煉瓦敷の歩道の少し先を、細く長く伸びる影が歩く。赤味を帯びた人工灯に照らされて、住宅街は茜色に染まっていた。 「ジブリールさんのおかげで、きっと今夜は豪勢な食事になります」 ブロックの生肉がたんまりと入った籠の中を覗いて、フレデリカが顔を綻ばせた。 都市の生活では、新鮮な肉が手に入る機会は非常に少ない。羊を飼うには、一頭当たり一坪の土地が必要だと言われている。限られた土地でしか植物を栽培できない都市では、家畜を育てるのに土地を割いていられるほどの余裕はないからだ。 神様がこの世界を去ってからというもの、世界は軒並み食糧不足が続いている。ヴェストリクヴェレには幸い、すぐ近くに作物の生育が良い『東の森』があるおかげで、そこまで緊迫してはいなかったが、家畜の数があまり増えないようにと制限はかけている。 フレデリカはそっと、心の中でオスカーにお礼を言った。オスカーのことはあまり好きではないが、オスカーが居なければブロックの羊肉なんて口に入れる機会は無かったのは事実。素直にお礼を言っても良いはずだ。 オスカーからジブリールへと、執行の代償として与えられた『権利』。今日一日、都市の市場でした買い物を、全てオスカーのツケにしても良い、と言うそれを行使して、ジブリールは一抱えほどもある、脂の乗った羊肉を購入した。最初は、オスカーに悪いと感じていたフレデリカだったが、「執行の代償として戴いた権利ですし、きちんと使った方が、オスカーさんの罪の償いになるでしょう」というジブリールの言葉に、そんなものか、と取りあえず納得することにした。 「う〜ん、美味しそう。ウチはあまりお金無いから、お祝い事でもないとお肉は食べられないんです」 はしゃぐフレデリカに、それは良かったです、とジブリールが微笑む。 「折角ですから、皆さんで戴きましょう。フレデリカさんのおかげで、おまけまでして貰えましたしね」 「そんな、私のおかげなんかじゃないですよ! 精肉店のおじさん、デレッデレで、ジブリールさんの方ばっかり見てたし……。そういえば、帰り際におじさんと何か熱心にお話ししてたみたいですけど、他にも何か買ったんですか?」 見たところ、ジブリールは野菜がたっぷりと入った籠以外、何も持っていない。手元を覗き込むように身体を伸ばしたフレデリカに、ジブリールは、 「ちょっといろいろと。詳しいことは秘密です」 口元に人差し指を当てて、悪戯っぽく片目を閉じて見せた。 「えー? まぁ、別にいいですけど」 街を出る時に必要なものでも揃えておいたのかな――。フレデリカが下唇を人差し指で突きながら思案していると、道中ずっと俯き加減だったリオが顔を上げた。 「あの」 一瞬、躊躇うようにレンガ敷きの道路に視線を走らせ、 「クレーエさんは本当に、ジブリールさんが捜していたお友達だったんですか?」 勢い込んで尋ねるリオを、ジブリールはきょとん、とした顔で見下ろし、 「はいっ! お陰様で、ようやく再会することが出来ました」 すぐに胸の辺りに手を当てて、弾む声で言って微笑んだ。リオの肩が再び、しゅん、と落ちる。 「……その割にはあいつ、ジブリールさんのこと知らないって言ってたような」 フレデリカが少し前を歩く影を見つめながら呟くと、振り返ったジブリールが、そんなことありません、と咎めるような口調で言った。 「すっかり人相や喋り方は変わってしまいましたが、私の良く知っている彼でしたわ。間違いありません」 ――それじゃ、どうしてクレーエ(あいつ)は、あなたに見つめられた時、あんなに怯えたような表情をしていたの? フレデリカは、喉まで出かかった言葉をすんでの所で飲み込む。 先を歩くジブリールは翠緑色の目を細め、眼下に広がる下の階層を、どこか遠いものでも見る様に見下ろしている。 フレデリカは、ぶんぶんと首を横に振った。 彼女とクレーエの間に何があったのかなんて、フレデリカには解らない。解らないがしかし――何か込み言った事情があるのだろう、ということを想像することなら出来る。こういうことは、何も知らない人間が無遠慮に踏み込んでは、 「あの、お二人がどういう関係か、聞いてもいいですか?」 「……そこで聞きますか。リオさん」 フレデリカが大きく肩を落とし呟いた。リオは真剣な顔で、振り返ったジブリールを真っ直ぐに見上げている。 「どういう関係か、ですか。そうですねぇ……。古い友人、といった所でしょうか」 ジブリールは僅かに口元を綻ばすと、微かに首を傾げ、天使のように微笑んだ。 「あ……」 リオは何か言いたげに唇を動かし、 「……そうですか」 ぎこちなく微笑み返して、再び視線を落とした。ジブリールの笑顔は、リオにそれ以上の追及を許さない。 がっくりと落ち込んでしまったリオの横顔を見ながら、フレデリカは「情けない奴」と口の中だけで呟いた。これくらいで引き下がるのなら、初めから聞くべきではなかったのだ。中途半端が一番いけない。 背の高い生垣の前を通り過ぎると、都市を照らす人口灯がその明度を弱めたような気がした。 長く伸びる影に追われるようにして、三つの影が煉瓦敷きの坂道を上り切る。住宅区画の最外縁である第五階層――ここまで来ると、目的地まであと少し。眼下に見える管理塔を右手に大通りを進むと、よく手入れされた小さな林の向こうに、品の良いこじんまりとした白い家が見えて来た。門の前で、背の高い中年の男が、若い警備兵と何やら熱心に話し込んでいる。 「ただいま。父さん」 リオが駆け寄ると、中年の男――リオの父、アーダルベルト・アルトマンは振り返り、微かに厳めしい表情を崩した。 「お帰り、リオ。遅かったな。またドッグに寄ってたのか?」 「いえ、今日はちょっと用事があって……。それより、どうしたんですか? 家の前で」 リオが礼儀正しく頭を下げると、警備兵も姿勢を正し、帽のひさしに右手を当て敬礼。普段は同級生と話している時でさえびくびくしているリオが、背筋を正して警備兵の前に立ち、恭しく頭を下げた。警備兵が敬礼したのは、見習いとはいえ、審問官を務めるリオに敬意を表したため。それが解っているからこそ、リオは審問官として相応しい振る舞いをする。 「うちまで来るなんて珍しいですね。何かあったんですか?」 「はっ。それは……」 問われた警備兵が、指示を仰ぐようにアーダルベルトの細面を見る。 「ふむ……」 リオと警備兵の二人に見つめられ、アーダルベルトは困った様子で豊かな顎ひげに手をやると、 「どうやら、街で物騒な噂が立っているらしくてな。念のため、警備を強化するよう話していたところだ。まだ噂を裏付けるようなものは何も上がっていないから、無闇に騒ぎ立てるような真似はしたくないのだが……。フレデリカ」 「こんばんは、おじさま」 フレデリカは微笑んで、礼儀正しく頭を下げた。 「ハイゼ神父は今日も遅くなるのだろう。今日はうちに泊まって行きなさい……ん? そちらのお嬢さんは」 門の前までやって来たフレデリカの隣に見慣れぬ姿を見つけ、アーダルベルトが目を丸くする。 「あの、えっと。この人は、その」 リオが言葉を探し、目をくるくると回す。「おじさま」と助け舟を出しかけたフレデリカを制して、ジブリールが歩み出た。 「はじめまして。リオさんのお父様。私は神の御加護の元、巡礼の旅をしております、修道女のジブリールと申します」 透きとおる声で言って、ジブリールはしずしずと頭を下げた。薄いヴェールの下から翠緑色の瞳で見上げられ、四十過ぎのアーダルベルトと若い警備兵の顔が、揃って紅潮する。二人の視線が一瞬、屈んだジブリールの豊かな胸元を過ぎる。 フレデリカは「これだから男は」と心の中で悪態を吐くと、ささくれ立ったそれを、深くて暗い心の海の底に沈め込んだ。ジブリールに負けないほどの、人懐っこい笑みを浮かべ、 「おじさま。今夜一晩、彼女も泊めて上げてくれませんか? 本当は、教会に泊まっていただこうと思ってたんですけど、神父である父も居ませんし」 「僕からもお願いします!」 リオが慌てた様子で付け加える。 ジブリールをアルトマン家に泊めるということは、リオとは道中打ち合わせ済みだ。修道女であるジブリールは、本来は教会が面倒を見るのが筋であるのだが、神父であるヴィクトール・ハイゼは帰りが遅く、夕餉の食卓を一緒に囲まない。となると、客人であるジブリールは、フレデリカが一人でもてなすことになり、少々恰好がつかない。その点、リオの家ならもてなすに申し分ない。ジブリールだって、清貧を旨とする貧乏教会なんかより、お金持ちのリオの家の方が良いだろう。 ジブリールには予め、その辺りの事情を説明し、了承をもらっている。 「いいでしょ? 父さん。部屋も余ってるんだし」 「確かに余ってはいるが……いいのか?」 「うん」 はっきりと頷くリオに、アーダルベルトは困ったように頬を掻くと、警備兵に、もう戻るよう促した。 若い警備兵が、ちらちらと何度も振り返りながら、長い坂道を下っていく。ガス灯が瞬き、白い光が点々と煉瓦敷の街路に落ちる。 「さて。ばたばたしてしまって済まないね。直に外の照明も落ちる。家の中に入りなさい――おっと」 アーダルベルトは玄関の方に進みかけて、思い出したように足を止めると、改めてジブリールに向き直った。 「忘れる所でした。ようこそ恵みの街、ヴェステリクヴェレへ。都市を代表して、私が歓迎いたします。ジブリールさん」 大仰な仕草で両手を広げると、アーダルベルトは昔話に出てくる社交界の紳士そのものの所作で、丁寧に頭を下げた。 大振りの羊肉が浮かんだ煮込みスープの深皿を、家政婦のエレナが慣れた手つきで、それぞれの前に並べていく。ニンニクとカラシの食欲をそそる香りが、うっすらと鼻を掠める。 「どうぞ、お代わりはたくさん用意してありますよ」 ふくよかな丸顔を綻ばせたエレナが、その手に抱えた筒鍋の中身を示した。彼女は、フレデリカたちが物心ついた頃から働いている家政婦で、アルトマン家の家事全般を一手に引き受けている。料理の腕は本職なみだ。 「ん〜、おいし〜!」 柔らかな羊肉を頬張り、フレデリカが猫なで声を上げる。リオとアーダルベルトも、顔を綻ばせて切り分けた羊肉を口に運んだ。 「うん、良い肉だ。すまないね、ジブリールさん。私まで相伴に預かってしまって」 「いえ。これも全て、リオさんに助けていただいたお陰ですから。感謝しなければならないのは私の方ですわ。その上、寝床まで貸していただけるなんて、いくらお礼を言っても足りません」 「なに。私はあくまでも、多忙なハイゼ神父の代わりを務めたまで。リオの活躍も聞くことが出来ましたし、何も遠慮されることはありませんよ」 「ありがとうございます。これも神のお導き……。けれど、驚きました。まさか、リオさんのお父様が、この都市の市長さんだったなんて」 ジブリールが胸の前で手を組み合わせ、清楚な笑みを浮かべた。 リオの父、アーダルベルトは、階層型第十四自治都市『ヴェステリクヴェレ』の市長を務めている。温和な人柄も手伝って、街の評判は上々だ。 リオが、椅子の上でそわそわと落ち着きなく身体を揺する。彼は、ジブリールが自分のことを、市長の息子として余所余所しく扱うようになるのでは、と心配しているのだった。 「本当に美味しい味付けですね。巡礼の旅の途中では、こんな美味しい料理を口にする機会がなかなか無くて」 「気に言っていただけたようで、何よりです。エレナは本当に料理が上手いんですよ」 朗らかに会話を続ける二人を、リオは落ち着かない様子でちらちらと窺っている。フレデリカが冷たい視線を送っても、ちっとも気付く様子が無い。 (……仕方ないわね) はぁ、とフレデリカは、今日何度目か解らないため息を吐いて、 「そういえば、おじさま」 リオの為に、そっと話題を逸らしてやることにした。 「ん? どうした。フレデリカ」 「さっき、警備兵さんと話していた、『物騒な噂』というのは何なんですか? 気になってしまって」 不安でたまらない、というように肩を窄めて見せると、アーダルベルトは、「ああ、まだ話していなかったな」と言って、静かにナイフとフォークを皿の上に置いた。 「あくまで、まだ噂の息を出ないのだが……。どうやら、この街に『大禍』が近づいて来ているらしいのだ」 かしゃん、と後ろで金属音がして振り返ると、トングを落としたエレナが、驚いた表情で固まっていた。 「し、失礼しました」 エレナが身を屈めて、トングを拾い上げる。微笑んではいるが、その顔が微かに色を失くしているのが、蜀台のぼんやりとした灯りの下でも解った。 「『大禍』が? それは確かな話なんですか?」 「うむ。先週末、オスティナトゥーアで被害が出た。近づいているのは、ほぼ間違いないだろう。東の森でそれらしい人物を見たと言う報告もある」 「そんな……東の森に」 東の森は、この都市の食料のほとんどを賄う都市の聖域。警備は都市の中でも格段に厳しく、これまで侵入者があったという話は一度も聞いたことが無い。 フレデリカはナイフとフォークを置いて、じっと脂の浮いたスープの液面を見つめた。 『大禍』が近づいている、という噂は昼に市場でも聞いていたが、正直、何かの勘違いだろう、と高を括っていた所があった。 「父さん。オスティナトゥーアの被害はどれくらいなんですか?」 硬い声でリオが尋ねた。 「まだ、はっきりとした数字は出ていない。遺体の損傷が激しい上に、火災によって判別がつきにくくなっているようでな。だが、被害者の数は、数百は下らないだろう」 リオが厳しい表情で、手元のナイフを見つめる。テーブルが静まり返ると、アーダルベルトは取り繕うように、痩せた顔に笑みを作る。 「……失礼。食事時にする話ではありませんでしたね。ジブリールさん、折角の食事に、水を差すような真似をして申し訳ない」 「……ふぇ? 何か仰いましたか?」 スープから掴み上げた骨に舌を這わせていたジブリールは、きょとんとした顔で皆の顔を見比べた。恥じらうように微笑み、片手を挙げる。 「すみません。お代わりを戴けますか?」 「は、ははは! 信仰に生きる方は違いますな。私たちも、もっと神の御意思を信じることが出来たなら、この程度のこと恐れるに足りぬのでしょうが」 アーダルベルトが目配せをすると、苦笑を浮かべたエレナが筒鍋を抱え、ジブリールの傍に歩み寄る。フレデリカもまた、ナイフとフォークを手に、食事を再開した。『大禍』のことは気になるが、せっかくの美味しいスープだ。冷ましてしまうのはもったいない。 「そういえば、ジブリールさんは都市の外から来たんですよね? 『大禍』について、何か聞いたことはありませんか? 噂とか」 「……?」 「ジブリールさん?」 反応の薄いジブリールに、フレデリカが訝しげに首を傾げる。ジブリールはバツが悪そうに笑って、 「あの、すみません。『大禍』って何ですか?」 「ええ!? 知らないんですか!?」 リオが、立ち上がりかねない勢いで身を乗り出す。アーダルベルトが小さく咳払いをすると、おずおずと恥ずかしそうに居住まいを正し、 「……すみません。『大禍』というのは、例の『大罪事変』を起こした審問官のことですよ。七年前の事件についてはご存知ですよね?」 「ええ。……その。多少は」 ジブリールが歯切れ悪く答える。その様子から察するに、詳しいことは知らないようだった。 「リオ。『大罪事変』について話してみなさい。『大罪事変』は、今や重要な歴史の一部。審問官を目指すなら、諳んじることが出来る様に、とハイゼ神父に言われていただろう」 思い立ったように話を向けるアーダルベルトに、リオが気弱な笑みを浮かべる。フレデリカは知っている。リオがこういう表情をするのは自信がある時だ。 「お聞かせ願えますか? リオさん」 「解りました」 ジブリールに優しい声で促され、リオが緊張した様子で立ち上がった。小さく咳払いすると、静かな声で語り出す。 叙事詩の形で語られることの多い物語を要約すると、以下の様になる。 ――七年前のある春の夜、管理教会(アパテイア)に在籍する大司教審問官が、禁忌を破って教皇が居る『神の座』へと侵入した。 教皇は神をその身に宿す最高位の審問官であり、世界中の審問官の中から、最も優秀な者が選ばれる。忍び込んだ大司教は、最も教皇に近い男と目されながら、教皇に選ばれず、その事を逆恨みして、醜い嫉妬の念にかられていた。神は、男の本質の邪悪さを見抜いておられ、彼を教皇にしなかったのだ。 男は寝静まった教皇に近づくと、穢れた手で『神の座』で眠る教皇の首に手をかけた。 教皇は神を宿すため、その身は清廉潔白でなければならず、その身に触れることは、この世で最も罪深い罪――『大罪』の一つであるとされていた。 男の行いに、神は酷くお怒りになった。どれだけ見守り、手を尽くしても学ばぬ人間に失望された神は、男に罰を与えた後、この世界をお見捨てになり、天の国へと旅立たれた。 神の去られた世界には終末が訪れ、病と飢えに怯える末世へと変わり果てた。神の手足となって働いていた天使たちは、憐れな人間に同情し、末世に残ることを選んだため、世界は辛うじて秩序を保つことが出来た。 人々は再び神がこの世界に訪れることを願いながら、慈悲深い天使たちと共に、その罪が許される時を待つ。 「これが『大罪事変』と呼ばれる出来ごとの顛末です。神の怒りに触れた大司教審問官は、罰として死ぬことも許されぬ邪悪な魂――『大禍』へとその身を変え、今でも災厄を振りまきながら、この世界をさ迷い歩いているのだそうです」 リオが語り終わると、アーダルベルトが満足気に頷いた。ジブリールは微笑を湛えたまま、悲しげな目で空の皿を見つめている。 それを不安の表れと思ったのだろう。リオは、自分の胸に手を当てると、明るい声で、 「心配要りませんよ。ジブリールさん。この都市には審問官が三人も居ます。『大禍』が現れたって、誰にも手出しはさせませんから」 「一人は半人前のヘッポコ審問官だけれどね」 「フ、フレデリカ!」 リオがテーブルに手を突き、真っ赤な顔でフレデリカの名前を呼ぶ。 エレナが、そっとジブリールの深皿にスープをよそうと、「ありがとうございます。皆さん」とジブリールが小さく礼を言った。 アーダルベルトが、テーブルの上に肘を突き、口元を隠すように手を組む。 「ジブリールさんもご存知でしょうが、七年前のあの日から、世界は様変わりしてしまいました。この都市は恵まれている方ですが、外はそれはもう酷いものです。犯罪と飢えがはびこり、人は都市の防壁無しでは生きていけなくなってしまった」 「……そうですね」 ジブリールが神妙な顔で頷く。 「おじさま。外の世界を知らない私たちが言っても説得力ありませんよ。ジブリールさんは単身、世界中を旅して回ってるんですから。私たちなんかよりよっぽど、外の世界のことはご存じのはずだわ」 「なんと! お一人で巡礼の旅を?」 フレデリカが澄ました顔で言うと、アーダルベルトが声を上ずらせて目を見開いた。 「失礼……。私はてっきり、良家のお嬢さんが遊興がてらに、巡礼団を伴って旅をしているものだとばかり。どこの聖地を目指しておられるのですか?」 アーダルベルトの問に、ジブリールは困ったように笑って、 「エリュシオンです」 その地名を口にした。 「エリュシオン!? あの『エリュシオンの野』ですか?」 「はい」 動揺して声を上擦らせるアーダルベルトに、ジブリールは落ち着いた様子で頷いた。 エリュシオンは、『世界の最果て』と呼ばれる聖地の一つ。『大罪事変』の舞台となった、『神の座』があるのもそこだった。 「こうして旅を初めて、そろそろ五年になりますが、まだ道のりは遠く、半分にも達していません。どれほどの時間がかかるかは見当もつきませんが、それでも私はエリュシオンに行かねばならないのです」 「五年も……ですか?」 アーダルベルトは、驚いた顔でジブリールを見つめ、薄い絹のような服と、華奢な身体に視線を移し、ここ数年で広くなった自身の額に手をやった。 「……信じられない。この危険と悪意に満ちた神の居ない世界で、女性一人で巡礼の旅とは……。貴女には神の祝福が授けられているとしか思えない」 「ええ。私も常々そう感じています。今でも、神が見守ってくださっているのだと」 敬虔な信徒らしく、手を組んで微笑む。 「本当に、そうなのでしょうか」 アーダルベルトは、苦悩の滲む顔で、緩やかに首を振った。 「『まことに神は、ご自身の一人子を下されたほどに、この世を愛された』と言います。しかし私には、今の世界はとてもそのようには思えない。……考えてしまうのです。神は、二度とこの世界へ戻っては来ることは無いのではないかと」 アーダルベルトが呻くように言う。静まり返った食堂に、ぐぅ、と小さく腹の虫が鳴く音が響いた。 「あら。お恥ずかしい所を」 その場に居た全員の視線を受け、ジブリールが頬を赤らめる。沈みがちだった皆の顔に、微かな笑みが戻った。 「いえ、こちらこそ失礼しました。せっかくの料理です。どうぞたくさん召し上がってください。まだたくさん、お代わりもありますので」 追加のパンを持ってくるよう、エレナへと指示するアーダルベルトに、 「あらあら。まあまあ! ありがとうございます」 ジブリールは心の底から嬉しそうに微笑み、両手を合わせた。 それからは、実に和やかに晩餐は進んだ。ジブリールは、同じ女性であるフレデリカもが思わず見惚れてしまうほどの美人。男たちはどこか浮足立っていて、会話は弾み、途切れることを知らない。 いつもより饒舌なリオの声をぼんやりと聞きながら、フレデリカは先ほどのやり取りを思い出していた。 (エリュシオン……。また遠い所を目指しているのね) スープを口に運びながら、頭に世界地図を描いてみる。エリュシオンは、ここから遥か遠く、東の果てにあると言われる土地だ。そこには『神の玉座』があった管理教会(アパテイア)の本部があり、世界最先端の技術によって造られた未来都市があると言われている。もちろん、フレデリカは一度も行ったことは無い。 現存する飛行機や船舶は、そのほとんどの所有権を管理教会(アパテイア)が独占しているため、恐らく旅程のほとんどを自分の足で行くことになるだろう。頻発する大規模な地殻変動の為、道路や鉄道は寸断され、使い物にならない。 アーダルベルトが驚くのも判る。あの細い身体で、広大な砂漠や山脈を越え、数多の街を辿り歩くのは、想像を絶する苦行に違いない。それを五年も続けて来られたのは、まさしく奇跡としか言いようがないだろう。 会話は和やかに、途切れることなく続く。笑顔を保っていたアーダルベルトの顔が引き吊り始めたのは、ジブリールが八杯目のスープに手を付けた頃だった。 「あの、ジブリールさん。大丈夫ですか?」 見兼ねたリオが、気遣うように尋ねる。 「何がですか?」 ジブリールは変わらずのペースで塩漬け肉を解体し、ぱくぱくと口元へと運んでいく。その細い身体のどこに、そんな大量のスープが入るのだろうと心配になるが、ジブリールは幸せそうに、まるで天使のように微笑んでいる。 「ん〜! 美味しい」 「そ、それは良かった。時期も良かったのでしょう。冬に備えて、羊たちも栄養を貯め込む頃ですから」 アーダルベルトが引き吊った笑みを浮かべながら言った。 「それは良い時に来ました。……それにしても、この国は本当に豊かなのですね。周りは砂漠に囲まれていると言うのに、澄んだ水に、色取り取りの食糧。楽園のようです」 「こんなに都市が豊かなのは、フレデリカのお母さんが開発した装置のおかげなんですよ」 どこか得意気に言ったリオに、ジブリールが顔を向けた。 「装置、ですか?」 「はい。フレデリカのお母さんは、『大罪事変』が起こる前は、世界的に有名な研究者だったんです。博士が開発した装置のおかげで、ヴェストリクヴェレは安定して食料を生産することが出来る様になったんですよ。そうだよね? フレデリカ」 「う、うん」 突然に話を向けられ、フレデリカは反射的に頷いた。無意識のうちに、首元のネックレストップを握り締める。十字架の形をしたそれは、母であるヘンリエッテが遺した形見の品だ。 「興味深い話ですね。どのような装置なのでしょうか?」 ジブリールが微笑みながら尋ねると、アーダルベルトがわざとらしく咳払いをした。 「リオ。その話は、軽々しく外の方に話していけないと言っておいただろう。……まぁ、ここまで話してしまったら、仕方ありませんな。リオも、ジブリールさんのような魅力的な女性の前では口が軽くなるようだ」 アーダルベルトが口元に笑みを浮かべると、リオが顔を赤くして俯いた。 「装置については、詳しいことは私も知らないのですが、どうやら天候を操作するものらしいと言う事は聞いています。装置のおかげで、ヴェストリクヴェレは『大罪事変』以降も飢えを感じることはありません。ヘンリエッテ・ハイゼ博士――つまり、フレデリカのお母様は、装置を『ラケシス』と呼んでいました」 「『ラケシス』……。その装置を他の都市にも設置することは出来ないのですか? ――例えば、オスティナトゥーアに」 真剣な顔で言ったジブリールに、周囲の空気が凍りついた。 「ジブリールさん。あなたは、オスティナトゥーアを通ってこの街に?」 慎重に尋ねたアーダルベルトの問いに、ジブリールはゆっくりと頷きを返した。その目は、何かを憂うように微かに揺れている。 「この豊かなヴェストリクヴェレとは、全く違う町並みでした。とても、数十キロしか離れていない都市とは思えないほどに」 階層型第十三自治都市『オスティナトゥーア』は同じ〈榛の巨木〉(アール・キング)の根元に造られた籠型都市であり、その構成はヴェステリクヴェレと何も変わりない。 しかし『大罪事変』以降、オスティナトゥーアは異常気象の影響か、作物が育たない年が多く続き、二年ほど前に作物が生長せずに枯れてしまうという原因不明の疫病が流行ったことから、慢性的な食糧不足に陥った。 狭い範囲に密集して暮らす『都市』は、感染性の病に弱い。他の都市は、オスティナトゥーアと交易をすることを拒むようになった。それは、ヴェステリクヴェレとて同じ。重要な食糧資源の供給地である〈東の森〉が伝染病に犯されたら、都市は壊滅的な打撃を受けてしまう。ヴェストリクヴェレに出来るのは、オスティナトゥーアとの交流を断ち、外から伝染病が入って来ないよう気を配ることくらいだ。 〈榛の巨木〉(アール・キング)をくり貫いて造られた隧道に煉瓦が積まれ、ついに都市間の交易は途絶えた。都市間を行き来するためには、ぐるりと幹伝いに、何十キロも遠回りしなければならなくなった。 「もし、あの街にも装置――『ラケシス』があれば」 ジブリールが、胸に手を当てて身を乗り出す。誰もが目を伏せる中、アーダルベルトが苦虫を噛み潰したような顔で口を開いた。 「……そうですね。それが出来れば良いのですが。今の都市には、新たに装置を造ることが出来る者が居ないのです。『ラケシス』を開発したハイゼ博士は、不出の天才と謳われた研究者でした。彼女の死後、『ラケシス』製作のノウハウは失われてしまった。装置を解体して原理を解明しようにも、『大罪事変』以降、多くの科学技術が失われてしまった今の都市では、装置を元通りに復元できるかさえ怪しい」 「この都市の食糧を、オスティナトゥーアに分けることは出来ないのですか?」 「我々とて、何もしていない訳ではありませんよ。食料に余裕がある時は、可能な限りの支援を行っていますし、商会も、生活に困ったオスティナトゥーアの人々に仕事を斡旋し、一日でも早く復興出来るよう、手を貸しています」 その商売を仕切っているのが、昼間ジブリールを追っていたオスカーだ。オスティナトゥーアでは、幾つかの希少なレアメルが採掘される。科学技術が以前の水準に戻れば、すぐにでも街を復興させることが出来るはずだった。 「博士が亡くなって、もう五年が経つ。『ラケシス』も、かなりガタが来ているようです。機械のメンテナンスは、夫であるハイゼ神父が頑張ってくれていますが、いつまでもつか」 そっと視線を向けるアーダルベルトに、フレデリカは俯き、拳を握りしめた。 「情けないことですが、今の私たちに出来るのは、再びこの世界に神が訪れることを祈ることだけ」 「……どうして、二つの街にこれ程の差異が産まれてしまったのでしょう」 嘆く様なジブリールの声に、食堂に重たい静寂が降りる。アーダルベルトは、そっとスープを掬い、冷たくなったす―プを口元まで運ぶと、力なく首を振った。 「――解りません。全てを知るのは神だけです。しかし、その差に、明確な理由など無いのでしょう。私たちは偶々運がよく……彼らは運が無かった」 アーダルベルトは、それ以上何も言わなかった。 その通りだ、とフレデリカは思った。 私たちはただ、運が良かっただけなのだ。日ごろの行いや、信仰心の強さなど関係ない。 フレデリカは教会の神父の娘であり、他の子供たちに比べ信仰心が強い子供だった。そんな彼女でも、それだけは断言することが出来た。 人は、理由が無くても死ぬ。 もちろん、死に至る要因というものは数多く存在する。しかし、死とは理不尽に訪れるものであって、万人が納得する理由があって訪れるものではないのだ。 善人も、悪人も、誰もが等しく死んでいく。自分がなぜ産まれたのか、その理由も解らないままに。 フレデリカは、そっとリオの細い肩に目をやった。顕現していない天使の姿は、審問官では無いフレデリカの目には見えない。 ――リオに宿った、知識と慈愛を司る天使マグノーリエ。 ふと思った。 あるいは彼らなら、私たちが産まれて来た意味を――あるいは死んでいく意味を、知っているのだろうか。 |