力をダリウスに注ぎ込む。しかし、ダリウスの判断は早かった。鋭く一歩を踏み出すと、もう一方の腕に顕現させた都合三本目の剣を、大きく横薙ぎに振り抜いた。
 爆風に似た低い衝撃が、リオの右腕を叩く。咄嗟に展開させたツタの防壁は刃の侵入を防ぐが、勢いまでは殺せない。
「……うっ!? くっ」
 小柄なリオの身体が宙に浮く。ダリウスは止まらなかった。僧衣を捲りあげると、腕に絡みつくツタを引き千切り、宙を舞うリオの顔面目がけて、鋭く銀剣を投げ放つ。
 弾丸のような一撃。
 頭部に刃を突き立てられたリオのシルエットが、為す術もなくコンクリートの床に倒れ込む。
 ダリウスは巻き上がる風の中、その光景を見届け、
「ふん――」
不愉快そうに、鼻を鳴らした。
「やるじゃないか」
 倒れたリオの身体が、むくりと起きあがる。弾丸のように放たれた銀剣は、無数の細かいツタに掴み取られ、顔の前で動きを止めていた。
 ざわざわと別の生き物の触手のように揺れるツタの群れ――。
 その向こうに、静かな炎を宿した、湖面のように深い碧眼を見る。
「塔の中で鬼ごっこをしていた時とは別人だな」
 ダリウスが低い声で笑う。絡みついたツタは、一部は強引に引き千切ったものの、その身体の大部分には今も無数のツタが絡みついている。
「攻撃の連携も見事だ。限界動作《オーバークロック》しているにも関わらず、力を使いこなしている。だが若き審問官よ。貴様、理解しているのか? その力のリスクを。俺は戦場で、その力を使って廃人と化した審問官を何人も見てきたぞ」
「……貴方には関係ないことだ」
 リオは表情一つ動かさず、よろよろと立ち上がった。静かに、けれど激しくマグマのように流れる敵意が、真っ直ぐにダリウスを捉えている。
「いいだろう。相手になってやる」
 二本の刃を削ぐように擦り合わせるダリウスへと、リオはゆっくりと駆け出した。徐々に加速すると聖書《レリクス》を持った右腕を掲げ、その手に無数のツタを絡め合わせる。
「早々にバテてくれるなよ。一分――いや、お前ならあと三分は行ける! 俺を問い殺して見せろ!」
「ああああぁぁぁっ!」
 振り絞るような声を上げて、リオが跳躍する。足下から伸びたツタをバネにして、二メートル近いダリウスの頭上まで跳び上がると、鋭く右腕を振り下ろす。
 足下に落ちる巨大な影に、ダリウスが声を上げて笑う。ダリウスの頭上には、どこまでも質量を増し、増殖していく巨大なツタの群れがあった。掲げた右腕に密集した巨大というにはあまりにも巨大な大槌。避けようにも、僧衣の下に這うツタが邪魔をして動けない。
「ふッ――!」
 放たれる裂帛の気合い。ダリウスは低く腰を下ろすと、振り下ろされた大槌に自らの拳を合わせた。凄まじい質量に、コンクリートの床が沈み、音を立てて砕ける。
 圧し掛かるように力を篭めるリオが瞠目する。
 数トンの重量はあるであろう大槌の一撃を、黒い宮柱のようなダリウスの巨躯が完全に受け止めていた。
 ツタの大槌はダリウスへと圧し掛かりつつも、なおも質量を増していく。しかしそれでも、鋼のような身体は僅かにも動じない。
「――どうして……っ」
(どうして押しきれない!)
 リオの瞳に焦りの色が差す。
 堕天使の加護のない今こそが千載一遇のチャンスだというのに。それなのに、リオはこの男に傷一つ負わせることが出来ていない。
 ――力ではダメだ。
 圧し掛かるように力を籠めながら、考える。
 これは審問官同士の法廷対決。相手の罪悪を、過失を、欺瞞を証明した者が勝利を掴む。
 審問官には、被告人に対して三度の質問を行う権利が与えられている。最初に質問をする権利は、審問法廷を展開したリオにある。質問は厳正に検討を重ね、選び抜かねばならない……しかし、
「答えろ《・ ・ ・》、ダリウス・ロンブル!」
リオにはその前に、どうしても聞いておかなければならないことがあった。
「どうしてフレデリカの腕を斬り落とした……!」
 絞り出すような問に、ダリウスが微かに唇を歪める。
「どうして? 決まっているだろう。彼女がそれを望んだからだ」
「ふざけるな!」
 リオの叫びに応じるように、マグノーリエが鮮やかな雷光を発した。激高するリオに、ダリウスは昏い笑みを向ける。
「ふざけてなどいない。俺が腕を斬り落としたのは、その娘が都市が犯した罪への贖罪の機会を望んだからだ。その娘は俺を――『自らの罪』を撃ち殺そうとし、出来なかった。だからこそ俺は、求めに応じてその腕を斬り落としたのだ」
「……ッ!」
 砕けんほどに強く噛み締めたリオの口から、真っ赤な血が振り落ちた。
 法廷内では、虚言の類を発することは許されない。朗々と語る大禍に何の変化も起きていないという事は、少なくともこの男は本気でそう思っているということ――。
 だからこそ、リオは頭が真っ白になるほどの怒りを覚える。
「僕は、お前を認めない!」
「何を今更。互いに譲れないからこそ、俺たちはこうして殺し合いをしてるんだろう? そらッ!」
 裂帛の声と同時に、視界を覆い尽くすほどに増殖していたツタの群れが押し返される。
 リオは大槌から腕を引き抜くと、その影に身を隠すようにして移動し、コンクリートの床に着地した。
 ――体勢を立て直さないと。
 すぐさま立ち上がり、
「っ!?」
顔を上げたリオは見た。赤く焼けた空を背景に、翻る黒の僧衣と、振り上げられる銀の細剣を。
「――次は、こちらから問おう」
 殺意に煌めくダリウスの薄茶色の瞳。鋭利に光る銀剣の切っ先が、ひたとリオの眼前へと突きつけられる。
「答えよ。この都市が犯した罪の原因となった、憐れな少女。貴様はその罪をどう裁き、どのような罰を執行する」
 ダリウスの放った二つ目の質問――その意味を理解した瞬間、リオは頭から血の気が引いていくのを感じた。
「……っ、フレデリカに、罪なんてありません」
「罪が無い? それは可笑しいな。都市の罪を糾弾すべきハイゼ神父は、娘を病から救うため、罪に加担した。豚が屠殺され、料理として提供されるのは誰かが肉を食べたいと望む者が居るからだ。娘が居なければ、犯罪は起こらなかった」
 陰鬱なダリウスの声に、胸の鼓動が速くなる。どうして今になって、フレデリカの審問を始める!?
「それは違います! 彼女には肉を食べているという自覚が無かった。その裏で犯罪行為があり、誰かの命が消費さていることを想像さえしなかった!」
「違うな。彼女に肉料理を食しているという自覚はあったのだ。風邪薬一つ手に入らない物資不足の都市で、寄進だけで成り立っている教会の娘が、どうして高価な薬を日常的に服用できる? 少し考えてみれば解ることだ」
「幼い頃からそれが日常だった彼女は、そういうものだと思っていたのです! 彼女は彼女は都市の外を知りません。疑問を覚えても、答えてくれる者だって」
「幼い頃は、そうかもしれない。だが、今もそうなのか? 都市の外へ出たことがないからといって、情報が入って来ないわけではないだろう。誰かに教えられなくとも、知ろうと思えば知れたことではないのか?」
「それは」

 ――商会がオスティナトゥーアの人たちを騙してる、って噂は前からあったんです。けど、父さんは『そんなはずはない』って話を聞こうともしなくて……。

 昨夜、フレデリカとジブリールが話していた時の姿が脳裏に浮かぶ。彼女が、随分前から都市の在り方に疑問を覚えていたことは事実だった。
 喘ぐように口を動かしたリオを、ダリウスの凍える瞳が見下ろす。
「少女に肉を食べているという自覚はあったのだ。しかし、彼女はそれが何の肉なのか、どういう経緯の下に持ち込まれたものなのかを考えなかった。考えなかったのは無知ゆえか? 否、そうではない。少女は目を背けたのだ。その肉が、豚では無く、自身と同じ人のものであるという不都合から」
「……そんなものは、推論に過ぎない」
「いいや、推論などではない。お前たちだけではない。この都市の誰もが、自分が食しているものが肉であることは自覚していながら、それが何の肉であるのか、確かめようとはしなかった。各地の都市が飢えと貧困で喘いでいる中、どうして多少緑が多いだけのこの都市が、これほど豊かな生活を送れる? 物乞いをするだけで飢えから逃れられる都市が今の世界にどれほどある。隣の都市では餓死者さえ少なくなく、荒廃によって都市の機能を失い、あまつさえ山賊に襲われ家に火を放たれた! そのことはこの都市でも話題になっていたはずだ。しかし、それをどうにかしようと立ち上がる者は居なかった。伝染病を恐れた人々は、遠くから僅かばかりの寄付を行う事で罪悪感を紛らわせ、二つの都市の貧富の差は、産まれ落ちた者の運命であると片づけた。どうだ? 俺の目には、こいつらの論理に悪意さえ映る!」
「オスティナトゥーアの現状は、オスカーさんが隠していました。知ろうとしても、正しい情報を知ることは」
「違うだろう」
 ぎょろり、と茶色く濁った大禍の瞳が、リオを見下ろす。
「オスカーと、ハイゼと、貴様の父が、だろう」
 その瞳の奥に吹きあがるような怒りを感じて、リオは息をのんだ。声が震えないよう、低い声で答える。
「……そうです。料理人はその肉が何なのか、スパイスで巧みに隠した。だからこそ、彼女は真実に気付くことが出来なかった」
「気付くことが出来なかった? どうかな。隠していようと、情報は入って来ていたはずだ。巡礼者、旅行者、行商人……多くの人間が情報を運んで来る。オスカーと言えど、それらを妨げることは出来なかったはずだ。知っているぞ? 都市内にはオスティナトゥーアの異変に関する噂が溢れていた。疑念を持つ機会は、何度もあったのだ! 少女は見ていた。ゴミとして出された動物の骨が、豚のものにしては大きかったことを。厨房から夜な夜な響く、嗚咽の声や啜り泣く声を! そしてそれは、共に食卓を囲んでいた菜食主義者の少年も同じだった。少年は気付いていた。敬愛する神父が突然、審問官の職務を行わなくなったことを。その背中から、光り輝く天使の気配が消え失せていることを! 神父が装置を起動させたのは、今から六年も前の話だ。お前たちはこの六年間、本当に何も気付かなかったのか? 見過ごしてきたのではないのか? 無意識のうちに、自分の都合の悪いものから目を逸らしていたのではないのか!?」
 激しく糾弾する声に、リオは喘ぐように息を吸う。
 ――不味い。
 リオはようやくダリウスの狙いに気付く。
 何故、一度裁かれたはずのフレデリカの罪の在り処について、この男が尋ねたのか。この男は、初めからフレデリカを裁く気など無かったのだ。フレデリカ本人ではなく、フレデリカの話題を出してリオを動揺させ、同じ境遇にあったリオを罪人として裁くのが目的だったのだ。
「……確かに、僕たちには過失があったかもしれません」
 リオは絞り出すように答える。必至で思考を巡らせながら、
「僕らにもっと力があれば……もっと大人だったら、父さんやハイゼ神父は、僕たちに真実を教えてくれたかもしれない。けれど、僕たちはあまりのも無力だった」
「無知は罪なれど、罰は与えられぬ。だが、そこに過失があったのなら、罰が与えられるべきだ。そうだろう」
 ダリウスが腕を掲げると、宙空に五本の短剣が姿を現した。両手に持ったものと合わせて、都合七本の聖遺物《レリクス》が、その切っ先をリオへと定めている。
 防壁を展開しようとして、リオは口元を噛み締めた。マグノーリエから伸びるツタは所々が紫や枯葉色に変化し始めていた。それはつまり、審問対決においてリオが劣勢であるということを表している。幾らマグノーリエでも、審問法廷の結果を覆して力を行使することは出来ない。
 リオは切っ先を剥ける七本の短剣を睨むように見上げた。
 強い向かい風が吹きつけていた――。
 現状を変える方法があるとすれば、それはただ一つ。残り二回の被告人への質問で、大禍の論理に矛盾を見出すより他にない。再びリオが質問の権利を手にするには、先ほどの大禍の質問に応える必要がある。
 しかし、
「……ッ」
リオはその答えを口にすることができない。
 もしここでリオがフレデリカの罪を認めれば、同様の罪がリオにも適用され、ダリウスは即時、刑の執行を行うだろう。かといって、リオにはダリウスの糾弾を論破するだけの言葉を持っていない。
(どうしてこうなんだ)
 リオは悔しさに拳を握りしめる。
 正義は自分にあるはずなのに。真に罪を糾弾されるべきは目の前の大禍であるはずなのに。それを証明するだけの言葉が、出てこない。
 届かない。
 命を賭しても、まだ足りない。

 ――『正義は力』というのは、野蛮な表現に聞こえるかもしれないが、この世界を構成するシンプルな論理の一つなのだよ。

 あの日、アンドレアスはそういった。
 それが真実だというのか。
 理不尽な世の中を、論理で正すのが審問官なのではないのか。
(嫌だ)
 認めるわけには行かない。
 そんな理不尽な世界、審問官である僕が、認めるわけには行かない!
「マグノーリエ!」
 背後に浮かぶ、マグノーリエの胸に手を合わせる。
「『神の意志』の力を僕に!」
 リオを守るために枝葉を広げていたマグノーリエが、七色に輝く羽を広げ、細く長い声を発した。次の瞬間、凄まじい量の『神の意志』の力がリオの中へと流れ込んで来る。
 視界が真っ白に塗り潰され、あらゆる感覚が遠のく。残った聴覚に、ダリウスが鋭く叫ぶ声が聞こえた。
「馬鹿な! 天使が操る『神の意志』の力を自分に注ぐだと? 飲み込まれるぞ!」



(……ここは)
 気付けば、深い川の流れの中にリオは立っていた。
 真っ白な空と、透明な川の水と、その向こうに見える真っ黒な川底。それらを見渡し、理解する。ここは『無意識の海』。正しくは、そこに伝わる支流の一つといった所だろうか。川を流れる水は『神の意志』の力であり……その奔流に乗って流れていくのは、無数の情報だ。肩の上を見上げると、マグノーリエの姿は無かった。
 静かに流れる川面を覗き込む。すると、たくさんの声が直接、頭の中へ流れ込んで来た。
 ――どうして審問官だからって、父さんやリオが苦しまなくちゃいけないの? ――裁いて、それで終わり。それじゃ何も救われない! ――幸いあれ。全ての罪は私が持っていくよ。 ――審問官とは何だ、リオ・テオドール・アルトマン! ――フレデリカを頼む。
それはフレデリカの声であり、クレーエの声であり、アーダルベルトの声であり、ハイゼ神父の声であり、アンドレアス神父の声だった。
 胸の裡を、切なく冷たい風が吹き抜ける。その多くが、リオにはもう二度と聞くことの出来ない声だった。
 救いたいと心から願った、本当に大切な人たち。彼らは等しく自らの犯した罪に怯える咎人であり、その人生の多くは、幸福からは遠い場所で終わりを迎えた。
(罪とは何なのだろう。審問官とは、何なのだろう?)
 泡のように浮かんだ疑問に、既視感を覚える。同様の質問を、つい最近誰かから受けた様な気がした。
 ――靄がかかったように、意識が判然としない。
 そもそも僕は、どうしてこんな所に立っているのだろう?
 思い出そうと手を伸ばしても、醒めた夢のように泡沫のように消えてしまう。
 リオは頭を切り換えて、もう一度考えてみることにした。
 テーマは決まっている。――審問官とは、何の為にあるのか。
「それは、審問官なら誰しもが突き当たる命題だ」
 すぐ近くで、誰かが囁く声がして、はっと顔を上げた。気付くと、リオは深い川の流れの中に居た。見渡す限りの視界の中で、さらさらと無数の情報が流れていく。そこはどこか心地よい流れだった。
 リオはしばし、その流れに身を任せ――不吉な何かを感じ取って、その場に留まった。
(……!?)
 寒流と暖流がぶつかり合い、はっきりと層を作るように。
 目の前に、これまで感じた流れとは全く質を異にする、巨大な流れがあった。
 轟々とうねり狂う真っ黒な流れの奔流。引き寄せられるようにそれに触れた瞬間、これまで感じた人々の声に混じって、全く異質の声が雪崩込んで来た。いや、それは声でさえも無かった。絶叫、懇願、断末魔――それらは恐ろしい程の強引さで、瞬く間にリオの意識を埋め尽くした。
 振り払おうとしても、振り払えない。これまで聞いたものとヴォリュームの違う、圧倒的な質量を持った声に、意識を塗り潰される。
 ああああああぁぁぁ。
 共鳴するように絶叫を上げる自分の声を、どこか他人事のように聞いている自分が居た。
 真っ黒な奔流のスクリーンの中で、見覚えの無い光景が映写機を回すように次々と繰り広げられていく。

 薄暗い室内。
 ナイフで切り裂かれた二人の子供。
 横たわる変わり果てた女の姿。
 そしてそれらを見下ろし、色の無い表情で震える、一人の聖職者。
 ――何故だ。神よ!
 白い僧衣をふり乱し、男が叫ぶ。
 どうして私の家族を奪った。罪人を生かし、罪なき者を殺したのだ! これが、この仕打ちが、御身が示す正しき道だというのか!
 声を枯らし、呪詛の言葉を吐く男に、傍らの天使が語りかける。
 ――ごめんなさい。神の教えの元では、貴方を救えない。大切な貴方を守れない。ああ、口惜しい。こんな仕打ちを行った神が、

 映像が途切れて場面が飛ぶ。

 貴方が望むなら、神に代わって私が力を与えましょう。その代わり、お願いです。一つだけ、約束を……。


「リオ――!」 
 フレデリカの声が、確かに聞こえた気がした。
 閉じていた瞼を開く。溢れかえっていた声が遠のき、黒くうねる流れの中から、解き放たれる。
 辺りは、真っ白な光に満ち溢れていた。ともすれば再び眠り込んでしまいそうな暖かな光の中で、それでも声の聞こえた方へと向かって手足を動かす。
 僕は、知りたい。
 僕に力をくれる、この感情の正体を。
 それは曖昧で移ろいやすく、掴んだと思った時には実態を失くしている。
 けれどそれは、幻では無い。確かにあるもの――水面に浮かぶ月のようなそれに、真っ直ぐに手を伸ばす。
 ――もう一度、君に!
 手の中の聖書を握りしめた瞬間、背後で誰かが笑う気配がした。


 瞼を開くと、目の前に短剣を振り上げたダリウスの巨躯があった。
 すぐさま転身すると同時に、マグノーリエが雷鳴と共に力を解き放つ。
 噴き出した緑のツタは、ダリウスの身体を飲み込むと、瞬く間に屋上を生き生きとした緑のツタで満たした。
 漲る『神の意志』の力――リオは手の中の聖書《レリクス》を握りしめる。
「そうだ――僕は、大切なことを見落としていた」
「見落としていた?」
 ツタの海からダリウスが這い出す。肩で息をする男の両手には、それぞれ短剣が握られている。
「はい。見落としていました。……僕は貴方に自分の罪を小さく見せることだけを考えていた。けど、そうじゃなかったんです。審問官である僕は、自分の罪の償い方をこそ、貴方に提示するべきだったんです」
 自らに言い聞かせるように言って、リオは真っ直ぐに視線を合わせた。
 ダリウスが微かに息を飲む。静かな湖面のような蒼い瞳には、生まれ落ちた星のように確かな光が輝いている。
「先ほどの貴方の質問に、お答えします」
 リオは聖書を胸に当て、肺に空気を送り込むと、よく通る声で告げた。
「僕は自分の過失を認めます。――けれど、それに対して与えられるべき罰は、腕を斬り落としたり、命で償ったりするものじゃない」
 相応の罰を受けることが、罪人にとって救いになるとダリウス言った。
 リオが大切に思った人たちが願ったのは、そんな救いのないものだったのだろうか。
 ――そうじゃない、と思う。
 皆の心にあったのは、誰もが幸せに笑って暮らせる明日だった。例え自身がどのような罰を受けようとも、その先に幸福があることを願っていた。
 ならば、審問官として下すべき結論は。
 彼らの想いを託された僕が下すべき結論は、それに繋がるものでなくてはならない。
「僕は、これから先の人生を、都市の復興、そしてヴェステリクヴェレ、オスティナトゥーアの二つの都市の和解に捧げることで、罪を償おうと思います」
 胸に手を当て、真っ直ぐに答えを口にする。
 乾いた風に乗って、ダリウスの唸るような声が聞こえた。
「――自分自身の手で、自らを審問する気か」
「貴方は言いましたね。自分は罪を写す鏡だと。それはつまり、人の罪悪感を浮き彫りにして、切り離すと言うことだ」
 だからこそ、隠せない。繕おうとすればするほど、真実の姿との差異に人は罪悪感を募らせてしまう。それが堕天審問官ダリウス・ロンブルが災厄と言われる所以……。
「貴方の言う通り罰を誰かに決めてもらえば、心は安らぐのでしょう。それに救いの道を見出す人も居るのかもしれない。けれど、その償いの道は、貴方と言う鏡に映った虚像でしかない。投影されて歪んだ、手に入りやすい答えに過ぎない。それじゃ駄目なんです。切り離すだけじゃ、何も得られない。審問官が示すべき贖罪の道は、誰もが幸せに笑って過ごす日々へと繋がっていくものでなければならない。僕たちは犯した罪と向き合い、苦しみながら生きて、自分で贖罪の道を見つけ出すべきなんです。そして、審問官とは、本来それを助ける役割を担う存在」
 真っ直ぐに指を突きつけ、告げる。
「僕は貴方を認めません。全ての罪を写して取り除く――人の想いを鑑みない貴方のやり方は、審問官としての怠惰であり、欺瞞に溢れている!」
 叫ぶと同時に、屋上に沈黙が訪れる。ややあって、
「……馬鹿馬鹿しい」
ダリウスは重々しい溜息を吐くと、苦々しげに唇を歪めた。
「一人一人が罪と向き合い、答えを見つけ出すのを審問官が助ける? 貴様、審問官が一日に裁く案件がどれほどだか理解しているのか? この小さな都市でさえ、アンドレアスが身を粉にして働いて、それでも都市の罪を見過ごしていたのだぞ? 一人一人の罪に寄り添い、道を選ぶまで見守り続ける――そんなことをしている間に、どれほどの血が流れ、悲嘆に暮れるものが出ることか」
「確かに、僕の言っていることは理想論かもしれません。けれど、否定し投げ捨てられるようなものはないはずです。僕はただ、自分が最良と思う道を示すだけだ」
「では、お前が自身に下した判決はどうなのだ。ヴェステリクヴェレとて、他の都市の面倒を見切れるほど裕福な都市ではあるまい。どうやってオスティナトゥーアの人々を受け入れる。ヴェステリクヴェレの連中は、今の生活レベルを極端に落とすことが出来るのか? 今はいいかもしれない。食物が育たぬ年もあれば、伝染病が流行する年もある。それでも、変わらぬ支援が行えるのか? 数年の単位では無いのだぞ。都市が滅びるときも、貴様は最後の一人まで残らねばならぬ」
「都市の存続に全力を注いで――例え都市が滅びる時が来たとしても、僕は最期までここに残ります。『誓約』を交わしたって構わない」
 そう言うリオの声に迷いはない。ダリウスが微かに頬を引きつらせる。
「それで、本当にいいのか? お前が敬愛するハイゼ神父は言っていたぞ。『この都市には、将来が楽しみな審問官の少年が居る。その少年は、いつかこの忌まわしい街を出て、管理教会《アパティア》本部を目指すだろう。その時、少年はこの都市が犯した罪を正しい形で裁いてくれると信じている』と」
「ハイゼ神父が?」
 リオの目に驚きが広がり、その奥底に微かに迷いの色が浮かぶ。ダリウスの口元が微かに吊り上がった。
 リオはほんの一瞬、ダリウスから目を逸らした。
 白い昇降機塔の前には、力なく横たわり、歯を食いしばってリオを見つめるフレデリカの姿がある。
「多くの人を救いたいのだろう? お前にはその力がある。それなのに、お前は自分の人生の全てを、こんなちっぽけな都市と、一人の娘を守るために捧げるのか? それはお前の信ずる『正義』とやらに反することではないのか? お前が犠牲になることにどれほどの意味が」
「勘違いしないで下さい」
 リオはゆっくりと視線を戻す。
「人生を犠牲にするなんて、そんなこと思っていません。僕はただ、自分が望む明日を選んだだけです」
 視線を戻したリオの澄んだ蒼い瞳には、迷いの色はなかった。
 ダリウスの顔に苛立ちが募る。
「現実を見ろ! その娘の病を押さえるには、高価な薬が必要だ。復興を目指す都市で、どうやってその費用を賄う? 多くの人々は、一つの命よりも、百人の飢えを凌ぐことに資産を使いたいと考えるだろう。高コストな命は、都市の人間から糾弾されることになる。都市の為に生きると言うならば、貴様は彼女を斬り捨てなければならない。違うか!?」
「薬代は、何かを犠牲にするやり方じゃない方法で、僕が稼ぎます。誰にも文句なんて言わせない」
 答えた瞬間、リオの顔の横を、凄まじい速度で何かが通過していった。一拍遅れて、頬から血滴が零れおちる。
 リオは湖面のような青い瞳を静かに向けた。
 そこには、怒りの表情を浮かべたダリウスの姿がある。その右手からは、先ほどまで握られていた銀剣が消えていた。
「……まったく、空虚な理想論だな」
 ダリウスは開いた手で顔を隠すと、疲れたように首を振った。
「それが出来るなら、ヴィクトール・ハイゼは罪を犯し、審問官の資格の失うという屈辱を受け入れる訳が無かった」
 リオの顔が一瞬、苦しげに歪む。
 しかし、ダリウスはそれ以上の追及をすることはなかった。
「だというのに、お前はそんな理想論を口にするのだな。御目出度い。本気で信じているのだというのだから、余計に性質が悪い。貴様のやり方は、あまりにも非現実的で――そして、あまりにも残酷なやり方だ。犯した罪と向き合い続けることが、どれほどの苦行なのか、貴様はまだ知らないのだろう。罪の意識に苛まれながら、この世界を漂うことが、どれほどの地獄となるのか、貴様は理解していないのだろう」
 独り言のように言って、短剣を構え直す。
「だが、いいだろう。それがお前の結論だと言うのなら認めよう。その代り――」
「待って下さい」
 言葉を継ごうとしたダリウスを、リオの静かな声が遮る。
「次は、僕が質問する番です」
 ダリウスが表情を引き締める。鋭く舌打ちすると無言で顎を動かし、質問を促した。
 リオは一つ頷いて、
「九年前のことです。神がこの世を去り、世界には多くの災いが訪れるようになりました」
静かな、けれど良く通る確かな声だった。それは今は昔話の一つとして語られる、世界の特異点となった日の話し。決して遠くない過去にあった、人類の歴史。
「幾つもの国家が滅び、たくさんの生命が失われました。生き残ったのは、外殻都市の建設が間に合った、僅かな先進国の、ほんの一握りの人間だけ。多くの技術や物資が失われたことで、文明は大きく後退しました。そのきっかけとなったのは、一人の審問官が犯した罪にあると言われています。『大罪事変』。ヴェステリクヴェレが犯した罪も、その根底にはこの事件が強く影響していると言える。答えて下さい。ダリウス・ロンブル審問官」
 リオが腕を前方に掲げると同時に、コンクリートの床が砕け、緑のツタが這い出す。ツタはダリウスの下肢へと絡み付くと、瞬く間にその身体を拘束した。
「この事件の発端となった審問官――あらゆる災厄の元凶とされる『大禍』は、貴方だと言われています。貴方は、これほどの災厄を引き起こした償いを、どうやってつけるつもりなのですか?」
 リオの質問が終わると同時に、屋上に重たい静寂が訪れた。
 誰もが息を殺して、ダリウスの答えを待っている。
 俯いたダリウスは、ぴくりとも動かない。あまりの反応の無さに、リオが思わず口を開きかけたその時――リオの耳朶を、震える声が微かに揺らした。
 リオの瞳が怒りに細まる。
 ダリウスは笑っていた。
 声を殺し、暗く陰鬱な笑みに口元を歪め、肩を揺らして笑っていた。
「そうだな。世界中で起きている犯罪の多くは、『大禍』が犯した罪によるところが大きいだろう」
 嘆息すると気だるげに首を回し、自由に動く左腕で銀剣を振り肩を叩く。
「だがそれは、余りにも不毛な議論だ。核ミサイルで世界が滅べば、その責任は核ミサイルを開発した人間にあるのか? 人々の争いが世界を荒廃に導いたのなら、そもそも人という種が産まれたことが間違いだったと判ずるのか?」
 どこか憐れむような響きさえ残して言うと、大仰に肩を竦めて見せる。
「悪いが、俺は罪悪感など抱いていない。何故ならこれら悲劇は、神が無能であるがゆえに起きたことだからだ。神は無能であり、勝手に人間と言う種に絶望し、勝手に人間と言う種を見捨てたのだ」
「……そんな言い分が、許されると?」
「許される。少なくとも、俺が信じる『正義』ではな」
 言って、ダリウスは口端を歪めるようにようにして笑った。そこには罪の意識どころか、世界へ向けられる暗い怒りと憎しみの色さえ見てとれる。
 リオは呆然とその姿を見つめた。
 今した質問は、審問法廷内で行われた正式なもの。僅かでも嘘や欺瞞が混ざれば、執行の対象となる。しかし、ダリウスの身には何の変化も現れていない。
「神はあまりにも無能だ。だから俺は決めたのだ。全ての罪を写し取り、それを等しく裁く。無能な神に代わって、俺がそれを行おうと」
「貴方自身が、神にでもなるつもりですか。身勝手な原理原則で世界を裁こうと?」
「違う。俺は鏡だ。友でも肉親でも、それが罪人であるなら、等しく罰を下そう。裁くのは被告人自身だ。俺はそれを明確に鏡に映し出すだけ。審問には主観を挟まない――以上が俺の答えだ。満足か? 審問官殿」
 ダリウスは謳うように言うと、空の右手に銀の細剣を顕現させた。その瞳には、失望と――これまでとは質を異にする、陰鬱で明確な殺意が浮かんでいる。
 リオは開いていた聖書を閉じて、瞼を降ろした。
 この答えでもダリウスが揺るがぬことは、訊ねる前から知っていた。同じ質問は、これまでも多くの審問官が浴びせて来たはずだ。それに答えられぬようで、どうして九年間もの間、堕天審問官として生き永らえて来れるだろう。
 今まで、彼に同様の質問をし――そして悉く敗れてきたであろう審問官たちの誰もが思ったはずだ。「この男は狂っている」と。狂人が堕天審問官となると、ただの災厄となるのだ。この男には、真っ当な理論など通じないのだ――と。
 リオは長く長く、息を吐いた。
「なんだ。その態度は。裁きを受ける覚悟が出来たのか?」
「ええ。覚悟が出来ました。貴方を裁く覚悟が」
「……なに?」
 ダリウスが殺意を形にして、リオへと突きつける。リオはその視線を避けるように、顔を背けると、
「貴方が、エリュシオンでどのような罪を犯したのか、僕は知りません。それに至った理由も。全ての責任が貴方にあったのかどうかも解らない。ただ、一つだけ言えることがあります。貴方の行動には矛盾がある」
「矛盾だと?」
「先ほど、貴方は自分は罪の意識を映す鏡だ、と言いましたね。実際に犯した罪が社会的にどれほどの罪悪かではなく、本人が抱く罪の意識によってのみ裁きを下すと。それなら、どうしてフレデリカは生きているんですか?」
 ほんの僅か、ダリウスの表情が凍りついた。
「彼女は、都市の罪を背負ってここで死ぬつもりだった。自分のせいでハイゼ神父が道を誤ったことに罪悪感を抱いていた。審問法廷を開くまでもなく、僕には解ります。彼女は、そのまま投影すれば死に至るほどの罪悪感を抱いていたはずです。彼女の罪悪感を映したのなら、彼女は腕一本なんかでは済まない。無残に殺されていたはずだ。では、どうして貴方はフレデリカに死刑を言い渡さなかったのか?」
「……」
「答えたくないなら、僕が当てて見ましょうか? 貴方はフレデリカを殺したくなかったんだ。貴方は僕たちの姿を、かつての友人の姿に、そして亡くした自分の娘の姿に重ねていた」
「……!」
 嘲るようだったダリウスの目が、驚愕に見開かれる。
「貴方の審問は、罪悪感に苦しむ人に平等に接して来たのでしょう。どんな人間にも、己の罪を見つめさせ、それら全てを容赦なく刈り取ったのでしょう。非情に、鮮やかに、罪を分離した。だからこそ――貴方は、自身の審問に主観を挟むことが許されない」
 リオが語り終えると同時に、乾いた音が冷たいコンクリートの床を叩いた。ダリウスの両手から、二本の短剣が零れ落ちたのだ。疲れた表情で、ゆっくりと背後を振り返る。
 そこには、

「それは本当?」

一人の、褐色の肌の少女が立っていた。
 リオは思わず目を見張る。
 見たことの無い顔だった。歳の頃は十歳くらいだろうか。一目で西欧の人間ではないと解る褐色の肌に、一本に束ねられた瑞々しく輝く黒髪と、同色の黒い薄地のワンピース。感情の読めない冷たい顔に、光の加減か赤く見える瞳が不思議な光を放っている。
「今の話は本当なの、って聞いてるの。答えて。ダリウス」
「ああ。本当だ」
 瞑目したダリウスが、低い声で答える。おもむろに右手を肩と水平に掲げ、
「持って行け」
少女は一瞬だけ大きな赤い瞳を伏せ――唇を噛んだ。直後、その姿が消失する。
 思わず目を疑うと同時に、リオは視界一杯に鋭く一筋の赤光が奔るのを見た。
 それが何の光なのかに思いを巡らせることは、リオには出来なかった。
 呼吸さえ忘れる。
 びちゃり、とコンクリートの床が水袋を落としたような音を立てた。滴り落ち広がっていく真っ赤な血だまり。その中には、黒い僧衣に包まれたダリウスの右腕が、一個のオブジェのように力なく横たわっていて……。
「――執行」
 囁く少女の声が、リオの意識を現実に引き戻す。一瞬遅れて、びちゃり、と跳ねた血液が少女の頬を濡らした。
 いったい何が起こったのだろう?
 先ほどまでダリウスの後方にあった少女の身体は、いつの間にかリオの前まで移動していた。
 リオは、悪夢を見るような目で、目の前の少女を見下ろす。
「ははははは、ははははは!」
 不意に低い哄笑が上がり、リオはびくりと身体を竦ませた。笑っているのは、片腕のダリウス。大きな体を揺らし、噴き出した汗で濡れた顔を引き攣らせながら、
「限定解除《クロックオーバー》したのは、元よりこれが目的か。まんまとしてやられたわ!」
斬り落とされた右上腕を押さえると、歯を剥き出しにして獣のように笑う。
 恐ろしげな瞳を向けるリオに、殺意に煌めく瞳を向け、
「貴様、『無意識の海』で俺の魂に触れたな?」
 リオが無意識に後退する。
「とんでもないことを考える。確かにあの場所には、あらゆる『真実』が眠っているだろう。だが、あれに触れるということは、死に触れるのと同じだ。魂の根幹に至ろうなどと、人の身には――いや、天使でさえも許されない過ぎた行為だ。静観できたことは奇跡に近い。なぁ――」
昏い瞳をリオへと向け、剥き出しの殺意を全身から迸らせる。不吉な気配を感じて、リオは恐れるようにさらに数歩、後ろに下がった。
「貴様、俺が審問官に相応しくない、と言ったな」
 リオは震える足に力を篭めると、マグノーリエのツタを従え大禍を見据えた。
「……はい。貴方は裁くだけで、人を救おうとしない。僕が知る審問官たちは、もっと優しかった。苛烈な罰を執行しても、犯した罪と共に生きる道を示していた。審問官は、未来へ繋がる通過点であるべきです。一方的な判断で罪を切り離すべきではない」
「そうかな? 誰しもが心の底では望んでいるのではないか? 人は生まれながらにして犯罪を犯す素養を抱えている。生まれながらに罪人であり、それから解放されるには、審判の時を迎える他にない」
 囁くダリウスの身体が炎に包まれる。燃え上がる炎は赤黒い火柱と化して、天を焦がさんばかり吹き上がった。思わず尻もちをついたリオは、呆然とその光景を見上げる。揺れる炎の中に、片手に細剣を捧げ持ち、屹立するダリウスの姿を見つけた。
 ――不動明王。
 アンドレアスの書斎で見せてもらった資料の中にあったそれは、煩悩を抱える最も救い難い衆生を力ずくで救う、忿怒の姿をした仏陀であるという。
「心の救済は、裁きを受け、罰を下されるその瞬間にこそ訪れる。誰もが後ろめたさを持たぬ世界こそ、真の心安らかなる世界なのだ。だから俺は、罪を映し出す鏡であれば良いと思った。問い詰め、追い詰め、その者がひた隠しにする罪の意識を引きずり出し、浄化する。それが俺の審問官としての役割。――人の世は断罪の時を超え、涅槃《ルヴァーナ》へと至る」
 ダリウスの背中で、褐色の肌を持つ天使が、漆黒の羽根を広げる。猛り狂う炎が大気を焦がし、熱風が嵐のように吹き荒れた。

 オオオオォォォォ……!

 褐色の天使は血の涙を流して恐ろしい咆哮を上げる。そこにあるのは、触れるのも恐ろしい程の怒りの焔。
「さて。次は俺が質問する番だったな?」
 ダリウスが平常な声で囁き、片腕の剣を一振りする。ただそれだけの仕草で下肢を拘束していたマグノーリエのツタが燃え上がり、無数の火の粉を散らした。
「どうした? 続きと行こうぜ。リオ・テオドール・アルトマン。堕天審問官ダリウス・ロンブルが相手になろう」
「……っ」
 リオが怯んだように頬をひきつらせる。
 圧倒的すぎる。
 今、この男が本気になれば、僅か数時間でこの都市全てを焦土と化すことも可能であろうとさえ思えた。
「答えよ。貴様はこの都市の罪を、どう裁く。審問官としてその過失を、どう償う」
 怒りの炎を従え、地獄の判事のようにダリウスが尋ねる。
 リオはしばし表情を強張らせていたが、戸惑ったように息を飲み、
「……都市の罪? それって」
 先ほどの質問と、何が――。
 そう言葉にしようとしたその時、ダリウスの細剣が、コンクリートの床を叩いた。低く陰鬱な声で、強く告げる。
「証人を招致する。この者たちを前にして、もう一度、その答えを述べてみろ」
 その宣言と同時に、辺りの景色が蜃気楼のように揺らいだ。冷えた空気が足元から噴き出して、霧が集まるように人の姿を形作る。粘土をこねるように、曖昧だったものが段々と輪郭を現していく。
 それは、人を模しているようだった。男も、女も、子供も老人の姿もある。ただどれも病的に肌が青白く、その表情には生気と言うものが感じられない。不気味な表情をしていた。
 一体これは――。
 なんだ、とリオは考えようとして、現れた土人形の群れのその中に、見覚えのある老神父の姿を見つけ、身体を強張らせる。
(あれは、まさか――)
 数か月前に亡くなったというオスティナトゥーアの神父!?
 子供のころ、ハイゼ神父たちと彼の教会を訪れたことがある。見間違えとは思えなかった。リオは手の中の聖書《レリクス》を握りしめ、を次々と立ち上がる人形たちに視線を奔らせた。そして、理解する。
「そんな、まさか」
 間違いない。
 彼らは、犠牲になったオスティナトゥーアの人々だ。
「死者の証人招致? そんなことって」
 死者を呼び出すなど、例え大司教審問官でも出来ないはずだ。となれば、これは、
「幻?」
「幻かどうかは、そいつらに聞いてみるんだな」
 死者たちの群れの向こうで、ダリウスが嗤う。
「この者たちの前で、先ほどの質問に答えて見せろ。そこに僅かでも虚構や嘘偽りが混じれば、我が銀剣《レリクス》は、瞬く間に貴様の身体を貫き、亡者の一柱として有象無象の中へと送り込むだろう」
 ダリウスが腕を掲げると、赤く焼けた空に、都合七本もの銀剣が出現する。それらはいずれも渦のような赤黒い炎を纏い、周囲の景色を陽炎のように揺らめかせた。
 一瞬にして肌がチリチリと痛みだし、眼球は乾き、喉が焼ける。
「熱いだろう? 遂げられることの無い怒りや恨みの念は地獄の業火と化し、死者たちに永遠の責め苦を与え続ける。こいつらが求めているのは、未来ではない。未来を奪われた者が望むのはただ一つ。過去への贖罪だけだ。審問官とは、明日を生きる者たちのためだけにあるのではない。虐げられ、無念のまま生を終えた者たちが生きた、昨日の為でもあるのだ」
 ダリウスが昏い笑みを浮かべる。
 リオは苦しげに呻き、迫る亡者から距離を取るように、後退った。
 彼らは死者であり、都市が犯した罪の被害者――つまりこの審問裁判における『原告』だ。彼らに未来を提示したとして、納得させることは難しい。
 赤黒く燃え盛る炎は、今や審問法廷を覆いつくすように、屋上全面へと広がっていた。酸素が薄くなり眩暈を覚える。このまま答えを先延ばしにしても、先に倒れるのはリオの方だ。
「僕の答えは変わらない。都市の未来に貢献することで、罪を償う。ここで死ぬことが正しい贖罪だとは思わない」
 上がる息を抑えて、絞り出すように言う。
 死者たちの無念は恐ろしい程に伝わってくる。けれど、ここで罪悪感に駆られ、罰を求めてはダメだ。強い覚悟を持って、未来に繋がる道を選ぼう。信じるんだ。未来を。託された思いを。
 答えを告げるリオに、しかしダリウスは微動だにしない。ゆらゆらと揺れる陽炎の向こうで、謳うような声がした。
「俺は鏡であり、断頭台の凍える刃だ。罪をそのまま映し、それを執行する一つの災厄に過ぎない。どんな罪を背負い、どんな罰を求める? 俺はその罪を、お前がもっとも見たくない、しかし心の奥底で望む形で示そう。――しっかり答えろよ、リオ・テオドール・アルトマン。全ての証人に聞こえるように!」
「ッ……ダリウス!」
 リオは怒りに顔を歪めると、一歩、足を踏み出そうとして――足首に触れる、ひやりとした感覚に視線を落とした。そこには地面から這い寄るように現れた亡者たちの姿があった。蝋のように白く冷たい腕を伸ばして、リオの足にしがみ付いてくる。
 リオは乱れそうになる呼吸を抑え、真っ直ぐにダリウスを睨み上げた。
 今、答えを告げる心に虚飾や迷いが生じれば、死者たちはたちまちリオを喰い尽くすだろう。リオは震える身体を抑え付け、足元に群がる亡者たちを見下ろす。
「貴方たちにだって、今都市に残っている人々の中に、大切に思う人たちが居るでしょう! 彼らの幸福を願っているのでしょう。離してください。僕はここで終わるわけには行かないんだ!」
 リオの声に、目の前で苦悶の表情を浮かべる死者が叫び返す。
 ――そんなものは残っていない!
 ――俺は一族もろとも根絶やしにされた! 何も残ってはいない。何も!
 強く腰を掴む感触に、リオはたまらずこれを払おうとして――一点に釘づけになった。
 そこには、首を可笑しな方向へ傾けた一人の少年の姿があった。
 リオの脳裏に、夕方見た光景が蘇る。それは大禍に代償として首を折られ、鉄橋を落下していった少年だった。それだけではない。近くにはリオに恨みの言葉を遺し、自ら頭を撃ち抜いた少女も、管制室でリオを出迎えた白衣の女性の姿もあった。
「……っ」
 リオは歯を食いしばり、震える心を押し殺して、手の中の聖書《レリクス》を握りしめる。胸の大部分を占める感情は、恐れから怒りに代わっていた。
 変わり果てた魂をこの場に喚び出し、リオを追いつめる道具として扱うダリウスに火のような怒りを感じた。
 リオは、しがみつく亡者たちにも構わず、一歩を踏み出した。マグノーリエのツタがリオから絡みつく腕を剥ぎ取る。
 今は、審問法廷中だ。結審が降りない限り、亡者たちはリオに直接手を出すことは出来ない。リオの心が挫け、ダリウスの提示する罰を受け入れな限りは……。
「次は、僕が質問する番――」
 言いかけて、ふらつく。膝を突いたリオを引き摺りこもうと、亡者たちが白いゴムのような腕を伸ばした。
「――……っ、く」
 圧し掛かる亡者の重みに、リオは歯を食いしばる。
 駄目だ。ここで倒れては。
 ダリウスを打ち破るには『神威《ゲニウス》』の力で直接、ダリウスの心の声を聞かなければならない。――けれど。
 リオは自分の身体が瘧のように震え、止まらないことに気付いた。
 頭ではなく、身体が恐怖していた。亡者たちにではない。再び、あの場所を覗こうとすることを何より恐れているのだ。
 先ほどとは違う。僕はもう知ってしまった。
 あんな恐ろしい場所、知っていたら近づこうなんて思わなかった。
 もう一人の自分が叫ぶ。その声を振り払い、リオは立ち上がった。
 少しだけでいい。もう一度だけ、近づくんだ。
 あの恐ろしい『無意識の海』に――!
 祈るように這い進み、淵から中を覗き込む。そして、
「――――ッ」
 今度こそ、リオは声にならない絶叫を挙げた。
 意味を為さない言葉を喚き散らし、頭を振って地面の上を転げまわる。その上にたちまち亡者たちが群がり、リオを飲み込んでいく。
「ふん」
 ダリウスが不愉快そうに鼻を鳴らす声が聞こえた。
「神威《ゲニウス》が暴走したか」


 炙れる熱風の中、リオは誰かの心の叫びを聞いていた。
 それは、人々の怒りと悲しみの声だった。憤り、踏みつぶされていった人々の声だった。
 ――死にたくなかった。死なせたくなかった。
 ――痛い、痛い、痛い……! 憎い! 俺をこんなにした奴が憎い!
 頭の中に直接、声が雪崩れ込んでくる。
 違う。僕が聞かなくちゃいけないのは、貴方達の声じゃない。
 次々と染み込んでくる死者たちの声をかき分けて、先へ進もうとする。しかし、流れが速く足を取られ、動けない。水かさは徐々に増し、必至にもがいて手を伸ばすも、徐々に冷たく濁った水の底に引き摺り込まれていく。
 沈み流され、飲み込まれた濁流の底で見た。
 堕天し、災厄と忌み嫌われても、それでも自ら信じる正しい道を行く審問官の姿を。


「何故、泣いている」 
 目の前で細剣を振り上げたダリウスが、低い声で尋ねる。
 気付けば、リオはコンクリート床に跪き、空を仰いでいた。
「貴方がこれまで歩いてきた痛みを思って」
 空を仰ぐリオの瞳に、もう光は映っていなかった。ただ、透明な涙がひたひたと頬を伝い落ちていく。
「ちっ……、また俺の頭の中を覗いたな。勝手に人の心を覗き見るのもまた、立派な罪悪だ」
 ダリウスが微かに顔を歪める。簡素な造りの銀剣が、リオの喉元に突きつけられた。リオは溢れる涙をそのままに、目の前の男へと顔を向ける。
「貴方は、これからどうするつもりですか?」
「知れたこと。紛争は絶えず、弱者から順に食いものにされていく。俺は欠点だらけの今の方法では無く、より正しい方法を探し出す。世界中のあらゆる罪を検分し、それに相応しい罰がどれほどかを量り取る。俺が律法五書《トーラー》となり、断頭台《ギロチン》の刃となろう。俺と管理教会《アパティア》、どちらが正しかったかは、後世の奴らが決めればいい。っははは、考えただけで、胸が躍るじゃないか」
「それは嘘です」
 静かなリオの声に、ダリウスの顔が強張る。
「嘘ではない。それは天使が証明している」
「違います。今の貴方は、それが嘘だと気付けていないだけだ。こんな形、貴方が望んだものじゃないはずなのに」
 そう問うリオの表情は、巡礼者のそれに似ていた。ただ静かに、渦巻く嵐のようなダリウスの心に問いかける。
「貴方は、辛くないんですか?」
 子供のような純粋な声に、くしゃり、とダリウスの顔が歪んだ。
「……辛い辛くないの問題じゃないんだよ。俺はいろいろなものを背負いすぎた。もう俺は自分の意志では歩みを止められない」
 振り切るように首を振り、薄茶色の瞳に冷たい殺意を宿す。
「最後の質問はそれで良いか? リオ審問官。だったら、これで審問は終わりだ。解っただろう。死者は未来など見ていない。未来で過去を塗りつぶそうとしても、奴らには受け入れられない。貴様の答えでは救えない」
 リオは静かに目を閉じる。
 以前、アンドレアスに「審問官として必要な条件は何か」と訊ねられた時、リオは「他人の痛みを知ることだ」と答えた。
 だとしたら、リオはこの男に及ばない。リオには、彼が感じた痛みの、ほんの十分の一ですら分かち合う事が出来なかったのだから。
 それは明らかな敗北だった。リオでは、この罪人をどうやっても救えない。
「結審の時は来た。罰を受け入れよ。――これより、刑を執行する」
 冷たい断頭台の刃の音が聞こえ、リオは思わず瞼を持ち上げた。
 死を覚悟した時、頭の中たくさんの声が溢れ返った。それはまだ見ぬたくさんの人々の声だった。
 ――僕は、それを知らずに死ぬのか。
 無意識の内に声が漏れた。
「……死にたくない」
「誰だって皆、そう思いながら死んで行く」
 白銀の剣が振り下ろされる。
 リオは頭を垂れ、きつく瞼を閉じた。いろいろな感情が渦巻いて、ただ悲しいとしか思えなかった。五感が消えうせ、ただ死の気配ばかりを感じた。歯を食いしばり、最期の時を待つ――しかし、

 いつまで経っても、断頭台の刃はやって来なかった。

「……?」
 不意に名前を呼ばれた気がして、顔を上げる。
 光を映さぬはずの瞳に映る、真っ赤な火花の残光。それをきっかけに、世界が色を取り戻していく。
「――ぬうぅ!」
 最初に目に飛び込んでくる、悪鬼の形相で唸るダリウスと、その銀剣を受け止める黒鉄の銃身。
 視界の半分で、夜のように広がる外套と、星のような大振りの銀ボタンが揺れる。
 ――夢を見ているのだろうか。
 リオは呆然と、自分を守るように立つ人影を見上げる。
「待たせたな、リオ」
 もう一度名前を呼ばれる。微かに鼻につく、煙草の匂い。
「クレーエ、さん」
 名前を呼ぶと、クレーエは振り返り不敵な笑みを浮かべた。深い漆黒の瞳が、柔らかくリオを映してる。
「あ……」
 リオは崩れるようにその場に倒れこんだ。夢や幻や、ましてや亡者の類でもない。それは、くず折れそうな身体を支える、力強い腕の感触が証明している。
「良く頑張ったな。後のことは、俺に任せろ」
 優しくも力強い声。
 それを聞いた瞬間――色を亡くしたリオの顔は、年相応の子供のそれのように、くしゃりと歪んだ。





(>∀<)ノぉねがいします!



<前へ   表紙へ   トップへ   次へ>