「いたいけな少女の襟首を掴んで、恫喝の声を張り上げる――まるで悪漢そのものの振る舞いですね」
「……な」
「銃を降ろしなさい、クレーエ。そんなもの、ここでは何の役にも立ちませんよ」
 薄暗い酒場に響く、冷ややかな声。得体の知れない気迫に押されて、襟首から手を離す。フィーネは気が抜けたのか、ぺたりとその場に座り込んだ。
「フィーネ!」
 フレデリカが跳び出し、項垂れるフィーネの細い肩を抱き止める。
「大丈夫? 何かされなかった?」
「……フレデリカ」
フィーネは力ない声で囁くと、ぎゅっとフレデリカの服の袖を握りしめた。その手は、細かく震えている。
「まったく。死んだ魚の目をして、抜け殻のようになっているかと思えば、いきなり獣のように吠え立てて八つ当たり。……酷いものですね。双極性障害の疑いがあるのではないですか?」
 これ見よがしにため息を吐くと、ジブリールは冷たい目でクレーエを見下ろした。微かに開いた扉から漏れる光が、ちらちらと薄布を透かして板床に落ちる。
「そ……う?」
 クレーエは、突然の出来事に頭が追いつかず、呆然と闖入者を見上げていたが、はっと我に返ると、刺すような鋭い視線をジブリールに向けた。
「お前、午前中の約束はどうしたんだよ」
「急な用事が入ってしまったのです。仕方がありません」
 しれっとした顔で言って、ジブリールが拡声器のコードを引っ張り、細い指にくるくると巻きつける。
 クレーエは、微かに目を細め、
「嘘だな」
 断言する。
 ジブリールの視線が、つつ、とあらぬ方向に泳いだ。
「……こほん。それはともかく」
 わざとらしい咳払いを一つすると、翆緑色の瞳が、再び感情の温度を下げる。
「勘違いも大概にしなさい。彼らが償うべきは、スティナトゥーアの人たちです。決して、貴方ではありませんよ」
 びしり、と指差すと、ジブリールは蔑むような目で、クレーエを見下ろした。
「な、何を」
 訳も解らぬ気迫に、思わず後ろに退がる。動揺するクレーエを見下ろし、ジブリールは小さく鼻を鳴らし、
「それと、私は『お前』ではありません。名前は昨日、教えて差し上げたばかりのはずですが。もう忘れてしまったのですか? 鳥頭」
「鳥頭!?」
「違うというのなら、いい加減覚えて下さい。鳥頭」
「――っ!」
 怒りに顔を紅潮させる。
 ――何なのだ。この女は。どうして昨日合ったばかりの相手に、ここまで言われなければならない!
 声を荒げそうになる自分を抑え、首を振る。懐に銃を仕舞うと、フィーネの肩を抱いて退がったフレデリカと、悲しげに顔を曇らせたリオの姿が目に入った。
 二人の視線は、クレーエを通り越して、店の奥――床の上に転がる、オスカーへと注がれている。
「今の話し、本当なんですか? オスカーさん。オスティナトゥーアの復興に使われるはずのお金を、商会が騙し取っていた、って」
 一歩前に出たリオが、胸を押させ、苦しげに尋ねた。
「……ッ、騙し取っていた訳では、ない」
 オスカーの顔が屈辱に歪む。血の滲む肩を押さえて立ち上がると、
「商会はただ、手数料として、相場よりも少しだけ多くの金額を受け取っていたに過ぎない! これは、都市と交わした誓約書にも書かれた、正式な取り決めだ!
強い口調で言って、テーブルに拳を叩きつける。
「そ、その誓約書、私も読みましたがね」
 傍に立つモレクが、堪えきれず、と言った様子で口を挟んだ。たるんだ顎を撫でながら、
「あ、あの誓約書は、とてもじゃありませんが、まともな内容だと言えるものでは、ありませんでしたよ。分厚い誓約書の隅に小さく書かれたものに、そこまでの効力を与えるなんて」
「それでも、誓約書は誓約書だ。不備が無いなら有効だろう!」
 威圧するオスカーに、「それはそうですが」とモレクが不満そうに呟く。
「お父様……」
 荒い呼吸を吐いて、顔を歪ませる父の姿に、フィーネが悲しげに視線を落とした。
 惨めに釈明を繰り返すオスカーの姿は、さながら童話で見た小賢しい小鬼のようだ。フレデリカは、フィーネの肩を抱くと、眦を決して顔を上げる。
「リオ。審問官の力で、この人を裁いて! 私たちは、この人を許すべきじゃないわ」
 低い声で言って、燃えるようなヘイゼルの瞳を、オスカーへと向けた。
 カソックを掴むフレデリカの手を見下ろし、リオは、ゆっくりと首を振る。
「それは出来ないよ。フレデリカ」
「どうしてよ!?」
「オスカーさんは、商人として利益を追求していたに過ぎない。確かに、不当な契約によってオスティナトゥーアの人たちが不利益を被ったのは、事実かもしれない――けれど、その行為自体に罪は無いんだ。……あの。誓約書には、無理があるとはいえ、明確な違法性は無かったんですよね?」
「か、限りなく黒に近い灰色、と言った所だね」
 顎を撫で、モレクが呟く。
「それだと、罪を立証するのは難しい。ましてや、オスカーさん本人が、罪の意識をこれっぽっちも抱いてないんだ。これじゃ、マグノーリエも手を下せない」
 審問の際には、被告人本人に罪の意識があるかどうかが大きな基準となる。守護天使の加護の下に行われる審問は、その実、被告人のモラルに頼る部分が大きい。
「商会の行ってきたことが、善か悪かと問われれば、悪であると、僕も思う。けれど」
 ――それだけでは、今回の事件は、解決には至らない。
 力なく言って、リオは抱えた聖書(レクリス)を強く握りしめた。
「……悔しいが、リオの言う通りだ」
 テーブルに寄り掛かったクレーエが腕を組み、息を吐く。
 この問題を解決させるのに必要なのは、オスカー本人に罰を与えることでは無い。商会から貿易権を手放させ、オスティナトゥーアを貧困から救うことにある。
 リオはそれが解っているからこそ、オスカーを審問しようとしない。何か方法は無いかと、息を詰めて思考の海を探っている。
 酒場に降りる、重たい沈黙。
 フレデリカが、何かを堪えるように息を呑んだ。
「……もういい。あんたに頼んだ私が馬鹿だった。アンドレアス神父に――いいえ。父さんに裁いてもらう」
「残念だけど、都市に居る誰が審問しても、結果は大きく変わらない。商売を起こしてお金を稼ぐことは、都市の倫理観と照らしても、問題は無いから」
「そうだ……! 私は娘の為、家族の為に商会を大きくして来たに過ぎない。そして、商会が利益を上げることは、ヴェステリクヴェレの繁栄を意味する! 全ては、都市全体の願いだ。そこに罪などある訳がない!」
 審問官であるリオの言葉に勢いを得て、オスカーの言葉に力が戻る。
「どうして……?」
 雄弁に声を張り上げるオスカーの姿に、フレデリカの唇が怒りにわななく。
「どうして罪じゃないなんて、そんなことが言えるんですか? あなたのしている事は、間接的に人を殺すことと、同じじゃない! どうして裁けないのよ! リオ。あんた、それでも審問官なの!?」
 目に涙を浮かべたフレデリカが、リオの裾を掴んで激しく揺する。静かな青い瞳を向けるリオに、フレデリカは、ひく、と鋭く息を吸いこんだ。
「リオぉ!」
「フレデリカさん。落ちついて下さい」
 今にも掴みかかりそうなフレデリカを、ジブリールが抑える。
 フレデリカは悔しげに目を伏せると、強く唇を噛んだ。
 耐えられなかった。彼らの生活を憐れんでいた自分たちの生活が、オスティナトゥーアの犠牲の上に成り立っていたなんて。ましてや、私たちはそれを罪と認めず、容認しようとしている。
 それなら、同罪だ。
 オスティナトゥーアの人を苦しめていたのは、他でもない私たちなんだ。
「――ふん。子供の戯言だな。おい、審問官。では、私の罪は裁かれないんだな?」
「勘違いしないでください。オスカーさん。あなたの罪は、神の名の下に裁かれるに、値するものです。少なくとも、オスティナトゥーアとの契約内容は、見直していただくことになります」
「ふふ。そうか、そうか」
 オスカーの顔に満面の笑みが広がる。
 契約を見直すというだけならば、いくらでも細工の仕様はある。オスティナトゥーアの人間も、いくらか多めに金を握らせておけば、細かいことはには口を出さないだろう――。
「ハハハハ! 審問官殿は、今回は私の味方のようだな。おい!」
 高笑いを上げたオスカーは、リオにギラついた目を向けたまま、クレーエを指差した。
「この男に、今すぐ私を解放するように命じろ! そして、私はこの男たちの審問を要求する!」
「……っ!」
 恫喝するような声に、リオが身体を強張らせる。
「私は、この男たちに銃剣を突き立てられ、耳を撃ち抜かれた! 神の名のもとに、公正な裁きを下すことを要求する」
憎しみに瞳を燃え上がらせたオスカーは、クレーエとモレクの二人を睨み回した。その口元には、早くも嗜虐の色が浮かんでいる。
「ククク、そうだ。審問法廷は、衆人監視の元で行おう。問題を起こした余所者を追放するのは、警備兵の役割だからな。奴らにも立ち会って貰わねばなるまい」
「モレク」
 クレーエの声に、モレクが渋々と言った様子で銃口を下ろす。
 オスカーは、勝利の愉悦に頬を歪ませた。
 彼の頭には既に、自分が娘の前で醜態を演じたという事実は残っていない。
 彼は信じて疑わない。
 どちらが悪かは、公衆の前で、公正な裁きの下に立証されるのだ。愛すべき彼の娘は、再び父の正当性に納得し、敬愛の眼差しを向けてくるに違いない――。
 勝利の余韻に浸りながら、オスカーは大股に歩きで扉の前に向かう。振り返り、
「どうした! ついて来い。審問官は、それが誰であっても、審問の要求には、応えなければならない決まりだろう!」
 叫ぶオスカーに、リオはそっと目を伏せる。
「リオ?」
 フレデリカの、ヘイゼルの瞳が、戸惑ったようにリオを見上げる。
 都市内で問題を起こした異邦人は、問答無用で放逐処分となるのが、都市の決まりだ。
審問法廷が開かれれば、都市の権力者であるオスカーを傷つけた彼らに、それを避けることは出来ない。
 都市の外は見渡す限りの砂漠。何の用意も無く外に放り出されることは即ち、死を意味する。
「あんたまさか、この人の言う通りにするつもりなの?」
 縋るように、力なく目を伏せるリオの顔を覗き込む。
「それでいいの!? あの人は私たちの」
「放っておけ」
 冷たい声に、フレデリカは視線を転じた。
 円形テーブルに身体を預けたクレーエが、昏い瞳で、煙草を口に咥える。
「いいんだよ。黙って見ていろ」
「……どうして」
 クレーエの言っている意味が解らず、フレデリカは視線を彷徨わせる。外来の商人――モレクも視線を落とし、目を合わせようとしない。
 どうして――と再び声を上げようとして、
「……?」
フレデリカは、そこでようやく、違和感に気付いた。
 クレーエも、モレクも、リオでさえも――皆はオスカーを、何故か憐れむような目で見つめていた。
「オスカーさん。あなたは勘違いされているようだから、お話しします」
 堪えるように目を伏せていたリオが、掠れた声を上げた。
「審問官は、被告人の罪を糾弾すること、被害者を不当な暴力から守ることが使命の一つですが、それだけではありません。――被告人を守ること。これも、審問官の使命の一つなんです。けれど、審問官が審問法廷で裁くことが出来る物事には、制約があります。審問官がその能力を発揮できる基準は、三つ」

 一つ、審問官は、被告人が抱く罪の意識によって罰の裁量を行うことを原則とする。

 二つ、審問官は、罪を裁量するにあたって、被告人が属する集団(コミュニティ)が認識する罪の意識によって、罰の裁量を行うことが出来る。これは、集団(コミュニティ)が持つ意識の総和を、一つの人格として扱うという論理に基づく。

 三つ、審問官は、罪を裁量するにあたって、被告人が属する世界が認識する罪の意識によって、罰の裁量を行うことが出来る。これは、世界が持つ意識の総和を、一つの人格として扱うという論理に基づく――。

「――それが何だと言うのだ?」
 暗い声で数え上げたリオに、オスカーの顔に絡み付くような疑念が浮かぶ。
「これら真理を、どの程度用いることが出来るかは、審問官の階級によって変わります。僕のような書記審問官は、一の比重が最も高く、二の一部の論理を用いることが出来る。フレデリカのお父さんであるハイゼ審問官や、アンドレアス審問官のような、教会を任される司祭審問官は、一と二の比重が最も高く、三の一部の論理を用いることが出来ます。司教以上の審問官は、三つの真理を等しく用いることが出来るので、より広い視点から審問を行う事が可能ですが――彼らは管理協会(アパティア)の各支部、あるいは本部にしか居ないため、通常都市で行う審問に参加することはありません」
「――ッ! もったいぶった言い方は止めろ! さっさと結論を言いたまえ!」
 激高したオスカーが叫ぶ。リオはじっと考え込むように目を伏せ、
「つまり――。都市において、被告人が罪の意識を抱くこと無く、かつ、都市の人々の大部分が正当と認める行為は、都市の自浄作用として考えられ――それがいかなる犯罪行為であろうと、管理教会(アパティア)は干渉しないことが決められているんです」
「それは……どういう、意味だ」
 不吉な何かを感じたオスカーが、呻くように声を漏らす。扉の前でよろけると、薄く開いた扉の淵に手をかけた。
「俺が解り易く言ってやる」
 煙草に火を付けたクレーエが、暗く濁った瞳を向けて口を開く。
「この都市の大部分の人間が、『こいつは殺した方が都市のため』と判断すれば、審問官は殺人行為が目の前で行われようと、それを見逃すってことだ」
「……な、に?」
 オスカーが何かを恐れる様に後ろに下がった。こつん、と革靴が扉に触れたその時――軋むような音を立てて扉が開き、たくさんの腕が、扉の前に立っていたオスカーの身体を乱暴に掴んだ。
 半開きになった扉から、おびただしい喧騒の声が漏れ聞こえる。
「な、なんだ。貴様ら。一体何を――!」
「拡声器だよ」
 紫煙を吐き出したクレーエが言った。
「この女が入って来た時、持ってきた拡声器が、ずっと気になってたんだ。コードは、扉を通してどこかに伸びている。どうしてそんなに長いコードが必要か? 俺の予想が正しければ、こいつは恐らく」
 視線を向けると、リオが強く聖書(レクリス)を握り締める。
「はい。恐らく……さっきの会話は全て、広場の公共スピーカーを通して、都市中に中継されています。……もう誰も、街のみんなを止めることは出来ない」
「や、止めろ、手を離せ……!」
 多くの腕に掴まれたオスカーの身体が、徐々に扉の向こうに引きずり出されていく。
「お父様!」
 立ち上がったフィーネを、咄嗟にフレデリカが抱き止めた。扉の外には、中に居てもそれと解る程の、怒りと殺気で満ちている。フィーネを行かせては、取り返しのつかないことになる、そんな予感があった。
「ひぃ!? た、助けてくれ!」
 扉の縁にしがみついたオスカーのギラついた瞳が、懇願するように薄暗い酒場を彷徨った。リオを、クレーエを、フレデリカを、娘であるフィーネを――そして最後に、微笑を浮かべる少女と目が合う。
「お、お嬢さん。頼む! 助けてくれ。手を」
 藁をも掴む思いで手を伸ばすオスカーに、ジブリールは、そっと身を屈め、
「そうでした。あなたに言っておかなければならないことがありました」
花のような笑顔を浮かべ、小さく首を傾げる。
「たくさんのお肉、御馳走様でした。とても美味しかったです。子供たちも喜んでいましたよ」
「肉? ……な、何を、こんな時に」
 茫然と呟くと同時に、ずる、と音を立てて、縁を掴んでいた手が扉から外れる。
「ひっ!? 止めろ、やめ、ああああああああ!」
 オスカーの身体が扉の向こうに消えると、ばたん、と大きな音を立てて、酒場の扉が閉まる。漏れ聞こえていた喧騒は途絶え、酒場は、しん、と空々しく静まり返る。
「おい」
 濁った瞳をジブリールに向け、クレーエが口を開いた。
「これが、お前が望んだ結末だって言うのか?」
 ジブリールは、微笑を浮かべたままゆっくりと振り返り、
「お前って呼ぶなって言ってるでしょうが。鳥頭」
謳うように囁くと、澄み切った翆緑色の瞳を細め、敬虔な修道女のように、胸の前で手を組み合わせた。


 酒場の前は、地鳴りのような怒号で溢れていた。通りを一望したクレーエは、緊張に顔を強張らせる。
「これは、不味いことになった」
 広場を埋め尽くす人の数は、百や二百では利かない。
 怒り狂った人の波は、もはや濁流に近かった。警備兵たちも、圧倒されるばかりで手を出そうともしない。
「オスカーの娘は、どうした?」
「オスカーさんの悲鳴を聞いて、気を失ってしまいました。今は、モレクさんが介抱を」
 沈痛な顔でリオが応える。
 無理もない、とフレデリカは思う。
 さっきは、クレーエ相手に啖呵を切っていたフィーネだが、本来はクラスの男の子に言い返すことも出来ない、気の弱い女の子なのだ。
「それは好都合だ。娘は絶対に表に出すなよ。オスカーの身内である以上、何が起こるか解らないからな」
 厳しい表情で、クレーエが群衆を見渡す。狂乱の中においては、普段は思慮深い人も、目を覆いたくなるような残虐な行為に走ることがある――それは、歴史が証明していることだった。せめて、混乱が収まるまでは、衆目にさらすのは避ける必要があるだろう。
「ちっ、自業自得とはいえ、すっきりとしない結末だな」
「はい。……こうなってしまっては、僕にも都市のみんなは止められません」
 クレーエが苛立たしげに顔をしかめ、リオが無力感に肩を落とすのを、フレデリカは少し後ろ――開け放たれた扉のすぐ後ろから見つめていた。
「こうなってしまえば、もうお手上げだ。……これから起こることは、子供は見ない方が良い。お前たちは離れていろ」
「……そんな」
 閉じていく扉を前に、フレデリカは、すっと頭から血の気が引いていくのを感じた。この平和な都市で、いったい何が起ころうとしているのだろう。
 頭の中はぐちゃぐちゃで、それが何か解っているはずなのに、上手く脳裏に思い描くことが出来ない。
「――……っ」
 圧迫するような息苦しさを覚えて、胸の辺りを強く押さえる。扉の隙間から見た外の景色は、水の中から見上げたかのように屈折していた。怒りに歪んだ、優しいみんなの顔。顔。さっきまで、ジブリールを囲んで、笑い声を上げていたのと同じ人だとは思えない。
「――みんな、凄く怖い」
 形容しがたい恐怖に、両手で顔を覆うと、強く拳を握りしめたリオが、閉まっていく扉に手をかけたのが、気配で解った。


「話は聞いたぜ! オスカーさん。あんた、オスティナトゥーアの金を騙し取ってたんだってな!」
「俺たちがして来た寄付は、どこに行っちまったんだよ!」
「ふざけんじゃねぇ!」
 怒号を上げて押し寄せる人の波は、大きくうねりを上げる濁流のようだった。
「俺の姪っ子はな、オスティナトゥーアで病と闘いながら必死に生きて……去年の夏に死んじまったんだ! まだ十歳にもなっていなかったのに!」
「俺の伯父夫婦だってそうだ! もっと良い物が食えれば、死ぬことは無かった!」
四方は、今にも凶器を手に襲いかかってきそうな人々で埋め尽くされている。オスカーは、ぽっかりと不自然に空いた円状の空白のその中央に、左右の腕をそれぞれ男たちに押さえられ、頭を地面にこすりつけるようにして跪き、恐怖にただ、ぶるぶると震えていた。
 緊張のあまり、呼吸さえうまく出来ず、下半身には感覚が無く、ただどこまでも深い谷を落下していくような、絶望的な感覚が全身を支配している。
 白濁した脳裏に、幼い頃に見た、首を刎ねられる鶏の姿が頭に浮かんだ。首を掴まれた鶏を目がけて、祖父が鉈をゆっくりと振り上げる。鶏は断末魔の声を上げると、その瞬間から生き物ではなく、食べ物に変わった。同じだ。私は夕餉に供される供物だ。都市という怪物に、食い殺される無力な鶏だ……!
「あらあら。これは大変なことになってしまいましたね」
 身動き一つ出来ず、荒い息を吐いていたオスカーの耳朶に、透明な声が過ぎる。微かに顔を上げると、いつからそこに居たのか、押し合う群衆の先頭に、敬虔な修道女のような顔をした少女が立っていた。
「……た、頼む! こいつらを止めてくれ! 殺される!」
 悲鳴のような叫びが、喉から迸り出る。
 縋るような目を向けるオスカーに、ジブリールは一瞬、不思議そうに首を傾げ、
「どうしたのです? 全て、自業自得では無いですか」
「だ、だからって、殺されるのはあんまりだ! 私が死ねば……そうだ。娘が、フィーネが悲しむ!」
「フィーネ……? ああ、さっきの娘さんですか」
 そこでようやく、ジブリールの顔に迷うような感情が浮かんだ。薄く目を瞑ると、罵声を上げる人々の声など聞こえていないかのように、ゆったりとした仕草で頬に白い指を添え、
「……仕方ありませんね」
小さくため息を吐くと、まるで風に花が揺れるような足取りで、くるりと身体を反転させた。


「あの女……! 何をするつもりだ。殺されるぞ!」
 人の波をかき分けながら進んでいたクレーエは、オスカーを守るように群衆の前に立ったジブリールを見止め、押し殺した声を絞り出した。
 群衆は次第に狂騒を帯び始め、今や色濃い殺気を伴い始めていた。どこからか、「オスカーを殺せ」という声が上がると、それは、動物が警戒に毛を逆立てるように、瞬く間に群衆全体に広がっていった。まるで、都市自体が意志を持った一個の生き物であるかのようだった。緊張は最高潮に達しようとしている。
「みんな、さっきはジブリールさんに、笑顔で歓声を送っていたのに……!」
 クレーエの後を追いかけてきたリオが、戸惑いとやるせなさに身体をわななかせた。
 そこに、リオが知る優しい街の人々の姿は無かった。
怪物だ、とリオは思った。
 怒り狂ったとても恐ろしい怪物が、今まさに、オスカーを呑みこもうとしている。
 視界にちらつく紅蓮の炎。
 同じだ。
 全てが、荒れ狂う怪物の腹腔に飲み込まれようとしている。
 あの時のように――。

「リオ!」
 肩を掴んで揺さぶると、リオはようやく焦点の合った瞳を、クレーエへと向けた。深い海を映したような瞳が、不思議そうにクレーエを見上げる。どうやら、自分が群衆の中に立ち尽くしていたことにも、気付いていないようだった。
 これ以上は無理だ。クレーエはそう判断した。
「リオ。いくらお前でも前に出るのは危険だ。お前は、フレデリカと一緒に、オスカーの娘についていてくれ」
「でも……」
「いいから行け! お前があいつらを守るんだ!」
 食い下がるリオを押し戻しながら言うと、リオの姿は引き波に攫われるように、押し寄せる群衆に飲み込まれ消えていった。
「くそっ、どいつもこいつも手間のかかる……!」
 クレーエは焦燥を紛らわすように呟くと、騒ぎの中心を目指して、再び群衆の波へと飛び込んだ。
 人垣をかき分けて進むと、ほどなく層状に連なる人の波が途絶え、不自然にぽっかりと空いた空白地帯に出る。
 中心には、両腕を掴まれ、石畳の上に押さえつけられたオスカーの姿があった。すぐ前には、薄布をまとった、線の細い女の姿――。
「おい、お前!」
 駆け寄ったクレーエが、低く抑えた声で言って、女の肩を強引に引いた。
「退いてろ! お前まで巻き添えを喰うぞ!」
 リオにやった時と同じように、激しく肩を揺すぶる。
 彼女もまた、人々が見せる凄まじい怒りの感情に、身体がすくんで動けないでいるのだろう――クレーエはそう思っていたのだが、
「……まったく」
 翆緑色の瞳が、冷ややかな色を映して、クレーエを見上げた。群衆を見渡すと、物憂げに呟く。
「人間と言うものは、どうして群れた途端に節操を失くし、動物のような振る舞いになってしまうのでしょうね」
「そんなことを言ってる場合か! 早く来い!」
「私に命令しないでください」
 そっけない声で言って、肩を掴んでいたクレーエの腕を、乱暴に払う。
 怒声が飛び、石や煉瓦が、ジブリール目がけて投げ込まれる。
「退いてろ! 邪魔だ! てめぇも殺されたいのか!?」
「殺せ! 庇いだてするようなら、一緒に殺しちまえ!」
 男の投げた石が、ジブリールの頭をかすめた。ジブリールの身体がよろめき、額を押さえる。
 ――不味い。
 脳裏を、最悪の想像が過る。
「くそっ、止むを得ん……!」
 クレーエは悔しげに呟くと、その手を懐へと伸ばし――立ちはだかる群衆を前にしたジブリールの肩が、微かに上がったことに気が付いた。
 何か、言うつもりなのか?
 指揮者のように振り上げた細い腕が、ゆったりと動く。弾みをつけるように腕を振り上げ、

 せーのっ!

 地鳴りのように耳朶を震わす怒号の中、鈴を転がしたような、澄んだ清流のような声が、聞こえた気がした。
 白い花が揺れる。
 振り返った笑顔は、群衆の向こうへ。そして、

『オスカーさん、ありがとう!』

黒く渦巻く怒号とは声域を異にする、子供たちの明るい声が、涼風のように大通りを吹き渡った。
 銃把を掴んだクレーエの手が、ぴたりと止まる。いや、その場に居る誰もが動きを止め、満面の笑みを浮かべるジブリールの姿を見つめていた。
 静寂――一拍の間をおいて、
「……こら!」
 押し殺したような、女性の声が、群衆の中から聞こえた。
「どうしてオスカーさんなんかに、お礼を言うの!?」
「だって、オスカーさんが、ご飯を食べさせてくれたんだもん」
 母親と思しき女性に抱かれた子供が、きょとん、とした顔で言う。
「え? オスカーさんが?」
「うん。お母さん、良くしてくれた人にはお礼を言いなさい、って言ってたよね」
 その声に、ざわり、と群衆が揺れた。同様の会話は、至る所で繰り広げられている。
「本当よ。お肉の入ったスープを食べさせてくれたの」
人形を抱いた、小さな女の子が、
「凄く美味しかったんだ」
 ボロボロの服を来た、靴磨きの男の子が、
「みんなで約束したんだ! オスカーさんに会ったら、お礼を言おうって!」
 ざわめきは、水が染みるように、大通りを広がっていく。
「……あのオスカーが?」
「どういうことだよ」
 子供たちが上げる明るい声に、大人たちが戸惑ったように顔を見合わせた。
 大通りを支配していた怪物は、もはやそこには存在しなかった。誰もが夢から覚めたような顔で、互いに顔を見合わせている。

「た、助かった……」
 拘束を解かれたオスカーが、その場にへたりこみ息を吐いた。
「それは良かったですね」
 額から血を流したジブリールが、柔らかな笑顔を浮かべて、オスカーを見下ろす。オスカーは、はっと顔を上げて、
「お、教えてくれ! どうすれば、私は殺されずに済む!」
縋るように、ジブリールへと手を伸ばした。汗ばみ震える手で裾を握るオスカーを、ジブリールは一瞬、酷く冷めた目で見下ろし、
「簡単なことですよ」
表情を一転、天使のような笑みを浮かべると、身を屈め、縋りつくオスカーに視線を合わせ、
「ここで、全財産を手放すと、皆さんに宣言してください」
鈴を転がしたような、澄んだ声で告げた。
「ぜ、全財産!?」
「はい」
 飛び出んばかりに目を剥いたオスカーに、ジブリールが柔らかく微笑む。
「当座の預金と金、銀といった価値のある宝飾品、土地……そして、商会が保有する資産――これら不正に築いた、全ての財産を放棄し、残りの人生をオスティナトゥーアの復興に捧げる……そう言うことなら皆さん、この方を助けてあげても良いのではありませんか?」
 言って、ジブリールは胸の前で手を組み、取り囲む群衆を見渡した。
 その姿は、罪人に会心の機会を与えようとする、聖女のようである。
 クレーエは嘆息すると、頭を掻き、そっと人ごみから離れた。
彼女の提案がどうなるかは、見届けなくても解ることだった。
 騒乱など、一度冷静さを取り戻してしまえば、後はあっけない。周囲を見てみればよく解る。人々は、誰もが自分たちが行おうとしていた行為を顧みて、その非人道性に顔をしかめている。
 その状況での、聖女の提案。彼らがそれを呑まないはずがない。
「……そうだな。オスカーの娘は、まだ小さかっただろう。親が街のみんなに袋叩きにあって殺されたなんていっちゃ、あまりにも可愛そうじゃないか」
「幾らなんでも、殺すのはやり過ぎだな」
「全財産、オスティナトゥーアに差し出すってんなら、まぁ」
 同意の色が広がって行くのを前に、オスカーは、
「は、ど、どうしてこんなことに……?」
呆然と呟く。
酒場で銃剣を突きつけられた時、彼に提示されたのは、『オスティナトゥーアとの貿易を取り仕切る権利を手放すこと』だけだった。だというのに、この状況は何だ?
 真っ白になった頭で思う。
 これなら、あの男たちの言うとおりにした方が、条件はずっと良かったのではないか――。
「う……うぅ、なんだ。これは」
 呻くような声を洩らすと、傍らで微笑む少女に目を向ける。ジブリールは、敬虔な信徒のように胸の前で手を組み、オスカーを見下ろしている。
 一点の汚れも知らないというような、聖女の如き姿を前に、どういう訳か、脳裏に一つの疑念が閃いた。
「……もしや、お前は最初から、こうさせるつもりで」
 見下ろすジブリールの笑顔は、微塵も揺るがない。
 その笑顔で、オスカーはようやく理解した。この場で最も畏れるべき相手が、いったい誰だったのかを。
「ちょっと待ってくれ!」
 同意の色が広がりかけた時、一人の若い男が叫んだ。
「全財産を手放す、ってのは良いけどよ。残りの人生を都市に捧げるってのは、どうなんだ?」
「そんなの信じられないわ。相手は、あのオスカーさんだもの」
 同意の声をきっかけに、疑惑がゆっくりと伝線していく。やはり極刑を、と望む声が、どこからともなく上がると、やおら空気が再び剣呑さを帯び始めた。
「ま、まさか、また……」
 オスカーが息を呑んだその時、群衆の中に、ぴん、と細い腕が挙がった。
「あ、あの! 通して下さい!」
 群衆の波を掻き分け現れたのは、カソック姿の少年だった。肩で息を整えながら空白地帯に立つと、群衆を見渡し、テノールの声を張り上げる。
「あの! ここは、僕に任せてもらえませんか!?」
「ん? お前は、アルトマン市長の所の」
 誰かが囁くと、周りでも「審問官のリオだ」という声がぽつぽつと上がった。
「書記審問官のリオ・テオドール・アルトマンです! 『誓約』の順守は、僕と天使マグノーリエの名の元において成立させることが出来ます!」
 言ってリオは、審問官には、刑罰執行の一つとして、被告人に一定の『誓約』を課することが出来ること、またその誓約を破った場合、被告人はそれに見合った代償を支払わなければならないことを説明した。
「ただし、『誓約』は被告人の同意の下でしか執行出来ません。オスカーさんが、『誓約』に了承していただくことが条件になりますが」
 リオの言葉を裏付ける様に、肩の上に光り輝く天使が現れると、人々の間に「そういうことなら」という声が上がり始める。
 殺気だった人々も、神の使いである天使を前にしては、殺伐な行動は取りにくい。
 事の推移を見守っていたクレーエは、人垣の向こうで、「なるほど」と大げさな口調で言った。
「全ては、オスカー次第という訳か」
わざとらしく声を張り上げる。
 周囲の視線が、一斉にオスカーへと集まった。
「さぁ、今こそ選択の時です」
 ジブリールが華やかな笑顔で言って、オスカーへと手を差し伸べる。
「犯した罪の代償として、都市から追い出されるのが良いか。築いた財産を全て寄付し、残りの人生を都市に捧げることで、少しずつ罪を償って行くか。どちらが良いか決めて下さい」
「む、無理だ!」
 オスカーは赦しを請うように路上に跪いた。頭を抱え、
「全財産など無理だ……! 娘は、家族はどうなる!」
「皆さんも、家屋敷まで取ろうとは仰らないでしょう。屋敷が残れば、当座のお金には事欠きませんよね? これまでの生活を維持するのは難しいでしょうけど」
「だ、だが。そんな」
 オスカーの脂ぎった顔は、今や青を通り越して、白く色を失くしていた。皮肉に歪んでいた唇は、スーツと同じ紫色に変色し、小刻みに震えている。
 その姿は、頭に銃を突き付けられていた時よりも、よほど切迫感に満ちていた。
「お父様!」
 不意に、群衆の中から細い声が上がった。人ごみを抜け出した少女が、跪くオスカーの手を取る。
「お父様。皆さんの言う通りにしましょう。都市の外では、人は暮らしていけないわ」
「ば、馬鹿を言うな! いったい、これまで商会を大きくするために、どれほどの犠牲を払ってきたと思っている……!」
 怒声を張り上げるオスカーに、しかしフィーネは目を逸らそうとはしなかった。目を見詰めたまま、そっと頷き、
「私たちのことは、気にしないで。質素な暮らしでも、文句は言いませんから」
言って、背後の群衆に視線を向け、悲しげに目を伏せた。
「……私は何も知らないまま、ただ幸せに暮らしてきました。いえ、知ろうとさえしなかった、というのが正しいのでしょう。けれど、全てを知った今、思うのです。いくら恵まれていても、たくさんの人の涙の上に立つ暮らしなんて、本当の幸せじゃないって」
「お、お前は解っていないんだ……! 今の暮らしが出来なくなると言うことが、どういうことなのか!」
「痛い、お父様……」
 肩を掴まれたフィーネが顔をしかめる。すると、力のこもったその手を、横から伸びてきた野太い腕が掴み上げた。顔を上げると、そこには鉈を手にした、肉屋の主人の巨体――。
「都市の外に放り出されるより、マシだろ?」
「……」
 顔を寄せ、凄む肉屋の主人に、オスカーは無言でコクコクと頷いた。
「さぁ、今こそ懺悔の時です。不正に稼いだお金、全て返してくれますね?」
 胸の前で手を組んだジブリールが、祈るように目を閉じる。
 がっくりと深く項垂れたオスカーは、「……はい」と蚊の鳴くような声で囁いた。



(>∀<)ノぉねがいします!



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